23時のクリシェ

 五十嵐は芸人をしている。この店に3回来店した時に、小野は五十嵐に職業を尋ねた。五十嵐はどこか後ろめたそうに、「芸人をしています」と消えそうな声量で言った。テレビにもラジオにも主要なウェブメディアにも登場しない五十嵐を、小野は知らなかった。SNSで根気強く調べて、彼が若手芸人である事実を知った。同年代の相方と同じスーツを着て漫才をする五十嵐の動画を見て、舞台の上でも魅力的な表情をしていると小野は思った。
 「良かったじゃん! すごいことなんでしょう? そのメンバーに選ばれるのって」
 「まあ、そう、かも。何百組いいるなかで、そのうちの何十組しか所属できないから。確率的には、そうかも」
 手放しにまっすぐ誉める小野に、五十嵐は恥ずかしそうにそっぽを向く。所在なく動く左手が彼の黒髪を耳にかける。左耳が真っ赤になっていることに気づき、小野はいっそうに笑みを深めた。
 「その事実をすごいって言ってるの。スター街道、一直線だね」
 「まだまだこれからだよ」
 「僕、すごく幸せだな。未来の有名人に若いうちから出会えるなんて」
 「そんな大袈裟な。バイトだって全然辞められないし」
 「何のバイトをしてるんだっけ」
 「夜勤。カラオケとかバーとか」
 「今度遊びに行くよ。それから、舞台も見に行きたい。一生懸命に頑張る五十嵐くんを、自分の目で生で見てみたい」
 小野はうっとりと五十嵐を見つめる。「ありがとう」と五十嵐はどぎまぎしながら答える。
 小野は誰かを責任なく称賛している時の自分がとにかく好きだった。目まぐるしく変化する五十嵐の表情を見つめながら、小野は先週の佐久間との会話を思い出す。客のいない時間に、小野と佐久間は時間潰しのための世間話をしていた。話題は日頃の仕事の愚痴やテレビドラマの内容から流れ、ついには五十嵐のことに移った。
 小野が五十嵐を恋愛対象として見ていることを知っている佐久間は、小野と五十嵐の想定され得る未来に口を出してみた。単なる暇潰しだった。仮に五十嵐が小野に好意を抱くことがあり、その上で夢を追う人生を応援できるのか、と。確率の低いギャンブルに賭すのは合理的なのか、と。
 売れない芸人に未来なんてないんじゃない、と佐久間が言った。純粋な悪意も隠れた他意もなく、単なる感想だった。
 未来の見えない対象にこそロマンがあるんじゃない、と小野が言った。わざとらしい嫌味でも反骨精神でもなく、心の底から溢れた思いだった。