授業が終わる。
 教室の中、今日もクラスが回る。
 僕はクラスの輪の外から眺める。

 僕をそうさせる原因は、なんだろう。
 単純な一つではないように思う。

「陽菜、カラオケ行こ!」

「いやいや、この人数で行っても入れないでしょ」

「えー、陽菜めっちゃ歌上手いのに」

 綺麗な黒髪のミディアムボブ。少し低め、百五十センチないくらいの身長。明るい雰囲気と愛嬌のある顔つき。
 僕と対照、満たされた人。
 大坂陽菜は、そんな印象。

 クラスの中心の彼女は、僕から距離を取ろうという動きに関わっているのか。
 それはさして問題ではなかった。

 今僕を取り巻いている問題は二つ。
 まず第一に、クラスの輪から外されていること。
 第二に、そんな僕の心の支えともいえた"あの人"が、もういないということ。
 だから僕は、こうやって一人でクラスメイトたちを眺めることしかできない。

「そういや天野っちって帰ってくるの?」

「いやあ育休だったら二、三年は帰ってこないんじゃない?」

 ゆっくりと歩く。
 校舎を出て、春の夕風のほのかな暖かさに、わずかないらだちを覚えた。
 明日は、自分を守る日にしよう。



 春だというのに、凍えるような朝の砂浜、体育座りで白い息を吐く。
 朝の冷たい風が吹く。

 ……あの星に出会ったときは、冷たい風なんて吹いていなかった。
 あれから九か月、また風の温度が下がる。冬は終わったはずなのに。
 一人でいるとどうしても感傷的になってしまう。自分を守る日だと決めたはずなのに。

「すごく、苦しそうだね……」

 突然声をかけられて驚くが、それを表に出すほどの気力はない。
 すこし聞いたことのある声。

「……誰」

 振り向く気力も、疑問符をつける気力すらもなく。

「おはよう、優吾(ゆうご)くん。大坂陽菜(おおさかひな)です、覚えてもらえてるかな?」

「クラスメイトだよね。どうしてここに」

 消費するのは最低限のエネルギーだけ。
 今人に優しくできる自信がない。

「……学校行こうと思ったら、知ってる人がいたからね。今日は優吾くんは学校来ないの?」

「ぼくは」

 怖い。彼女の心配の気配を、裏切る答えの用意がある、そのことが怖い。

「ごめん」

 結局根本は変わってなくて、ずっと臆病なまま。

「別に責めたりしないよ。ただちょっと、心配なだけ」

 彼女は小さく笑って、僕の隣に腰を下ろす。
 砂浜の上に体操座り。制服が汚れてしまう。

「あの」

「わたしもここにいていい?」

「でも、学校は? それに、制服が」

「学校はまあ、いいの。制服も、洗えば綺麗になるよ」

 僕が彼女の表情を伺っても、彼女はただ前を向いていた。

「洗うの、大変じゃ」

「そんなことより、傷ついた心を治す方が大変だよ」

 ちくり、と。流れ星の置き土産が触られて、痛む。
 やめてくれ、僕は望んでない。欠片になってしまっても、それは紛れもなく輝く星だから。
 感傷を追うばかり。冗談の中の、わずかな煩わしさの感情を、見逃した。

「なにがあったかは、聞かないけどさ。隣にいても、いいかな」

 今度は彼女がこちらを覗く。僕は咄嗟に目を逸らし、一瞬ののち、小さく頷く。
 本当は、少し辛かった。
 彼女の仕草とか、繊細な優しさとか。
 それらが、通り過ぎてしまったあの流れ星の光を、思い出させる。胸がちょっとだけ疼く。いつかの僕みたいに、光を抱く。

「ねえ、優吾くん」

 無言。
 少しばかり、胸騒ぎ。嫌な予感。

「嫌いな教科なに?」

 は?
 拍子抜けした。
 なにか説教じみた話が始まるのかと、そう予測していた。

「ん、まあ、数学かな。数学Ⅱ」

 苦手とはいっても、"あの人"がいたときは、教わるのが苦痛じゃなかったんだけど。
 今となっては向き合うだけで胸が痛む。だから、嫌いだ。

「やっぱり。わたしも嫌いなんだよね、なんかさ、眠くない? それにちょっと説明の過程すっ飛ばしてるときあるよね?」

「まあ、あるけど。聞いたら答えてくれるんじゃない?」

「じゃあさ、優吾くんの好きな教科当ててもいい?」

「別に、いいけど」

 結構簡単だと思う。
 こっちの方も、星が残していった光を直視することになるから、今はあんまりだけど。

「現国!」

「正解」

「やっぱり! 優吾くん優しいもんね、人の気持ち読み取るの得意でしょ?」

「まあ」

 どうやら"あの人"とは違う判断基準みたいだった。勝手に二人を重ねてしまう自分が恥ずかしい。

「わたしは現国も得意じゃないなあ、語彙力ないし」

「じゃあ得意教科は?」

「ない! やっぱわたし勉強は向いてないからね」

「あんまり胸を張って言うことでもないと思うよ」

「あはは。でも、海っていいよね。語彙力なくても、感動を胸に詰め込める!」

 言いながら立ち上がって、海に背を向ける。
 僕に目を合わせて、笑う。
 僕は目を逸らした。
 その先で目に入ったのは、綺麗な脚とか、少し低い身長とか、愛嬌のある顔つきとか。

「大坂さんだって、十分な語彙力あるよ」

 感動を胸に詰め込む。その響きが、すっと胸に入ってくる。

「そう!? ありがと、嬉しいよ!」

 明るすぎて目が眩む、そんな笑顔。
 その笑顔が、一瞬だけ、"あの人"より強く光っている、そう思えてしまった。
 そんな直感を――証明するためか、拭い去るためか。
 自分ではわからないが、彼女に声をかける。

「……ねえ」

「ん? なに?」

「本当に、学校を休むの?」

「うん。今日は行かない」

「それは、僕のためなの?」

 少しの期待を秘めて、尋ねる。
 その聞き方は、ちょっと自信過剰かもしれないけど。

「……どうだろ。君を心配して休むことを決めたのは間違いない」

 だけど、と続ける。

「日ごろから、ちょっと窮屈だとは思ってたかも。家も学校も」

 彼女みたいな明るい人間に悩みなんてないと思っていた。
 でも、こんなに繊細な優しさを持っている彼女は、それだけ窮屈さも繊細に感じていたらしい。

「……ごめん」

 咄嗟に、謝罪の言葉。
 自己本位な視点。それで彼女が"あの人"とどれくらい似ているのかで、彼女を評価しようとした。どちらにせよ、彼女が優しい人であることは変わらないのに。
 それが、申し訳なかった。

「本当はわたし、ちょっと怒ってるかも」

「……無理ない」

 自分自身を評価されない。比較だけでの評価。その苦しみはわからないが、想像はできる。
 もしかしたら、彼女はそういう経験があるのかもしれない。

「わかってるなら、怒れないよね……」

 ほんの僅か。やり場のない怒りの、その呻き声が聞こえた気がした。

「大坂さん、君は――」

 問いかけてしまいそうになって、やめる。

「ごめん、なんでもない」

 相手が、傷に触れないでいてくれた。だから僕も、そこには触れない方がいい。

「……ありがと!」

 明るい笑み。そのはずなのに、ほんの僅かな陰りが、垣間見えた。そんな気がした。