(何人の友達に好かれたら……)
春の暖かな風が、新しい生活の始まりを告げるように教室の窓から吹き込んでくる。
いつもは桜の開花と新学期の始まりが重なるなんて奇跡的なことは起きないのに、今年だけは新学期の始まりに桜が咲いているのが印象的だった。
(両親は喜んでくれるんだろう)
運動部くらいしか活動していない時間帯に登校したこともあって、中学の校舎はまだ静まり返っていた。
校舎のどこを歩いても、淡い桜の花びらが出迎えてくれる校舎の造り。
ほんの少しだけ心を弾ませながら、自分の教室に向かっていたときのことだった。
「おはようございます……」
クラス替えが行われた初日は誰もが緊張するものかもしれないけど、同級生に対して『おはようございます』と丁寧に声をかけてくる人がいるのは珍しいと思いながら後ろを振り返った。
「河原くんと同じクラス、久しぶりですね」
声の先にいたのは、小学校のときにクラスがずっと一緒だった羽澤灯里さん。
六年間クラスが同じだからといって、特別、親しい訳じゃない。
互いに名前と顔を知っている程度で、中学になって初めて目を合わせたかもしれない。
「羽澤さんも、三組?」
「え?」
昔っから、なんでこんな丁寧な喋り方をするのか不思議だった。
その不思議を解決するきっかけもないくらい、俺たちの関係は希薄。
ただの顔見知りっていう言葉は、俺と羽澤さんの関係を示すものだと思っていた。
「すみません! 私、二組です!」
中途半端な位置で立ち止まったしまったせいで、彼女に勘違いをさせてしまった。
驚きと申し訳なさに包まれた彼女の慌てぶりがあまりにも面白くて、思わず吹き出してしまった。
さすがに失礼だったなとは思うけど、俺が吹き出してしまったことで羽澤さんは二組の教室へと飛び込んでいってしまった。
(今年も、羽澤さんとは違うクラスか)
中学のとき、唯一、彼女とやりとりしたのはこのときだけ。
俺たちの関係はやっぱり希薄で、特別、仲良くない二人っていうのはこんな感じ。
他人と他人は、こんな風に関係が終わっていく。
そんなことをぼんやりと考えながら、今日も自分は一人でも多くの友達を作ろうと意気込んだ。
「おっ、梓那と同じクラス」
「梓那がいると、今年一年、楽しめそうで良かったー」
家庭の中に、自分の居場所を見つけることができなかった。
出来のいい兄と姉に囲まれての生活は息を吸い込むことすら難しくて、せめて学校では大きく呼吸をしようと心がけた。
「そんなに頼られたって、俺は特別でもなんでもないって」
自分の視線は顔馴染みに集中しているようで、実は窓向こうに咲き誇る桜に向けられていた。
(二組も、この桜……見えるかな)
心の中で、二組の教室にいる羽澤さんに話しかけたところで彼女には届かない。
当たり前の事実に、何かぽっかりとした虚無感が広がっていく。
他人は他人のまま終わっていくって事実が、なんだかもの悲しいものに思えて仕方がなかった。
「お姉ちゃん、凄いじゃない」
「でしょ? 頑張ったからね」
リビングの壁にかかった時計の針は、まもなく夜の八時を指そうとしている。
夕飯の時間帯だっていうのに、母と父は兄と姉が鐘木高校で積み上げた実績の話題で盛り上がっていた。
尽きない兄と姉の話題に誇らしげな笑みを浮かべる両親を見て、これといって褒め称える要素のない自分は目の前の皿へと視線を落とす。
「本当に、うちの子は優秀ね」
「将来が楽しみだな」
箸を動かす手が重くなっていくのを感じるけど、兄と姉に向けられた賛辞の声は止まない。
話題に入ろうとしても、何を言っていいのかわからない。
兄や姉が達成した栄光に対して、自分は新しい友達ができたという話題しか持っていない。
賑やかな食事風景があるのは確かなのに、自分は家族の輪の中には入れない。
ちゃんと自分の分の食事も用意してもらっているのに、自分の話に耳を傾けてくれる家族はいない。
どれだけ自分が友達に囲まれているかを示しても、家族の表情に変化はない。
『ない』って言葉ばかりが、食卓の風景に広がっていく。
(俺ができることなんて……ない)
兄と姉を越えるようなものは何も残せない。
せめて友達を作る努力をすることで両親に認めてもらいたかったけど、両親はやっぱり出来のいい子どもが好きなんだと思った。
