(今日のお夕飯、何、作ろっかな)
教室の窓から差し込む午後の日差しに包まれながら、教室の掃除を終わらせていく。
教室の隅ではスマホを触っている生徒がいて、静かに箒を使って床を掃く生徒もいて、先生が来た途端に真面目に掃除する生徒もいて、人の数だけ掃除の仕方もいろいろだってことを感じ取っていく。
(最近、カレー粉も高いよね)
カレーライスなら簡単だと思うものの、材料費が高騰している中、安易にカレーライスと決めることができないのも悔やまれる。
「よしっ! 部活、行ってくるね」
「お疲れー」
夕飯のメニューを考えているうちに掃除は終わり、生徒たちには放課後の時間が与えられる。
各自が、何をするかを決めていい自由な時間。
一年生は部活に入るのが義務づけられているといっても、週に一回。もしくは月に一回しか活動がない部活動もあると噂には聞いている。
それぞれが選んだ放課後の過ごし方が、三年後にどう影響を及ぼすのか。
相変わらず未来は見えてこないけど、今日も私たちはやってくる明日のために精いっぱい生きていく。
(ちゃんと食べて、ちゃんと寝て、ちゃんと勉強しないと)
廊下を歩きながら部室に向かっていると、真っ先に聞こえてきたのは運動部の掛け声。
バスケットボール部に入っている人たちは、みんながプロを目指すわけではない。
卓球部に入っている人たちが、みんなプロを目指すわけではない。
それでもみんなは、それぞれの目標に向かって部活動に力を注いでいた。
(私は、音楽の先生になるって決めた)
私との会話を希望してくれている仲間のために、と立派なことを言いたい。
でも、今日は私とお話ししたいと思っている生徒がいない。
お話し会が開催されない日は帰宅部同然となってしまうけど、志だけは高く持ちたい。
そんな日常に馴染み始めている自分に、理想通り世界に順応できている自分に、安心感のようなものが生まれるようになった。
「演奏……したいな……」
管楽器を扱う聖籠高校に進学しなかった時点で、私に残された道はヴァイオリンを買うだけの経済力をつけるしかない。
自分が迷子にならないための道を模索して、他人の力を借りなくても生きていけるってことを証明しながら、最後にヴァイオリンを選択することができたらなと夢見る。
(今の時点で、未来は決まってないから)
未来を変えるなら、今しかない。
そう意気込みを抱いたとき、放課後の校舎に吹奏楽部が音を出す練習をしている様子が響き渡り始める。
自信のなかった音を積み重ねて、理想の音へと向かっていく過程を思い出す。
自分が、いつまで懐かしさを覚えていられるのかは分からない。
それでも大好きな音楽に耳を傾けることで、ヴァイオリンへの想いを深めていく。
(少し覗いてもいいかな)
体験入部の季節でもなんでもない人間が、部活動の見学をするのは迷惑以外の何物でもないかもしれない。それでも、理想の音に向かっていく一秒一秒に惹かれてしまった。
(ダメだったら、潔く諦め……)
小心者の自分が勇気を振り絞ろうとした瞬間。
生徒の姿が見つからなかったはずの廊下で、私は何者かに肩を叩かれた。
「っ」
大きな声を上げることすらできない臆病者は、恐る恐る後ろを振り返って肩を叩いた人物の正体を確かめた。
「ごめん、ごめん、灯里ちゃんの姿を見つけたから、つい」
「こちらこそ、ごめんなさい……」
吹奏楽部の見学を望んでいた私に声をかけてくれたのは百合宮杏珠さん。
彼女の手には、ヴァイオリンケースが存在していた。
「百合宮さん、ヴァイオリンなんて持ち歩いてどうしたんですか」
「この学校ね、昔は管弦楽部があったんだって」
「…………え」
「びっくりだよねぇ」
まだまだ高い位置にある太陽に見守られながら、私たちは春の穏やかな陽気に包まれながら言葉を交わし合った。
「少子化の影響で、管弦楽部は廃部になっちゃったらしいよ」
管弦楽部という珍しい部活動なら狭い地域で有名になっても可笑しくない気もするけど、そんな噂すら聞いたことがない。
管弦楽部がなくなって長い年月が流れ去ったということを、古びたヴァイオリンケースが教えてくれた。
「楽器のメンテナンスの専門家じゃないけど、眠ったままは可哀想かなって」
ヴァイオリンケースですら埃塗れなのだから、中のヴァイオリンは音を奏でることはできなくなっているかもしれない。
「こういうのって、寄付したりしないんでしょうか」
「需要がないんじゃないかな。管楽器に興味を持ってくれる人が、世の中に何人いるのかなーって思うよ」
世の中には娯楽が溢れ返っていて、音楽も溢れ返っていて、その中から管楽器に興味を持ってくれる可能性は限りなく低い。
望んでいる人に寄付できれば一番いいけれど、その望んでいる人に出会うことすら難しいのが現代の娯楽事情なのかもしれない。
「楽器のリペアをやってみようかなーって手を出したのはいいけど、気を遣いすぎて、肩が死にそうになってたところ」
百合宮さんは幸せを噛み締めるように、柔らかな笑みを浮かべた。
言葉と表情が合っていないって思っても、百合宮さんの幸せそうな笑みに心が和むのを感じた。
「百合宮さんのおかげで、楽器が少し息を吹き返したと思います」
「灯里ちゃんの言葉に救われるよ~」
楽器を修理する技術がないのに、楽器に触るなと怒る人もいるかもしれない。
このまま楽器を眠らせたくないというのは奏者の身勝手な意見かもしれないけど、ここで楽器を終わらせたくないという意地がある。その意地を掬い上げてくれる人が現れないのだから、私たちは眠りに落ちた楽器へと触れる。
「……両親って、偉大ですね」
音楽の道を自ら絶ってしまったけれど、その、道を絶つ前に莫大なお金が自分につぎ込まれているのは私でも想像ができる。
でも、両親は私の選択を尊重してくれた。だから、私は自分の人生を生き直さなきゃいけないと思った。
「楽器の修理に、ポーンとお金を出してくれるんだもんねぇ」
ゼロ円でできることに限りがあることは分かっていても、百合宮さんは今日も楽器経験者なりに音を奏でなくなった弦楽器たちに触れていく。
「灯里ちゃん、弾いてみる?」
「私は……」
手に、力が入る。
緊張で湿った手を気持ち悪いって思うけど、手に力を入れざるを得なかった。
「ふふっ、躊躇ってる。躊躇ってる」
同い年の百合宮さんは、お世辞でもなんでもなく綺麗に見える。
美しい笑みを浮かべて、答えの出せない私を受け入れてくれる。
「いつから、楽器を弾くのが怖くなっちゃうんだろうね」
髪全体が緩く巻かれていて、腰辺りまである髪がふんわりとしていて華やかさ抜群。
モデルとして活躍していても可笑しくないスタイルと美貌を兼ね備えていて、感嘆の声を上げてしまいたくなる。
「ちっちゃい頃って、ただただ楽器が好きだったと思うの」
綺麗な人っていうのは、いつどんなときも綺麗に見える。
百合宮さんを見ていると、未来の彼女はきっと後悔のない選択肢を選ぶことができるんだろうなって強い希望が生まれてくる。
「それなのに、どうして手に取るのも躊躇っちゃうようになるんだろうね」
ヴァイオリンが入っているケースを、百合宮さんが無理に押しつけてくる。
私には受け取る意志がないのに、百合宮さんは私にヴァイオリンを手渡そうと行動を起こす。
「多分、碌な音が鳴らないと思うよ」
「……それは、そうですけど」
きちんとした手入れがされてもおらず、倉庫に眠ったままのヴァイオリンが綺麗な音を奏でるわけがない。
でも、綺麗な音を奏でるわけがないっていう確信があるからこそ、この楽器を手に取りたいという願いが生まれてくる。
「音を楽しむから、音楽だよねっ」
百合宮さんはやっぱり綺麗な同級生で、人を勇気づけるための笑顔の美しさに泣きそうになってくる。
「百合宮さん、学校の先生みたいです」
「残念だけど、そっちの方面は興味ないかなぁ」
「そう言えるってことは、百合宮さんの答えは見つかっているってことですね」
百合宮さんは答えをくれなかったけど、誰が見ても綺麗だと言葉を返したくなるくらいの素敵な笑みを返してくれた。
「コンサート、楽しみにしています」
楽しみにしていますという言葉は、時にはあまりいい言葉に受け取ってもらえない。
でも、私の言葉にも、百合宮さんのような美しさを着飾ったみたいと思った。
「人気すぎてチケットが取れないくらい……」
百合宮さんの表情は希望に満ち溢れていて、何かをやってやろうという意欲が感じられた。
「先へ先へ、行ってください」
誰かを安心させられるほどの笑みを作り込むことはできなくても、私なりの精いっぱいの笑顔を百合宮さんに送った。
「灯里ちゃんの演奏、生で聴くのは初めてだなぁ」
「百合宮さんが活躍される頃には、もう引退しちゃってましたからね」
希望ある未来へ向かっていく彼女から、ヴァイオリンケースを受け取る。
「ふぅ、恥ずかしいですね……」
「大丈夫、大丈夫、この場には私しかいないからっ」
大好きで大好きで、大好きで大好きな音楽の世界。
私を小さい頃から見守ってくれていたヴァイオリンは、引退を決めたと同時に手放してしまった。
物心つく頃から、いつも隣にいてくれたヴァイオリンのことが大好きだった。
偉大な音楽家たちが残した作品を、ヴァイオリンと一緒に現代へと蘇らせる一瞬一瞬がいとおしかった。
「弓も、酷い状態ですね」
ヴァイオリンケースを開くと、そこに待っていたのは驚くくらいの黴臭さが広がった。
「毛、緩みすぎだね……」
「あー、ケースの中に大量の毛がありますね」
「音自体が、鳴らないかも……」
ヴァイオリンを演奏する際に必要な弓の具合を二人で確認するけど、あまりにも放置された年月が長すぎるが故に弓の毛がぶらぶらになっている状態。更にはケースの中に抜け落ちた毛がばらばらばら。
「毛、張り替えないと絶望的かも」
「惜しいですね」
毛の量が明らかに少ないと分かる弓では、この倉庫に眠っていたヴァイオリンに最高の舞台を用意してあげることができない。
「ちゃんと管理できなくて、ごめんなさい」
ヴァイオリンの音色と、ヴァイオリンの表現を独占できる唯一の時間が欲しいと思った。
どんどん大人へと近づいていく私と、どんどん未来へと向かっていくヴァイオリンと少しでも一緒に時間を共有したい。
そんな邪な想いが功を奏したのか、私の一途な願いは古びたヴァイオリンと再会させてくれた。
「灯里ちゃん?」
「一音だけ……」
幼い頃はヴァイオリンを安定して構えるだけでも、かなりの時間を要した。
肩当てがないと演奏どころではなかったはずなのに、今では楽にヴァイオリンを構えることができるのだから不思議に思えた。
「っ」
「ふっ」
ぎぃぃぃという重低音が鳴っただけでも、よしとすべきなのか。
それとも、そんな雑音しか奏でることができないのだったら、始めから弾かないでくれとヴァイオリンは叫んでいるのか。
聞こえない声に耳を傾けながら、私たちは二人で笑い声を溢した。
「小さい頃のこと、思い出します」
「そうそう、ちっちゃい頃は、めちゃくちゃに弾くのが楽しかったよね~」
当時の年齢なりに、必死に演奏していたとは思う。
けれど、結局は拙い演奏という言葉に尽きる。拙いという言葉どころの話じゃなかったはずなのに、それで良かった。それで十分だった。私にとっては、それがすべての始まりだったのだから。
「私たち、どんどん大人になっていっちゃいますね」
「あっという間に、卒業式を迎えちゃうんだろうね」
たとえ売り物にならないような子どもの遊びごとのような演奏だったけど、そんな子ども遊びは私の毎日を激変させてくれた。夢を与えてくれた。日々が、音で溢れた世界を生きていきたいと願うようになった。
「子どものままでいたかったと言わないように、立派な大人を目指してみたいです」
「えー、灯里ちゃんは今でも立派なのに」
「そんなこと言ったら、私からすれば百合宮さんの方が立派に見えます」
綺麗な彼女と、また一緒に笑い声が重なった。
「百合宮さんなら、絶対に夢を叶えることができます」
同級生という贔屓耳もあるかもしれないけど、百合宮さんなら世界を魅了する奏者になれるという確信できる。
「奏者を志した人、全員が夢を叶えることはできないっていう厳しい現実。私もちゃんと理解しています」
それでも、私には自信があった。
百合宮さんは絶対に、夢を叶える力を持つ同級生だってこと。
「ありがとう、灯里ちゃん」
自分で頑張ったなんて表現は使いたくないけど、自画自賛ができてしまうくらい百合宮さんには頑張ってほしい。毎日を必死に生きてほしい。
「一緒に頑張ろうね」
「……はい」
「もう、灯里ちゃんの声は弱いなぁ」
また、二人で一緒に笑った。
上手く音を鳴らすことができなかったヴァイオリンは再び百合宮さんに引き取られて、百合宮さんは空き教室を探しに行った。
(この学校、まだ多くの管楽器が眠ってるってことだよね……)
それらは、今度も一生、眠り続けたまま。
