「はい、今日もよろしくお願いします」

 固い椅子に腰かけながら、また高校の授業は始まっていく。
 英語の科目はどれも休む暇すら与えられない速度で進んでいくのに対して、現代の国語の授業は時が止まったような進みの遅さに驚かされた。

「今日は……」

 現代の国語を担当する白川先生は年配の女の先生で、慎ましやかな髪留めで自身の髪を飾っていた。
 眼鏡の奥の細い瞳に心臓がどきりと音を立ててしまうほど、白川先生は厳しそうな印象を与える先生だった。
 でも、その厳しそうな 瞳に反して、白川先生は教科書の一文を丁寧に読み上げていく。
 控えめで落ち着いた語り口が特徴的で、少しでも油断すると、どこからが教科書の文章なのか解釈なのか分からなくなってしまう。

(白川先生、今日も何も書かない)

 ノートを書き込む速度が追いつかないほどの英語科目に対して、白川先生の授業は一切、黒板を使わない。
 黒板を使うこともなければ、プロジェクターが出てくる気配もない。端末を使うことはもちろんなく、白川先生の声だけが静かに教室に流れる。

(何がテストに出るの……?)

 教科書の文字に視線を落としながら、心の中で呟く。
 春の陽気と相まって、同じクラスで現代の国語を受けている生徒たちは眠りの世界へと誘われていく。
 それを注意することもなく、白川先生の授業は続く。

(みんなは……)

 抑揚ひとつない白川先生の授業に屈し、深い眠りに就く生徒たちが目立つ中、必死に教科書を捲る生徒たちもいた。

(ほかの授業の予習……)

 現代の国語の授業は、まるで自由時間のような状態だった。
 白川先生の授業を聞いている人が何人いるのか分からないまま、今日も白川先生特有の授業は終わりを迎えた。

「はぁ」

 白川先生は初回の授業で、こんなことを言った。

『今日から皆さんは、大学受験に合格するための勉強を始めます。楽しいとか、面白いとか、そういう感情は一切、必要ありません。大事なのは、受験で一点でも多く取る読み方をすることです』

 小学校と中学校の国語の授業は、まだ物語を楽しむ時間があったような気がする。
 物語を楽しむことが国語の成績を上げるコツだった気もする。
 けど、高校に入学した途端に、今まで育んできた感情は捨てなさいと諭された。
 それが正しい現代の国語の進め方かもしれないけど、白川先生の発言を受けて寂しいと思った日のことは今も忘れられない。

(ちゃんと、大学に進学できるかな……)

 県内で教員免許を取れる大学は、鐘木(しゅもく)大学のみ。
 鐘木大学に落ちたら、音楽の先生という夢は絶たれる。
 お母さんを置いて県外に出る経済的な余裕もないけれど、そもそもお母さんを一人にしたくないという気持ちもある。

(六人目のお父さん候補が来る前に……)

 不倫というものが悪いのは分かっているけど、二つの家庭を養うだけの稼ぎがある人との不倫は悪いものではなかった。
 経済的な余裕ができるだけで、なんでもできるんじゃないかって夢が広がった。
 また、ヴァイオリンをやらえてもらえるんじゃないかって夢を見た。

(不倫は、許されるものじゃない)

 これ以上、不幸の輪が広がる前に、私は経済的に自立した人間にならなきゃいけない。

(誰もいない)

 静まり返った高校の校舎。
 人が疎らな放課後、人がいない光景を視界に入れ続けるのは目に毒だと思った。
 高校の校舎に人影が見つからないということは、それぞれが思い思いの放課後を過ごしているということ。
 好きなことをやっている人、嫌いなことをやっている人、いろいろあるだろうけど、放課後は自分で時間の使い方を選ぶことができる。

(私だけ、置いていかれたみたい)

 独りきりの空間に取り残される瞬間は、いつも慣れていない。
 早く、早く、誰かに会いたいって思う。

(情けない)

 独りの日々には慣れたはずなのに、人の優しさに触れた結果。
 私は完全に弱い人間へと逆戻りしてしまう。
 独りで過ごす時間を平気と思っていたはずなのに、今は独りの時間があるだけで寂しいと思ってしまう。

