「ありがとう……」

 感謝の言葉と共に、私は河原くんの腕の中から解放される。
 もう、私は河原くんに触れることは許されない。

「じいちゃんが来たら、ちゃんと送るから」

 夢を諦める喜びなんて、知ってほしくない。
 一人でも多くの人に、大好きなものを手放す喜びを与えないようにしたい。
 そんな想いを抱えながら、溢れ出しそうになった涙を堪えながら河原くんを見た。

「なんで、羽澤さんが泣きそうになってるの?」

 涙は溢れていないけれど、瞳が涙で揺らいでしまったのかもしれない。
 河原くんの人差し指が、私の目元の涙を拭うように触れてくる。
 でも、どんなに彼の温かさを知ったからといって、涙を溢れさせたくないと手に力を込める。

「泣いてません。泣いてませんからね」
「そういうことにしておく」

 少しだけ、ほんの少しだけ、河原くんの口角が上がったような気がした。
 昔のような、朗らかな笑みというのが難しいのは分かってる。
 それでも、彼が背負ってきたものが、ほんの少しでも軽くなっていることを願った。

「ありがとうございました」

 家まで送り届けてくれた河原くんたちに、深く頭を下げる。
 他人を送り届けている暇なんてないはずなのに、他人を気遣ってくれた二人への感謝の気持ちを込める。

「また明日」
「はい、また明日」

 また、明日。
 どこか遠くにいってしまいそうな儚い空気をまとう河原くんから、明日があることを示す言葉が返ってきたことに胸が温かくなる。
 その温かさを抱き締めながら、玄関の扉へと足を運んでいく。

(お母さんに心配かけないようにしないと)

 平気なフリをしないと、心配されてしまうから。
 大丈夫、って声をかけられてしまう。
 周囲から心配されないためにも、人は大丈夫だって嘘を吐きたい。

「あ……」

 いつの間にか夜空を覆っていた雲が晴れて、月と星の光が真っ黒な空に溶け合う瞬間を見つけた。
 受験が終わってから、こういう自然の美しさに気づくようになった。
 どれだけ余裕のない生き方をしてきたんだと言われてしまえばそれまでだけど、そんな季節や景色の移り変わりを楽しむことができないくらいの人生を歩んできたということ。

(お母さんも、星、見たかな)

 河原くんと再会することで、ようやく日々の変化ひとつひとつに気づくことができるようになった。
 教員を目指している人間が、今更の感覚を知ることをほんの少しだけ虚しいなって思う。

「…………河原くんの頑張りが、好きだよって……伝えたかったな……」

 この景色を見て美しいと感じても、これから素晴らしい感動と出会ったとしても、それを共有する相手が今はいない。

(頑張れ、私……)

 自分が挫けている間にも、河原くんは頑張りを続けていく。
 私だけが取り残されて、私の時間だけは止まったまま。

「止まりたくない……止まりたくないよ……」

 私だって、先に進みたい。
 どんなに年齢を重ねたって、前に進みたいって気持ちを止めたくない。
 自分がピアサポート部員に向いていない性格だなんてことは百も承知している。

(でも、私は選んだ)

 自分で選んだ道を、自分が否定するわけにはいかない。
 目標としている職があるのなら、それに近づく努力をするのが私に与えられた生き方だと言い聞かせる。

「ただいま、お母さん」

 家に帰るのが遅くなるという連絡はしたものの、予想以上に帰りが遅くなってしまった。
 お母さんに心配をかけてしまったのではないかと急いで靴を脱いだけれど、その動作は途中で止まった。

「お母さん……?」

 目を凝らして、リビングに繋がる扉を見る。
 部屋には明かりが灯っていないと気づき、ふとした不安が心を締めつける。

「お母さん、ただいま……」

 リビングに広がっていたのは、予想通り暗闇と静寂。
 お母さんが私を出迎える気配もなく、お父さんと過ごした我が家は家族の温もりを失っていた。

(今日、帰り、遅いのかな)

 スナック勤めをしていることもあって、お母さんの帰りは基本的に遅い。
 家に誰もいないからといって心配する必要はないはずなのに、今日だけは息を潜めたように静まり返った自分の家に不安を覚えてしまった。