出来のいい子どもを愛するのが、両親というものなんだと思った。
(友達だって、いつかは他人になるかもしれない)
ふと、他人のまま終わるだろう羽澤さんの顔が頭を過った。
いくら友達を作ったところで、それらの友達が、いつまで関係を続けてくれるのか分からない。
でも、兄と姉の実績は、永遠に残り続ける。
いい成績を残せば、いい就職に繋がる。
友達が多いなんて、なんの自慢にもならないのだと気づかされた。
(やっぱ、勉強頑張らないと……)
自分の部屋で机に向かうものの、シャープペンシルを握る手は重い。
筆圧の弱い文字がノートの上に並ぶと、それらの文字は自分の自信のなさを表しているようにしか思えなくなる。
(鐘木高校に進学できたら……きっと……)
灰色の雲が窓の外に浮かんでる日に、塾での進路相談が開催された。
両親が受験生のために塾に駆けつけてくれたことで、俺は両親に認知されてることが分かった。
河原梓那という人間はここにいるってことを自覚できたのに、息が詰まりそうな感覚に陥るのはなぜなのか。
「正直、厳しいですね」
「だと思ってました。この子、ちっとも勉強をしないので」
無表情な大人たちは、溜め息を吐く。
河原梓那の未来は無価値とでも言いたげな表情に泣きたくなったけど、歯を食いしばって耐えてみせた。
「兄と姉が鐘木高校出身だからって、夢を見すぎなんです」
家族の期待に応えたい。
家族の期待に応えれば、自分はやっと両親の愛情を受け取ることができると信じて疑わなかった。
「最後まで……頑張らせてください」
兄と姉の学歴と成功を、そのまま自分が再現する。
そうすれば、自分は家族の誇りになれると信じていた。
ただただ成功する自分を想像して、自身を奮い立たせていく。
「しっかりやるのよ。あなたは、まだまだなんだから」
両親は、目を合わせてくれない。
塾の先生も、成績に関するデータを見入るだけ。
誰も目を合わせてくれない空虚感の中で、合格への決意を固めた。
心の奥底に残ったまま消えない不安を抱えながらの受験に息が詰まりそうになったけど、すべては両親に愛されるためだと思って乗り切った。
息ができなくなっていたことなんて気にもせずに、やり切った。
両親に愛してもらえたら、たくさんの酸素を吸い込めばいいって言い聞かせてきた。
(やっと終わった……)
吐き出す息が白くなるほどの寒さに、身も震えそうになる。
それでも長きに渡る受験生活が終わりを迎えることで、大きく息を吐き出せた瞬間に心がときめいた。
「あれ……」
目の前にいる少女の息が、白く染まる。
小学校の頃はずっと同じクラスだったのに、中学に入ってからは疎遠になっていた彼女だと気づいた。
「羽澤さん」
「はいっ!」
彼女とは、仲が良かったわけではない。
昔から見慣れた存在ってだけだったけど、彼女と受験終わりの空気を分かち合いたかったのかもしれない。
そのまま足を止めて、彼女の元へと歩み寄った。
「一緒に受かるといいね」
「……ですね」
定番の社交辞令を向けると、彼女の顔は強張った。
冷たい風が頬を撫でたせいかもしれないと思ったけど、まだ彼女は受験の不安と闘っているのかもしれない。
「じゃあ、また……って、受からなかったら会えないか」
受験が終わって浮かれている自分に対して、彼女はまだまだ不安が抜けきっていない。
それは当然のことで、まだ合否も分かっていない段階ではライバル同士だと彼女の表情が物語っていた。
(こういうところが、両親に嫌われる理由なのかな)
羽澤さんみたいなしっかりとした生き方ができたら、両親も自分のことを愛してくれたかもしれない。
すべてを楽観視しているような態度の息子を、両親は許したくなかったのかもしれない。
自分にはないものを持っている羽澤さんを羨ましいと思いながらも、ここから去る準備を整えたときのことだった。
「なんだろ? 吹奏楽部?」
「違います、管弦楽部です」
ほとんど口角を上げたことのない羽澤灯里さんが、遠くから聞こえる美しい旋律を耳にして笑顔を浮かべた。
「近くの聖籠高校に、管弦楽部があるんです」
彼女の聴覚が喜べば喜ぶほど、彼女は表情豊かに笑っていく。
瞳から涙が溢れてきたわけではないのに、彼女は全身で感動を表現していく。
自分の感情を閉じ込めながら生きていくんじゃないか.
