一年間の学校行事の中でも一大イベントである文化祭がついにやってきた。
 夏休みが明けるとすぐに出し物を決める話し合いの場が設けられ、準備が始まった。
 文化祭二週間前には作業が本格化し、下校時間を延長してまでクラスでの作業が続いていた。
 もちろんあくまでも部活動が優先ではあるが、特に大会が近いわけではない泉は率先して文化祭の準備に参加していた。それは佐久間も同じで、それぞれが準備に走り回り、部活動も参加しないとなると二人は顔を合わせない日が続いていた。

 大きな段ボール箱を二つ抱えていた泉の視界は悪い。それでも気を付けながらなんとか前に進んでいた泉だったが、曲がり角に差し掛かったところで何かにぶつかり、体勢を崩してしまった。
「わっ!」
 段ボールの中身は教室の装飾で使う布だけなのでそう重くない。それでもぶつかった衝撃には耐えられず、抱えていた段ボールの内、上に乗っていた分が落ちる、というところで誰かが箱を支えてくれた。
「ありがとうございます……って、由比先輩?」
「薫くん」
 自分も慌てて箱を支えるとそこにいたのは佐久間だった。見ると佐久間が着ているのは見慣れた制服ではない。
 白シャツに黒のベスト、黒のカフェエプロン。
「由比先輩のクラスはカフェですか?」
「よくわかったね」
 佐久間はにっこりと微笑んだ。久しぶりに見る佐久間の笑顔に泉は無意識にほっと胸を撫でおろした。
「薫くんのクラスはなにやるの?」
「俺のクラスはお化け屋敷です」
 そう言うと泉は少し開いた隙間の部分から中身をちらりと佐久間に見せた。中に見えた布は白地が絵の具で所々赤く染められていてなかなかにホラーだ。
「すごいね……当日遊びに行くね」
「俺も遊びに行きます」
 お互いまだまだ準備もあるだろうし、と話もそこそこに二人は分かれる。
 また誰かにぶつからないように、と泉が慎重に歩いていると後ろから再度佐久間に名前を呼ばれた。
「薫くん」
 足を止めた泉が振り返ろうとしていると、そのままでいいよ、と背後に立った佐久間が言った。そしてブレザーの左ポケットに何かがねじ込まれた感覚がした。
「ラストスパート、頑張って」
 佐久間はそう言うとそのまま去って行ってしまった。
 ブレザーの左ポケットに入れられた何かが歩く度にカサリと音を立てる。それが何なのか気になるが、今は両手が塞がっていて確認することができない。
 泉はなるべく早足で教室へとたどり着くと、床に段ボールを下ろしてすぐ左ポケットに手を差し入れた。
 そこに入っていたのは可愛らしいピンク色の包装袋に入れられた二枚のクッキーだった。
 中に入っているクッキーでさえ可愛らしい。それはいわゆるアイシングクッキーというものだ。
 包装袋に貼られていた付箋には“試食用”と書かれている。どうやらそれは佐久間のクラスの出し物で出すクッキーの試食らしい。
 泉は袋からそっと一枚取り出すと口に入れる。咀嚼するとぼりぼり、と大きな音が鳴った。それは随分と噛み応えのあるクッキーで、予想以上の硬さに泉はちょっと笑った。
 残りの一枚は帰りながら食べることを決め、泉は文化祭準備のラストスパートに向けてまずは段ボール箱から布を取り出した。





 文化祭当日、泉のクラスのお化け屋敷は大盛況していた。
 受付に立つ女子生徒の血塗れのメイクはリアルだとお化け屋敷に入る前から好評だ。可愛いと絶賛の衣装は服飾が得意なクラスメイトの力作だった。
 一歩中に入れば外の光を一切通さない真っ暗闇の空間が広がっている。語り部の光太郎の声も良く、真一の考えた仕掛けには皆が驚き、最後に追いかけてくる、京之介扮する背の高いお化けがダメ押しとなっていた。

