翌日、教室に入ると最早定位置となっている窓際一番後ろの席にクラスメイトの三人は既に集まっていた。
 自分の席に鞄を置くとその席を使いたいと言う女子に快く返事を返して一番後ろへと泉は向かった。
「おはよう」
「泉、おはよう。結局何部に入った?」
 光太郎は身を乗り出して泉に尋ねてきた。真一も京之介も同じ部活に入らないかとワクワクしているように見えた。
「そういえば他のクラスの奴は陸上部に入る奴が多いらしいな」
 眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げて真一が言った。
 “陸上部”という単語に泉は昨日の佐久間の話を思い出す。確か二年の男子二人は陸上部なので、男子が多いという理由で入る男子もいたのだろう。
「弓道部に入ることにした」
 まだ入部届は出していないけれど。泉がそう言うと光太郎と京之介が、へえ、と声を漏らす。
「弓道部……格好良いな……」
「弓道部かぁ、なんで?」
「中学三年間弓道部だったんだ」
 その理由に加えて、まさか由比先輩に勝手に入部届を書かれたから、とは言えなかった。人の良い彼らのことだ。佐久間の話を出したらきっと彼らは泉のことをいたく心配するだろう、と泉は彼らと未だ短い付き合いながらも思った。
 弓道部、と聞いて顎に手を当てて何やら考えこみ始めてしまった真一に泉は心臓をバクバクとさせた。頭の良い真一は何かと確信をついてくることが多い。
 泉の読みは当たり、真一が、確か、と口を開いた。
「確か弓道部は佐久間先輩も所属していなかったか?」
 この学校の男子生徒は佐久間由比に過剰に反応する節がある。佐久間、と聞いて光太郎と京之介が一斉に泉に顔を向けた。
「泉、本当!?」
「うん。男子部員は俺と由比先輩だ……」
 け、と言い切る前に光太郎が薫の肩を掴んで大きく前後に揺さぶった。
「泉、大丈夫か!? 男嫌いの佐久間先輩が牛耳てる弓道部なんかに入って、佐久間先輩にいじめられないか!? これまで弓道部の女を独り占めしていたのに泉が入ってきたせいで、って……!」
「……俺も心配……」
「いや、いくら佐久間先輩でもまさかそこまで……しないよな……?」
 三人のあまりにも心配そうな表情に泉は苦笑いを浮かべる。
「大丈夫だよ。由比先輩、思ったよりも優しくて楽しい人だったし」
 昨日の感じでは接しにくい人では決してなかった。確かに女子に囲まれてはいるがそれを鼻にかけている様子はなく、男嫌いという言葉を佐久間は否定していた。
 そう、佐久間は男嫌いだということを否定していた。それだけでなく男は好きだと言っていたのだ。あの時は人が来て詳しく話を聞くことが出来なかったが、彼が男嫌い女好きだという噂は本当は嘘なのではないだろうか。
 大丈夫と言う泉を三人は疑っていないようだった。
「泉が大丈夫ならいいんだけど」
「一応気を付けろよ」
「何かあったらすぐ言って……」
「うん、ありがとう」
 肩に腕を回され、髪をワシワシと乱暴に撫でられる。
 本当に良いクラスメイトに恵まれたと思う。それと同時に、同性であれば当たり前であろう距離の近さに泉は少し緊張していた。
 また中学時代と同じ過ちを繰り返してしまうのではないか。また友人との仲を壊してしまうのではないか。
 そう思うと嫌な考えが止まらず、泉は肩に回された腕を、頭を撫でる手をそっと退けた。


 また同性を、友人を好きになってしまったらどうしよう。せっかくできた友人との仲を壊したくない。
 そうならないためにも、もしかしたら自分も先輩と同じように友人と距離を取った方が正解なのかもしれない。
 そう思うと胸がずきっと痛んだ。


