朝、目が覚めて顔を洗う。
 リビングに戻ってきて、荷物をまとめる。
 準備を終えた僕は、優莉に別れを告げる。

「じゃあね、優莉」

「待って! 最後に、写真だけでも」

「写真はあんまり好きじゃない、って言ってなかった?」

「……それよりも、記録に残したい。思い出は写せなくても、その姿を写すことはできるから」

「わたしも、写っていい?」

「もちろん。三人で撮ろう」

 覚悟が薄れそうで、なるべく引き伸ばしたくなかったのだけれど。
 僕たちは三人並んで、スマホの画面に入り込む。

「じゃあ、いくよ」

 シャッターを切る。

「今度こそ、じゃあね、優莉」

 言葉を切る。
 続ける言葉は、さらっと続けられるものじゃなかったから。

「――好きだよ。……それじゃあ、また今度。優莉風に言うなら、『死ぬより前にまた会おう』」

 昨日、優莉のことが好きだと伝えていなかったことを思い出す。
 いくら迷いがあっても、優莉のことが好きだというのは、たぶん不変だ。そう思って、覚悟を決めて。

「……ずる」

 呟く彼女は見なかったふりをして、彼女の部屋を去る。
 陽菜も同様に別れの挨拶。僕たちは神戸の街に解き放たれた。

「新神戸、行こうか」

 バスと電車の旅が、再び始まる。

「今度はさすがに寄り道しないんだよね?」

「お金ないからね。寄り道しようと思ってもできない」

「あ、それで思い出したけど、僕が借りた金額、計算しとくね」

 バスと電車でどうせ暇だから、今やってしまうのが楽だ。
 陽菜はたぶん遠慮するのだろうけど。

「いやいや、それはいいよ。うちは甘いんだから、頼っとこうよ」

「これから甘やかしすぎるのはやめろって言いに行くのに?」

「そう言われるとなにも言えないんだけど。でも、わたしが無理やり連れていったみたいなものなんだから、いいよ」

「違う。僕は、優莉に会わせてもらっただけで、連れていかれたわけじゃない」

 行きの新幹線で、そういうことを言わされた記憶がある。
 自分の好き勝手に僕の考えを変えられると思わないでほしい。僕が一番自分勝手だというのも思わないでほしい。

「あ、ほら。新神戸着いたよ」

 一日ぶりに見る新神戸駅は、やっぱり大きい。
 掬星台から見た夜の新神戸の街と、明るい日光に照らされる眼前のコンクリートジャングルが、同じものだとは到底思えない。

「駅に着いたし、当日券買おうか。休日だし始発じゃないし、行きより混んでるかもしれないけど」

 そうしてチケットを買って、新幹線が来るのを待つ。

「一瞬だったね、旅行」

「そんなことはないでしょ。どちらかというと、旅行に行くまでの一日が濃すぎた」

 陽菜とは、出会って二日目で旅行に出発して大阪へ行き、三日目で神戸に行き、四日目に帰ろうとしている。
 改めて考えてもあり得ない距離感だ。
 たぶん、今後の人生で、他人と正しい距離感を保つのは不可能になるだろう。

「帰ったら、どうする? すぐわたしの家来る?」

「……そうだね。善は急げともいうし、帰って二日目とか三日目に文句言うのも不自然だろうし」

 まだ出会って四日なのに、一日後とか二日後のことを考えている。
 少し、不可解だ。

「わたし、ちょっと楽しみなんだ。これまでのどんな友達も、家庭の問題に介入しようとしなかった」

「まあ、そういうものだよ。現代日本の人間関係なんて、そういうもの」

「現代日本の恐怖だ」

 たぶん、彼女がよく「現代日本の恐怖だ」なんて言うのは、反発なのだろう。
 現代日本でよく話題になっている、毒親。
 彼女の両親も、ある意味で毒親と言えるから。

「そういえば、陽菜はどうして僕になら悩みを素直に伝えられたの?」

「前は、関係が薄くて、同じように落ち込んでたから、って言ったと思うけど」

「それが理由の全部だとは、思えない」

 一見筋が通っているようで、結局それは僕である必要はない。
 関係がちょうどよく薄くて、落ち込んでいる人。少し探せば見つかるだろう。

「優吾くんの言う通りだよ。また別に理由がある」

「なに?」

「単純に、君はわたしになにがあったのか聞いたじゃん。ただ優しくするだけじゃなくて、心の深いところで分かり合おうとしてくれたから、話した」

 それを聞いて、僕は少し申し訳なくなる。
 そのときの僕が、心の深いところで分かり合おうとしたのか、それともただの好奇心だったのか、寂しさを埋めるための時間つぶしだったのか。
 たぶん、それは関係ないのだろう。ただ、感情を深掘りする、その意思だけあればよかった。