 今の時間、泉は客引きのシフトだ。一年二組お化け屋敷、と書かれた看板を持って泉は校舎内を練り歩いていた。
 文化祭という大イベントを逃すはずもなく、泉は左腕に“広報”の腕章をつけ、首からデジカメをぶら下げる。
 普段はほぼ女子生徒しかいない廊下が、一般客が混ざったお陰で今は男女比が半々になっていた。
 きっと伊藤先生の目標とする来年度の男女比はこれなのだろう。女子九割、男子一割からの五割はなかなかに厳しいものがある。泉はそう思いながらも賑わう廊下を写真に収めた。
 校舎内を一階、二階と練り歩き、三階に差し掛かったところで泉はようやく佐久間の姿を見つけた。
 先ほど佐久間の教室を覗いてみたがそこに佐久間の姿はなく、泉に気付いた彼のいつもの取り巻きに佐久間も客引きで出ていると教えられたのだ。
 先日会った時に着ていたカフェスタッフの衣装で佐久間は段ボールで出来た看板を片手に持っていた。
 少し急いて階段を上り切り、声を掛けようとしたところで佐久間が他の誰かと話していることに気付き、泉は開きかけていた口を閉じた。
 佐久間と話している相手は生徒ではない。背丈は佐久間と同じくらい、黒縁の眼鏡にポロシャツ、ジーンズを履いたその男は佐久間よりも年上に見えた。
 知り合いと話しているのであれば邪魔をするわけにはいかない。そう思いながら泉は隠れてその男をじっと観察することにした。
 二人は泉から離れた場所にいるため話している内容までは聞き取ることができない。しかし、馴れ馴れしく佐久間に触れようとする手とその手を躱す久間の態度を見て二人は知り合いではないと泉は直ぐにわかった。
 男の眼鏡の奥に見える目は佐久間に対してあからさまに好意を持っているように見えた。
「由比先輩!」
 泉は物陰から姿を現すと咄嗟に佐久間の腕を引いた。泉が佐久間の腕を引いたことによって男が佐久間の腕を掴むのをタイミングよく回避することができた。
「薫くん!?」
「由比先輩、行きましょう」
 泉はそう言うと男に一応お辞儀をしてから佐久間の腕を引いて歩き出した。突然のことに呆気に取られて男は呆然と立ち尽くし、幸いなことに二人を追ってくることはなかった。
 一、二、三階と比べると人通りの少ない四階まで来ると泉はようやく佐久間から手を離す。そして周囲をきょろきょろと見渡してあの男が追ってきていないことがわかると小さく息を吐いた。
「由比先輩って本当に男の人によくモテるんですね」
「だから最初から言ってるでしょ。道を聞かれたから答えてあげたらしつこく付きまとってきたから助かったよ」
 ありがとう、と言って佐久間は笑顔を浮かべた。
 カフェスタッフの衣装に笑顔が眩しい。きっとあの男もこの顔に最初やられてしまったのだろう、と泉は少しあの男が不憫に思えた。
 泉が片手に持つ看板に気付いた佐久間がそれを指差す。
「薫くんは客引き中?」
「はい。由比先輩も客引きに出てるって聞いていたんですけど……」
「うん、そうそう。それなら一緒に歩いて回ろうよ。薫くんが一緒にいてくれればさっきみたいに声を掛けられて付きまとわれることもないだろうし」
 そう言うと佐久間は泉の返事を聞く前に泉の隣に並んで歩き始めた。
「由比先輩のボディーガード役ですね」
「代価として薫くんのクラスの客引きも手伝うよ」
 佐久間くん、と佐久間を呼ぶ女子の声が聞こえると佐久間はそちらに向かって手を振る。そして自分が持つ看板よりも先に泉の看板を掲げて彼女たちに見せた。
「一年二組、お化け屋敷よろしく~」
 佐久間がそう言うと彼女たちはキャハハと笑って、わかった行ってくる、と言って本当に一年二組の方へと向かっていった。
 泉の一年二組と佐久間の二年四組の方角は違う。これではせっかく佐久間は自分のクラスの看板を持っているというのに自分の客引きにはならないのではないか。
 心配して泉がそう申し出ると佐久間は、大丈夫、と言って笑った。
「あの子たち、朝イチで俺のクラスに来てるから」
 また佐久間の名前を呼ぶ声がして、佐久間はまた泉の看板を差し出す。自分のクラスではない出し物をアピールする佐久間を彼女たちは笑い、また彼女たちは一年二組の方へと向かっていった。
「あの、由比先輩、本当にいいんですか」
「薫くんに守ってもらってる分」
 ね、と言う佐久間の背後に佐久間にチラチラと視線を送る男性の姿が見えて泉は急いで佐久間の傍に身体を寄せた。それを見た男性は残念そうな表情を浮かべて視線を反らして去っていく。
 泉が隣にいることによってどうやら本当に効果があるらしい。そのことに泉はほっと胸を撫でおろした。
 そのまま二人で学校内を練り歩き、ちょうど客引きのシフトの時間が終わりとなったのでまず泉のクラスへと行って次のシフトの人へと看板を引き継いだ。そのまま休憩だという泉を引き連れて次に佐久間のクラスへと行き、同じように看板を引き継ぐと佐久間も休憩に入るという。
「そうだ。薫くん、広報の写真撮った?」
「あっ!」
 佐久間の言葉にそういえば佐久間を見つけてからすっかり広報の仕事を忘れていたことに泉は気付いた。首から下げられているデジカメには文化祭の写真がまだ数枚しか収められていない。
「広報の仕事しながら一緒に見て回ろうよ」
 泉の反応を見た佐久間は腕章の付いたデジカメを持つとレンズを泉に向けて不意打ちにシャッターを切った。