通っている高校が廃校になれば話は別かもしれないけど、大きな何かが起きない限り、倉庫で眠った楽器たちに演奏の機会は訪れない。
(夢、見たいな……)
私が教員免許を取得して、無事に教師になれたところで、今よりももっと少子化が進んでいるかもしれない。
管弦楽部の復活どころか、吹奏楽部すらも廃部に追いやられているかもしれない。
(管弦楽部の復活、やってみたいな……)
そもそも教員免許を所得できたところで、この学校の教師になることはできないかもしれない。
管弦楽部のない学校の先生をやっている可能性の方が高いことは分かり切っていても、どうしても未来に夢を見てしまう。
(未来で、校長先生と闘ったりするのかな)
楽器のメンテナンスに割く予算はないとか言われるのは目に見えているけど、それでも初めて生まれた夢を膨らませていくのはとても楽しい。
(夢って、絶望だけじゃないんだね……)
聞こえてくる吹奏楽部の演奏が、耳と心に絶大な衝撃を与える。
練習のときに聞こえていた一音一音が一つに集って、人の心に感動を巻き起こすために動き出す。
(未来を、見に行きたい)
日差しが強い。
校舎を出ると、太陽が多くの陽を浴びさせてくれる。
でも、もたもたしていたら、この太陽の恵みだってすぐに失われてしまう。
「今の季節……こんなにも空が澄んで見えるんだ」
「そうらしいよ」
背後から、声をかけられる。
海の見える本屋にいるだろうと思い込んでいた人が、私に声を届けてくれた。
「河原くん……」
声の力って、言葉の力並みに凄いものかもしれない。
彼の声を聞くだけで、ただそれだけで、あ、幸せだって思ってしまう。
「空って、一日一日違う表情を見せてくれるんだって」
感情を揺さぶるくらいの輝きを放つ青空を、彼と一緒に見上げる。
「あれだけの醜態をさらしてしまったので、もう……声をかけてくれないと思ってました」
「羽澤さんが、泣いていると思ったから」
泣いてない。
誰がどう見ても、私は泣いていないはずだった。
「泣いてると思ったから、声をかけたくなっちゃった」
それなのに河原くんは、私が弱くなっているってことに気づいてくれた。
河原くんの声が欲しいと思っているときに、彼は声をかけてくれた。
「……泣いてません」
「うん、そうだね。俺の勘違いだった」
そう言って笑顔を見せた河原くんは、少しずつ以前の時間を取り戻しつつあった。
彼は自分が生きてきた世界だけでなく、他人が生きてきた世界をも魅了する笑顔の持ち主。
だから、少しずつ彼が彼を取り戻すことで、私は心臓を揺すられてしまう。
「羽澤さんは生きているんだから、笑ってよ」
河原くんが笑ってくれると、嬉しい。
河原くんは、私が笑ってくれると嬉しいですか。
問いかける前に、答えを聞く前に、私は口角を上げられるように努めてみる。
「生きているんだから、人生を楽しんでよ。そんな、暗そうな顔してたら、時間がもったいない」
河原くんの声は、穏やかで優しい。
だけど、彼の意思がはっきりしているのか、彼の言葉はマンガの決め台詞のようにビシっと格好よく決まった。
「行こっか」
「どこに……」
高校と海の見える本屋との距離は、相変わらず近すぎる。
感傷に浸る間もなく辿り着いてしまう距離が、もどかしい。
それなのに、余計なことを考えなくても済むくらい近い距離をありがたいとも思ってしまう。
「どうぞ」
なんの躊躇いもなく手を引かれて、私たちの距離はいつ縮まってしまったのかと焦る。
河原くんだけが大きく成長していくことを、肌で感じることができて嬉しい。
でも、成長速度があまりにも早すぎて私はまた一人置いていかれてしまったみたいで寂しい。
「麦茶でいい?」
麦茶を勧めながら、ちょっとした世間話でもしますか的な雰囲気を作り出す河原くん。
河原くんは至って普通で、いつもと変わらない。
いつも通りすぎて、私は抱えている戸惑いをどう処理していいか分からない。
「そんなに緊張しなくてもいいのに」
「お母さんが帰ってこないと、涙ながらに語ったばかりなので……」
「泣かなかったよ、羽澤さんは」
気恥ずかしさが、胸の高鳴りを呼び寄せる。
中学時代は同じクラスにすらならなくて、私たちの間には空白の三年間がある。
三年間どころか、小学生のときだって同じ教室にいただけの顔見知りにすぎない。
九年もの年月、空白を作ってきた河原くんと、こんなにも近い距離で話しができるようになるなんて思ってもいなかった。
「怖いよね、言葉を交わし合うって」
河原くんの言葉に、静かに頷いた。
「嫌われたくないって気持ちがあるのに、羽澤さんから幻滅されたんじゃないかって……怖くなった」
「私も、同じことを思っていました」
高校生が語り合う内容にしては、私たちが抱えている家庭事情はあまりにも重たい。
同い年に背負わせる荷物ではないほどの重さを与え合ったことを、ずっと不安に思っていたのは私だけではなかった。
「重たかったですよね……こんな話、ほかの誰にもできなかった……」
麦茶を用意しているものだと思い込んでいた私は、急に彼が顔を覗き込んできたことに驚いて言葉を失った。
「重たいのは、俺も同じ」
唇に、河原くんの人差し指が触れる。
それ以上、私が言葉を紡がないように。
河原くんは、自身を傷つけるための言葉を止めてくれる。
「今日も、河原くんとお話をしてもいいですか」
すると、彼の人差し指が遠ざかっていく。
もう、言葉を発していいよって合図を送ってくれる。
「俺も、羽澤さんと話がしたい」
「両想いですね、私たち」
深呼吸を繰り返す。
自分の中に溢れる気持ちを言葉にまとめることができるかなんて分からないけど、自分の気持ちには正直にありたいと思えるようになった。
「そういうこと、さらっと言わない」
河原くんが返してくれたことに笑みを浮かべると、ふと薄暗い書店スペースが視界に映った。
段ボールの山が静かに積み上げられていて、以前、海の見える本屋を訪れたときにはなかった圧倒的な存在感に見入ってしまった。
一方の河原くんは麦茶の準備に向かって、この場には寂しい空気だけが居残った。
「本を片付けてるってのもあるんだけど、前の家からの引っ越し荷物も混ざってるよ」
トレイの上に、麦茶の入ったグラスを揺らしながら戻ってきた。
ついこの間までは寒さに体を震わせていた時期もあったはずなのに、小さな氷が音を立てるくらい気候が暖かくなってきたのだと感慨深くなる。
「荷物片づけてると、変わっていくんだなぁってこと……めっちゃ実感する」
言葉に出さなくても、河原くんの寂しさが空気を通して伝わってくる。
「本が好きで、ここに通ってた時期もあったんだ」
「書店って、夢のような場所ですよね」
河原くんは小さな笑みを浮かべようとしたけど、それはすぐに消えてしまった。
「でも、もう戻らないんだなって。本屋での時間も、両親に育てられてきた時間も」
住居スペースにも段ボールが置かれていて、その一つに河原くんは手を触れた。
「失ってから大切なものに気づくって言葉もあるけど、俺はずっと家族のことが大好きだった」
本屋のスペースから、かすかな風が吹き込んできた。
古い紙の香りが広がったようなきがしたけど、それらの香りも一瞬にして消え去ってしまった。
「家族を笑顔にするって夢を持ってたんだけど、俺には、その夢を叶えるのが難しくて……」
海の見える本屋に来るまでのアスファルトの道で、私たちを包み込むかのように広がっている青い空と青い海を見た。
「だんだん笑顔を見せてくれなくなって」
ただただ眩しすぎる、蒼の景色に影響された。
その輝きに手を伸ばしたくても、私たちは輝きの手に入れ方を知らない。
「俺は、家族を笑顔にできなくて」
そんな河原くんに甘えて、私は過去の反省を彼女へと伝える。
「傷つけてばかりだった」
深い悲しみが、彼の声に滲む。
彼の手は段ボールの上でぎこちなく動き、その目は遠くを見つめている。
「その人に振り向いてほしくて頑張ってきたけど、やっぱり自分本位の幸福には限界があるなって」
努力って言葉は、時に残酷だと思う。
達成したい目標のために人は努力を積み重ねていくのに、自分が重ねてきた努力は実を結ぶとは限らない。
「河原くんは、努力を続けてきましたよ」
かける言葉が見つからない。
でも、一言一言を絞り出すように、彼に向かって声をかけていく。
「夢を叶える難しさ、河原くんが一番よく分かっていますから」
相手に、自分の名前を認識してもらうのは高すぎる目標。
それでも、家族だけは自分のことを認識してくれる唯一。
河原くんが家族の笑顔に会うために努力を続けてきたからこそ、彼は今も大好きな家族を手放すことができない。
「両親に、ご家族に、幸せになってほしかったですよね」
あんなに努力をしたのに、あんなものは努力でもなんでもなかった。
河原くんが努力を積み重ねてきたことは確かな事実なのに、河原くんは自分の人生そのものを否定する。
決して、自分を認めようとしない。
「その気持ち、否定しないでください」
マンガやドラマの世界のような、一発大逆転の奇跡は起こらないってことを人は知っている。
河原くんと私は似ているのかもしれないって思っても、河原くんの気持ちを理解できるよとは絶対に言えない。言ってはいけない。
河原くんの気持ちを知っているのは、ほかの誰でもない自分だけだから。
「難しいね」
河原くんは、一瞬だけ目を閉じた。
「大切な人に、幸せになってもらうって」
でも、すぐに瞼が上がり、私たちはお互いの目を真っすぐ見つめる。
重なり合った視線から、私たちは逃げなかった。
「ただ、笑ってほしかった」
逃げられない。
「家族に、ずっと笑っていてほしかった」
逃げたくない。
「それなのに……っ」
離さないで。
離れたくない。
「……河原くん」
段ボールに置かれた手に、自身の手を重ねる。
「羽澤さんを困らせたこと……ずっと謝りたかった……」
泣かないで。
「ごめん……ごめん、羽澤さん……」
泣いてほしくない。
「でも、羽澤さんと再会できて……俺……」
腕を伸ばしたい。
堪えた涙を促してあげたいと思ったから。
「謝らないでください」
でも。
「私を助けてくれて、ありがとうございます」
今、必要なのは。
「私の笑顔を取り戻してくれて、ありがとう。河原くん」
彼に、最高の笑顔を見せることだと思った。
「俺こそ、俺を助けてくれてありがとう。羽澤さん」
彼は、無理に笑うようなことはしなかった。
でも、その言葉は、無理に発せられたものではないことが伝わってくる。
「羽澤さんの演奏で、たくさんの人が笑顔になってたの……すっごく衝撃的だった」
海辺で久しぶりに触れたヴァイオリンの音色は、彼の心を満たすものだったのだと自覚する。
「好きなことで、こんなにもたくさんの人を笑顔にできるんだなって」
彼が過去を回想することで、彼の顔が少しずつ綻んでいく。
「考えたんだよ」
でも、その綻びかけた顔を隠すように、彼は顔を俯かせた。
けど、涙が彼の頬を伝うことはなかった。
「たくさん考えた」
私は言葉をかけることなく、ただ彼の体温に寄り添うように段ボールの上で手を重ねた。
「どうやったら、目の前にいる人を笑顔にできるのなかってこと」
どこかにいる誰かが、私たちの人生を否定する。
どこかにいる誰かが、私たちの人生を肯定する。
それが人生だってことを、私たちは知っていく。
でも、可能性というものは、周りが潰していいものではない。
「俺が笑顔になったら、家族は笑ってくれるんじゃないかとか」
自分が積み上げてきた努力を、身勝手な頑張りだったのではないかと彼は自身を否定していく。
自分を認められなくなってしまったら、自分という存在を認められなくなっていく。
潰れそうな毎日を送ってきた同級生が、傍にいたってことを知っていく。
「鐘木高校に入学できたら、両親は笑ってくれるんじゃないかとか」
小学校の頃に彼と出会って、彼はずっと満面の笑みで多くの人たちを幸せにしてきた。
同じ学校に通ってきた人たちは、河原梓那くんという存在に救われたことがあるのは事実。
でも、その感謝の気持ちが、彼には届いていなかった。
「今までの頑張りって、自分が独りで決めた幸せだったなって」
彼の生き方は、家族に縛られたという言い方をされてしまうのかもしれない。
でも、家族のために頑張ってきた彼の気持ちを否定したくない。
私も、家族を笑顔にするために頑張ってきた一人だから。
「だから、俺がしたいことをやっていこうって」
自分の未来には希望がある。
愛されなかったと感じた過去を抱えながらも、彼は前を向くための言葉をくれた。
「目の前に両親がいなくても、俺が生きることで、目の前の相手が幸せになってくれたらいいなって」
河原梓那として、目の前にいる人を幸せにする。
ただひとつだけの夢に邁進してきた河原くんの夢は、変化を見せた。
彼は自分の言葉で、自分の夢を語ってくれた。
「やっと夢を見つけられたよ、羽澤さん」