 それよりも、と光太郎が息を荒げて泉にズイっと一歩近づく。
「“由比先輩”ってなんだよ! なんで泉は佐久間先輩のこと名前で呼んでるんだよ!」
 光太郎の言葉に真一と京之介の二人もうんうんと頷いて見せる。
 例え後ろに“先輩”が付いているとしても名前呼びは親密な証だ。怪しい、と三人はじいっと泉を見つめていた。
 三人の視線に責められ、泉は思わず一歩引きさがる。
「えっと……由比先輩が名前で呼べって言うから」
 その答えに嘘偽りはない。
 泉の目を真っすぐ見つめていた三人は泉が嘘をついていないと確信するとやっと笑った。
「薫も由比も可愛らしい名前だから親近感でもあったのかな……」
「由比先輩もそんなこと言ってたよ。俺と同じでよく名前で女子だと間違われるって」
 泉がそう言うと三人は納得したようで、そのことに泉は小さく安堵のため息をついた。
 光太郎と京之介が他の話題に移っていく中、真一は未だ神妙な面持ちを浮かべて小さな声で泉に話しかける。
「泉。同じ部活に入ったからといっても佐久間先輩には気を付けろよ」
「……わかった」
 真一は泉の返事に安心したようで、光太郎と京之介の話に混ざっていった。





 放課後、それぞれの部活へと向かうクラスメイトたちと分かれて泉は弓道場へ向かっていた。
 陸上部の元気の良い声が響く校庭を背に歩みを進めば聞こえるその声は段々と小さくなっていく。そして弓道場へ着く頃には聞こえてくるのは校舎からの吹奏楽の音色だけだ。
「おはようございます」
 一礼をして弓道場へと入る。しかし中から返事は返ってこなかった。
 靴を脱ぎ、中へと入るとそこにいるのは佐久間と顧問の伊藤先生だけで他の部員たちはまだ来ていないようだった。彼らは師範席で何やら話し込んでいるようで泉が来たことにさえ気付いていない。
 もう一度小さな声で挨拶をして泉は部屋の隅の方を静かに歩いて更衣室へと向かうつもりだった。
 二人の方をちらりと見ると佐久間は明らかに不機嫌な表情を浮かべていた。
 先日薫には男嫌いではないと言っていたが本当は男が嫌いなのではないかと思ってしまうほど嫌悪を示す表情だ。先生相手にあそこまであからさまな態度を取ってもいいものなのかと泉はついに心配してしまうほどだ。
 一方の伊藤先生は佐久間のそんな態度に臆することもなく、むしろ積極的に距離を詰め、佐久間の腕に縋り付いていた。その動作が佐久間の機嫌を更に損ねているのかもしれない。
 佐久間の腕に縋りついている伊藤先生は佐久間に何やら必死にお願いをしているようだった。泉に聞こえたのは、お願い、頼む、そこをなんとか、という必死にお願いをする言葉だ。
 二人の横を通り過ぎて更衣室へ向かおうとしていた泉だったが、あと少しというところで急に腕を引かれた。
「え?」
 見るとつい先ほどまで佐久間の腕に縋りついていた伊藤先生の手が泉の腕をしっかりと掴んでいた。
「伊藤先生、どうしたんですか?」
「泉も頼む!」
 そう言って伊藤先生は必死に頭を下げた。
「えっと……?」
 意味が分からない、と泉は佐久間に助けを求める視線を送る。佐久間は深いため息をつくと泉にしがみ付く伊藤先生を引き剥がし、二人の間に入った。
「薫くんにもちゃんと説明して」
「ああ、もちろん!」
 伊藤先生はそう意気込むと師範席にどかりと腰掛けた。それにならって二人も師範席の前の床に正座して座る。
 隣に座る佐久間をちらりと見るとたまたまこちらを見ていたらしく二人の視線が交じり合う。所在もなく泉が小さくぺこりと会釈をすると佐久間は、ふっ、と小さく笑った。

 弓道部顧問であり、一年二組、泉の担任でもある伊藤春太は非常に熱い男だった。それはまだ入学して間もない泉も良く分かっていた。