そんな心配をしてしまうほど表情が動かなかった同級生は、色鮮やかな世界に魅了されていく。
魅了されたら、魅了された分の笑顔を浮かべてくれるところが、強く印象に残った。
「私、聖籠高校の管弦楽部の演奏が好きで……」
好きなものがある人は、こんなにも素敵な笑顔を浮かべられる。
一方の自分は、何が好きって尋ねられても答えることができない。
そんな自分は家族の前で、つまらない表情をしていたんじゃないか。
(それが、嫌われる理由……)
彼女は、春のような穏やかな気候に包まれているように見えた。
ここに満開の桜なんて存在しないのに、彼女だったら淡い桃色の花びらに手を伸ばすことができるんじゃないか。
そんなありえない妄想が浮かんでしまうほど、彼女は綺麗に笑った。
「好きで……好きで……好きで……」
いつも俯きがちだったと思っていた彼女は、一瞬にして春を連れてくることができる笑顔の持ち主だと気づいた。
「大好きです」
その気づきに、後ろ髪を引かれるような想いだけが心に居残った。
「受験が終わって、家に帰ったら……」
じいちゃんが戻ってくるまでの間、羽澤さんはただ黙って俺の昔話を聞き入れてくれた。
「だーれもいなかった」
静かに口を開いてしまうと、その声は自分に言い聞かせるような声質になってしまう。
家族が自分だけを見捨てたなんて信じたくなくて、わざと声を明るく発した。
「俺が受験生って立場を利用して、こっそり引っ越しの準備を進めてたらしい」
「……らしい?」
「じいちゃんたちが、家族にいろいろ聞いてきてくれたんだ」
夜逃げではなかったから、最終的には家族の引っ越し先を見つけることができた。
やっと家族の元に帰れると思ったのに、待っていた現実は謎の面会謝絶という言葉。
誰が面会を拒んだかと問われれば、自分と血の繋がりがある家族たち。
俺は家族に暴力を振るわれていたわけでもなく、生活できない状況に追い込まれていたわけでもなかったから、政府も行政も介入しない。どこにでもいる一般家庭に属する家族は、息子との面会を拒絶した。
「……俺は、家族に会いたい」
当たり前だけど、俺の問いかけに対して彼女からの返事はなかった。
彼女に視線を向けると、俺の視線に気づいた羽澤さんは『うん』と言葉を返してくれた。
まるで俺の視線が向くのを待ってくれていたとも捉えられる行動に、勘違いが生まれそうになる。
「でも、家族は俺に会いたくないんだって」
他人のまま終わるはずだったのに、他人のままで終わるのが嫌だって思ったのかもしれない。
また勝手に期待して、また一方的に終わっていくだけの関係性になるのは分かっていた。
けど、表情が控えめの羽澤さんが、いつか笑ってくれる日を夢見た。
俺も、こんな風に笑いたいって夢を見た。
彼女の音楽が、再び輝く日を見てみたいと思ってしまった。
俺も、こんな風に輝いてみたいって夢を見た。
「家族に会うために、頑張りたい」
気づけば、羽澤さんとの距離が縮まった。
自分のすぐ傍に彼女がいて、自分の手をぎゅっと握ってくれた。
「捨てられたのに、馬鹿みたいだよね」
震える手を握ってと望んだのは、自分だったのか。
それとも、俺のことを放っておけなくなった羽澤さんだったのか。
確かめる術はないけど、こんなところで意思疎通ができたことに救われた。
「愛される自信なんて、どこにもないけど……」
こんな話を聞かされる羽澤さんの身になってみろって思うけど、彼女に話を聞いてほしい。
酷なことを押しつけてるって理解していても、彼女なら話を聞いてくれるんじゃないかって甘えを捨てることができない。
「その頑張り、見守ってもいいですか」
相槌を打ったり、一言二言くらいしか言葉を返さなかった羽澤さんの口が動いた。
「叶わないかも……だよ……。家族に愛されるための努力、叶わないかもしれないのに……」
「河原くんが、頑張ろうとしているので」
彼女の指先が、彼女の口角を辿る。
「他人に本音を伝えることのできる河原くんは、とても強い人です」
まともな言葉が思いつかない。
言葉が見つからない。
