夜は嫌いだ。星が見えるから。
 そうやって言いながらも、僕は一人、ベランダで空を眺める。

「……最近、夜空見てなかったな」

 朝の海、夜の空。
 対照的な光景に、思う心は、結局同じ。
 満天の星に、ひときわ光る星が、二つ。
 あまりに眩しいあの星は、きっと誰かを照らしているのだろう。

 ……寝るか。
 部屋に戻る。真っ暗闇の中、布団を被って目をつぶる。
 瞼の裏で星が光って、快適な睡眠を妨げる。そこを、強引に目を瞑って、意識を眠りに押し込んだ。



 冬の朝は、相変わらず冷たかった。
 寒いという言葉では言い表せないような、冷たさだ。

「こんな中海に行けだなんて」

 別に嫌ではない。どちらかというと、一晩ぶりの大坂さんと会うのが楽しみだった。
 とはいえ、朝の海は家の中とは比べ物にならないほど寒いし、少し億劫に感じる気持ちもある。
 そうやって心の中で少し愚痴を言いながらも、

「お、優吾くん! 来てくれたんだね、おはよう」

 嬉しそうに挨拶をする大坂さんの様子を見て、来てよかったと思える。きっちり私服なのは少し嫌な予感というか、また学校休むつもりなんじゃ……?
 そもそも、ありえないくらい大きい荷物も持っているし。

「よく寝れた? わたしあんまり寝れなかった!」

 そういう割には元気そうだし、目立つ隈もない。

「僕も、あんまり」

 あの後、なんとか眠りについたのは良かったが、それから定期的に目を覚ましてしまった。
 実のところ、優莉が姿を消したときから、ずっとよく眠れてないんだけど。
 もしかしたら大坂さんも同じなのかもしれない。

「やっぱそうだよね、初対面の人と一日でこんなに仲良くなったの初めてだし、なんか違和感あった!」

「ああ、そういう」

「優吾くんは違う理由?」

「……優莉の話をしたから、久々に鮮明に思い出しちゃって」

 夜空に輝く星に、あの日の記憶を投影してしまうほどに。
 そして、その星が眠りを妨げるくらいに、優莉との記憶を思い出していた。

「そっか」

 それだけ言って、大坂さんは海の方を見る。
 昨日と変わらない海が、大きく変わった僕たちの人生を傍観している。
 隠れていた太陽が、少しずつその赤い光の存在感を増していく。見渡す限り広い空が、日の光に塗りつぶされていく。上書きされていく。昨日の空が、新しい今日の日に変わる。

「今日は、なにかやりたいことある?」

「いや、僕は特には。大坂さんは?」

「よくぞ聞いてくれました。今日の予定はもう決まってます!」

 やっぱりまた嫌な予感。
 今日の予定なんて言うくらいで、遅刻もせずに学校に行ける気がしない。
 昨日休んだのは僕が行かなかったせいなのに、逆の立場になるとこうも嫌なのか。

「で、なにするわけ?」

「……優莉に、会いに行く」

「は?」

 一瞬、意味がわからなくなる。
 そうも簡単に優莉に会えるというのなら、僕がこんなに苦しんで悲しんでいた意味はどこにあるのか。

「まあ、わたしたち幼馴染だからね。家族ぐるみの付き合いもあるし、優莉がどこに引っ越したのかはお母さんから聞いてるよ」

「ああ、なるほど。そんなに遠くないから、ってことか」

 やっぱり今日は通常通りに学校に行けそうだ。
 こういうところを気遣ってくれるのはやっぱり大坂さんのいいところだ。

「すごい遠いけどね」

 駄目じゃん。
 期待して損した気分だ、普通に遠いんだったら学校行けないんじゃ……と思った。しかし、すぐに、そんなことよりも優莉に会えるということの方が大事だと、僕は気づく。

「で、優莉はどこに引っ越したの?」

「神戸」

 なるほど、学校を休まずに一日で行くのはたぶん無理だろう。しかしとんでもなく遠いところに引っ越したものだ。
 遠すぎてなにで行くのかわからない。僕が知る限りでは新幹線と飛行機は通っているけど、そんなお金はどこからも出てこない。

「このタイミングだったら、新幹線の自由席が早いんじゃないかな。たぶん空いてるだろうし」

「で、値段は?」

「片道15000ぐらい」

「いや、無理だけど」

 僕は一応貯金するタイプだけど、片道15000と言われては払えない。そんな大金、高校生が持っている道理がない。

「えー、駄目?」

「駄目? じゃないんだよ、現実的に不可能なんだよ」

「そこはほら、消費者金融とかさ」

「まだ借りられないよ? 高校生に信用は無いよ? というか単純に借金勧めるのやめてくれる?」

 そうやってすぐに思いつく限りの反論を全部ぶつけたのに、大坂さんは「やれやれ」とでも言うかのような表情で首を横に振る。

「まあ、ご都合主義パワーで優吾くんの旅費も出てくるんですけどね」

「なんだよご都合主義って、そんなフィクションみたいな……」

「うちのお母さんは激甘だから旅費くれた」

「せめて休日にしてよ、大坂さんのお母さん……」

 どういう人なんだ、幼馴染に会いに行くからって平日に旅費を用意する母親は。

「っていうか、そもそも僕の分はないんじゃないの?」

「激甘だからだいぶ余分にくれたよ。ほら、優吾くんの分」

「自分のために用意してくれたお金を平然と他人に渡すの、やめた方がいいよ……」

 二人分の新幹線の往復代を、一人分の旅費に渡せるとは、どれほど裕福な家庭なのか。
 お金は受け取ったものの、なんか不安なので、僕の預金も引き出しておきたい。

「ごめん、ちょっと一回家帰って銀行寄ってからでいい?」

「いいけど。そのお金を使う機会は訪れないと思うよ」

「僕は甘えるだけでは終わらないって決めたからね、自分のお金も持っていく」

「それ、優莉の影響?」

「そうだよ」

 優莉には好き勝手甘えて、肝心の恩返しもなにもかも、する前に転校してしまったから。
 恩返しはできるうちにやっておく。優莉の影響で、僕の信念にそれが追加された。

「まあ、無理やり旅行に連れて行ってお金を出させる、っていうのはわたしの名が廃るから、絶対やらないよ」

「一緒に旅行に行って一円も出さないのは僕の名が廃るから、絶対ちょっとは払うし、いつか返すよ」

「そんな意地っ張りな」

「そっちこそ」

 優莉ではありえなかった小気味よいやり取りに、惹かれる自分が客観的にも見える。
 それは、嬉しいのと同時にどこか陰りがあった。これでいいのだろうか。優莉のことを忘れたみたいな、そんな距離の詰め方をして、いいのだろうか。

「じゃ、出発しようか」

「まだ朝早いけど」

「いいじゃん、移動するなら今が一番低リスクだよ。わたし昨日、天野先生に会っちゃって気まずかったんだよね。他の先生だったら普通に怒られてただろうし」

「……僕も、天野先生には会ったよ」

「なんか、前の方がイケメンだったよね?」

「育児で疲れてるんでしょ」

 イケメンだろうとイケメンじゃなかろうと、困ってるとき見つけたら話しかけていい、という安心感に変わりはない。
 少なくとも僕は、人は見た目とか雰囲気だけで判断できないということを、もう学んでいる。

「だから、行くよ。まずは東京駅まで行かないと新幹線にすら乗れないから」

 そうやって声をかける彼女が、僕の手を引いているような、錯覚があった。