(メッセージは……)

 友人に付き添って、病院に行くというメッセージは既読になっている。
 これはお母さんが了承してくれた証でもあるけど、そのあとにメッセージは何も続いていない。

(お店に泊まってくるのかな)

 何も心配する必要はないと頭では分かっていても、何度も家の中を見回してしまった。
 不安の波がじわじわと押し寄せてくるのを感じても、その波に飲まれてしまいそうで怖くなる。

「大丈夫……だよね」

 誰もいないリビングに零れる独り言。
 喉が乾くような感覚があるけど、飲み物を探しにいく元気がない。

(松田さん……)

 胸がざわめく。
 五番目のお父さん候補だった松田さんを家から追い出した日のことを思い出して、嫌な予感が体を駆け抜ける。
 お母さんがまだ不倫相手への恋心を引きずっているのなら、娘よりも不倫相手を優先してしまっても可笑しくない。

「松田さんの連絡先……」

 お母さんの不倫相手の連絡先を知っている自分が嫌になって、スマホの電源自体を床に落とした。
 家族ぐるみで不倫に加担していたと思い知らされ、益々、不倫相手に連絡することを拒んでしまった。
 それだけ親しい付き合いをさせてもらって、それだけ生活費を援助してもらえる関係になってしまったことに絶望した。

(朝になれば……朝になれば……)

 何も考えたくない。
 そんな気持ちに駆られた私は、明日の予習を休んでベッドに横たわってしまった。
 明日になったら予習しなかったことを後悔する自分が目に見えているのに、何も考えたくない気持ちの方が勝ってしまった。

(お母さんの顔を見れば……)

 お母さんに会うことができたら、それだけで勉強する意欲は回復する。
 きっと元通りの生活を送ることができると期待を込めて、私は眠りに落ちた。

「……ん」

 目覚まし時計の音が、次の日が来たことを知らせる。
 窓の外から太陽の光が差し込む時間になったことに気づいて、私は急いでベッドから体を起こした。

「お母さんっ!」

 寝起きの声は、どこかかさついていて可愛くない。
 それでも、覚醒した脳には不安が芽生え始める。
 その不安を安堵に変えるため、私はお母さんの顔を見るためにリビングへと向かった。

「お母さん、おはよう」

 そこに、私が大好きな家族の姿はなかった。
 食卓には誰の気配もなく、冷えた空気が流れている。
 その異様な静けさに、思わず立ち尽くしてしまった。
 お母さんとの何気ない日常が遠い過去のように思えて、今日から私は独りで生きていかなければいけないという巨大な恐怖に陥った。

(なんで、メッセージがないのかって考えたら……)

 お母さんが家に帰ってこないのは日常茶飯事のため、警察に連絡するのは時期尚早だった。
 私にできることは、ちゃんと学校に行く。
 自分で自分の足を奮い立たたせて、何も起きていない風を装って授業風景に馴染んでいく。

(やっぱり……松田さんのとこ……)

 帰りが遅くなったり、お店で泊まってくるようなことがあれば、必ず連絡をくれていた。
 お母さんからのメッセージが途絶えてしまったということは、それ相応の事態を覚悟しなければいけないのだと唇をぎゅっと結ぶ。

「次の訳は……」

 英語の予習を休んでしまったことを悔やんでも、もう流れしまった時を戻すことはできない。

「羽澤さん」

 先生に指名されたくないと願っているときに限って、教科書の訳を任されてしまった。
 怒涛の勢いで進んでいく英語の授業だったけど、生徒が指名されたときだけは一瞬の休みを得られる。
 私以外の生徒はペンを置いて、一息吐く。
 私は教科書に目を落とすけれど、初めて見る英単語を前に成す術なし。
 意味が繋がらない単語たちを前に、声を振り絞る。