「強くあろうとする河原くんを、支えたいです」
決して誇ることのできない自分の人生に、光を与えようとしてくれる人がいることのありがたさを痛感する。
ありがたいって思うのに、息を吸うのが苦しくなる。
「頑張り続けることへの息苦しさ、本当に辛いので……」
光あるものには、必ず陰が付きまとう。
ある人の言葉が誰かにとっての救いなら、その言葉は別の人にとっては毒となってしまうこともある。
光を得るか、陰を貰うか。
そこで人生は変わってしまう。
人と言葉を交わすってことは、相手の影響を少なからず受ける。
光か闇の、どちらかを自分は手にするということ。
「河原くんがちゃんと呼吸できるように、見守らせてください」
羽澤さんと目が合う。
病院の照明は、お世辞にも明るいとは言えないもの。
ちょっと薄気味悪い雰囲気すらあって、こんな環境でまともなことを言っても、まったく説得力がないかもしれない。
それでも彼女は、俺に言葉を伝えることを諦めないでくれた。
「自分を嫌いになる選択だけはしないでください」
どこかの誰かからは怒られてしまいそうな言葉の羅列に、彼女が緊張している様子が見て分かる。
「自分を嫌いになってしまう可能性があるなら、その頑張りを止めてください」
彼女の言葉は、自分にとっての残酷になってしまうのか。
それとも、自分にとっての力になるのか。
「辛い……のに、続けたい」
「矛盾だらけでいいんですよ。今は河原くんにとって、考える時間なんだと思います」
「……考える、時間……」
「毎日が努力漬けだった……今もですね。そんな毎日だったと思うので、たくさん考えていけばいいと思います」
どうか、どうか河原梓那の未来が幸福なものでありますように。
繋ぎ合った手から、羽澤さんの精いっぱいが伝わってくる。
「生きている限り、やれることは無限です」
「……やっぱり、羽澤さんは凄い」
俺は彼女に凄いという賛辞を送るけど、当の本人は素直に受け取ってくれない。
「私はただ、河原くんとお話をしているだけです。特別に何かやっているわけではないです」
自分の努力と言うものを認められない人が多いのは知っている。
自分の努力を上回る人と出会うからそうなってしまうということも知っている。
なかなか自分で自分を認めること自体が難しいけれど、羽澤さんには自分の生き方を誇ってほしいと思う。
「特別に、なってみたい……」
「河原くんなら、必ず」
繋ぎ合う手に、力が入る。
「羽澤さん」
「はい」
最初に力を入れたのは自分だったのか、それとも羽澤さんが先だったのか。
手に力を込めたタイミングが、一緒ならいいなって思った。
「俺、強くなれるかな」
「河原くんが望むなら」
ありきたりな言葉。
そんなの人に言われなくても分かっている言葉なんて世の中に溢れかえっているけれど、人に言われることで言葉は力を増す。
羽澤さんの瞳は、凄く綺麗で覚悟あるいい表情をしていた。
「……羽澤さん」
今日の羽澤さんとのお話し会を、そろそろ終えようと思ったけど。
俺の両腕は、彼女の温もりを求めた。
「俺……強くなりたい……」
俺の両腕に包み込まれた彼女は、彼女の温かさに触れることを許してくれた。
腰あたりに、彼女の両腕がしっかりと回る。
「強くなって…………愛される人間になりたい……」
泣き崩れてしまわないように、しっかりと彼女を抱き締める。
温かな彼女の体を、しっかりと抱き締め返す。
「大丈夫」
変わっていく。
少しずつ。
今の自分が、変わろうとしているのが分かる。
「大丈夫です。河原くんは、愛されるべき存在ですよ」
それはきっと多分、祝福すべきこと。
抱き締めた羽澤さんの熱が、未来への希望を教えてくれた。
春の暖かな風が、新しい生活の始まりを告げるように教室の窓から吹き込んでくる。
いつもは桜の開花と新学期の始まりが重なるなんて奇跡的なことは起きないのに、今年だけは新学期の始まりに桜が咲いているのが印象的だった。
(両親は喜んでくれるんだろう)
運動部くらいしか活動していない時間帯に登校したこともあって、中学の校舎はまだ静まり返っていた。
