「ずっとここにいてもなんだし、ちょっと移動しない?」

 一瞬の陰りだった。そう簡単に、心髄を覗かせてはくれない。
 彼女は笑っていた。

「いいけど、どこ行くの? 学校近くだと気まずくない?」

 彼女の強さに、眩しさに、視界を奪われながら、尋ねる。

「わたしが決めてもいいけど……せっかくなら、優吾くんが決めない?」

 一歩前に進むような、提案。
 でも駄目だった。今僕が行きたい場所は、言ってしまえば、隕石跡。綺麗な流れ星の落下点を追うだけになってしまう。

「……ごめん」

「そっか」

 心地よかった。失望されない。強要されない。お互いにそんな関係。
 だからこそ、注意しないければならない。下手に踏み入らないよう。

「じゃあカラオケとか、どうかな? 実はわたし、歌がめっちゃ得意なんだよね」

 自慢げに言う。その姿に、フラッシュバック。
 "あの人"は歌が苦手だった。僕と同じように。あのときは笑ってたけど、今となっては、貴重な思い出。
 ちく、ちく。
 どっちにしろ、胸は痛む。

「……行こうか」

 どこに行こうと、きっと消えない。"あの人"のことを思い出す。
 それなら、ありがたい提案に従ってしまおう。
 そんな、ある意味投げやりな考えだった。



「わたしこれにしよ」

 部屋に入って先に曲を入れたのは、もちろん大坂さん。
 彼女が選んだのは、少しマイナーな曲。幸い僕は知っていた。
 ゆっくりと、切ないリズムが盛り上がる。
 あまりにも綺麗な歌声で、歌い上げる。その綺麗な歌が、胸に刺さった星の欠片を抜こうと、内側から押し出す。"あの人"は歌が上手くはなかった。
 気づけば、間奏までたどり着いていた。

「知ってる?」

 こっちを見て、大坂さんが言う。
 この曲を知ってるか、だろう。

「うん」

「へー、珍しい。どこで知ったの?」

 知らない人の方が多い曲を入れるなよ。少しだけ、そう思った。

「昔の知り合いが、教えてくれたんだ」

 "あの人"が、教えてくれたんだ。と心の中だけで、言う。
 少し痛んだ。胸に刺さった欠片が。

 歌詞が再開する。高音が心地良い。
 そして、再び大坂さんの歌声に惚けていると、曲が終わった。

「ふう。毎度思うけどめっちゃ難しいんだよね、この曲」

「確かに難しそう」

 大坂さんが気を利かせてくれたのか、採点はオフになっていた。

「ほら、優吾くんも歌いなよ」

 優しい目でリモコンを差し出す。
 曲のレパートリーが少ないとか、かなり音痴だとか、そういう言い訳はできた。でも、しないことにした。"あの人"はそういう人だった。
 無言で、一曲。

「お! センスいいね、わたしも好きだよその曲!」

 画面に映る表示。それを見て、僕を煽てる。
 "あの人"とは違って、大坂さんは人をいい気にさせることが得意みたいだった。

「大坂さん……歌だけじゃなく、ヨイショもめっちゃ得意なのかな……?」

「まあね、今じゃ必須スキルだし!」

「現代日本の恐怖だ」

「ははっ」

 小さく笑う。"あの人"よりずっと明るく。

「あ、ほら、前奏終わったよ」

 雑談をしているうちに、前奏を終える。大坂さんの指摘で、それに気づいた。
 久しぶりのカラオケは、その歌唱力から少し惨めで、懐かしい記憶から少し切なく、そして案外にも楽しい。
 歌っているうちはそんなものだ。

「カラオケ、一曲目を歌い始めるまでが関門だよねー」

 歌いながら共感。
 上手じゃない僕の歌を、大坂さんは手拍子とか合いの手で支える。
 終わったころには、身体も心もすっかり温まっていた。

「ナイス! 頑張ったね」

「上手だとは言わないんだね」

「嘘は言えないからね」

 演技がかったような神妙な顔で、彼女は言う。

「まあ、確かに。嘘つかないのは良心的か」

「こういうの慣れてるから」

「突っ込みづらいよ、それ」

 僕の言葉に、しかし彼女の返答はなかった。
 一旦の沈黙、少しの違和感。
 大坂さんは、次の曲を入れていなかった。
 気づいて彼女の顔を見る。目が合う。僕の方をまっすぐ見ていた。睨む、と言えるくらい。