「すみません、わかりません……」

 先生の口元が、大きく歪んだのを見逃さなかった。
 さすがに溜め息を吐かれるようなことはなかったけど、生徒への期待を裏切られたような冷たい視線が私に突き刺さる。

「ちゃんと予習しないと、駄目だからね」

 駄目という短い言葉が吐き出され、先生は別の生徒に視線を移す。
 まだ高校一年が始まったばかりなのに、先生に見放されたような感覚に胸が押し潰された。
 この恐怖と一年間も闘わなければいけないのだと思うと、明日以降の英語の授業に憂鬱さしか感じなくなる。

(できてないの……私だけ……)

 中学のときとは比べ物にならないくらいの速さで進んでいく授業に戸惑っているのは私だけで、クラスのみんなは付いていっているように見えた。
 みんなが出来るような顔をして、私だけが取り残されているような感覚に陥った。
 陥ったのなら這い上がらないといけないけど、その這い上がるための手段すら私は見つけることができない。

(このままだと、推薦も奨学金も……)

 県内に、教諭免許の資格を取ることができる大学は一校しかない。
 鐘木(しゅもく)大学に入学することが唯一の夢を叶える手段なのに、入学して数週間程度で挫折しかかっている。

(県外に出たら、お母さんは……)

 子どもを自立させるために、子どもは早くに実家を出た方がいいと言っている人がいた。
 それは、確かにそうなのかもしれない。
 大人が言うのなら間違いないかもしれないけど、両親の傍で、両親を支えたいと願う子どもはどうしたらいいのか。
 そんな願いを持つ子どもは、みんな碌な大人にならないのか。

(お母さんの傍にいたい……)

 三十代、四十代、それ以降になって、ようやく後悔するときが来るのかもしれない。
 でも、高校一年生の私は、お母さんの傍にいたいと願っている。
 そんな子どもの願いは、世間からしたら悪ということで片付けられてしまうのかと思うと怖い。
 ただただ、怖い。
 実家を出ようとしない私は、碌な大人にならないと決めつけられているような気がして怖くなる。

(お母さんが、松田さんを選んだら……)

 未だに家に帰ってこないお母さんのことを考えると、私は自由の身というものになれるのかもしれない。
 好きに未来を選択することができるようになるけれど、経済力が伴っていない私は抱く夢にも限界がある。

(お母さんが帰ってこなかったら、就職の相談……)

 ピアサポート部の顧問である深野先生の元を訪れようと廊下を歩いているのに、視線がだんだんと下を向いていくのが分かる。
 このままでは足が止まってしまって、目的の教室まで辿り着くことができないかもしれない。

「私も音楽が良かったなー」
「音楽って、楽器経験者だと優遇されるらしいよ」
「あ、だから私、選択で落とされたんだ……」

 廊下には同じ学校に通う人たちの笑顔が広がっていて、無邪気な笑い声や弾む声を耳にしていると、これが理想の高校生活だったなってことを思い出す。
 誰にだって悩みがあると頭では分かっていても、輝かしい高校生活を送るみんなが遠い存在に思える。
 私だけが生きることに必死にもがいているように思えて、益々、視線が下を向いていきそうになった。

「…………」

 完全に廊下の床と睨めっこをする前に、視界の隅に何かが引っかかった。
 ふと顔を上げると、英語教諭室の前で英語の先生とはなしを教師としている河原くんのようすが何やら目に入った。

「あ、羽澤さん、おはよ」
「おはようございます……」

 そのまま通り過ぎても良かったのに、彼は私の存在に気づいてくれた。

(はた)先生の授業、わかりやすいって聞いて」
「だーかーらー、河原さんを教えてないのに英語を教えるのって、ほんっとに立場が悪くなるから」
「少しだけ。生徒を助けると思って」

 目の前にいる端先生には、私もお世話になったことがない。
 先生の言う通り、どんなに端先生の教え方が良くても端先生の立場が悪くなるのは本意ではない。
 そうは思っているものの、目の前の端先生という先生は河原くんを無視しなかった。

「羽澤さんも、一緒に質問してみる?」

 河原くんの表情が、ほんの少し柔らかくなったような気がした。
 昔のような柔らかさを取り戻しつつある河原くんに期待した私は、河原くんの誘いに導かれるまま端先生の元へと歩み寄った。

