高校一年の七月。移動教室の最終日、僕は波打ち際の崖に立っていた。
目的は自殺するため。もう色々と限界だった。
声がどうやっても小さいから友人はできないし、それなりに有名な進学校に進学してしまったから勉強にはついていけないし。
高校生活の不幸がすべて自分に降りかかっているとさえ思えた。
崖から見下ろす海はいっそ皮肉なほどに青い。どのくらいかと言うと、小学生の頃海の家で買ったソーダ水くらい青かった。
小学生。あの頃は良かった。何も考えずに生きていられた。
まだ幼いと純粋な気持ちで人と接することができ、普通に生きているだけで友人はできた。勉強も小学生の内は予習復習なしでも何も問題は発生しなかった。
「⋯⋯はぁ」
と、ため息を吐いてみる。
この高校生活の不幸を吐き出すように。不幸が自分の中から出ていくように。
効果はもちろん無い。結局、この世はすべて自分次第だからだ。
自分が変わろうとしなければ周囲も変わらない。変わってくれない。
しかしそれが僕にはできなかった。
変わろうとすること。それが僕にはできなかった。
「⋯⋯⋯」
―――バッシャーン!
暑い日差しが照りつける中、僕は程よく冷たい海の中に身を投げた。
死んだかと思ったら意識があった。
全身に太陽の光が当たっている感覚がある。そして背中が熱い。焼け石に身体を付けているように背中が熱かった。
僕は目を覚ました。
そこは海がすぐ近くにある、浜辺の岩場だった。
誰かが僕の横に座っていた。
僕が口を開くよりも先にその人は声を出した。
「あ、ようやく目覚ました?」
自分と同い年くらいの女の子。整った容姿をしていて、白いフリフリの水着を着ていた。
「⋯⋯君は?」
僕は女の子に尋ねた。
すると彼女は肩をすくめながら言った。
「もしかして私のこと覚えてない?」
「⋯⋯⋯えっと」
「一応同じクラスなんだけどな」
同じクラス。ということは彼女も同じ海岸に居たということだ。
だが、どうしても見覚えがなかった。
「うーん。じゃあ、こうしたら分かるかな?」
肩に掛かるか掛からないかほどの髪。その前髪を両目の前に持ってくる。
それを見て、僕は気づいた。
「あ⋯⋯姫水、さん?」
「正解」
彼女は笑った。
僕は驚いた。あの姫水さんがまさかこんな整った素顔を隠していたとは思わなかった。
「普段はなんであんな顔隠してるの?」
僕は訊いてみた。すると姫水さんは笑って答えた。
「私、顔が良いから」
「⋯⋯⋯」
自分で自分のことを顔が良いと言う人は初めて見た。少なくとも、中学にはいなかった。
「ちょっと、微妙に引かないでよ」
「あ、ごめん」
「謝られるのもなんかやだ」
「じゃあどうしろと」
これまで姫水さんとは一回も話したことがなかった。他のクラスメイトも同じだろう。教室での彼女はとにかく近づきがたいオーラを放っていた。
「そういえば、ここは?」
僕は周囲を見渡した。
ザザーン、ザザーンと波が寄せては引いていく。その岩場の上に僕らは座っていた。
しかし他のクラスメイトの姿は見えなかった。
姫水さんは答えた。
「ここは、みんなが居る海岸とは真反対の海岸」
「なら、僕は真反対まで流されてきたのか」
「プカプカ浮いてて漂流物みたいだったよ」
「姫水さんが助けてくれたの?」
「そう」
姫水さんは僕から目を逸らすと、水平線の向こうを見つめた。
「クラスメイトの所に行かないの?」
訊くと、彼女はそっけない態度で、
「行ってどうするの?」
と、返す。
彼女も僕と同じ、クラスに友人がいない一人だった。
「あ、今私のこと、ぼっちの悲しい奴って思ったでしょ」
「えっ、いや、思ってないけど⋯⋯」
「その反応は思ってるよ」
さすがぼっち仲間と言うべきか、僕の考えは姫水さんには筒抜けだった。
「私、普通の青春は送りたくないの」
「え?」
ぼっちで良いのか。という僕の次の質問を潰すように彼女は言った。
「青春ってさ、色々な形があるんだよね。私は、一般的に普通じゃないとされてる青春を送りたいの」
「普通じゃない青春ってなに?」
「花の高校生、その時期に一人でいること」
「じゃあ結局はぼっちってことじゃん」
「そうだよ。けどそれが悲しくはないから」
「そうなの?」
「そう」
そして彼女は微かに口角を上げて言った。
「何でも経験してみないと解らないよね。青春も、自殺も」
僕は自分のことを言われているのだとすぐに分かった。
「つまり、何が言いたいわけ?」
姫水さんは海に浮かんでいた僕を助けた。