河原くんと再会したばかりのときは、こんなにも晴れやかな顔を見られるなんて思ってもいなかった。
「やっと、自分で選ぶことができたよ」
過去の引っかかりが、ようやく取れた。
その引っかかりを外したのは私の力ではなく、河原くんが自分の生きる力を信じることができたからこそ答えを出すことができた。
河原くんが自然に笑えるようになったことが、何よりも嬉しい。
「これからも……俺のこと、見守ってくれる?」
新しく始まる人生に、河原くんが存在してくれることが何よりも心強い。
新しく始まる人生に、私を存在させてくれることが何よりも嬉しい。
「っ、河原くんがどこにいても、私は河原くんに会いに行きます」
溢れ出しそうな涙に気づいた河原くんの繊細な指が、私の瞳から涙を奪い去ってくれる。
だから、私は泣かずに済んでいる。
涙を溢れさせることなく、彼の瞳を見つめることができる。
「限界を決めるのは自分。自分がやれると思ったら、やれるところまで突っ走ってもいいんだよね?」
言葉を交わすことを、私たちは諦めなかった。
それらが未来に繋がったのだと思うと、胸の中に込み上げてくる感情に再び涙腺が揺すられる。
「羽澤さんの夢は?」
他人が向いていない、諦めなさいって言うのは簡単。
でも、その言葉に従いなさいなんて決まりはどこにもない。
「私は、なんとか意地を張って、ヴァイオリンを弾き続けようと思います」
他人の、あなたはこの世界に向いていない。
あなたは、この世界を諦めた方がいい。
そんな通告ほど、辛いものはないかもしれない。
他人から向いていないって評価を下されてしまえば、そこでその言葉たちを受け入れてしまう人は必ずいる。
ああ、自分はここまでの人間だったんだって、大好きなものを諦めてしまう。
だから、育つ環境が与える影響の大きさというものを考える。
「社会人になってからとか、おばあちゃんになってからとか、そういう具体的な年齢は想像もつかないですけど……」
ヴァイオリンを購入する経済的余裕もなければ、習い事としてのヴァイオリンを始めることもできない。
そんな状況であることに間違いはないけど、私は相変わらず音楽の世界が大好きで、音ある世界にしがみついていたいと願っている。
「お父さんが教えてくれた音楽を、これからも愛していきたいです」
他人の言葉を聞いて、尚も努力を積み重ねていける人っていうのは、本当に凄いと思う。かっこいいと思う。
本当にその分野が大好きで、本当にその世界で生きていきたいんだと思わせてくれる。
でも、人類皆、そういう強さを持っているわけではない。
「俺も、羽澤さんの夢が叶うように見守りたい」
また、河原くんの表情が和らいだ。
言葉で表現してしまえば、ただそれだけのことでしかないのに。
ただそれだけのことが、とても嬉しい。
「もちろん羽澤さんが一人で頑張りたいときは、応援するだけにする。でも、見守るから。絶対」
何か特別面白いことがあるわけでもないのに、私たちは笑った。
笑うって、なんかいいなって思った。
何がいいかなんてよく分からない。
ただ、今この時間を心地いいと思った。
「音楽に愛を注ぐ人生、かっこいいね」
「照れちゃいますけど……ありがとうございます」
幼い頃は、天才ヴァイオリニストが現れたともてはやされた。
でも、だんだんと羽澤灯里の名前が残らない世界になりつつある。
プロの世界を諦めて、舞台に立つことから逃げたヴァイオリニストのことなんて、きっと忘れ去られていく。
私のことを好きだと言ってくれた人たちだって、百合宮さんだって、いつかは羽澤灯里を忘れてしまう。
「いつか、お母さんにも聴いてもらえたらなと」
暖かい春風を感じられるようになって、海の見える本屋に吹き込んできた風に心を和ませる。
夢を語るタイミングで吹き込んできた風に、自然と口角が上がる。
「多分だけど、今って、羽澤さんが休む期間なのかなって」
どうぞ、と差し出された麦茶をいただこうと思った。
「俺、天才ヴァイオリニストの羽澤灯里さん、知ってたみたいなんだよね」
けど、河原くんの言葉を受けて、伸ばしかけた手を引っ込める。
「母さんがクラシック好きな人だったみたいで、家に羽澤さんのちっちゃい頃の演奏が残ってた」
私が手を引っ込めたため、河原くんは麦茶をどうぞどうぞと勧めてくる。
「え、え?」
「俺がちっちゃい頃に気に入ってた曲、羽澤さんの演奏らしいよ」
こんなにも都合のいい物語が展開されることに驚きを隠せず、開いた口を塞ぐために自身の口へと指を当てる。
「あんなに素晴らしい演奏する羽澤さんには、休息が必要だなって」
河原くんの口から、素晴らしいという言葉をいただくことができた。
話の流れで出てきただけの言葉だとしても、私の演奏を聞いたことのある彼に言葉をもらえたこと。
少しは誇ってもいいのかもしれないって、自惚れた。
「インタビュー記事とかも残ってて……ああ、ちっちゃい頃から、喋り方も鍛えられてたんだなぁって」
私が丁寧な喋り方をしている理由を、河原くんは見破っていた。
「鍛えられたというか……見様見真似です……同い年の子役さんとかの……」
自分から、夢を諦めると口にしたのは本当。
自分の才能のなさに絶望したのも、本当。
でも、許されるなら、音ある世界にしがみついていたかったのも本当だった。
だから、ずっと、ずっと、丁寧な喋り方を続けて、遠回しに駄々をこねてきた。
「なんで……なんで……気づいちゃうんですか」
「あ、羽澤さん、泣きそうになってる」
河原くんが、意地悪そうに笑う。
その、今、浮かべた笑みは、無理をさせていないか。
そこを見破るほど彼のことを、まだ知らないことが悔しい。
「泣きません」
「ん、羽澤さんが、そういうなら信じる」
でも、彼との間に、無理という言葉が存在しなくて済むように、これからも心を配っていきたいと強く思う。
「母さんは置いていっちゃったけど……俺は、今も羽澤さんの演奏が好きだなって」
「そう言ってもらえると励みになります」
「あ、信じてないでしょ?」
そんなことないって言い切らなきゃいけない。
私は彼の言葉を信じなければいけない。
それくらいのことは分かっているのに、言葉が詰まる。言葉が出てこなくなる。
「ヴァイオリンがすっごく上手い同い年の女の子がいるの」
人の記憶は曖昧になっていくものなのに、その記憶に音楽を残すことの難しさを知っていく。
「それが、母さんの口癖だった」
誰かの記憶に残ることができないと気づいた瞬間が、夢を諦めた瞬間。
「ちっちゃい頃、いっぱい勧められた」
夢を諦める瞬間の痛みを知っているはずなのに、心が始まろうとしているのを感じる。
「同い年の羽澤灯里さんが演奏している姿を」
私が幼い頃に頑張った日々を、こうして記憶している人がいることを河原くんに教えてもらう。
「名前を覚えてなかったのは事実。嘘は吐かない。でも、羽澤さんがいなくなったあとも、羽澤さんの演奏を記憶に残して、羽澤さんの音楽を忘れないようにしてた人がいたってこと。信じてほしい」
嬉しい言葉をいっぱい言われたはずなのに、なんだか現実離れした話を、どう受け止めていいのか分からない。
「こんなこと言われても、他人事だよね」
自分が残した作品に、覚えていてもらえるほどの価値があったのだと泣きそうになる。
「本当に、あの演奏をしていた羽澤灯里さんとは思えない表情」
あのときの、羽澤灯里と私は違うかもしれない。
名前が同じだけで、まったく違う演奏をする二人かもしれない。
過去を生きる私と、今を生きる私は別人かもしれない。
それでもやっぱり、彼がくれる言葉に心が動かされる。
「自信、持って」
人の記憶なんて脆いもので、覚えていようと頑張ったところで忘れてしまうものは忘れてしまう。
それなのに、私の音楽を記憶に残そうとしてくれた人がいるっていう奇跡のような話を河原くんが教えてくれる。
「どっかの段ボールに証拠、残ってるんだけど……」
「持ってきてくれたんですか?」
「なんか、運命感じない?」
そんな、益々、惚れこんでしまいそうになる笑顔を簡単に見せないでほしい。
そんな簡単に、私の心も掴んでしまわないでと思う。
(でも、嬉しい)
戸惑ったように唇を噛んだけど、河原くんの笑顔が私の心を揺らす。
「河原くん」
「ん?」
いただいた麦茶を飲み干して、私は勢いよく立ち上がった。
一緒に麦茶を飲んでいた河原くんを驚かせてしまったことは申し訳ないけど、これくらい勢いをつけないと立ち上がれないような気がしてしまった。
「海、行きませんか」
雲ひとつない春空に、会いたくなった。
立ち上がった理由は、ただそれだけ。
厳しい冬を越えた春の、澄んだ青色の空に会いたい。
「鐘木高校に合格した特権だね」
「すぐそこが海って、なかなかないですよね」
忘れられてしまうことって、意外と怖いものだなって思っていた。
でも、もう俯くことはないのかなって、ほんの少しだけ自信が生まれた。
「羽澤さん、音楽馬鹿すぎて、碌に青春送ってこなかったでしょ?」
ずばりと指摘されたことに、反論する術も見つからない。
「俺が、青春ってものがなんなのかを伝授してあげよう」
「ふふっ、なんですか、その喋り方」
体中の血液が、私に暑さを訴えてくる。
初めての経験ってものに、心が動かされていく。
「これが、春の暖かさ」
「あったかいですね」
この暖かさを意識したことはあるのかって問いただしてくるような春の風に、自分の体が負けそうになる。
春の空気が駆け巡る中、大きく息を吸い込んだ。
広がる大空に目を向けるだけで、ほんの少しだけ目が潤んでしまう。
(綺麗すぎるのかもしれない)
この、蒼い空が。
「空って、こんなにも綺麗だったんですね」
「……綺麗だよ。俺も、そう思ったこともなかったけど」
空は誰にでも平等に与えられるものなのだから、空を見たことない人なんていない。
だけど、空を見て何も感じない人。何も感じることができない人。何かを感じる余裕がない人は大勢いる。
平等に与えられているものが、そのまま受け取られているかといったら、そうではない。
「私も空を美しいと感じるようになったの、つい最近の話です」
音楽の世界で生きることができた時間と、勉強に費やした日々を後悔しているわけではない。
ただ、河原くんと再会してからの日々は毎日が新鮮で、視界に映り込むすべての光景が脳裏に焼きついたまま離れない。
河原くんと再会する前と視界に入れているものに大きな差はないはずなのに、視界に入るすべてが初めてのもののように思える。
まるで、別の世界に来たような感じ。受験のときには気にも留めてこなかった、自然の移り変わりを河原くんと一緒に体感していく。
「俺は、音楽に夢中になってた頃の羽澤さんも大好きだよ」
「……ありがとうございます」
大好き。
その言葉に、怯えてしまいそうになる。
その言葉に、とてつもなく大きな喜びを感じてしまいそうになる。
その言葉に、ずっとずっと縋っていきたいなんてことを思ってしまう。
「河原くん」
「うん」
そんな素直に『うん』なんて言葉を送られてしまっては、私は上手く言葉を組み立てられなくなってしまう。
何から話そう。
何から伝えよう。
何を、どんな言葉で河原くんに受け取ってもらえればいいのかを考える。
「もう少しだけ、河原くんとお話がしたいです」
「俺で良かったら」
この優しさに守られていると、独りになったときに怖気づいてしまうと思う。
それでも、河原くんと過ごす日々の中から、未来を生きる強さを見つけられるようになりたい。
「ちゃんと言葉、交わさないとかな」
河原くんの横顔を見ていたときには気づかなかったけれど、ふと彼の表情を視界に入れると……彼が向けている視線に違和感を抱いた。
「あ……」
河原くんの視線が、もうすぐで青い色を失ってしまう空に向かっているような気がした。
単に前を向いているだけと言われればそれまでだけど、前方を真っすぐ見ているように思えなかった。
「空……」
「ん?」
蒼い空を、見ているような気がした。
「河原くんは」
なんとなく。
なんとなくだったけれど。
そう思った。
「空、好きなんですか」
気づけば、私たちは足を止めていた。
河原くんを見つめることすら躊躇っていたはずなのに、ごく自然な形で私たちは向かい合うことになった。
思い切り逸らすこともできた視線を逸らすことなく、河原くんの瞳を真っすぐ見た。
「空?」
「え、あ……」
話題を探す。
必死になって探す。
河原くんを見つめていましたと釈明するだけでは、変な子の印象しか与えかねない。
明日も明後日も学校で会う仲なのに、そんな印象を彼に与えるわけにはいかずに焦る。
「河原くん……空が……好きなのかなって思って……」
考えた結果が、この話題だった。
「羽澤さんは?」
「私ですか?」
質問を質問で返されるとは思っていなかったうえに、この質問は自分が答え辛い質問だということを『思い出した』。
「昔は……大嫌いでした……」