 朝の挨拶は人一番大きく、登校時に校門で立っていると百メートル離れた所からでも彼がいるとよくわかる。
 女子生徒からの話に対してのリアクションは嘘っぽいほどにオーバー。身振り手振りが大きく、隣にいると高確率で腕をぶつけられてしまう。そしてぶつかったことに対する謝罪は最早うるさいを通り越してウザったいほどだ。
 熱血漢、という言葉が彼にはよく似合う。坊主頭にジャージにサンダル。どう見ても彼には華やかな元女子高よりも汗臭い男子校が良く似合う。
 しかしそれでいて彼への女子生徒たちからの評判はすこぶる良いのだ。
 そんな伊藤先生がパシンと子気味良い音を立てて自身の膝を叩いた。そしてスゥッと大きく息を吸った。
「来年こそは我が校の男女比を均一にしたい!」
 あまりの大声に目の前に座っていた二人の耳がキーンとする。矢道の芝生の上を歩いていた鳩がその大声で一気に飛び立っていってしまった。
「……え?」
 目の前に座る伊藤先生は目をキラキラと輝かせて二人を見つめている。
「うちの学校は昨年度共学になって初年度の男子生徒数は三名。今年度は昨年度よりも数は増えたといってもそれでも男子生徒は全体の一割程度。世間ではうちの学校が共学だという認識はまだまだ薄い」
 その鼻息は荒い。
「お前らも周りが女子ばっかりで寂しいだろ?」
 なあ、と共感を求める伊藤先生に泉は視線を泳がせる。
 泉は男子ばかりの空間が嫌で元女子高に入学してきたのだ。周囲が女子ばかりというのはむしろ泉にとって好都合だ。
 泳がせた視線でそのまま佐久間を見る。佐久間は尚も不機嫌そうな表情で伊藤先生のことをジトっと見つめていた。
 男嫌い女好きと噂されているほどなの彼にとっても女子しかいない今の環境は悪くないものなのだろう。むしろ本当に男嫌いなのだとしたらこれ以上男子生徒が増えることの方が彼にとって不都合なのではないだろうか。
「とにかく、来年度男子生徒獲得アップに向けて、男子がこの学校に入りたいと思うようにPRをしていきたいんだ」
 なるほど、と泉は納得する。男子生徒のことは男子生徒に尋ねるのが一番早い。中でも一年二年の男子生徒が揃っている自分が顧問を務める弓道部は、この質問をするのにうってつけの場所だったのだろう。
「何かいい案はないか?」
 頼む、と教師に頭を下げられては無下にするわけにはいかない。泉は、うーん、と頭を悩ませる。佐久間も黙っているが一応考えてはいるようだった。
 そしてしばらくして二人は口を開く。
「女子高のイメージが強いので、男子もいるってアピールはどうですか?」
「可愛い女の子がいっぱいいるよって女の子で釣ればいいんじゃない」
 それはほぼ同時のことだった。二人は顔を見合わせる。
「由比先輩はなんて?」
「可愛い女の子がいっぱいいるアピール。薫くんは?」
「俺は、男子もいるから大丈夫だよ、って」
 全く真逆の提案に二人は目を瞬かせた。すると伊藤先生が大きな拍手をし始めたのだから二人は肩をびくっと震わせて彼の座る師範席に顔を向けた。
「いろんな意見が聞けていいな。やっぱりお前らに聞いて正解だったな」
 そう言うと伊藤先生は手元の紙に二人の出した意見を箇条書きしていく。
「そんなわけで佐久間と泉にPRの案を考えて欲しいんだが」
 手元のメモから顔を上げた伊藤先生は目をキラキラと輝かせて言った。その目に真正面から見つめられるとなかなか断りづらさを感じる。
「……あの、なんで俺たちなんですか?」
 泉の問いに伊藤先生はあっけらかんと答える。
「二人とも中学は同じ男子校出身だろ。男子校出身から見て、この学校に入りたいと思わせられたら大成功ってことだろ?」