校舎のどこを歩いても、淡い桜の花びらが出迎えてくれる校舎の造り。
ほんの少しだけ心を弾ませながら、自分の教室に向かっていたときのことだった。
「おはようございます……」
クラス替えが行われた初日は誰もが緊張するものかもしれないけど、同級生に対して『おはようございます』と丁寧に声をかけてくる人がいるのは珍しいと思いながら後ろを振り返った。
「河原くんと同じクラス、久しぶりですね」
声の先にいたのは、小学校のときにクラスがずっと一緒だった羽澤灯里さん。
六年間クラスが同じだからといって、特別、親しい訳じゃない。
互いに名前と顔を知っている程度で、中学になって初めて目を合わせたかもしれない。
「羽澤さんも、三組?」
「え?」
昔っから、なんでこんな丁寧な喋り方をするのか不思議だった。
その不思議を解決するきっかけもないくらい、俺たちの関係は希薄。
ただの顔見知りっていう言葉は、俺と羽澤さんの関係を示すものだと思っていた。
「すみません! 私、二組です!」
中途半端な位置で立ち止まったしまったせいで、彼女に勘違いをさせてしまった。
驚きと申し訳なさに包まれた彼女の慌てぶりがあまりにも面白くて、思わず吹き出してしまった。
さすがに失礼だったなとは思うけど、俺が吹き出してしまったことで羽澤さんは二組の教室へと飛び込んでいってしまった。
(今年も、羽澤さんとは違うクラスか)
中学のとき、唯一、彼女とやりとりしたのはこのときだけ。
俺たちの関係はやっぱり希薄で、特別、仲良くない二人っていうのはこんな感じ。
他人と他人は、こんな風に関係が終わっていく。
そんなことをぼんやりと考えながら、今日も自分は一人でも多くの友達を作ろうと意気込んだ。
「おっ、梓那と同じクラス」
「梓那がいると、今年一年、楽しめそうで良かったー」
家庭の中に、自分の居場所を見つけることができなかった。
出来のいい兄と姉に囲まれての生活は息を吸い込むことすら難しくて、せめて学校では大きく呼吸をしようと心がけた。
「そんなに頼られたって、俺は特別でもなんでもないって」
自分の視線は顔馴染みに集中しているようで、実は窓向こうに咲き誇る桜に向けられていた。
(二組も、この桜……見えるかな)
心の中で、二組の教室にいる羽澤さんに話しかけたところで彼女には届かない。
当たり前の事実に、何かぽっかりとした虚無感が広がっていく。
他人は他人のまま終わっていくって事実が、なんだかもの悲しいものに思えて仕方がなかった。
「お姉ちゃん、凄いじゃない」
「でしょ? 頑張ったからね」
リビングの壁にかかった時計の針は、まもなく夜の八時を指そうとしている。
夕飯の時間帯だっていうのに、母と父は兄と姉が鐘木高校で積み上げた実績の話題で盛り上がっていた。
尽きない兄と姉の話題に誇らしげな笑みを浮かべる両親を見て、これといって褒め称える要素のない自分は目の前の皿へと視線を落とす。
「本当に、うちの子は優秀ね」
「将来が楽しみだな」
箸を動かす手が重くなっていくのを感じるけど、兄と姉に向けられた賛辞の声は止まない。
話題に入ろうとしても、何を言っていいのかわからない。
兄や姉が達成した栄光に対して、自分は新しい友達ができたという話題しか持っていない。
賑やかな食事風景があるのは確かなのに、自分は家族の輪の中には入れない。
ちゃんと自分の分の食事も用意してもらっているのに、自分の話に耳を傾けてくれる家族はいない。
どれだけ自分が友達に囲まれているかを示しても、家族の表情に変化はない。
『ない』って言葉ばかりが、食卓の風景に広がっていく。
(俺ができることなんて……ない)
兄と姉を越えるようなものは何も残せない。
せめて友達を作る努力をすることで両親に認めてもらいたかったけど、両親はやっぱり出来のいい子どもが好きなんだと思った。
出来のいい子どもを愛するのが、両親というものなんだと思った。
(友達だって、いつかは他人になるかもしれない)
ふと、他人のまま終わるだろう羽澤さんの顔が頭を過った。