太陽の色と空の色が混ざり合った蒼さが。
だけど、今は眩しすぎる空の色が苦手だった。
惨めになるから。自分が。
空の世界は綺麗に映るのに、自分が生きている世界はまったく美しくなかったから。
「今は好き?」
「あっ……あの、はい。むしろ、綺麗なものほど惹かれるかもしれません」
「なんでこんなに感性、似てるんだろうね」
好きと言葉にすることに照れて俯きそうになったけれど、顔を上げて、河原くんの顔を見た。
河原くんの視線は、青い色を失い始めている空の向こう側。
もうすぐで、青い空が終わりを迎える時刻が近づいている。
「こういう綺麗な空を見てると……」
河原くんの視線は逸らされることなく、空の向こう側にあった。
「昔あった嫌なこと、思い出す」
空の色が変わり始める瞬間に立ち会っているせいかもしれない。
春の空が、今までと違う哀しい色を映し出す。
「悪い、暗くなっちゃったなって。気分悪くない?」
彼の声を聞くと、あ、私はやっぱり彼の顔が見たいって思う。
「気分が悪くなるようなら、私はここにいませんよ」
この場に、河原くんと言葉を交わすことができる相手は私しかいない。
彼が私のことを気にかけるたびに、彼の視線が私に注がれていく。
「話が下手なところは、申し訳ないですが……」
歩を、進める。
「羽澤さんは、ピアサポート部員でしょ?」
止めていた足を動かす。
そんな、反則。
「っ、はい! 私は、音楽教諭、目指します!」
彼が私の前を歩けば、私は彼と目を合わせずに済む。
でも、置いていかれたくないと思った。追いかけたいと思った。
河原くんから許可が下りる前に、私は彼の隣へと並んだ。
「だんだん、音に触れる機会が減ってしまうんだなってことに寂しさを抱いたのが、教師を目指すきっかけでした」
最初は、天才ヴァイオリニストという肩書から逃げるため。
でも、高校に入学すると、音楽は選択科目という扱いになることを知る。
音楽を履修しない人たちが増えてきて、音楽の授業は中学で最後だったって人もいるってことを知っていく。
それが、音楽の教師への道に進みたいと思い始める理由。
「音楽に触れる最後の時間が、素敵なものになるように力を貸せたらいいなと思いました」
授業以外のところでは、多くの音に触れていくと思う。
大好きなアーティストを見つけて、大好きなアーティストを推していく。
好きな楽器を見つけたり、自分で声を発する楽しさを知って、習い事としての音楽に親しみを持つ。
それが、残された人生の中で楽しむ音楽のかたち。
「生徒が、周りを敵だと思わずに済むように……」
「敵?」
「未来の幸せを奪い合う敵、です」
河原くんと隣り合っているだけで、私たちの視線は交わらないまま。
でも、隣り合うことを許してもらえたことが嬉しすぎて、私は自分の気持ちを隠さずに話すことができるようになった。
「私はずっと、周りが敵だと思っていました」
中学受験を経験しなかった私は高校受験を通して、人が選抜されるという現実を知った。
高校に合格した人だけが幸福を受け取ることができるんだと思い込んでいた私は、上手く笑うことすらできなくなった。
「未来に待っている幸せの量は決まっていて、それを奪い合っていると思っていたんです」
友達の作り方も分からなくなって、友達と言葉を交わし合っている中でも上手く笑う自信がなくなった。
「敵は、いなくなった?」
「多分ですけど、敵ってものは、ずっと存在し続けるものなのかなって」
きっと私たちは、これから何回も、何十回も、何百回も、選抜されていくのだと思う。
「永遠に、敵を排除することはできないのかなって」
今は大学受験や就職活動くらいしか浮かばないけれど、世界はより良い方が選ばれるっていう現実と私たちは向き合わなければいけない。
「でも、選ばれないからって、そこで人生は終わりませんよね」
「確かに」
私の背中を、真っ先に押してくれる理解者がいる。
それって、こんなにも心強いことだと自身の経験を通して知っていく。
「幸せを奪い合う人生にも、終わりはない。だったら、新しく幸せを作る必要があるのかなって」
賞賛の声も、未来を約束されたかのように寄せられる期待が嬉しかったときもある。
けれど、それらの声は次第に、自分の中の空白を広げるきっかけとなった。
「幸せになりなさいって言葉、正直、無責任だって思うこともありました」
世界中の輝きを集めたような人生を送る人がいる一方で、どこか空虚感漂った毎日を送る人もいる。
自分だけが取り残されたような感覚に陥ったことがあるからこそ、自分の幸せを見つけるのも作り出すのも自分だけだと気づくことができた。
「その、幸せになる方法が分からないから、困るんです。悩むんです。苦しいんです」
ただ、一歩踏み出さなければ、私の時間は止まったまま。
ずっと、困ったまま。だと、遥はなんとなく感じていたのだった。
ずっと、悩んだまま。
ずっと、苦しいまま。
「でも、自分を幸せにしたい。幸せになりたいって気持ちは消えない。だったら、幸せになること、諦めていられないなって思いました」
ピアサポート部員のような、それらしい言葉を紡いでいく。
「未来に待っている幸せが、無限であるといいなって」
不安定としか言いようのない私の言葉を見守るように、春の空に柔らかな紫色が広がっていく。
「幸せを奪い合うのではなく、その先、その先で、幸せを見つけていくことが大切なんだって」
遠くからは鳥たちの鳴き声が、そよ風に乗ってくる。
青春らしい世界が広がっているのに、その青春らしい日々を自分は送ることができるかという不安は尽きない。
「見つけたいな、幸せ」
波打ち際で、光が煌いた。
彼の言葉に反応するようなタイミングで、寄せた波が沈みかけた太陽の光を抱き締めたことに気づく。
「羽澤さんと敵になったら、勝てる気がしないから」
茶化すような言い回しをしてくるのが、記憶の中にいる小学生の彼と重なる。
「河原くんの敵が、少なくなりますように」
波音にかき消されてしまうくらい小さな声だったはず。
周囲の騒音に飲み込まれてしまったって可笑しくないのに、隣に並んでいた彼が私の顔を覗き込んできた。
「みんながハッピーエンドとか、憧れるね」
潮風が、髪を撫でる。
後悔のない人生を送りなさいと言われても、みんなが後悔のない人生を送れるわけない。
現実を知り始めている私たちを叱咤するためなのか、現実を知っている私たちを慰めるためなのか、風が溢れそうになる涙を攫うために吹き抜けていく。
「敵との闘いが終わっても、ちゃんと笑えるようになりたい」
河原くんの瞳が潤んでいるようにも見えるけど、彼は彼のまま。
決して、泣かない。
追いかけ続けたくなるほどのかっこよさを、今日も彼は魅せてくれる。
「羽澤さんと話してると、落ち着く」
真正面から、声が届けられる。
優しい声。
優しすぎる声が、私のことを呼ぶ。
「好きだな、羽澤さんのこと」
彼の瞳を見たい。
でも、躊躇う。
でも、見たいと思った。
そんな不可解な言動を繰り返していた私は、今ではいとも簡単に彼を真っすぐに見つめられるようになる。
「河原くん、優しすぎます」
彼は、きっとこういう人。
同級生の面倒見が良いどころの話ではなく、心の底から優しい人。
突き放してくれたっていい。
今まで起きたことを、冗談で済ませたっていい。
それなのに、返ってくる言葉は私を気遣うもの。
「私も河原くんみたいに……」
彼が、笑ってくれている。
気を遣って、穏やかな笑みを浮かべているだけかもしれない。
けど、彼が優しい眼差しで私を見守ってくれることに安心した。
瞳から溢れ出そうになる雫を堪えながら、なるべく口角を上げた笑顔で彼と向き合う。
「誰かを勇気づけることのできる人になりたいです」
今は、無理矢理に作り込んだ笑顔かもしれない。
でも、いつかは彼の前で、自信を持って自然な笑みを向けられるようになりたい。
「何か特別なことなんてしてないのにね」
向けられた言葉は悲しいものに思えたけど、彼は優しい笑みを浮かべてくれた。
もうすぐで色を変える太陽の光が、私たちの顔を綺麗に飾る。
「ただ、そこにいただけ。それだけが、俺にできる唯一……」
「そうやって、自分に自信をつけていくのかなって思いました」
高校の卒業を待たずに、進級するだけでも私たちは新しい人に巡り合っていく。
新しく出会う人に素直な気持ちを伝えられるかといったら、それは難しい。
それでも次から次へと新しい出会いはやってきて、私たちは自分にできる何かを探していく。
「だって、ただそこにいるってことが、こんなにも大きな力を与えたじゃないですか」
今後は逃げることなく、彼に向けての気持ちを叫ぶ。
「私を幸せにしたってこと、覚えていてください」
胸の高鳴りを抑えきれず、波打ち際を歩き出す。
そして、彼がいる方向を振りむく。
「その経験を、河原くんの自信に」
同じ学校に通う同士として、教室でなんとなく視線を交わすだけだった彼が目の前にいる。
彼の存在に何度も助けられたことを思い出すと、胸が熱くなるのを感じた。
「私と出会ってくれて、ありがとうございます」
叶えたい夢が生まれたところで、未来でその夢を実現できるかどうかは分からない。
どんなに頑張りましたと言い張ったところで、周囲が私たちを必要としてくれなかったら夢を実現させることはできない。
だからこそ、手を差し伸べる。
「河原くんと一緒に、頑張って生きたいです」
太陽の光が次第に傾き始め、淡い青色の空は少しずつ朱色へと向かっていく。
「河原梓那くん」
好きという想いを込めて、私は彼の名前を呼んだ。
「私は、何度も会いに行きます」
私たちの人生に光が照らさないときもあるのに、世界はずっと美しさを保っているなんて狡いと思うときもある。
「必要でなくなる、その日まで。必ず、会いに行きますから」
でも、その美しさが保たれたままだからこそ、顔を上げたくなる衝動に駆られるときがある。
その美しさから逃げたくなるときがあるのも事実だけど、その美しさに手を伸ばしたくなるときがあるのも本当。
どれも、本当の私だからこそ、自分を受け入れることから逃げたくない。
「覚えていたい」
そっと、手が触れる。
「羽澤さんのこと、ずっと覚えていたい」
そっと、手が握られる。
「羽澤さんと見つけた言葉」
そっと、手を握り返す。
「羽澤さんと見つけた景色」
そっと、指を絡める。
「羽澤さんと見つけた感情」
自分の人生は自分だけのものといっても、その人生には関わってくれる人がいる。
全員が幸せのハッピーエンドは望めないとしても、登場人物全員が幸せになれるようなハッピーエンドのために努力は続いていく。
「羽澤さんを、大切って気持ち」
彼の背後に広がる空に、薄紅色の雲を見つけた。
太陽に別れを告げるように、形を変えていく雲が視界に入った。
でも、私たちの関係は別れで終わらせたくない。
「羽澤さんを、好きって気持ち」
砂浜を歩き続ける私たちの足跡が、波にさらわれるたびに消えていく。
でも、私たちの関係は消えてほしくない。
「受け取ってもらえる……?」
彼の手が震えることのないように、しっかりと彼の手を握る。
「私も、河原くんのことが大好きです」
波が足元に打ち寄せ、私たちは歩みを進める。
未来は果てしなく広がっているはずなのに、いつまで経っても未来はぼんやりとしている。
「俺も、逃げない」
互いの瞳が、揺らいでしまっていないか。
確かめようがないから、困ってしまう。
「今の人生、ちゃんと挑んでみせるよ」
精いっぱいの、笑顔。
精いっぱいが、いつか自然なものになるように。
「こんなの、俺らしくないかな」
「河原くんは、今も昔もかっこいいです」
「褒められると調子に乗っちゃうよ?」
「調子に乗ってください」
幼い頃からずっと一緒にいる私たちだけど、まだ数えられるほどの日数しか言葉を交わし合っていない。
たったそれだけの付き合いしか重ねていないはずなのに、私たちは新しく互いの良いところを知っていく。好きなところを見つけていく。
そして、いずれは嫌いなところも視界に入れてしまうようになる。
それは人間としてごく自然な流れで、誰も逆らうことができない。
「羽澤さんの心の傷も……」
「心って……少し大袈裟では?」
「心の傷も、深刻な傷のひとつ」
衝突するか、理解するか、避けて逃げるという選択肢が再び訪れるのか。
私たちは、これからどういう人間関係を構築していくのか。
「心の傷も、喜びも、幸せも、俺に分けてくれたら嬉しい」
「河原くんのも、ですよ」
「うん」
私たちは命ある限り、自分たちにできることを精いっぱいやっていく。
「俺たち、太陽に見られてる」
「え?」
これ以上の光はいらないってくらいの輝きを放つ太陽が、私たちの体温をどんどん上昇させていく。
「今日も、空が凄く綺麗だね」
「私も、同じことを思っています」
自分の気持ちに嘘を吐かないための、最終人生が始まっていく。