 確かに泉は中学は男子校の出身だ。それはクラスメイトたちにも言っているし、当然担任の先生であれば知っていることだろう。しかし佐久間も男子校出身だとは泉は知らなかった。
 泉は慌てて隣の隣に座る佐久間に顔を向けた。
「由比先輩も男子校出身なんですか?」
 その問いに佐久間が答える前に伊藤先生が大きな声で、ああ、と答えた。
「泉、お前知らなかったのか? お前ら仲が良いみたいだからてっきり知ってると思っていたんだが」
 傍から見て佐久間と自分が仲良く見えていることに泉は驚いていた。しかしそれ以上に佐久間が男子校出身だという事実の方が驚きだ。
「それじゃ、いい案考えといて」
 伊藤先生は師範席から立ち上がると手をひらひらと振って弓道場から去って行ってしまった。
 やるとも返事をしていないのに随分と横暴な教師だ、と佐久間は大きなため息をついて見せる。
「由比先輩も男子校出身だなんて知りませんでした」
 泉の言葉に佐久間は頭を掻く。
「まあ、それはよく言われるよ。男子校出身の割には女慣れしてるって」
 それは確かに、と泉は深く頷く。中学三年間男子に囲まれていた男は女子にあんなに囲まれてうまく話せるわけがない、というのは泉の考えだ。
 そういえば、と泉は思い出した。あの男子校は坊主頭で入学するという古い文化があったはずだ。そのせいで泉も不本意ながら入学時には坊主にしていたのだ。
 まさか、茶髪のパーマヘアーが良く似合うこんなに格好良い佐久間も中学入学時には自分と同じ坊主頭にしていたのだろうか。
 泉はおずおずと佐久間に尋ねた。
「まさか由比先輩も中学入学の時に坊主頭に」
「うん。俺も一年の時は坊主だったよ」
 見る? と言って佐久間はポケットから携帯端末を取り出す。
「見たいです!」
 泉は食い気味に佐久間に身体を寄せた。そのあまりの勢いに佐久間が笑う。
 今の佐久間の姿からは坊主頭など想像もできない。じっと佐久間を見つめても髪型を坊主に変換することは難しい。
 佐久間が坊主頭になったらどうなるか、中学時代の佐久間はどんな人だったのだろうか。泉は好奇心を隠せずにいた。
「あった」
 佐久間の言葉に反応して泉は急いで彼の手元の画面を覗き込んだ。
 画面を覗き込む泉の肩を佐久間の腕が掴んでさらに引き寄せる。
「あっ……」
 佐久間に肩を抱かれるのはこれが二回目だ。同性同士で肩を組むなどよくあることで、クラスメイトともする。しかし泉は佐久間に肩を抱かれてドキドキしてしまった。

 ああ、まずい。これは自分の悪い癖だ。

 辛うじて画面を見るとそこには坊主頭のイケメンがいた。
「これ、由比先輩ですか!?」
「うん。中学に入学したばっかりの時かな」
 画面の中の中学一年の佐久間は今よりもだいぶ幼い顔つきをしていた。輪郭は丸く、全体的に細身だ。それでも形の良い眉と綺麗な目、左目尻のほくろは変わらない。
 そう言って何枚かスライドして見せられた写真の佐久間は男子に囲まれてどれも楽しそうに笑っていた。
 イケメンはどんな髪型をしてもイケメンなんだ、と泉は改めて知る。
 きっと今坊主にしても佐久間は人気なのだろう。
 中学時代の坊主頭の佐久間を見たことで今の佐久間でも坊主姿を想像できるようになった。想像の中の佐久間は女子たちに囲まれ、可愛い、と頭を撫でられ満悦の表情を浮かべている。
「薫くんの写真はないの?」
「ありますよ」
 佐久間に見せてもらって自分が見せないわけにはいかない。泉もポケットから携帯端末を取り出すと画像を探し始める。その間も佐久間は変わらず泉の肩を抱いていた。その距離の近さに泉の心臓は変わらずドキドキと高鳴っていた。
 ようやく泉は中学時代の写真を見つけ出す。