助けて、僕が起きるまでここで待っていた。一人でいることを望む彼女がそこまでするのには何か理由がある。
「トミナガ君は死の怖さを解ってないんじゃない?」
「そりゃ、まぁ、死んだことないし」
「じゃあ自殺なんてやめなよ。死は怖いよ。どんなに現実が苦しくたって、死はそれよりも遥かに怖い」
「分かってるよ」
「いいや、解ってない」
姫水さんは僕に顔を近づけてくる。鼻先が当たるか当たらないかの至近距離、彼女は言う。
「私が解らせてあげようか。死がどれほど怖いか。人間がどれほど生を望んでいるか」
彼女の目は形の整ったアーモンド形でとても綺麗だった。しかし、それ以上に狂気をはらんでいる気もした。
そしてその狂気の美しさに一瞬飲まれてしまった。
僕はドギマギしながら答えた。
「⋯⋯よ、よろしく」
その瞬間、姫水さんはにこりと笑い、透明な液体になった。
♢ ♢ ♢
「―――ぶはッ、ゴホッ、ゴホッ!」
何か得体の知れない液体に奪われ数分経った後、僕はいつもの世界に戻ってきた。
姫水さんは僕の身体から出ると、また先程のように綺麗な女の子の姿に戻った。
「ふふふ。どう、苦しかった?」
彼女はそう言って笑う。
僕は何度も咳き込み、しばらく彼女の質問に答えることができなかった。
「⋯⋯はぁ、はぁ、はぁ」
心臓が忙しなく動き、呼吸が止まらない。
心臓の外側にある心は胸をじんわりと気持ち悪くさせる。
「なんでだろうね」
彼女は言った。
「あれほど死にたい死にたいって思ってたのに、死が近くに迫ってくるとこうも簡単に生を選んじゃう」
水となった姫水さんに溺れさせられ、極度の恐怖と渇望の中、僕は生きることを選んだ。
「死にたい人はみんな一瞬で死ねる方法を探すけど、それって『生きたい』って言ってるのと変わらないよね」
溺れる苦しさを知った。
溺れる中で死がすぐ近くに迫ってくる恐怖を知った。
どんなに現実が嫌でも、自分が生きたいと思っていることを知った。
「死は苦しいよ。ものすごく苦しい。でもそれが当たり前。生命は死なないために生きてるんだから。だから、そんな死から苦しまずに逃れるなんてズルいよ。それは、本当にズルい」
死は苦しいこと。みんなそれは知っている。
だから苦しいことから逃れようとするのは、生を望んでいることとなんら変わりはないのだと彼女は言いたいらしい。
「⋯⋯でも、それでも現実がイヤになることだってあるでしょ」
「そうだねぇ。じゃ、溺れ死ぬのとイヤな現実を生きるの、どっちが良いの?」
「それは⋯⋯現実だけど」
「ほら」
姫水さんは妖しく笑った。
「溺れ死ぬのって死の中でも特に苦しい死に方らしいけど、私は、その人が本当に望んでいることが分かる良い手段だと思うんだよね」
「⋯⋯だから姫水さんは水になれるの?」
「分からない。いつの間にかこうなってた。もしかしたら、妖怪かも」
「そんな妖怪いないよ」
「え〜、そうかなぁ」
「そうだって」
とはいえ、彼女のカラダについては科学的にはまったく説明ができなかった。なぜ彼女は自分のカラダを水に変化できるようになってしまったのか。
まさか、溺れ死ぬのが良い手段という狂気の思想が神に届いて神が彼女の身体を変えてしまったのだろうか。
そうだとしたら怖すぎる。僕はぶんぶんと顔を横に振った。
すると、姫水さんは白くて細い手を口に当てて、囁くように言った。
「まぁ、何だろう、これはあんまり言っちゃいけないんだけど、死にたいと思ったら溺れてみるのも良いんじゃない?」
目的は自殺するため。もう色々と限界だった。
声がどうやっても小さいから友人はできないし、それなりに有名な進学校に進学してしまったから勉強にはついていけないし。
高校生活の不幸がすべて自分に降りかかっているとさえ思えた。
崖から見下ろす海はいっそ皮肉なほどに青い。どのくらいかと言うと、小学生の頃海の家で買ったソーダ水くらい青かった。
小学生。あの頃は良かった。何も考えずに生きていられた。
まだ幼いと純粋な気持ちで人と接することができ、普通に生きているだけで友人はできた。勉強も小学生の内は予習復習なしでも何も問題は発生しなかった。
「⋯⋯はぁ」
と、ため息を吐いてみる。
この高校生活の不幸を吐き出すように。不幸が自分の中から出ていくように。
効果はもちろん無い。結局、この世はすべて自分次第だからだ。
自分が変わろうとしなければ周囲も変わらない。変わってくれない。
しかしそれが僕にはできなかった。
変わろうとすること。それが僕にはできなかった。
「⋯⋯⋯」
―――バッシャーン!