【了】
教室の窓から差し込む午後の日差しに包まれながら、教室の掃除を終わらせていく。
教室の隅ではスマホを触っている生徒がいて、静かに箒を使って床を掃く生徒もいて、先生が来た途端に真面目に掃除する生徒もいて、人の数だけ掃除の仕方もいろいろだってことを感じ取っていく。
(最近、カレー粉も高いよね)
カレーライスなら簡単だと思うものの、材料費が高騰している中、安易にカレーライスと決めることができないのも悔やまれる。
「よしっ! 部活、行ってくるね」
「お疲れー」
夕飯のメニューを考えているうちに掃除は終わり、生徒たちには放課後の時間が与えられる。
各自が、何をするかを決めていい自由な時間。
一年生は部活に入るのが義務づけられているといっても、週に一回。もしくは月に一回しか活動がない部活動もあると噂には聞いている。
それぞれが選んだ放課後の過ごし方が、三年後にどう影響を及ぼすのか。
相変わらず未来は見えてこないけど、今日も私たちはやってくる明日のために精いっぱい生きていく。
(ちゃんと食べて、ちゃんと寝て、ちゃんと勉強しないと)
廊下を歩きながら部室に向かっていると、真っ先に聞こえてきたのは運動部の掛け声。
バスケットボール部に入っている人たちは、みんながプロを目指すわけではない。
卓球部に入っている人たちが、みんなプロを目指すわけではない。
それでもみんなは、それぞれの目標に向かって部活動に力を注いでいた。
(私は、音楽の先生になるって決めた)
私との会話を希望してくれている仲間のために、と立派なことを言いたい。
でも、今日は私とお話ししたいと思っている生徒がいない。
お話し会が開催されない日は帰宅部同然となってしまうけど、志だけは高く持ちたい。
そんな日常に馴染み始めている自分に、理想通り世界に順応できている自分に、安心感のようなものが生まれるようになった。
「演奏……したいな……」
管楽器を扱う聖籠高校に進学しなかった時点で、私に残された道はヴァイオリンを買うだけの経済力をつけるしかない。
自分が迷子にならないための道を模索して、他人の力を借りなくても生きていけるってことを証明しながら、最後にヴァイオリンを選択することができたらなと夢見る。
(今の時点で、未来は決まってないから)
未来を変えるなら、今しかない。
そう意気込みを抱いたとき、放課後の校舎に吹奏楽部が音を出す練習をしている様子が響き渡り始める。
自信のなかった音を積み重ねて、理想の音へと向かっていく過程を思い出す。
自分が、いつまで懐かしさを覚えていられるのかは分からない。
それでも大好きな音楽に耳を傾けることで、ヴァイオリンへの想いを深めていく。
(少し覗いてもいいかな)
体験入部の季節でもなんでもない人間が、部活動の見学をするのは迷惑以外の何物でもないかもしれない。それでも、理想の音に向かっていく一秒一秒に惹かれてしまった。
(ダメだったら、潔く諦め……)
小心者の自分が勇気を振り絞ろうとした瞬間。
生徒の姿が見つからなかったはずの廊下で、私は何者かに肩を叩かれた。
「っ」
大きな声を上げることすらできない臆病者は、恐る恐る後ろを振り返って肩を叩いた人物の正体を確かめた。
「ごめん、ごめん、灯里ちゃんの姿を見つけたから、つい」
「こちらこそ、ごめんなさい……」
吹奏楽部の見学を望んでいた私に声をかけてくれたのは百合宮杏珠さん。
彼女の手には、ヴァイオリンケースが存在していた。
「百合宮さん、ヴァイオリンなんて持ち歩いてどうしたんですか」
「この学校ね、昔は管弦楽部があったんだって」
「…………え」
「びっくりだよねぇ」
まだまだ高い位置にある太陽に見守られながら、私たちは春の穏やかな陽気に包まれながら言葉を交わし合った。
「少子化の影響で、管弦楽部は廃部になっちゃったらしいよ」
管弦楽部という珍しい部活動なら狭い地域で有名になっても可笑しくない気もするけど、そんな噂すら聞いたことがない。
管弦楽部がなくなって長い年月が流れ去ったということを、古びたヴァイオリンケースが教えてくれた。
「楽器のメンテナンスの専門家じゃないけど、眠ったままは可哀想かなって」
ヴァイオリンケースですら埃塗れなのだから、中のヴァイオリンは音を奏でることはできなくなっているかもしれない。
「こういうのって、寄付したりしないんでしょうか」
「需要がないんじゃないかな。管楽器に興味を持ってくれる人が、世の中に何人いるのかなーって思うよ」
世の中には娯楽が溢れ返っていて、音楽も溢れ返っていて、その中から管楽器に興味を持ってくれる可能性は限りなく低い。
望んでいる人に寄付できれば一番いいけれど、その望んでいる人に出会うことすら難しいのが現代の娯楽事情なのかもしれない。
「楽器のリペアをやってみようかなーって手を出したのはいいけど、気を遣いすぎて、肩が死にそうになってたところ」
百合宮さんは幸せを噛み締めるように、柔らかな笑みを浮かべた。
言葉と表情が合っていないって思っても、百合宮さんの幸せそうな笑みに心が和むのを感じた。
「百合宮さんのおかげで、楽器が少し息を吹き返したと思います」
「灯里ちゃんの言葉に救われるよ~」
楽器を修理する技術がないのに、楽器に触るなと怒る人もいるかもしれない。
このまま楽器を眠らせたくないというのは奏者の身勝手な意見かもしれないけど、ここで楽器を終わらせたくないという意地がある。その意地を掬い上げてくれる人が現れないのだから、私たちは眠りに落ちた楽器へと触れる。
「……両親って、偉大ですね」
音楽の道を自ら絶ってしまったけれど、その、道を絶つ前に莫大なお金が自分につぎ込まれているのは私でも想像ができる。
でも、両親は私の選択を尊重してくれた。だから、私は自分の人生を生き直さなきゃいけないと思った。
「楽器の修理に、ポーンとお金を出してくれるんだもんねぇ」
ゼロ円でできることに限りがあることは分かっていても、百合宮さんは今日も楽器経験者なりに音を奏でなくなった弦楽器たちに触れていく。
「灯里ちゃん、弾いてみる?」
「私は……」
手に、力が入る。
緊張で湿った手を気持ち悪いって思うけど、手に力を入れざるを得なかった。
「ふふっ、躊躇ってる。躊躇ってる」
同い年の百合宮さんは、お世辞でもなんでもなく綺麗に見える。
美しい笑みを浮かべて、答えの出せない私を受け入れてくれる。
「いつから、楽器を弾くのが怖くなっちゃうんだろうね」
髪全体が緩く巻かれていて、腰辺りまである髪がふんわりとしていて華やかさ抜群。
モデルとして活躍していても可笑しくないスタイルと美貌を兼ね備えていて、感嘆の声を上げてしまいたくなる。
「ちっちゃい頃って、ただただ楽器が好きだったと思うの」
綺麗な人っていうのは、いつどんなときも綺麗に見える。
百合宮さんを見ていると、未来の彼女はきっと後悔のない選択肢を選ぶことができるんだろうなって強い希望が生まれてくる。
「それなのに、どうして手に取るのも躊躇っちゃうようになるんだろうね」
ヴァイオリンが入っているケースを、百合宮さんが無理に押しつけてくる。
私には受け取る意志がないのに、百合宮さんは私にヴァイオリンを手渡そうと行動を起こす。
「多分、碌な音が鳴らないと思うよ」
「……それは、そうですけど」
きちんとした手入れがされてもおらず、倉庫に眠ったままのヴァイオリンが綺麗な音を奏でるわけがない。
でも、綺麗な音を奏でるわけがないっていう確信があるからこそ、この楽器を手に取りたいという願いが生まれてくる。
「音を楽しむから、音楽だよねっ」
百合宮さんはやっぱり綺麗な同級生で、人を勇気づけるための笑顔の美しさに泣きそうになってくる。
「百合宮さん、学校の先生みたいです」
「残念だけど、そっちの方面は興味ないかなぁ」
「そう言えるってことは、百合宮さんの答えは見つかっているってことですね」
百合宮さんは答えをくれなかったけど、誰が見ても綺麗だと言葉を返したくなるくらいの素敵な笑みを返してくれた。
「コンサート、楽しみにしています」
楽しみにしていますという言葉は、時にはあまりいい言葉に受け取ってもらえない。
でも、私の言葉にも、百合宮さんのような美しさを着飾ったみたいと思った。
「人気すぎてチケットが取れないくらい……」
百合宮さんの表情は希望に満ち溢れていて、何かをやってやろうという意欲が感じられた。
「先へ先へ、行ってください」
誰かを安心させられるほどの笑みを作り込むことはできなくても、私なりの精いっぱいの笑顔を百合宮さんに送った。
「灯里ちゃんの演奏、生で聴くのは初めてだなぁ」
「百合宮さんが活躍される頃には、もう引退しちゃってましたからね」
希望ある未来へ向かっていく彼女から、ヴァイオリンケースを受け取る。
「ふぅ、恥ずかしいですね……」
「大丈夫、大丈夫、この場には私しかいないからっ」
大好きで大好きで、大好きで大好きな音楽の世界。
私を小さい頃から見守ってくれていたヴァイオリンは、引退を決めたと同時に手放してしまった。
物心つく頃から、いつも隣にいてくれたヴァイオリンのことが大好きだった。
偉大な音楽家たちが残した作品を、ヴァイオリンと一緒に現代へと蘇らせる一瞬一瞬がいとおしかった。
「弓も、酷い状態ですね」
ヴァイオリンケースを開くと、そこに待っていたのは驚くくらいの黴臭さが広がった。
「毛、緩みすぎだね……」
「あー、ケースの中に大量の毛がありますね」
「音自体が、鳴らないかも……」
ヴァイオリンを演奏する際に必要な弓の具合を二人で確認するけど、あまりにも放置された年月が長すぎるが故に弓の毛がぶらぶらになっている状態。更にはケースの中に抜け落ちた毛がばらばらばら。
「毛、張り替えないと絶望的かも」
「惜しいですね」
毛の量が明らかに少ないと分かる弓では、この倉庫に眠っていたヴァイオリンに最高の舞台を用意してあげることができない。
「ちゃんと管理できなくて、ごめんなさい」
ヴァイオリンの音色と、ヴァイオリンの表現を独占できる唯一の時間が欲しいと思った。
どんどん大人へと近づいていく私と、どんどん未来へと向かっていくヴァイオリンと少しでも一緒に時間を共有したい。
そんな邪な想いが功を奏したのか、私の一途な願いは古びたヴァイオリンと再会させてくれた。
「灯里ちゃん?」
「一音だけ……」
幼い頃はヴァイオリンを安定して構えるだけでも、かなりの時間を要した。
肩当てがないと演奏どころではなかったはずなのに、今では楽にヴァイオリンを構えることができるのだから不思議に思えた。
「っ」
「ふっ」
ぎぃぃぃという重低音が鳴っただけでも、よしとすべきなのか。
それとも、そんな雑音しか奏でることができないのだったら、始めから弾かないでくれとヴァイオリンは叫んでいるのか。
聞こえない声に耳を傾けながら、私たちは二人で笑い声を溢した。
「小さい頃のこと、思い出します」
「そうそう、ちっちゃい頃は、めちゃくちゃに弾くのが楽しかったよね~」
当時の年齢なりに、必死に演奏していたとは思う。
けれど、結局は拙い演奏という言葉に尽きる。拙いという言葉どころの話じゃなかったはずなのに、それで良かった。それで十分だった。私にとっては、それがすべての始まりだったのだから。
「私たち、どんどん大人になっていっちゃいますね」
「あっという間に、卒業式を迎えちゃうんだろうね」
たとえ売り物にならないような子どもの遊びごとのような演奏だったけど、そんな子ども遊びは私の毎日を激変させてくれた。夢を与えてくれた。日々が、音で溢れた世界を生きていきたいと願うようになった。
「子どものままでいたかったと言わないように、立派な大人を目指してみたいです」
「えー、灯里ちゃんは今でも立派なのに」
「そんなこと言ったら、私からすれば百合宮さんの方が立派に見えます」
綺麗な彼女と、また一緒に笑い声が重なった。
「百合宮さんなら、絶対に夢を叶えることができます」
同級生という贔屓耳もあるかもしれないけど、百合宮さんなら世界を魅了する奏者になれるという確信できる。
「奏者を志した人、全員が夢を叶えることはできないっていう厳しい現実。私もちゃんと理解しています」
それでも、私には自信があった。
百合宮さんは絶対に、夢を叶える力を持つ同級生だってこと。
「ありがとう、灯里ちゃん」
自分で頑張ったなんて表現は使いたくないけど、自画自賛ができてしまうくらい百合宮さんには頑張ってほしい。毎日を必死に生きてほしい。
「一緒に頑張ろうね」
「……はい」
「もう、灯里ちゃんの声は弱いなぁ」
また、二人で一緒に笑った。
上手く音を鳴らすことができなかったヴァイオリンは再び百合宮さんに引き取られて、百合宮さんは空き教室を探しに行った。
(この学校、まだ多くの管楽器が眠ってるってことだよね……)
それらは、今度も一生、眠り続けたまま。