「これです」
 そう言って泉が画面を差し出すと、表示されている写真を見て佐久間は思わず、ぷっ、と噴き出して笑った。
「由比先輩!」
 途端に恥ずかしくなり、泉は顔を赤らめると大声を上げた。
「ごめんごめん。凄く可愛くていいじゃん」
 画面を隠そうとする泉の手を押さえて佐久間が言った。
 画面の中の泉は佐久間の中学時代よりもずっと輪郭が丸く、幼い顔つきをしていた。中学生といえどもつい数日前までは小学生だったのだ。そう考えると幼くても当たり前だ。
「……由比先輩は坊主頭も似合いますね。また坊主とかどうですか?」
「さすがにもう坊主にする気はねーよ」
 そんな冗談を言い合いながらお互いの中学時代の写真を見る。
 写真を何枚見ても佐久間の周りにはたくさんの同性の友人が集まっていた。笑い合い、肩を組む姿はどれも仲睦まじい。それはどう見ても男嫌いには見えなかった。
「……由比先輩」
「ん?」
「由比先輩は男嫌い、っていう噂がありますけど、本当は嫌いじゃないんですよね?」
 先日佐久間は、男は嫌いではなくむしろ好きだと言っていた。あの時は邪魔が入ってしまいそれ以上の話を聞くことは出来なかったが、聞くなら今しかない。
「ああ、うん」
 佐久間はまた頭を掻いた。もしかしたらそれは彼の癖なのかもしれない。
「男は嫌いどころかむしろ好き。だって俺、ゲイだから」
 隠すことなくはっきりと言われた言葉に泉は思わず目を見開いた。しかし驚いただけで嫌悪感はない。その空気を察したのか佐久間はゆっくりと話し始めた。
「俺、男にモテるんだよね」
 その言葉に嫌味はない。泉も佐久間の口から聞いて、やっぱり、と思うだけだった。女子にもモテる、格好良い先輩が男子にモテないはずがない。
「いつも俺を巡って揉め事が起こるのが嫌で、これ以上男関係に巻き込まれないために女子が多い元女子高に入ったんだよ」
 普通に聞いたら思い上がりだと思われそうな内容だが、隣にいる佐久間の顔の造形の良さに泉は頷くしかない。
 これはまさに傾国顔。佐久間を奪い合って国が争い合うのも納得だ、と泉はうんうんと頷く。
「こんな話して怖がらせちゃったらごめんね」
 申し訳なさそうに言う佐久間に泉は首を左右にぶんぶんと勢いよく振った。
 なぜ佐久間が男子を避けているのか、自分の周りを女子で固めているのか謎が解けた。しかし一つ謎が解けると更に謎が生まれる。
「由比先輩はなんでそんな大切なことを俺なんかに話してくれるんですか」
 泉の問いに佐久間はまた頭を掻く。
「俺も薫くんと同じ中学、男子校だったから。ほら、あそこって中高一貫校だろう? それなのに内部進学しないで、男ばっかりのとこからわざわざ元女子高に来るなんて……もしかして薫くんも俺と同じなのかなって思って」
 少し賭けな所もあったけど、と言った佐久間は泉を射るような目で見つめていた。かな、と不確定な言い方をしつつも佐久間は心の中では断定しているように見えた。
 佐久間の目に全てを見透かされているような気さえする。泉はごくりと唾を飲みこんだ。
 言葉を発そうと開いた唇が小さく震える。そして泉は一度口を閉じてしまった。
 僅かだが偏差値が今の学校よりも高いから、と必死に両親を説得してなんとか内部進学を阻止した。彼女が欲しい、とクラスメイトに言った話は嘘だ。本当の理由をカミングアウトするのはこれが初めてだ。
 その時、膝に置いていた手が急に温かくなった。見ると泉の手に上に佐久間の手が重ねられていた。
 人は緊張すると手が冷たくなるという。いつの間にか冷たくなっていた泉の手が佐久間の体温でじんわりと温かくなっていく。温まると同時に自然と緊張もほどけていき、話せるような気がした。