 広報の腕章を持った佐久間が隣にいると広報の仕事は随分と捗っていた。先に役割を決めていた通り、女子担当は佐久間、男子担当は泉だ。
 自ら、撮って、と佐久間に催促してくる女子生徒たちを撮っていると枚数はあっという間に百を超えた。
 一方の泉の方も、隣に男嫌いの佐久間がいることに最初は驚いていた男子たちだったが泉がカメラを向けるとしっかりとポーズを決めて楽しんでいる写真を撮らせてくれた。
 各クラスの出し物を見て回り、広報の写真を撮りながらも二人はしっかりと出し物を楽しんでいた。



「あ! 佐久間くん」
 三年の教室に入ったところで佐久間は一気に三年の先輩たちに囲まれてしまった。
 まだ共学前だった三年に男子生徒はいないため佐久間を取り囲む先輩は女子しかいない。だから泉がボディーガードの仕事を発揮する必要はなかった。
 すっかり輪の中に入って行ってしまった佐久間を泉は輪の外からそっと見守ることにした。
 佐久間の隣に立つひと際綺麗な先輩を泉は知っている。
 彼女はこの学校で一番の美女と名高い河合先輩だ。以前佐久間は彼女も友達だと言っていた。きっとこれから彼女にお願いして広報の写真を撮らせてもらうのだろう。
 いくら綺麗な先輩が佐久間の隣にいても泉は全く何の心配もなかった。
 佐久間の恋愛対象は男性なので、女性である彼女に恋をすることはない。
 佐久間が魅了してしまうのは男性だけで、その見目から確かに女性は集まるがそこに過剰な恋愛感情を抱かれることはないのだという。
 だからいくら彼女が佐久間の隣にいようとも何の不安も嫉妬も泉がする必要はないのだ。
 佐久間が広報の腕章とデジカメを指差し彼女に伝える。どうやらやはり広報の撮影のお願いをしているらしい。そして彼女は首を縦に振って快諾してくれたように見えた。
 佐久間は輪の外にいる泉を見つけると声を張り上げた。
「薫くん、ちょっと待っててくれる?」
「はい、待ってます」
 泉も同じく声を張り上げて返事を返す。そして教室内での広報の撮影を佐久間に託し、泉は廊下の壁に背を預けた。
 突然撮影の始まった美しい河合とそれを撮影する格好良い佐久間に興味を引かれて、廊下にいた人たちが続々と教室へと入っていく。泉のいる廊下は随分と人が減っていた。今日一日ずっと人ごみの中にいた泉も自分が思った以上に疲れていたらしい。ふう、と泉はため息をついた。
「泉?」
 その時、不意に声を掛けられた。低い男性の声は聞き覚えのある声だった。
 泉は声のした方に勢いよく顔を向ける。
「……み、よし……?」
 坊主頭の背の高い男。そこに立っていたのは中学時代の友人、三好だった。彼の後ろにもよく知る顔が数人並んでいた。吉田と田中と中村と村木、彼らも皆中学時代の友達だ。彼らも泉の名前を呼び、再会を喜ぶように手を振っていた。
「泉、本当に元女子高に入ってたんだ」
 心臓がバクバクと厭な音を立てて激しく脈打つ。どばっと冷や汗が噴き出し、急に手のひらが冷たくなっていくのを感じた。思い出すのは中学時代の苦い思い出だ。
 じりっと一歩引きさがるとその分三好が一歩踏み出す。距離を広げることを許されず、泉は顔面を蒼白させていた。
「三好……」
「泉、よかったらこの後……」
 じりじりと引きさがっていく泉の腕に向かって三好の腕が伸びてくる。
 泉が思わず目をぎゅっと強く瞑る。直後、腕を掴まれた。
 力強く腕を掴まれた感覚に逃げられない絶望を見る、とゆっくりと目を開けていく。しかし泉の腕を掴んだのは三好ではなく佐久間だった。
「薫くん!」
 いつの間に戻ってきたのか。彼はつい先ほどまで教室の、大勢の輪の中で広報の仕事をしていたはずだ。
「由比先輩……」
 絶望を見ると思っていた泉は眼前の希望にほっと胸を撫でおろした。それでも泉は酷く疲れ切った顔をしていた。
 その顔を隠すように佐久間は泉の腕を引き、自身の腕の中に抱き寄せると自分の胸に泉の顔を埋めさせた。
 途端に強く香った佐久間の香水の香りと、眼前にぶつかるカフェの装いに泉は意味も分からず目を白黒とさせる。
「薫くん、具合が良くないみたいなので」
 ごめんね、と優しい言葉でありながらも強い口調で佐久間は言うと泉の肩を抱き寄せたままその場を後にした。