通っている高校が廃校になれば話は別かもしれないけど、大きな何かが起きない限り、倉庫で眠った楽器たちに演奏の機会は訪れない。
(夢、見たいな……)
私が教員免許を取得して、無事に教師になれたところで、今よりももっと少子化が進んでいるかもしれない。
管弦楽部の復活どころか、吹奏楽部すらも廃部に追いやられているかもしれない。
(管弦楽部の復活、やってみたいな……)
そもそも教員免許を所得できたところで、この学校の教師になることはできないかもしれない。
管弦楽部のない学校の先生をやっている可能性の方が高いことは分かり切っていても、どうしても未来に夢を見てしまう。
(未来で、校長先生と闘ったりするのかな)
楽器のメンテナンスに割く予算はないとか言われるのは目に見えているけど、それでも初めて生まれた夢を膨らませていくのはとても楽しい。
(夢って、絶望だけじゃないんだね……)
聞こえてくる吹奏楽部の演奏が、耳と心に絶大な衝撃を与える。
練習のときに聞こえていた一音一音が一つに集って、人の心に感動を巻き起こすために動き出す。
(未来を、見に行きたい)
日差しが強い。
校舎を出ると、太陽が多くの陽を浴びさせてくれる。
でも、もたもたしていたら、この太陽の恵みだってすぐに失われてしまう。
「今の季節……こんなにも空が澄んで見えるんだ」
「そうらしいよ」
背後から、声をかけられる。
海の見える本屋にいるだろうと思い込んでいた人が、私に声を届けてくれた。
「河原くん……」
声の力って、言葉の力並みに凄いものかもしれない。
彼の声を聞くだけで、ただそれだけで、あ、幸せだって思ってしまう。
「空って、一日一日違う表情を見せてくれるんだって」
感情を揺さぶるくらいの輝きを放つ青空を、彼と一緒に見上げる。
「あれだけの醜態をさらしてしまったので、もう……声をかけてくれないと思ってました」
「羽澤さんが、泣いていると思ったから」
泣いてない。
誰がどう見ても、私は泣いていないはずだった。
「泣いてると思ったから、声をかけたくなっちゃった」
それなのに河原くんは、私が弱くなっているってことに気づいてくれた。
河原くんの声が欲しいと思っているときに、彼は声をかけてくれた。
「……泣いてません」
「うん、そうだね。俺の勘違いだった」
そう言って笑顔を見せた河原くんは、少しずつ以前の時間を取り戻しつつあった。
彼は自分が生きてきた世界だけでなく、他人が生きてきた世界をも魅了する笑顔の持ち主。
だから、少しずつ彼が彼を取り戻すことで、私は心臓を揺すられてしまう。
「羽澤さんは生きているんだから、笑ってよ」
河原くんが笑ってくれると、嬉しい。
河原くんは、私が笑ってくれると嬉しいですか。
問いかける前に、答えを聞く前に、私は口角を上げられるように努めてみる。
「生きているんだから、人生を楽しんでよ。そんな、暗そうな顔してたら、時間がもったいない」
河原くんの声は、穏やかで優しい。
だけど、彼の意思がはっきりしているのか、彼の言葉はマンガの決め台詞のようにビシっと格好よく決まった。
「行こっか」
「どこに……」
高校と海の見える本屋との距離は、相変わらず近すぎる。
感傷に浸る間もなく辿り着いてしまう距離が、もどかしい。
それなのに、余計なことを考えなくても済むくらい近い距離をありがたいとも思ってしまう。
「どうぞ」
なんの躊躇いもなく手を引かれて、私たちの距離はいつ縮まってしまったのかと焦る。
河原くんだけが大きく成長していくことを、肌で感じることができて嬉しい。
でも、成長速度があまりにも早すぎて私はまた一人置いていかれてしまったみたいで寂しい。
「麦茶でいい?」
麦茶を勧めながら、ちょっとした世間話でもしますか的な雰囲気を作り出す河原くん。
河原くんは至って普通で、いつもと変わらない。
いつも通りすぎて、私は抱えている戸惑いをどう処理していいか分からない。
「そんなに緊張しなくてもいいのに」
「お母さんが帰ってこないと、涙ながらに語ったばかりなので……」
「泣かなかったよ、羽澤さんは」
気恥ずかしさが、胸の高鳴りを呼び寄せる。
中学時代は同じクラスにすらならなくて、私たちの間には空白の三年間がある。
三年間どころか、小学生のときだって同じ教室にいただけの顔見知りにすぎない。
九年もの年月、空白を作ってきた河原くんと、こんなにも近い距離で話しができるようになるなんて思ってもいなかった。
「怖いよね、言葉を交わし合うって」
河原くんの言葉に、静かに頷いた。
「嫌われたくないって気持ちがあるのに、羽澤さんから幻滅されたんじゃないかって……怖くなった」
「私も、同じことを思っていました」
高校生が語り合う内容にしては、私たちが抱えている家庭事情はあまりにも重たい。
同い年に背負わせる荷物ではないほどの重さを与え合ったことを、ずっと不安に思っていたのは私だけではなかった。
「重たかったですよね……こんな話、ほかの誰にもできなかった……」
麦茶を用意しているものだと思い込んでいた私は、急に彼が顔を覗き込んできたことに驚いて言葉を失った。
「重たいのは、俺も同じ」
唇に、河原くんの人差し指が触れる。
それ以上、私が言葉を紡がないように。
河原くんは、自身を傷つけるための言葉を止めてくれる。
「今日も、河原くんとお話をしてもいいですか」
すると、彼の人差し指が遠ざかっていく。
もう、言葉を発していいよって合図を送ってくれる。
「俺も、羽澤さんと話がしたい」
「両想いですね、私たち」
深呼吸を繰り返す。
自分の中に溢れる気持ちを言葉にまとめることができるかなんて分からないけど、自分の気持ちには正直にありたいと思えるようになった。
「そういうこと、さらっと言わない」
河原くんが返してくれたことに笑みを浮かべると、ふと薄暗い書店スペースが視界に映った。
段ボールの山が静かに積み上げられていて、以前、海の見える本屋を訪れたときにはなかった圧倒的な存在感に見入ってしまった。
一方の河原くんは麦茶の準備に向かって、この場には寂しい空気だけが居残った。
「本を片付けてるってのもあるんだけど、前の家からの引っ越し荷物も混ざってるよ」
トレイの上に、麦茶の入ったグラスを揺らしながら戻ってきた。
ついこの間までは寒さに体を震わせていた時期もあったはずなのに、小さな氷が音を立てるくらい気候が暖かくなってきたのだと感慨深くなる。
「荷物片づけてると、変わっていくんだなぁってこと……めっちゃ実感する」
言葉に出さなくても、河原くんの寂しさが空気を通して伝わってくる。
「本が好きで、ここに通ってた時期もあったんだ」
「書店って、夢のような場所ですよね」
河原くんは小さな笑みを浮かべようとしたけど、それはすぐに消えてしまった。
「でも、もう戻らないんだなって。本屋での時間も、両親に育てられてきた時間も」
住居スペースにも段ボールが置かれていて、その一つに河原くんは手を触れた。
「失ってから大切なものに気づくって言葉もあるけど、俺はずっと家族のことが大好きだった」
本屋のスペースから、かすかな風が吹き込んできた。
古い紙の香りが広がったようなきがしたけど、それらの香りも一瞬にして消え去ってしまった。
「家族を笑顔にするって夢を持ってたんだけど、俺には、その夢を叶えるのが難しくて……」
海の見える本屋に来るまでのアスファルトの道で、私たちを包み込むかのように広がっている青い空と青い海を見た。
「だんだん笑顔を見せてくれなくなって」
ただただ眩しすぎる、蒼の景色に影響された。
その輝きに手を伸ばしたくても、私たちは輝きの手に入れ方を知らない。
「俺は、家族を笑顔にできなくて」
そんな河原くんに甘えて、私は過去の反省を彼女へと伝える。
「傷つけてばかりだった」
深い悲しみが、彼の声に滲む。
彼の手は段ボールの上でぎこちなく動き、その目は遠くを見つめている。
「その人に振り向いてほしくて頑張ってきたけど、やっぱり自分本位の幸福には限界があるなって」
努力って言葉は、時に残酷だと思う。
達成したい目標のために人は努力を積み重ねていくのに、自分が重ねてきた努力は実を結ぶとは限らない。
「河原くんは、努力を続けてきましたよ」
かける言葉が見つからない。
でも、一言一言を絞り出すように、彼に向かって声をかけていく。
「夢を叶える難しさ、河原くんが一番よく分かっていますから」
相手に、自分の名前を認識してもらうのは高すぎる目標。
それでも、家族だけは自分のことを認識してくれる唯一。
河原くんが家族の笑顔に会うために努力を続けてきたからこそ、彼は今も大好きな家族を手放すことができない。
「両親に、ご家族に、幸せになってほしかったですよね」
あんなに努力をしたのに、あんなものは努力でもなんでもなかった。
河原くんが努力を積み重ねてきたことは確かな事実なのに、河原くんは自分の人生そのものを否定する。
決して、自分を認めようとしない。
「その気持ち、否定しないでください」
マンガやドラマの世界のような、一発大逆転の奇跡は起こらないってことを人は知っている。
河原くんと私は似ているのかもしれないって思っても、河原くんの気持ちを理解できるよとは絶対に言えない。言ってはいけない。
河原くんの気持ちを知っているのは、ほかの誰でもない自分だけだから。
「難しいね」
河原くんは、一瞬だけ目を閉じた。
「大切な人に、幸せになってもらうって」
でも、すぐに瞼が上がり、私たちはお互いの目を真っすぐ見つめる。
重なり合った視線から、私たちは逃げなかった。
「ただ、笑ってほしかった」
逃げられない。
「家族に、ずっと笑っていてほしかった」
逃げたくない。
「それなのに……っ」
離さないで。
離れたくない。
「……河原くん」
段ボールに置かれた手に、自身の手を重ねる。
「羽澤さんを困らせたこと……ずっと謝りたかった……」
泣かないで。
「ごめん……ごめん、羽澤さん……」
泣いてほしくない。
「でも、羽澤さんと再会できて……俺……」
腕を伸ばしたい。
堪えた涙を促してあげたいと思ったから。
「謝らないでください」
でも。
「私を助けてくれて、ありがとうございます」
今、必要なのは。
「私の笑顔を取り戻してくれて、ありがとう。河原くん」
彼に、最高の笑顔を見せることだと思った。
「俺こそ、俺を助けてくれてありがとう。羽澤さん」
彼は、無理に笑うようなことはしなかった。
でも、その言葉は、無理に発せられたものではないことが伝わってくる。
「羽澤さんの演奏で、たくさんの人が笑顔になってたの……すっごく衝撃的だった」
海辺で久しぶりに触れたヴァイオリンの音色は、彼の心を満たすものだったのだと自覚する。
「好きなことで、こんなにもたくさんの人を笑顔にできるんだなって」
彼が過去を回想することで、彼の顔が少しずつ綻んでいく。
「考えたんだよ」
でも、その綻びかけた顔を隠すように、彼は顔を俯かせた。
けど、涙が彼の頬を伝うことはなかった。
「たくさん考えた」
私は言葉をかけることなく、ただ彼の体温に寄り添うように段ボールの上で手を重ねた。
「どうやったら、目の前にいる人を笑顔にできるのなかってこと」
どこかにいる誰かが、私たちの人生を否定する。
どこかにいる誰かが、私たちの人生を肯定する。
それが人生だってことを、私たちは知っていく。
でも、可能性というものは、周りが潰していいものではない。
「俺が笑顔になったら、家族は笑ってくれるんじゃないかとか」
自分が積み上げてきた努力を、身勝手な頑張りだったのではないかと彼は自身を否定していく。
自分を認められなくなってしまったら、自分という存在を認められなくなっていく。
潰れそうな毎日を送ってきた同級生が、傍にいたってことを知っていく。
「鐘木高校に入学できたら、両親は笑ってくれるんじゃないかとか」
小学校の頃に彼と出会って、彼はずっと満面の笑みで多くの人たちを幸せにしてきた。
同じ学校に通ってきた人たちは、河原梓那くんという存在に救われたことがあるのは事実。
でも、その感謝の気持ちが、彼には届いていなかった。
「今までの頑張りって、自分が独りで決めた幸せだったなって」
彼の生き方は、家族に縛られたという言い方をされてしまうのかもしれない。
でも、家族のために頑張ってきた彼の気持ちを否定したくない。
私も、家族を笑顔にするために頑張ってきた一人だから。
「だから、俺がしたいことをやっていこうって」
自分の未来には希望がある。
愛されなかったと感じた過去を抱えながらも、彼は前を向くための言葉をくれた。
「目の前に両親がいなくても、俺が生きることで、目の前の相手が幸せになってくれたらいいなって」
河原梓那として、目の前にいる人を幸せにする。
ただひとつだけの夢に邁進してきた河原くんの夢は、変化を見せた。
彼は自分の言葉で、自分の夢を語ってくれた。
「やっと夢を見つけられたよ、羽澤さん」
