「恵まれてるね」「幸せ者だね」「あの子も本当はこんな風にしたいけど、できないの。だからできる環境に生まれてこれて良かったね」物心ついた時から、こんな言葉で包み込まれてきた。私は恵まれている。幸せ者。あの子よりも自由に生きられている。小さい時はそんな特別感のある言葉にどこかキラキラとしたイメージを持っていた。恵まれた幸せ者の私が、嬉しかった。

「やっとこのコスメ買ってもらえたー!」

どこにでもあるような高校の教室で聞こえる、女子高生の一言。視線の集まる彼女の手には私も持っているリップグロスが握られている。

「えー!いいなー高いよねそれ。うち親に全然買ってもらえないから今絶賛バイト中だよぉ。」

やっぱり、恵まれている、んだ。そのリップグロスはずっと前、家族で買い物に行った時に見つけて「可愛い」といったら「良いじゃん。六夏に似合うよ」と言って親が買ってくれたものだった。決してそれが嬉しくなかったわけではない。でもこんなシチュエーションを見るとどこからか罪悪感が押し寄せてくる。「幸せ者」という肩書きに、少しずつ、でも確かに強く強く抱きしめられている感じがした。その肩書きが私を、放さないように。

「六夏もこのリップグロス持ってるんだっけ?」
「うん!お揃いだねーっ!」
「ね!」
「六夏ー!移動教室一緒に行こ…あごめん話してた?」
「あ次理科か!今行くー!」

理科室への階段を上がる途中、何度目かわからないくらい聞いた不思議な話をまたされた。

「六夏やっぱり普通だよね。」
「またその話?だから、どういうこと?」
「やっぱり他は普通なんだなって思ってさ。」
「あーなんだっけ。一人だけ覚えてないみたいな話?それ以外が普通ってこと?」
「そう。本当に覚えてないの?」
「覚えてないっていうか…本当にいたの?そんな人。写真フォルダ見ても写ってる写真一枚もなかったじゃん?」
「そこは本当に不思議だよね。でもみんなは覚えてるんだよ…月島 冬夜(つきしま とうや)
「覚えてないな…あーやっと着いた!理科室!やっぱり3階は地味に遠いんだよね………疲れた」
「…あんなに大切な人…忘れる人なんてほんとにいるんだ…」
「ん?」
「ううん!なんでもない!」

この世には信じられないような話がたくさんある。幼い時から聞いてきた昔話とかもその一つだけど、どこか完全に否定はできなくてずっと信じてきた。でもたった一人だけ、その人の記憶だけ、まとめて抜けてしまうことなんて本当にあり得るのだろうか。周りから見たら私のことが不思議でしょうがないのだろうけど、私には周りの記憶が不思議でしょうがない。

「起立。気を付け、礼。ありがとうございました。」
「六夏!教室戻ろ!…六夏あのさ」
「ん?」
「さっきの話だけど…もう何でもない!」
「あ…ほんと?わかった」

私の考えすぎなのかもしれない。周りだけ知っていて私だけ忘れているなんて信じ難いけれど、何かが、起きたのだ。そういうことにしておこう。それに思い出せたとして、それが良い思い出なのか見当もつかない。

「それよりさ!聞いてほしくて。」
「うん!」
「なんかこの前……それで…って言ってくんの!まじうざくない?本当にしんど」
「…」
「六夏?」
「あ…ごめ…なんかぼーっとしちゃって」
「六夏は良いよね…辛いことなさそう!そんなことない?恵まれてるよぉ。勝ち組?みたいな!」
「そう?かなー…次体育だよ!急ご急ご」
「あ本当だそうだねー!今日長距離だから絶対半袖なんだって最悪だーっ」
「えそうなの?………ね?絆創膏…持ってたりしない?」
「無いよぅそんなに女子力高くないから!」
「ごめんありがと」
「なんで?怪我ー?」
「ううん、なんでもない」