「部活がない日は、勉強……!」

 窓から差し込む夕焼けに向かって気合いを入れ直すと、一人の男子高校生が家庭科教諭室から出てきた。

「あ、羽澤(はねさわ)さん」
河原(かわはら)くん、お元気ですか」

 彼の片手には小さなメモ帳とボールペンが握られていて、何か質問があって教室を訪れたのだと分かった。

「それが、家庭基礎の先生いなくて」

 彼は、小さく息を吐き出した。

「家庭基礎って、そんなに難しい内容やってましたっけ?」
「夕飯の作り方で、アドバイスほしくて……」

 河原くんは眉間に皺を寄せて、困ったような表情を浮かべた。

「お味噌汁は、出汁入りの味噌を使った方が楽ですよ」
「中学? 小学校だったかの調理実習で、出汁取れって言ってたのに……」
「出汁がないと、味がないのは事実なので……」

 運動部の掛け声や演劇部の発声練習、吹奏楽部が練習している音だけが響いて、放課後らしい空気が漂っている。
 一方の私たちは誰も通りかからない廊下で、河原くんの家のお夕飯に関して言葉を交わし合った。

「ばあちゃんに付き添ってるじいちゃんのために、差し入れ作りたいと思ったんだけど……」
「家族のためになりたいからこその難しさはありますよね」

 家族に提供する料理なら、美味しくても美味しくなくても受け入れてもらえると思う。
 でも、家族の負担を減らすための料理だから、上手に作りたい。
 美味しいと思ってもらうことで、家族の気持ちを安らげたいという気持ちがあるのは私も理解できる。

「ばあちゃん、やっぱりそう長くないみたいで」
「それで、おじいさんは病院にいる時間が長いんですね」

 私たちは廊下の窓向こうに目を向けながら話をしていることもあって、視界には花を散らせた桜の木が入り込んでくる。

「ばあちゃんに、桜、咲いてるとこ……見せたかったなぁ」

 河原くんの言い方を受けて、来年に咲き誇る桜を眺めることができないのだと悟る。

「桜……あっという間に、散ってしまいますからね」

 ついこの間までは、桜が咲き誇る姿の美しさを目にするだけで、なんだか泣きたくなりそうな衝動に駆られていた。
 実際に涙が溢れてくるわけではないけど、この泣きたくなるくらい人の心を衝き動かす時間はあっという間に終わってしまう。
 桜の花は一瞬にして、命を枯らせてしまう

「人間、いつかは寿命がくるのは分かってるけど」

 今年は、校庭に咲き誇る花たちが一段と美しく見えていたかもしれない。
 高校生活、始めの一年。
 始めという言葉が頭を過るだけで、人は感慨深くなってしまうのかもしれない。

「寂しいね」

 河原くんの言葉に、深く頷いた。
 感慨深くなってしまった私は、彼の言葉に涙腺を揺すられてしまった。

「私も……ちっちゃい頃にお父さんを亡くしたので」

 窓向こうに向けていた視線を、互いに戻す。

「寂しいですね」

 彼の視線と、私の視線が交わる。
 でも、私たちは涙を流すことなく、互いの事情を思いやった。
 平気ですって見栄を張るのではなく、自然な感情を溢れさせた。

「いつかは、この寂しいって気持ち。卒業できるかな」
「私なんて、未だに引きずってますよ」

 過去を変えるって展開が起きない限り、私にヴァイオリンを与えてくれたお父さんは生き返ることも、戻ってくることもない。
 過去を変えられたとしても、お父さんを病から救うことができるかと言われたら自信もない。

「最近、気づいたんですけど」

 生きている人たちは、先へ進むことしかできない。
 立ち止まることを選びたくても、勝手に時は流れていってしまう。
 その非情さの中で、私たちは幸せになる方法を見つけなければいけない。

「覚えていてもいいのかなって」

 亡くなったお父さんの分も幸せになってねと、当時はよく言われた。
 けど、その、幸せになるための方法を私は今も分かっていない。見つけることができていない。
 どうやったら私は幸せになれるのかって問いかけても、きっと誰も答えを返してはくれない。