「そもそも、砂浜で体育座りしてた僕に話しかけたのはなんで?」

「優莉に関係があるかもしれないと思ったから」

 それは、たぶん本当みたいだった。
 僕が陽菜のクラスメイトであることも、優莉とよく話していたことすらも認識されていたのだろう。
 そんな僕が一人落ち込んでいたから、声をかけた。
 理にかなっている。

「あ、新幹線そろそろ来る」

 そこでキリよく話は中断して、ホームに上る。
 相変わらず山に囲まれた新神戸駅は、もはや愛着すら湧く。
 そんな山々の間に新幹線が割り込んで、僕たちはそれに乗る。
 幸いなことに、朝早いからか、車両の中は、行きほどではないけれど空いていた。
 おかげで二人分の席はなんとか見つけられた。

「もう故郷に戻るんだと思うと、感慨深くなるね」

「ちなみに僕は寝るし、故郷に戻ったらすぐ陽菜の家に突撃なんだから、感慨に浸れるのは今のうちだけだよ」

 陽菜はむっとして、文句を言うかのように思われたが、すぐに笑顔に戻る。

「わたしとしては、手伝ってくれるんだからあんまり怒れない」

「僕としても、優莉と陽菜について先延ばしにしてることがあるから、同様になにも言えない」

 なるほど、これが現代日本特有の距離感なわけだ。
 お互いに弱点を握っているから、下手に距離を詰められない。
 そんな滑稽な自分たちに、僕たちは二人顔を合わせて笑い合う。

「動いたね」

「動いたね」

 同じ言葉を反芻する。
 動き出した新幹線は、すぐにトンネルに入って、見えないうちに新神戸を引き離す。
 あの街と、こういう別れ方をするとは。
 心地の良い揺れと、旅の疲れに、僕はゆっくりと目を閉じた。



 首の痛みで目を覚ます。

「優吾くん、起きたね」

「……おはよう。今どこ?」

「静岡。名古屋駅を通り過ぎてからはしばらくなにもないよね……」

 あまりにも失礼な物言いに、なにかフォローしないといけないような気持ちにさせられる。

「あるじゃん、茶畑が」

「茶畑を観光しようと思う?」

「いや、思わない」

「じゃあなにもないよ」

 フォローしたつもりが完璧に論破され、逆に静岡県民を傷つけてしまう。

「正直に言うと、富士山があるけどね」

「富士山。……もう通り過ぎた?」

「まだだよ。せっかくだし、写真撮ってみる?」

「『思い出を映すのに、カメラのレンズは邪魔すぎる』なんて言ってたのに」

 一言一句思い出す。
 冗談めかしてこそいるが、彼女の言葉に胸を打たれたのもまた事実だった。
 だから、大切に思い出す。

「カメラのレンズで思い出が七割カットされるとしても、三割は残るじゃん?」

 そういうこと、と言ってドヤ顔で笑う彼女の魅力は、カメラに映したら十割カットされてしまうだろう。

「でも……」

「とりあえず、その話は後。富士山は見逃したらもうどうしようもないからね」

 そう言って、あらかじめカメラを構える。

「静岡も長いから、ずっとそうしてるわけにもいかないんじゃない? そんな一瞬でもないでしょ、富士山」

 そう言ったところで富士山が新幹線の窓越しに視界に入って、慌てて二人で写真に写る用意。
 実際に富士山を見ると、焦ってしまう。

「はい、大成功。写真撮れたから、もう寝てもいいよ」

「首が痛いからもう寝れないだろうね」

「わかる。座って寝ると首が痛いんだよね」

 あまりにもリアルな共感。

「経験があるみたいな言い方だけど、もしかして授業中とかだったり」

「よくわかったね」

 言葉が出ない。
 というよりは、授業中に寝るくらいのことが普通に思えてきた。そのくらい感覚が麻痺してきた。

「寝れないんだったら、話でもしてようか」

「とはいっても、二人で話をする機会が多すぎて話すことがもうないよ」