河原くんと再会したばかりのときは、こんなにも晴れやかな顔を見られるなんて思ってもいなかった。
「やっと、自分で選ぶことができたよ」
過去の引っかかりが、ようやく取れた。
その引っかかりを外したのは私の力ではなく、河原くんが自分の生きる力を信じることができたからこそ答えを出すことができた。
河原くんが自然に笑えるようになったことが、何よりも嬉しい。
「これからも……俺のこと、見守ってくれる?」
新しく始まる人生に、河原くんが存在してくれることが何よりも心強い。
新しく始まる人生に、私を存在させてくれることが何よりも嬉しい。
「っ、河原くんがどこにいても、私は河原くんに会いに行きます」
溢れ出しそうな涙に気づいた河原くんの繊細な指が、私の瞳から涙を奪い去ってくれる。
だから、私は泣かずに済んでいる。
涙を溢れさせることなく、彼の瞳を見つめることができる。
「限界を決めるのは自分。自分がやれると思ったら、やれるところまで突っ走ってもいいんだよね?」
言葉を交わすことを、私たちは諦めなかった。
それらが未来に繋がったのだと思うと、胸の中に込み上げてくる感情に再び涙腺が揺すられる。
「羽澤さんの夢は?」
他人が向いていない、諦めなさいって言うのは簡単。
でも、その言葉に従いなさいなんて決まりはどこにもない。
「私は、なんとか意地を張って、ヴァイオリンを弾き続けようと思います」
他人の、あなたはこの世界に向いていない。
あなたは、この世界を諦めた方がいい。
そんな通告ほど、辛いものはないかもしれない。
他人から向いていないって評価を下されてしまえば、そこでその言葉たちを受け入れてしまう人は必ずいる。
ああ、自分はここまでの人間だったんだって、大好きなものを諦めてしまう。
だから、育つ環境が与える影響の大きさというものを考える。
「社会人になってからとか、おばあちゃんになってからとか、そういう具体的な年齢は想像もつかないですけど……」
ヴァイオリンを購入する経済的余裕もなければ、習い事としてのヴァイオリンを始めることもできない。
そんな状況であることに間違いはないけど、私は相変わらず音楽の世界が大好きで、音ある世界にしがみついていたいと願っている。
「お父さんが教えてくれた音楽を、これからも愛していきたいです」
他人の言葉を聞いて、尚も努力を積み重ねていける人っていうのは、本当に凄いと思う。かっこいいと思う。
本当にその分野が大好きで、本当にその世界で生きていきたいんだと思わせてくれる。
でも、人類皆、そういう強さを持っているわけではない。
「俺も、羽澤さんの夢が叶うように見守りたい」
また、河原くんの表情が和らいだ。
言葉で表現してしまえば、ただそれだけのことでしかないのに。
ただそれだけのことが、とても嬉しい。
「もちろん羽澤さんが一人で頑張りたいときは、応援するだけにする。でも、見守るから。絶対」
何か特別面白いことがあるわけでもないのに、私たちは笑った。
笑うって、なんかいいなって思った。
何がいいかなんてよく分からない。
ただ、今この時間を心地いいと思った。
「音楽に愛を注ぐ人生、かっこいいね」
「照れちゃいますけど……ありがとうございます」
幼い頃は、天才ヴァイオリニストが現れたともてはやされた。
でも、だんだんと羽澤灯里の名前が残らない世界になりつつある。
プロの世界を諦めて、舞台に立つことから逃げたヴァイオリニストのことなんて、きっと忘れ去られていく。
私のことを好きだと言ってくれた人たちだって、百合宮さんだって、いつかは羽澤灯里を忘れてしまう。
「いつか、お母さんにも聴いてもらえたらなと」
暖かい春風を感じられるようになって、海の見える本屋に吹き込んできた風に心を和ませる。
夢を語るタイミングで吹き込んできた風に、自然と口角が上がる。
「多分だけど、今って、羽澤さんが休む期間なのかなって」
どうぞ、と差し出された麦茶をいただこうと思った。
「俺、天才ヴァイオリニストの羽澤灯里さん、知ってたみたいなんだよね」
けど、河原くんの言葉を受けて、伸ばしかけた手を引っ込める。
「母さんがクラシック好きな人だったみたいで、家に羽澤さんのちっちゃい頃の演奏が残ってた」
私が手を引っ込めたため、河原くんは麦茶をどうぞどうぞと勧めてくる。
「え、え?」
「俺がちっちゃい頃に気に入ってた曲、羽澤さんの演奏らしいよ」
こんなにも都合のいい物語が展開されることに驚きを隠せず、開いた口を塞ぐために自身の口へと指を当てる。
「あんなに素晴らしい演奏する羽澤さんには、休息が必要だなって」
河原くんの口から、素晴らしいという言葉をいただくことができた。
話の流れで出てきただけの言葉だとしても、私の演奏を聞いたことのある彼に言葉をもらえたこと。
少しは誇ってもいいのかもしれないって、自惚れた。
「インタビュー記事とかも残ってて……ああ、ちっちゃい頃から、喋り方も鍛えられてたんだなぁって」
私が丁寧な喋り方をしている理由を、河原くんは見破っていた。
「鍛えられたというか……見様見真似です……同い年の子役さんとかの……」
自分から、夢を諦めると口にしたのは本当。
自分の才能のなさに絶望したのも、本当。
でも、許されるなら、音ある世界にしがみついていたかったのも本当だった。
だから、ずっと、ずっと、丁寧な喋り方を続けて、遠回しに駄々をこねてきた。
「なんで……なんで……気づいちゃうんですか」
「あ、羽澤さん、泣きそうになってる」
河原くんが、意地悪そうに笑う。
その、今、浮かべた笑みは、無理をさせていないか。
そこを見破るほど彼のことを、まだ知らないことが悔しい。
「泣きません」
「ん、羽澤さんが、そういうなら信じる」
でも、彼との間に、無理という言葉が存在しなくて済むように、これからも心を配っていきたいと強く思う。
「母さんは置いていっちゃったけど……俺は、今も羽澤さんの演奏が好きだなって」
「そう言ってもらえると励みになります」
「あ、信じてないでしょ?」
そんなことないって言い切らなきゃいけない。
私は彼の言葉を信じなければいけない。
それくらいのことは分かっているのに、言葉が詰まる。言葉が出てこなくなる。
「ヴァイオリンがすっごく上手い同い年の女の子がいるの」
人の記憶は曖昧になっていくものなのに、その記憶に音楽を残すことの難しさを知っていく。
「それが、母さんの口癖だった」
誰かの記憶に残ることができないと気づいた瞬間が、夢を諦めた瞬間。
「ちっちゃい頃、いっぱい勧められた」
夢を諦める瞬間の痛みを知っているはずなのに、心が始まろうとしているのを感じる。
「同い年の羽澤灯里さんが演奏している姿を」
私が幼い頃に頑張った日々を、こうして記憶している人がいることを河原くんに教えてもらう。
「名前を覚えてなかったのは事実。嘘は吐かない。でも、羽澤さんがいなくなったあとも、羽澤さんの演奏を記憶に残して、羽澤さんの音楽を忘れないようにしてた人がいたってこと。信じてほしい」
嬉しい言葉をいっぱい言われたはずなのに、なんだか現実離れした話を、どう受け止めていいのか分からない。
「こんなこと言われても、他人事だよね」
自分が残した作品に、覚えていてもらえるほどの価値があったのだと泣きそうになる。
「本当に、あの演奏をしていた羽澤灯里さんとは思えない表情」
あのときの、羽澤灯里と私は違うかもしれない。
名前が同じだけで、まったく違う演奏をする二人かもしれない。
過去を生きる私と、今を生きる私は別人かもしれない。
それでもやっぱり、彼がくれる言葉に心が動かされる。
「自信、持って」
人の記憶なんて脆いもので、覚えていようと頑張ったところで忘れてしまうものは忘れてしまう。
それなのに、私の音楽を記憶に残そうとしてくれた人がいるっていう奇跡のような話を河原くんが教えてくれる。
「どっかの段ボールに証拠、残ってるんだけど……」
「持ってきてくれたんですか?」
「なんか、運命感じない?」
そんな、益々、惚れこんでしまいそうになる笑顔を簡単に見せないでほしい。
そんな簡単に、私の心も掴んでしまわないでと思う。
(でも、嬉しい)
戸惑ったように唇を噛んだけど、河原くんの笑顔が私の心を揺らす。
「河原くん」
「ん?」
いただいた麦茶を飲み干して、私は勢いよく立ち上がった。
一緒に麦茶を飲んでいた河原くんを驚かせてしまったことは申し訳ないけど、これくらい勢いをつけないと立ち上がれないような気がしてしまった。
「海、行きませんか」
雲ひとつない春空に、会いたくなった。
立ち上がった理由は、ただそれだけ。
厳しい冬を越えた春の、澄んだ青色の空に会いたい。
「鐘木高校に合格した特権だね」
「すぐそこが海って、なかなかないですよね」
忘れられてしまうことって、意外と怖いものだなって思っていた。
でも、もう俯くことはないのかなって、ほんの少しだけ自信が生まれた。
「羽澤さん、音楽馬鹿すぎて、碌に青春送ってこなかったでしょ?」
ずばりと指摘されたことに、反論する術も見つからない。
「俺が、青春ってものがなんなのかを伝授してあげよう」
「ふふっ、なんですか、その喋り方」
体中の血液が、私に暑さを訴えてくる。
初めての経験ってものに、心が動かされていく。
「これが、春の暖かさ」
「あったかいですね」
この暖かさを意識したことはあるのかって問いただしてくるような春の風に、自分の体が負けそうになる。
春の空気が駆け巡る中、大きく息を吸い込んだ。
広がる大空に目を向けるだけで、ほんの少しだけ目が潤んでしまう。
(綺麗すぎるのかもしれない)
この、蒼い空が。
「空って、こんなにも綺麗だったんですね」
「……綺麗だよ。俺も、そう思ったこともなかったけど」
空は誰にでも平等に与えられるものなのだから、空を見たことない人なんていない。
だけど、空を見て何も感じない人。何も感じることができない人。何かを感じる余裕がない人は大勢いる。
平等に与えられているものが、そのまま受け取られているかといったら、そうではない。
「私も空を美しいと感じるようになったの、つい最近の話です」
音楽の世界で生きることができた時間と、勉強に費やした日々を後悔しているわけではない。
ただ、河原くんと再会してからの日々は毎日が新鮮で、視界に映り込むすべての光景が脳裏に焼きついたまま離れない。
河原くんと再会する前と視界に入れているものに大きな差はないはずなのに、視界に入るすべてが初めてのもののように思える。
まるで、別の世界に来たような感じ。受験のときには気にも留めてこなかった、自然の移り変わりを河原くんと一緒に体感していく。
「俺は、音楽に夢中になってた頃の羽澤さんも大好きだよ」
「……ありがとうございます」
大好き。
その言葉に、怯えてしまいそうになる。
その言葉に、とてつもなく大きな喜びを感じてしまいそうになる。
その言葉に、ずっとずっと縋っていきたいなんてことを思ってしまう。
「河原くん」
「うん」
そんな素直に『うん』なんて言葉を送られてしまっては、私は上手く言葉を組み立てられなくなってしまう。
何から話そう。
何から伝えよう。
何を、どんな言葉で河原くんに受け取ってもらえればいいのかを考える。
「もう少しだけ、河原くんとお話がしたいです」
「俺で良かったら」
この優しさに守られていると、独りになったときに怖気づいてしまうと思う。
それでも、河原くんと過ごす日々の中から、未来を生きる強さを見つけられるようになりたい。
「ちゃんと言葉、交わさないとかな」
河原くんの横顔を見ていたときには気づかなかったけれど、ふと彼の表情を視界に入れると……彼が向けている視線に違和感を抱いた。
「あ……」
河原くんの視線が、もうすぐで青い色を失ってしまう空に向かっているような気がした。
単に前を向いているだけと言われればそれまでだけど、前方を真っすぐ見ているように思えなかった。
「空……」
「ん?」
蒼い空を、見ているような気がした。
「河原くんは」
なんとなく。
なんとなくだったけれど。
そう思った。
「空、好きなんですか」
気づけば、私たちは足を止めていた。
河原くんを見つめることすら躊躇っていたはずなのに、ごく自然な形で私たちは向かい合うことになった。
思い切り逸らすこともできた視線を逸らすことなく、河原くんの瞳を真っすぐ見た。
「空?」
「え、あ……」
話題を探す。
必死になって探す。
河原くんを見つめていましたと釈明するだけでは、変な子の印象しか与えかねない。
明日も明後日も学校で会う仲なのに、そんな印象を彼に与えるわけにはいかずに焦る。
「河原くん……空が……好きなのかなって思って……」
考えた結果が、この話題だった。
「羽澤さんは?」
「私ですか?」
質問を質問で返されるとは思っていなかったうえに、この質問は自分が答え辛い質問だということを『思い出した』。
「昔は……大嫌いでした……」