暑い日差しが照りつける中、僕は程よく冷たい海の中に身を投げた。
死んだかと思ったら意識があった。
全身に太陽の光が当たっている感覚がある。そして背中が熱い。焼け石に身体を付けているように背中が熱かった。
僕は目を覚ました。
そこは海がすぐ近くにある、浜辺の岩場だった。
誰かが僕の横に座っていた。
僕が口を開くよりも先にその人は声を出した。
「あ、ようやく目覚ました?」
自分と同い年くらいの女の子。整った容姿をしていて、白いフリフリの水着を着ていた。
「⋯⋯君は?」
僕は女の子に尋ねた。
すると彼女は肩をすくめながら言った。
「もしかして私のこと覚えてない?」
「⋯⋯⋯えっと」
「一応同じクラスなんだけどな」
同じクラス。ということは彼女も同じ海岸に居たということだ。
だが、どうしても見覚えがなかった。
「うーん。じゃあ、こうしたら分かるかな?」
肩に掛かるか掛からないかほどの髪。その前髪を両目の前に持ってくる。
それを見て、僕は気づいた。
「あ⋯⋯姫水、さん?」
「正解」
彼女は笑った。
僕は驚いた。あの姫水さんがまさかこんな整った素顔を隠していたとは思わなかった。
「普段はなんであんな顔隠してるの?」
僕は訊いてみた。すると姫水さんは笑って答えた。
「私、顔が良いから」
「⋯⋯⋯」
自分で自分のことを顔が良いと言う人は初めて見た。少なくとも、中学にはいなかった。
「ちょっと、微妙に引かないでよ」
「あ、ごめん」
「謝られるのもなんかやだ」
「じゃあどうしろと」
これまで姫水さんとは一回も話したことがなかった。他のクラスメイトも同じだろう。教室での彼女はとにかく近づきがたいオーラを放っていた。
「そういえば、ここは?」
僕は周囲を見渡した。
ザザーン、ザザーンと波が寄せては引いていく。その岩場の上に僕らは座っていた。
しかし他のクラスメイトの姿は見えなかった。
姫水さんは答えた。
「ここは、みんなが居る海岸とは真反対の海岸」
「なら、僕は真反対まで流されてきたのか」
「プカプカ浮いてて漂流物みたいだったよ」
「姫水さんが助けてくれたの?」
「そう」
姫水さんは僕から目を逸らすと、水平線の向こうを見つめた。
「クラスメイトの所に行かないの?」
訊くと、彼女はそっけない態度で、
「行ってどうするの?」
と、返す。
彼女も僕と同じ、クラスに友人がいない一人だった。
「あ、今私のこと、ぼっちの悲しい奴って思ったでしょ」
「えっ、いや、思ってないけど⋯⋯」
「その反応は思ってるよ」
さすがぼっち仲間と言うべきか、僕の考えは姫水さんには筒抜けだった。
「私、普通の青春は送りたくないの」
「え?」
ぼっちで良いのか。という僕の次の質問を潰すように彼女は言った。
「青春ってさ、色々な形があるんだよね。私は、一般的に普通じゃないとされてる青春を送りたいの」
「普通じゃない青春ってなに?」
「花の高校生、その時期に一人でいること」
「じゃあ結局はぼっちってことじゃん」
「そうだよ。けどそれが悲しくはないから」
「そうなの?」
「そう」
そして彼女は微かに口角を上げて言った。
「何でも経験してみないと解らないよね。青春も、自殺も」
僕は自分のことを言われているのだとすぐに分かった。
「つまり、何が言いたいわけ?」
姫水さんは海に浮かんでいた僕を助けた。
助けて、僕が起きるまでここで待っていた。一人でいることを望む彼女がそこまでするのには何か理由がある。