いくら友達を作ったところで、それらの友達が、いつまで関係を続けてくれるのか分からない。
でも、兄と姉の実績は、永遠に残り続ける。
いい成績を残せば、いい就職に繋がる。
友達が多いなんて、なんの自慢にもならないのだと気づかされた。
(やっぱ、勉強頑張らないと……)
自分の部屋で机に向かうものの、シャープペンシルを握る手は重い。
筆圧の弱い文字がノートの上に並ぶと、それらの文字は自分の自信のなさを表しているようにしか思えなくなる。
(鐘木高校に進学できたら……きっと……)
灰色の雲が窓の外に浮かんでる日に、塾での進路相談が開催された。
両親が受験生のために塾に駆けつけてくれたことで、俺は両親に認知されてることが分かった。
河原梓那という人間はここにいるってことを自覚できたのに、息が詰まりそうな感覚に陥るのはなぜなのか。
「正直、厳しいですね」
「だと思ってました。この子、ちっとも勉強をしないので」
無表情な大人たちは、溜め息を吐く。
河原梓那の未来は無価値とでも言いたげな表情に泣きたくなったけど、歯を食いしばって耐えてみせた。
「兄と姉が鐘木高校出身だからって、夢を見すぎなんです」
家族の期待に応えたい。
家族の期待に応えれば、自分はやっと両親の愛情を受け取ることができると信じて疑わなかった。
「最後まで……頑張らせてください」
兄と姉の学歴と成功を、そのまま自分が再現する。
そうすれば、自分は家族の誇りになれると信じていた。
ただただ成功する自分を想像して、自身を奮い立たせていく。
「しっかりやるのよ。あなたは、まだまだなんだから」
両親は、目を合わせてくれない。
塾の先生も、成績に関するデータを見入るだけ。
誰も目を合わせてくれない空虚感の中で、合格への決意を固めた。
心の奥底に残ったまま消えない不安を抱えながらの受験に息が詰まりそうになったけど、すべては両親に愛されるためだと思って乗り切った。
息ができなくなっていたことなんて気にもせずに、やり切った。
両親に愛してもらえたら、たくさんの酸素を吸い込めばいいって言い聞かせてきた。
(やっと終わった……)
吐き出す息が白くなるほどの寒さに、身も震えそうになる。
それでも長きに渡る受験生活が終わりを迎えることで、大きく息を吐き出せた瞬間に心がときめいた。
「あれ……」
目の前にいる少女の息が、白く染まる。
小学校の頃はずっと同じクラスだったのに、中学に入ってからは疎遠になっていた彼女だと気づいた。
「羽澤さん」
「はいっ!」
彼女とは、仲が良かったわけではない。
昔から見慣れた存在ってだけだったけど、彼女と受験終わりの空気を分かち合いたかったのかもしれない。
そのまま足を止めて、彼女の元へと歩み寄った。
「一緒に受かるといいね」
「……ですね」
定番の社交辞令を向けると、彼女の顔は強張った。
冷たい風が頬を撫でたせいかもしれないと思ったけど、まだ彼女は受験の不安と闘っているのかもしれない。
「じゃあ、また……って、受からなかったら会えないか」
受験が終わって浮かれている自分に対して、彼女はまだまだ不安が抜けきっていない。
それは当然のことで、まだ合否も分かっていない段階ではライバル同士だと彼女の表情が物語っていた。
(こういうところが、両親に嫌われる理由なのかな)
羽澤さんみたいなしっかりとした生き方ができたら、両親も自分のことを愛してくれたかもしれない。
すべてを楽観視しているような態度の息子を、両親は許したくなかったのかもしれない。
自分にはないものを持っている羽澤さんを羨ましいと思いながらも、ここから去る準備を整えたときのことだった。
「なんだろ? 吹奏楽部?」
「違います、管弦楽部です」
ほとんど口角を上げたことのない羽澤灯里さんが、遠くから聞こえる美しい旋律を耳にして笑顔を浮かべた。
「近くの聖籠高校に、管弦楽部があるんです」
彼女の聴覚が喜べば喜ぶほど、彼女は表情豊かに笑っていく。
瞳から涙が溢れてきたわけではないのに、彼女は全身で感動を表現していく。
自分の感情を閉じ込めながら生きていくんじゃないか.