太陽の色と空の色が混ざり合った蒼さが。
だけど、今は眩しすぎる空の色が苦手だった。
惨めになるから。自分が。
空の世界は綺麗に映るのに、自分が生きている世界はまったく美しくなかったから。
「今は好き?」
「あっ……あの、はい。むしろ、綺麗なものほど惹かれるかもしれません」
「なんでこんなに感性、似てるんだろうね」
好きと言葉にすることに照れて俯きそうになったけれど、顔を上げて、河原くんの顔を見た。
河原くんの視線は、青い色を失い始めている空の向こう側。
もうすぐで、青い空が終わりを迎える時刻が近づいている。
「こういう綺麗な空を見てると……」
河原くんの視線は逸らされることなく、空の向こう側にあった。
「昔あった嫌なこと、思い出す」
空の色が変わり始める瞬間に立ち会っているせいかもしれない。
春の空が、今までと違う哀しい色を映し出す。
「悪い、暗くなっちゃったなって。気分悪くない?」
彼の声を聞くと、あ、私はやっぱり彼の顔が見たいって思う。
「気分が悪くなるようなら、私はここにいませんよ」
この場に、河原くんと言葉を交わすことができる相手は私しかいない。
彼が私のことを気にかけるたびに、彼の視線が私に注がれていく。
「話が下手なところは、申し訳ないですが……」
歩を、進める。
「羽澤さんは、ピアサポート部員でしょ?」
止めていた足を動かす。
そんな、反則。
「っ、はい! 私は、音楽教諭、目指します!」
彼が私の前を歩けば、私は彼と目を合わせずに済む。
でも、置いていかれたくないと思った。追いかけたいと思った。
河原くんから許可が下りる前に、私は彼の隣へと並んだ。
「だんだん、音に触れる機会が減ってしまうんだなってことに寂しさを抱いたのが、教師を目指すきっかけでした」
最初は、天才ヴァイオリニストという肩書から逃げるため。
でも、高校に入学すると、音楽は選択科目という扱いになることを知る。
音楽を履修しない人たちが増えてきて、音楽の授業は中学で最後だったって人もいるってことを知っていく。
それが、音楽の教師への道に進みたいと思い始める理由。
「音楽に触れる最後の時間が、素敵なものになるように力を貸せたらいいなと思いました」
授業以外のところでは、多くの音に触れていくと思う。
大好きなアーティストを見つけて、大好きなアーティストを推していく。
好きな楽器を見つけたり、自分で声を発する楽しさを知って、習い事としての音楽に親しみを持つ。
それが、残された人生の中で楽しむ音楽のかたち。
「生徒が、周りを敵だと思わずに済むように……」
「敵?」
「未来の幸せを奪い合う敵、です」
河原くんと隣り合っているだけで、私たちの視線は交わらないまま。
でも、隣り合うことを許してもらえたことが嬉しすぎて、私は自分の気持ちを隠さずに話すことができるようになった。
「私はずっと、周りが敵だと思っていました」
中学受験を経験しなかった私は高校受験を通して、人が選抜されるという現実を知った。
高校に合格した人だけが幸福を受け取ることができるんだと思い込んでいた私は、上手く笑うことすらできなくなった。
「未来に待っている幸せの量は決まっていて、それを奪い合っていると思っていたんです」
友達の作り方も分からなくなって、友達と言葉を交わし合っている中でも上手く笑う自信がなくなった。
「敵は、いなくなった?」
「多分ですけど、敵ってものは、ずっと存在し続けるものなのかなって」
きっと私たちは、これから何回も、何十回も、何百回も、選抜されていくのだと思う。
「永遠に、敵を排除することはできないのかなって」
今は大学受験や就職活動くらいしか浮かばないけれど、世界はより良い方が選ばれるっていう現実と私たちは向き合わなければいけない。
「でも、選ばれないからって、そこで人生は終わりませんよね」
「確かに」
私の背中を、真っ先に押してくれる理解者がいる。
それって、こんなにも心強いことだと自身の経験を通して知っていく。
「幸せを奪い合う人生にも、終わりはない。だったら、新しく幸せを作る必要があるのかなって」
賞賛の声も、未来を約束されたかのように寄せられる期待が嬉しかったときもある。
けれど、それらの声は次第に、自分の中の空白を広げるきっかけとなった。
「幸せになりなさいって言葉、正直、無責任だって思うこともありました」
世界中の輝きを集めたような人生を送る人がいる一方で、どこか空虚感漂った毎日を送る人もいる。
自分だけが取り残されたような感覚に陥ったことがあるからこそ、自分の幸せを見つけるのも作り出すのも自分だけだと気づくことができた。
「その、幸せになる方法が分からないから、困るんです。悩むんです。苦しいんです」
ただ、一歩踏み出さなければ、私の時間は止まったまま。
ずっと、困ったまま。だと、遥はなんとなく感じていたのだった。
ずっと、悩んだまま。
ずっと、苦しいまま。
「でも、自分を幸せにしたい。幸せになりたいって気持ちは消えない。だったら、幸せになること、諦めていられないなって思いました」
ピアサポート部員のような、それらしい言葉を紡いでいく。
「未来に待っている幸せが、無限であるといいなって」
不安定としか言いようのない私の言葉を見守るように、春の空に柔らかな紫色が広がっていく。
「幸せを奪い合うのではなく、その先、その先で、幸せを見つけていくことが大切なんだって」
遠くからは鳥たちの鳴き声が、そよ風に乗ってくる。
青春らしい世界が広がっているのに、その青春らしい日々を自分は送ることができるかという不安は尽きない。
「見つけたいな、幸せ」
波打ち際で、光が煌いた。
彼の言葉に反応するようなタイミングで、寄せた波が沈みかけた太陽の光を抱き締めたことに気づく。
「羽澤さんと敵になったら、勝てる気がしないから」
茶化すような言い回しをしてくるのが、記憶の中にいる小学生の彼と重なる。
「河原くんの敵が、少なくなりますように」
波音にかき消されてしまうくらい小さな声だったはず。
周囲の騒音に飲み込まれてしまったって可笑しくないのに、隣に並んでいた彼が私の顔を覗き込んできた。
「みんながハッピーエンドとか、憧れるね」
潮風が、髪を撫でる。
後悔のない人生を送りなさいと言われても、みんなが後悔のない人生を送れるわけない。
現実を知り始めている私たちを叱咤するためなのか、現実を知っている私たちを慰めるためなのか、風が溢れそうになる涙を攫うために吹き抜けていく。
「敵との闘いが終わっても、ちゃんと笑えるようになりたい」
河原くんの瞳が潤んでいるようにも見えるけど、彼は彼のまま。
決して、泣かない。
追いかけ続けたくなるほどのかっこよさを、今日も彼は魅せてくれる。
「羽澤さんと話してると、落ち着く」
真正面から、声が届けられる。
優しい声。
優しすぎる声が、私のことを呼ぶ。
「好きだな、羽澤さんのこと」
彼の瞳を見たい。
でも、躊躇う。
でも、見たいと思った。
そんな不可解な言動を繰り返していた私は、今ではいとも簡単に彼を真っすぐに見つめられるようになる。
「河原くん、優しすぎます」
彼は、きっとこういう人。
同級生の面倒見が良いどころの話ではなく、心の底から優しい人。
突き放してくれたっていい。
今まで起きたことを、冗談で済ませたっていい。
それなのに、返ってくる言葉は私を気遣うもの。
「私も河原くんみたいに……」
彼が、笑ってくれている。
気を遣って、穏やかな笑みを浮かべているだけかもしれない。
けど、彼が優しい眼差しで私を見守ってくれることに安心した。
瞳から溢れ出そうになる雫を堪えながら、なるべく口角を上げた笑顔で彼と向き合う。
「誰かを勇気づけることのできる人になりたいです」
今は、無理矢理に作り込んだ笑顔かもしれない。
でも、いつかは彼の前で、自信を持って自然な笑みを向けられるようになりたい。
「何か特別なことなんてしてないのにね」
向けられた言葉は悲しいものに思えたけど、彼は優しい笑みを浮かべてくれた。
もうすぐで色を変える太陽の光が、私たちの顔を綺麗に飾る。
「ただ、そこにいただけ。それだけが、俺にできる唯一……」
「そうやって、自分に自信をつけていくのかなって思いました」
高校の卒業を待たずに、進級するだけでも私たちは新しい人に巡り合っていく。
新しく出会う人に素直な気持ちを伝えられるかといったら、それは難しい。
それでも次から次へと新しい出会いはやってきて、私たちは自分にできる何かを探していく。
「だって、ただそこにいるってことが、こんなにも大きな力を与えたじゃないですか」
今後は逃げることなく、彼に向けての気持ちを叫ぶ。
「私を幸せにしたってこと、覚えていてください」
胸の高鳴りを抑えきれず、波打ち際を歩き出す。
そして、彼がいる方向を振りむく。
「その経験を、河原くんの自信に」
同じ学校に通う同士として、教室でなんとなく視線を交わすだけだった彼が目の前にいる。
彼の存在に何度も助けられたことを思い出すと、胸が熱くなるのを感じた。
「私と出会ってくれて、ありがとうございます」
叶えたい夢が生まれたところで、未来でその夢を実現できるかどうかは分からない。
どんなに頑張りましたと言い張ったところで、周囲が私たちを必要としてくれなかったら夢を実現させることはできない。
だからこそ、手を差し伸べる。
「河原くんと一緒に、頑張って生きたいです」
太陽の光が次第に傾き始め、淡い青色の空は少しずつ朱色へと向かっていく。
「河原梓那くん」
好きという想いを込めて、私は彼の名前を呼んだ。
「私は、何度も会いに行きます」
私たちの人生に光が照らさないときもあるのに、世界はずっと美しさを保っているなんて狡いと思うときもある。
「必要でなくなる、その日まで。必ず、会いに行きますから」
でも、その美しさが保たれたままだからこそ、顔を上げたくなる衝動に駆られるときがある。
その美しさから逃げたくなるときがあるのも事実だけど、その美しさに手を伸ばしたくなるときがあるのも本当。
どれも、本当の私だからこそ、自分を受け入れることから逃げたくない。
「覚えていたい」
そっと、手が触れる。
「羽澤さんのこと、ずっと覚えていたい」
そっと、手が握られる。
「羽澤さんと見つけた言葉」
そっと、手を握り返す。
「羽澤さんと見つけた景色」
そっと、指を絡める。
「羽澤さんと見つけた感情」
自分の人生は自分だけのものといっても、その人生には関わってくれる人がいる。
全員が幸せのハッピーエンドは望めないとしても、登場人物全員が幸せになれるようなハッピーエンドのために努力は続いていく。
「羽澤さんを、大切って気持ち」
彼の背後に広がる空に、薄紅色の雲を見つけた。
太陽に別れを告げるように、形を変えていく雲が視界に入った。
でも、私たちの関係は別れで終わらせたくない。
「羽澤さんを、好きって気持ち」
砂浜を歩き続ける私たちの足跡が、波にさらわれるたびに消えていく。
でも、私たちの関係は消えてほしくない。
「受け取ってもらえる……?」
彼の手が震えることのないように、しっかりと彼の手を握る。
「私も、河原くんのことが大好きです」
波が足元に打ち寄せ、私たちは歩みを進める。
未来は果てしなく広がっているはずなのに、いつまで経っても未来はぼんやりとしている。
「俺も、逃げない」
互いの瞳が、揺らいでしまっていないか。
確かめようがないから、困ってしまう。
「今の人生、ちゃんと挑んでみせるよ」
精いっぱいの、笑顔。
精いっぱいが、いつか自然なものになるように。
「こんなの、俺らしくないかな」
「河原くんは、今も昔もかっこいいです」
「褒められると調子に乗っちゃうよ?」
「調子に乗ってください」
幼い頃からずっと一緒にいる私たちだけど、まだ数えられるほどの日数しか言葉を交わし合っていない。
たったそれだけの付き合いしか重ねていないはずなのに、私たちは新しく互いの良いところを知っていく。好きなところを見つけていく。
そして、いずれは嫌いなところも視界に入れてしまうようになる。
それは人間としてごく自然な流れで、誰も逆らうことができない。
「羽澤さんの心の傷も……」
「心って……少し大袈裟では?」
「心の傷も、深刻な傷のひとつ」
衝突するか、理解するか、避けて逃げるという選択肢が再び訪れるのか。
私たちは、これからどういう人間関係を構築していくのか。
「心の傷も、喜びも、幸せも、俺に分けてくれたら嬉しい」
「河原くんのも、ですよ」
「うん」
私たちは命ある限り、自分たちにできることを精いっぱいやっていく。
「俺たち、太陽に見られてる」
「え?」
これ以上の光はいらないってくらいの輝きを放つ太陽が、私たちの体温をどんどん上昇させていく。
「今日も、空が凄く綺麗だね」
「私も、同じことを思っています」
自分の気持ちに嘘を吐かないための、最終人生が始まっていく。
【了】