「トミナガ君は死の怖さを解ってないんじゃない?」
「そりゃ、まぁ、死んだことないし」
「じゃあ自殺なんてやめなよ。死は怖いよ。どんなに現実が苦しくたって、死はそれよりも遥かに怖い」
「分かってるよ」
「いいや、解ってない」
姫水さんは僕に顔を近づけてくる。鼻先が当たるか当たらないかの至近距離、彼女は言う。
「私が解らせてあげようか。死がどれほど怖いか。人間がどれほど生を望んでいるか」
彼女の目は形の整ったアーモンド形でとても綺麗だった。しかし、それ以上に狂気をはらんでいる気もした。
そしてその狂気の美しさに一瞬飲まれてしまった。
僕はドギマギしながら答えた。
「⋯⋯よ、よろしく」
その瞬間、姫水さんはにこりと笑い、透明な液体になった。
♢ ♢ ♢
「―――ぶはッ、ゴホッ、ゴホッ!」
何か得体の知れない液体に奪われ数分経った後、僕はいつもの世界に戻ってきた。
姫水さんは僕の身体から出ると、また先程のように綺麗な女の子の姿に戻った。
「ふふふ。どう、苦しかった?」
彼女はそう言って笑う。
僕は何度も咳き込み、しばらく彼女の質問に答えることができなかった。
「⋯⋯はぁ、はぁ、はぁ」
心臓が忙しなく動き、呼吸が止まらない。
心臓の外側にある心は胸をじんわりと気持ち悪くさせる。
「なんでだろうね」
彼女は言った。
「あれほど死にたい死にたいって思ってたのに、死が近くに迫ってくるとこうも簡単に生を選んじゃう」
水となった姫水さんに溺れさせられ、極度の恐怖と渇望の中、僕は生きることを選んだ。
「死にたい人はみんな一瞬で死ねる方法を探すけど、それって『生きたい』って言ってるのと変わらないよね」
溺れる苦しさを知った。
溺れる中で死がすぐ近くに迫ってくる恐怖を知った。
どんなに現実が嫌でも、自分が生きたいと思っていることを知った。
「死は苦しいよ。ものすごく苦しい。でもそれが当たり前。生命は死なないために生きてるんだから。だから、そんな死から苦しまずに逃れるなんてズルいよ。それは、本当にズルい」
死は苦しいこと。みんなそれは知っている。
だから苦しいことから逃れようとするのは、生を望んでいることとなんら変わりはないのだと彼女は言いたいらしい。
「⋯⋯でも、それでも現実がイヤになることだってあるでしょ」
「そうだねぇ。じゃ、溺れ死ぬのとイヤな現実を生きるの、どっちが良いの?」
「それは⋯⋯現実だけど」
「ほら」
姫水さんは妖しく笑った。
「溺れ死ぬのって死の中でも特に苦しい死に方らしいけど、私は、その人が本当に望んでいることが分かる良い手段だと思うんだよね」
「⋯⋯だから姫水さんは水になれるの?」
「分からない。いつの間にかこうなってた。もしかしたら、妖怪かも」
「そんな妖怪いないよ」
「え〜、そうかなぁ」
「そうだって」
とはいえ、彼女のカラダについては科学的にはまったく説明ができなかった。なぜ彼女は自分のカラダを水に変化できるようになってしまったのか。
まさか、溺れ死ぬのが良い手段という狂気の思想が神に届いて神が彼女の身体を変えてしまったのだろうか。
そうだとしたら怖すぎる。僕はぶんぶんと顔を横に振った。
すると、姫水さんは白くて細い手を口に当てて、囁くように言った。
「まぁ、何だろう、これはあんまり言っちゃいけないんだけど、死にたいと思ったら溺れてみるのも良いんじゃない?」