そんな心配をしてしまうほど表情が動かなかった同級生は、色鮮やかな世界に魅了されていく。
魅了されたら、魅了された分の笑顔を浮かべてくれるところが、強く印象に残った。
「私、聖籠高校の管弦楽部の演奏が好きで……」
好きなものがある人は、こんなにも素敵な笑顔を浮かべられる。
一方の自分は、何が好きって尋ねられても答えることができない。
そんな自分は家族の前で、つまらない表情をしていたんじゃないか。
(それが、嫌われる理由……)
彼女は、春のような穏やかな気候に包まれているように見えた。
ここに満開の桜なんて存在しないのに、彼女だったら淡い桃色の花びらに手を伸ばすことができるんじゃないか。
そんなありえない妄想が浮かんでしまうほど、彼女は綺麗に笑った。
「好きで……好きで……好きで……」
いつも俯きがちだったと思っていた彼女は、一瞬にして春を連れてくることができる笑顔の持ち主だと気づいた。
「大好きです」
その気づきに、後ろ髪を引かれるような想いだけが心に居残った。
「受験が終わって、家に帰ったら……」
じいちゃんが戻ってくるまでの間、羽澤さんはただ黙って俺の昔話を聞き入れてくれた。
「だーれもいなかった」
静かに口を開いてしまうと、その声は自分に言い聞かせるような声質になってしまう。
家族が自分だけを見捨てたなんて信じたくなくて、わざと声を明るく発した。
「俺が受験生って立場を利用して、こっそり引っ越しの準備を進めてたらしい」
「……らしい?」
「じいちゃんたちが、家族にいろいろ聞いてきてくれたんだ」
夜逃げではなかったから、最終的には家族の引っ越し先を見つけることができた。
やっと家族の元に帰れると思ったのに、待っていた現実は謎の面会謝絶という言葉。
誰が面会を拒んだかと問われれば、自分と血の繋がりがある家族たち。
俺は家族に暴力を振るわれていたわけでもなく、生活できない状況に追い込まれていたわけでもなかったから、政府も行政も介入しない。どこにでもいる一般家庭に属する家族は、息子との面会を拒絶した。
「……俺は、家族に会いたい」
当たり前だけど、俺の問いかけに対して彼女からの返事はなかった。
彼女に視線を向けると、俺の視線に気づいた羽澤さんは『うん』と言葉を返してくれた。
まるで俺の視線が向くのを待ってくれていたとも捉えられる行動に、勘違いが生まれそうになる。
「でも、家族は俺に会いたくないんだって」
他人のまま終わるはずだったのに、他人のままで終わるのが嫌だって思ったのかもしれない。
また勝手に期待して、また一方的に終わっていくだけの関係性になるのは分かっていた。
けど、表情が控えめの羽澤さんが、いつか笑ってくれる日を夢見た。
俺も、こんな風に笑いたいって夢を見た。
彼女の音楽が、再び輝く日を見てみたいと思ってしまった。
俺も、こんな風に輝いてみたいって夢を見た。
「家族に会うために、頑張りたい」
気づけば、羽澤さんとの距離が縮まった。
自分のすぐ傍に彼女がいて、自分の手をぎゅっと握ってくれた。
「捨てられたのに、馬鹿みたいだよね」
震える手を握ってと望んだのは、自分だったのか。
それとも、俺のことを放っておけなくなった羽澤さんだったのか。
確かめる術はないけど、こんなところで意思疎通ができたことに救われた。
「愛される自信なんて、どこにもないけど……」
こんな話を聞かされる羽澤さんの身になってみろって思うけど、彼女に話を聞いてほしい。
酷なことを押しつけてるって理解していても、彼女なら話を聞いてくれるんじゃないかって甘えを捨てることができない。
「その頑張り、見守ってもいいですか」
相槌を打ったり、一言二言くらいしか言葉を返さなかった羽澤さんの口が動いた。
「叶わないかも……だよ……。家族に愛されるための努力、叶わないかもしれないのに……」
「河原くんが、頑張ろうとしているので」