「俺が英語の先生たちから省かれるようになったら、河原さんと羽澤さんのせいだからな」

 私は、まだ名前を名乗っていない。
 それなのに、河原くんが発する言葉を端先生は聞き逃さなかった。

「で、どこがわからない?」

 教科を教える先生は厳しい人ばかりで、誰を頼ることもできないと思い込んでいた。
 でも、穏やかな目元に笑い皺が刻まれた端先生に、一気に親しみを感じた。

「ここは……」

 眼鏡の奥にある瞳は、どこか温かい。
 敵の数が圧倒的に多いと思っていた鐘木高校で、一人一人の声に耳を傾けてくれる先生がいることに目を丸くする。
 ピアサポート部の顧問の深野先生からも授業を習ったことがなく、授業を習ったことがない先生とは距離を取りがちだった。
 でも、こうやって生徒に手を差し伸べてくれる先生がいることに心から込み上げてくる感情があった。

「羽澤さんは、今、どこやってる? 河原さんの教科書借りて……」
「っ」

 厳しい先生方の言葉に押し潰されそうになっていたけれど、先生の笑顔が息を整える余裕を与えてくれる。

「羽澤さん? どした? 体調でも悪……」
「河原くん……」

 どうしようもない孤独感と窮屈さ。
 これが自分の選んだ高校だと言われれば、孤独も窮屈さも耐えるしかないと思っていた。

「助けて……ください……」

 太陽が顔を出すような時間帯なのに、自分の笑顔はちっとも晴れやかではなかった。
 震える声で口を開くと、河原くんと端先生は私のすべてを受け止めるように話を聞いてくれた。

「大丈夫、大丈夫だよ」

 大丈夫って言葉は、何を根拠にと問いただされてしまうこともある。
 でも、河原くんがくれる『大丈夫』って言葉には無限の力が込められているような気がした。

「心臓、痛いです」
「うん」

 放課後、河原くんに付き添われながら自分の家へと向かった。
 端先生を通してピアサポート部の深野先生にも話が伝わり、今日は部活を休んで家庭の事情を優先することになった。
 お母さんの職業も考慮して、本当にお母さんが帰ってこなかったときは学校に相談することを約束した。

「入学してからずっと根詰められたら、担任に相談できるものもできないなって」

 バスに乗っている間、河原くんがずっと手を繋いでくれた。
 私からお願いしたわけでもないのに、私たちの手は自然と繋がった。

「なんか……高校の先生、みんな、敵みたいに見えて……」
「俺も家庭の事情、話したくない先生ばっか」

 先生たちも、生徒の敵として立ちはだかったわけではないはず。
 生徒のことを最優先に考えてくれているはずなのに、いつしか先生たちの目線を冷たいものに捉えるようになっていく。

「羽澤さんが、独りで抱えなくて良かった」

 胸に込めていた思いが綻んだ瞬間、涙が溢れそうになった。
 誰かに相談することで、感じられる温かさがあるということを初めて知った。
 その温かさを伝えるために、私は鐘木(しゅもく)高校ピアサポート部を続けたい。
 一年後の未来は見えてこないけど、そんな気持ちが生まれるようになった。

「ピアサポートの部員として頑張る羽澤さんは、すっごく素敵だけど」

 河原くんの優しい声が、張り詰めていた気持ちを少しずつ緩めてくれる。

「他人を助けなきゃって想いに駆られた、お人形さんみたいだったから」

 独りで家に帰っていたら、きっと私の指先は熱を失っていたと思う。
 でも、彼が手を繋いでくれるから、私は熱を逃がすことなくいられる。

「他人を頼ったところで、何ができるんだって思うときもあるけど」

 人は、独りで生きていくことはできない。
 だからといって、他人を積極的に頼ろうとはならない。なれない。

「羽澤さんが、他人を頼れる人で良かった」

 でも、彼は魔法のような言葉をくれる。
 本当に魔法ってものがあるんじゃないかって思ってしまうほどの優しさに包まれて、少し油断すると涙を流してしまいそうになった。唇を結んで、踏ん張ってみせる。