 再度口を開くと今度は震えることはなかった。
「俺は、中学の時に友達を好きになって……」
 ちらりと佐久間の方を見ると佐久間は優しい表情で泉を見つめていた。尚も重ねられたままの手は温かい。
「学校に居づらくなって、外部進学を決めました」
 そう、と相槌を打つ佐久間の表情は尚も優しい。言葉の先を急かされることも、口を挟まれることもないことに泉は安心して自分のペースでゆっくりと話しを続けた。
「自分が男を好きになったのは周りに男しかいなかったからだと思ったんです。だから女子の多い所へ行けば女子が好きになれるかなって。幸いこの学校は元の学校よりも偏差値が高かったのでそれを理由に両親を説得することもできました」
 佐久間はまた優しく相槌を打つ。
 泉の話を最後まで聞いても佐久間は薫を嘲笑することはなかった。
 泉の手を包む佐久間の手にぎゅっと力が籠る。
「話してくれてありがとう」
「……いえ、佐久間先輩も俺に話してくれたから……」
 同等の対価だと言う泉に佐久間は首を横に振った。
「自分の性的嗜好を知るのは大切なことだし、難しいことだよ。確かに、薫くんは女の子に囲まれて生活を送ったらもしかしたら女の子のことを好きになれるかもしれない」
「女の子を好きに……」
 重ねられて手に視線を落とし、言葉を繰り返す。しかし泉はあの時のように女の子に夢中になる自分が未だイメージすることができなかった。それはきっと自分がまだ女の子のことを良く知らないからイメージできないのだろうと泉は思うことにした。
 パッとしない表情を浮かべる泉の手を佐久間は今度は両手で握った。
「よかったら、薫くんに彼女ができるように俺が手伝わせてくれない?」
「え?」
 突然の申し出に泉は佐久間によってまるで大切なもののように両手で握られた手からパッと顔を上げた。
 佐久間は相変わらず真剣な表情で泉を見ていた。
「俺、この学校に入学して一年以上ずーっと女の子と一緒にいるから女の子のことには薫くんよりもずっと詳しいよ」
 佐久間の言っていることは本当なのだろう。佐久間が男嫌いの女好きという噂が立ったのは最近のことではない。一年以上女子生徒に囲まれて学校生活を送ってきた佐久間は泉よりもずっと女の子のことを熟知しているだろう。
 どう? と微笑む佐久間は同性から見ても格好良かった。あまりの顔の良さに泉は思わず頬を赤らめてしまった。
 これは不可抗力だ。泉の国ももう佐久間によって傾くしかない。
 佐久間によってぎゅっと握られていた手を泉はようやく握り返す。
「よろしくお願いします」
 頭を下げて返事を返すと佐久間が一層手に力を込めた。
「……うん」
 その声はとても嬉しそうな響きだった。
 下げていた頭を上げるとやはり佐久間は嬉しそうに笑っていた。
「こんにちはー!」
 その時弓道場の入口の方から大勢の足音と元気な声が聞こえた。泉は握っていた佐久間の手を慌てて離す。
「お疲れ様です」
 何事もなかったかのように佐久間がそう返すと女子部員たちが次々と弓道場へと入ってくる。
「二人とももう来てたの? それなら早く着替えて準備して!」
「はい……!」
 部長に急かされて泉は慌てて立ち上がると床に置いていた荷物を抱えて更衣室へと向かった。それに続いて佐久間も更衣室へと向かう。
 男子部員は佐久間と泉の二人しかいないので、当然男子更衣室は二人きりとなる。
 二人で横に並んで弓道着へと着替えをしつつ、泉は隣の佐久間をちらりと盗み見る。するといつからこちらを見ていたのか佐久間と目が合った。
 泉が慌てて視線を外すと佐久間が、ふ、と笑った。
「よろしくね、薫くん」


 ようやく高校生活が本格的に動き出した気がした。