彼女の指先が、彼女の口角を辿る。
「他人に本音を伝えることのできる河原くんは、とても強い人です」
まともな言葉が思いつかない。
言葉が見つからない。
「強くあろうとする河原くんを、支えたいです」
決して誇ることのできない自分の人生に、光を与えようとしてくれる人がいることのありがたさを痛感する。
ありがたいって思うのに、息を吸うのが苦しくなる。
「頑張り続けることへの息苦しさ、本当に辛いので……」
光あるものには、必ず陰が付きまとう。
ある人の言葉が誰かにとっての救いなら、その言葉は別の人にとっては毒となってしまうこともある。
光を得るか、陰を貰うか。
そこで人生は変わってしまう。
人と言葉を交わすってことは、相手の影響を少なからず受ける。
光か闇の、どちらかを自分は手にするということ。
「河原くんがちゃんと呼吸できるように、見守らせてください」
羽澤さんと目が合う。
病院の照明は、お世辞にも明るいとは言えないもの。
ちょっと薄気味悪い雰囲気すらあって、こんな環境でまともなことを言っても、まったく説得力がないかもしれない。
それでも彼女は、俺に言葉を伝えることを諦めないでくれた。
「自分を嫌いになる選択だけはしないでください」
どこかの誰かからは怒られてしまいそうな言葉の羅列に、彼女が緊張している様子が見て分かる。
「自分を嫌いになってしまう可能性があるなら、その頑張りを止めてください」
彼女の言葉は、自分にとっての残酷になってしまうのか。
それとも、自分にとっての力になるのか。
「辛い……のに、続けたい」
「矛盾だらけでいいんですよ。今は河原くんにとって、考える時間なんだと思います」
「……考える、時間……」
「毎日が努力漬けだった……今もですね。そんな毎日だったと思うので、たくさん考えていけばいいと思います」
どうか、どうか河原梓那の未来が幸福なものでありますように。
繋ぎ合った手から、羽澤さんの精いっぱいが伝わってくる。
「生きている限り、やれることは無限です」
「……やっぱり、羽澤さんは凄い」
俺は彼女に凄いという賛辞を送るけど、当の本人は素直に受け取ってくれない。
「私はただ、河原くんとお話をしているだけです。特別に何かやっているわけではないです」
自分の努力と言うものを認められない人が多いのは知っている。
自分の努力を上回る人と出会うからそうなってしまうということも知っている。
なかなか自分で自分を認めること自体が難しいけれど、羽澤さんには自分の生き方を誇ってほしいと思う。
「特別に、なってみたい……」
「河原くんなら、必ず」
繋ぎ合う手に、力が入る。
「羽澤さん」
「はい」
最初に力を入れたのは自分だったのか、それとも羽澤さんが先だったのか。
手に力を込めたタイミングが、一緒ならいいなって思った。
「俺、強くなれるかな」
「河原くんが望むなら」
ありきたりな言葉。
そんなの人に言われなくても分かっている言葉なんて世の中に溢れかえっているけれど、人に言われることで言葉は力を増す。
羽澤さんの瞳は、凄く綺麗で覚悟あるいい表情をしていた。
「……羽澤さん」
今日の羽澤さんとのお話し会を、そろそろ終えようと思ったけど。
俺の両腕は、彼女の温もりを求めた。
「俺……強くなりたい……」
俺の両腕に包み込まれた彼女は、彼女の温かさに触れることを許してくれた。
腰あたりに、彼女の両腕がしっかりと回る。
「強くなって…………愛される人間になりたい……」
泣き崩れてしまわないように、しっかりと彼女を抱き締める。
温かな彼女の体を、しっかりと抱き締め返す。
「大丈夫」
変わっていく。
少しずつ。
今の自分が、変わろうとしているのが分かる。
「大丈夫です。河原くんは、愛されるべき存在ですよ」
それはきっと多分、祝福すべきこと。
抱き締めた羽澤さんの熱が、未来への希望を教えてくれた。