まだ校舎内は涼しいとはいえ、もう夏の初めだ。妙に厳しい体育科の先生がこの気温でジャージの着用を認めてくれるはずがない。でも。

「あれ…六夏は?」
「本当だ、いない。もう体育遅れちゃうのにね」
「ね…いいや、先行ってよーっと」

授業開始のチャイムをトイレの中で聞く。こんないけないことをしたのは人生で初めてなんじゃないかな。でも成績とか、もうどうでもいいし。中学生の頃は提出物一つにも何時間もかけていたけど、今の私にとってこの高校にはいれただけでゴールみたいなもの。私はそんなことよりもっと、隠さないと駄目なものが。

「ほんと…見せられるわけない…」

少し袖をめくるだけで露になる、傷。

『えなにこれ。死にたいわけ?…気持ち悪いんだよ』

初めて自分以外の誰かの目に触れてしまったとき、すごくすごく低い声で、そう、吐き捨てられた。
中学生の、発育測定。どうしても長袖が認められないのに絆創膏を忘れてしまった日だった。
今までずっと一緒にいた、大切だった友達。
私って、気持ち悪い…?でも、でも。私は、決してしのうとしたわけではないんだ。どうしても、生きていくために。生きるために、しなないためにはこうしないとだったのに。こんなこと、もう聞きたくもないから。

—逃げ出そう。

嫌なことは何?
そう聞かれてすぐに答えられるほど毎日が辛いものなわけではない。小さなことがずっと付きまとってきて、自信が日々を重ねるだけでどこか遠くへ行ってしまって。気が付いたらもう限界、と思ってしまう。その時被害者ぶってる自分が嫌いで、それでいて前を向けない自分が嫌いで、自分で自分を傷つけてしまう自分が、嫌い。こんな自分が—。

「だいっきらいだよ……」

ばれないように、息を殺しながら裏門を抜けてからは、人の少ない海辺へとひたすら走る。今はちょうどお昼時で、太陽の光が嫌でも突き刺さる。クラスメイトが全員半袖だとしても一人だけずっと長袖のセーラー服。少しでも暑さを紛らわそうと、右の袖を捲る。どんなに暑くても左の袖はいっぱいに伸ばす。その後少し歩いたら浜辺に着いた。この浜辺に何か思い出があるか、考えたとしても何一つ思い当たらない。いつからかはわからないけど、私の大事な場所。周りには相変わらず誰一人いなくて、そっと、左の傷をなぞる。

「…情けないよ…私は周りよりも恵まれてるんだから…こんなこと…」
「それ…いたい?」
「…っ!?」

聞いたことがないような声に驚いて振り返ると、見たこともない男子生徒が立っていた。

「私と同じ高校の制服…?」
「そう。あ…名前はコウセイっていう」
「同じ学校ですよね?あなた誰ですか。…それに今、傷のこと………あっ」

左の傷が露になったままだ。すぐに制服の袖を戻す。

「別に隠さなくていいよ」

よいしょ、と言いながら私の隣に座る彼。

「ここは本当に風が気持ちいよね、夏のはじまりなこと忘れちゃうくらい」
「あの…なんでここに」
「…」
「コウセイくん?」

真っ白な肌に、ほんの少し赤い頬。少し茶色がかった髪が海風に揺れている。

「六夏はなんでここにいるの」
「六夏って…なんで私の名前…」
「いいからさ、なんでも、大丈夫だから」
「…」
「どんなことだとしても、受け止めるから、吐き出してみない?」

こんなにも大嫌いな自分でも、彼は受け止めてくれるんじゃないか。ふとそんなことを思った私から、考える前に言葉が溢れた。

「もう、やだよ……」

彼は相槌は打たない。私の耳にはただ波の音が聞こえてくる。それがどこか心地よかった。

「こんな自分、だいっきらいで。できるなら今すぐここから消えてしまいたくて。でもできないくらいに、寂しいの。きっと誰かを待ってるんだよね。そんなとこも、ぜんぶぜんぶ大嫌い。恵まれてるはずなのに、求めすぎなんだ。ずっと被害者面しかしない。幸せ者の、はずなのに」

初めて出会った君。もしも彼が酷い人ならこの左の傷をまた気持ち悪いっていうんだろうな。もしも、ものすごく優しい人なら、一度受け入れて、それで。

「…じゃあ、僕が、君をころしてあげようか。」
「……え…」

この一言が、すごく酷くて、すごくすごく優しい彼とのはじまり—。