「ちゃんと声、出せる人で良かった」

 優しい言葉を前に涙を流すことは簡単だけど、踏ん張って、耐えた。
 お母さんを笑顔にしたいって夢の先に、まだ秘めた夢がある。
 その夢を叶えたいから、自分の足に力を注ぐ。

「こんな俺を受け入れてくれたんだから、羽澤さんには……」
「河原くんが、自分のことを否定しそうになったら」

 繋ぐ手に、力を込める。

「こんな風に……そんなことないよって伝えます」

 泣きたくなるような衝動に駆られているけど、私たちは顔を上げた。
 少しでも油断すると重苦しい空気が流れると知っているからこそ、私たちは顔を上げて、互いを視界に映して、視線を交えた。

「私たちの未来は、大丈夫です。きっと、何も心配することない……はずです」

 なるべく声は穏やかに。
 繋いだ手に、ぎゅっと力を入れる。
 そして、震えそうになる唇をきゅっと結んだ。

「うん、俺たちの未来は、きっと大丈夫」

 河原くんの言葉を最後に、繋ぎ合った手が自然と離れる。
 鍵を開ける手に躊躇いを感じるけど、その躊躇いを振り払うように意を決する。

「お母さん、ただい……」

 家の中に待っているのは、静寂ではない。
 そう信じて、玄関の扉を静かに押し開いたときのことだった。

「ごめんね、ごめんね、灯里(あかり)……」

 扉を開くと同時に、私を出迎えてくれた人がいた。

「お母さ……」

 そこに、確かな温かさが存在した。
 私を抱き締める母の姿に、息を呑んだ。
 母の温もりを通して、これは幻ではない。
 これは現実だってことを、体が、脳が、受け入れていく。

「お母さ……ん」

 期待は裏切られるものだと思っていた。

「ごめん、ごめんね……」

 いつも、期待なんてものは裏切られてきたから。

「お母さん……っ!」
 言葉にならない想いを伝えるように、母の胸に縋りつく。
 温かな腕に包み込まれ、母の温もりを記憶に焼きつけていく。

「どうして、どうして……」

 どうして、帰ってこなかったの。
 そう言葉を繋ぐはずだったけど、それらは答えが返ってくる前に答えを知っている。
 私に、幸せになってほしいから。
 私に、より偏差値の高い学校で学んでほしかったから。
 より良い教育を受けさせるために、お金が必要だったから。

「っ」
「ごめん……ごめんね、灯里……」

 お母さんの声は、不安を隠しきれないかのように震えていた。
 お母さんだって、生きていくのに不安だってことが伝わってくる。

「お母さんと、一緒にいたい……」

 お母さんは、私をしっかりと抱き締めてくれる。
 お母さんの小さな体が痩せ細っているのに気づくけど、その細さを支えるだけの力がまだ私にはない。

「お母さんと一緒が、いい……」

 私の髪を撫でながら、お母さんは何度も何度も頷いてくれた。

「私も……灯里といたい……」

 お母さんの鼓動が聞こえるたび、母からの愛情を胸いっぱいに感じた。

「灯里の、お友達……?」

 母の温もりに甘えていた私は、お母さんの顔も彼の顔も確認することができなかった。
 けれど、いつまでも彼を放っておくわけにはいかない。
 お母さんを失ったと焦る私を助けてくれた彼に顔を向けるために、母の温もりから離れようとしたときのことだった。

「河原、梓那(しいな)くん?」

 溢れた言葉は、河原くんの自己紹介ではなかった。
 河原梓那くんのことを小学生の頃から知っていたのは、私だけではなかった。

「小学生のとき以来かな? おっきくなったね」

 まだ世間のことを良く知らない小学生を、温かく見守ってくれていた大人たちがいたことを思い出す。

「河原、梓那です」

 母の温もりから抜け出して、彼が立つ方向を振り返る。

「今、灯里さんと同じ高校に通ってて……」
「おめでとう」

 母が、優しい声をくれた。

「灯里も、河原くんも、合格おめでとう」

 何かに吹っ切れたような、綺麗な穏やかな笑みを浮かべたお母さんが、そこにいた。
 数週間遅れた『おめでとう』の言葉を、私たちは、今日、受け取った。