「……どうしたの」

 僕は言う。
 一気に、緊迫感。

「ごめん。わたし、知りたい。優吾くんに、起きたこと」

 意味を理解して、心臓が暴れだす。
 あまりに早い心拍数に、心臓が飛び出しそう。
 そして、心臓が動くほど、そこに刺さった星の欠片が、胸を締め付ける。そんな、錯覚だ。

「……それは」

 渋い顔を、する。
 この思い出。掘り返すと、胸が痛い。
 でも、全部言ってしまいたい。きっとそれで、楽に。

「嫌ならいいよ。仕方ない」

 失望、というわけではなさそうだった。なんて表現したらいいだろう。
 当然だと思っている、そんな感じ。
 そう思われるのが……少し、嫌だった。

「まあ……ありふれた話だよ。それでも聞きたいなら、話す」

 そうだ、"あの人"はそういう人だった。彼女が教えてくれたのは、こういうことだった。

「教えてよ、なにがあったのか」

 なんで知りたいのか。そんな疑念は湧かなかった。

「お察しの通り、僕は冴えないただの男子だった。春までは」

「うん」

「この高校に入って……星みたいな人に、出会った。遠くから見たら暗い光に見えるけど、近くで見ると確かに輝いてる。そんな人だった」

「うん」

「いろんなことを教わって、僕の救い、希望、そういう人だって思えた矢先――」

 胸の痛みが、最高潮に達する。
 当時の記憶が、流星群みたいに降り注ぐ。

「彼女は、姿を消した」

 言い切って、息を吐く。

「まあ、そんな感じかな。言葉にしてみれば、ありふれた物語の、そのうちの一つ。もっと聞きたかったら――まあ、またの機会にでも訊いて」

 話し終わる。
 俯く。

「抽象的だけど、大体わかったよ。ありがとう、辛いのに話してくれて」

 優しい声。
 大坂さんが、僕に感謝の念を伝える。
 感謝したいのは、僕の方だ。傷付かぬよう、隠す。そのままでいたら――、ちょっと、窮屈だ。
 だから――。

「僕の方こそ、ありがとう」

 大坂さんは、切なく笑った。
 どうしてそんな切ない顔をするのか、わからなかった。

「連絡を取ることも、できないの? ほら、例えばメッセージアプリとか、電話とか」

「……彼女、スマホを常に持ってるタイプではないから」

 無理やり、当時の記憶を思い出させる。ほんの僅かなのに、悲鳴を上げる、胸の痛み。
 沈黙が下りた。
 そうして、僕も彼女の方をまっすぐ見る。睨む、と言えるくらい。

「……ねえ。僕も、知りたいことがある」

 心地良い関係が、壊れる。そんな直感に触れる。
 でも、それは関係が壊れることを意味しない。ただ心地良いだけじゃない。そういう関係への昇華。

「大坂さんは、どうしてそんなに辛そうなの……?」

「――え」

 困惑。
 彼女が目を見開く。
 どうやら、気づいていないみたいだった。

「なんで、わかったの」

 さっきまでの天真爛漫な疑問符も、今は見つけられない。

「ずっと、切ない顔をしてた」

 速いまばたき。困惑の色。

「そんな、もう慣れてるはず、なのに」

 僕を置いてけぼりにして、彼女は戸惑う。
 手持ち無沙汰な僕に気づいたのか、彼女の視線は再び僕の目に。

「ご、ごめん、ちょっとびっくりしてて」

「うん」

「準備ができたら話す。だから――」

「わかった」

 皆まで言わずとも、彼女の雰囲気だけで、その先は察せた。
 少し妙な雰囲気になってしまったが……。

「とりあえず、歌おっか。結構時間あるのにもったいないし」

 冷え切った身体を温めるのに、あと三曲くらいは歌わないといけない、と思った。