「無理に忘れなくてもいいのかなって」

 涙を流さないように、笑ってみせた。
 無理矢理な笑顔かもしれないけど、今はそれでいいと思った。
 河原くんなら分かってくれるっていう甘えが、どこかにあったからかもしれない。

「心の傷を癒す魔法……みたいな、誰かを癒す力があったらいいんですけどね」
「羽澤さんは、十分な力を持ってるよ」

 その言葉をくれた河原くんも、他人に優しさを提供できる人。
 昔から遥か遠い先にいる大人みたいな気遣いができる男の子で、彼を頼りにしている人たちが多かったことを私はよく知っている。

「羽澤さんに励まされている人たち、いっぱいいるって」

 大学に進学できるのかなっていう不安。
 お母さんの望み通り、公務員になれるのかなっていう不安。
 たくさんの不安を抱えていたはずなのに、その不安が和らいでいくのを感じる。

「河原くんに励まされた人も、たくさんいますよ。私以外にも、たくさんの人たちが、河原くんから力をもらってきたと思いますよ」

 このままだと、社交辞令のようにしか聞こえないところが悔しい。
 彼に向けての言葉を口にしているはずなのに、自分の言葉では彼の心を動かすことができないことが何よりも悔しい。

「ありがと、羽澤さん」

 それなのに、彼は礼の言葉を返してくれる。

(私だけが、特別じゃない)

 河原くんは、みんなに対して優しい人。
 この優しさに救われてきたのが事実だからこそ、彼の力になりたいって気持ちが強くなっていく。

灯里(あかり)ちゃーん! 梓那(しいな)くん!」

 廊下は、私たちの貸し切りではないことを思い出す。

「……百合宮(ゆりみや)さんの声?」

 不意に、どこかから声がかけられた。
 驚きのあまり、私たちは同時に同じ方向を振り返った。
 すると、同級生の百合宮杏珠(ゆりみやあじゅ)さんが私たちに向かって駆けてくるところだった。

「ちょっ、百合宮さん! 走ったら駄目です! 転んだらどうする……」
「なーにー?」

 彼女が登場することで、一気に弾むような楽しい空気が流れ始めたのが印象的だった。

「羽澤さん、もっと大きな声を出さないと」
「わかって……って、百合宮さんっ! 止まってください!」

 大袈裟な身振り手振りで近づいてくる彼女の態度は小学生を思い起こす感じすらしてしまうのに、自然と笑みを溢れさせることができるのは彼女の魅力だと思った。

「羽澤さーん! 杏珠のことなら、私たちに任せてー」

 放課後は、生徒たちに与えられる自由な時間。
 部活に行くことも、居残って勉強することも、帰宅することも許されている。
 そんな中、ピアサポートの部員とピアサポートを利用している何人かの生徒は海での時間を選択した。

「お願いしまーす」
「はーいっ」

 初めましての人たちが入り混じっているのに、あちこちで笑い声が飛び交うくらい賑やかな雰囲気に包まれている海辺。
 中心にいる百合宮さんのおかげで、他人同士が繋がっていくのは凄いことだと思った。

「空、綺麗だね」
「……本当ですね」

 青空がかすかに残る砂浜に、河原君と一緒に降り立つ。
 まだ夏が始まっていないのに、空が高く見えるような気がする。
 去年の今頃は、そんなことすら知らなかったような気がする。

「綺麗すぎて、少し怖いかもしれません」

 茜色に近づく空に、きらきらとした光の粒子が飛び交って見えるような気がする。
 太陽の光とは違う、目に入れても痛くない優しさを放つ光の粒子が世界を彩ってくれているような。
 あくまで感覚的なことだけど、今まで感じたことのない世界の美しさに心が感動している。

「まるで、初めて空を見たみたいな言い方」
「受験のとき、空、見上げました?」
「言われてみると、そんな余裕なかったかも」

 空を綺麗だと感じるのも、受験が終わってからのことかもしれない。
 空の美しさに感動したのも、受験が終わってからのことかもしれない。

(教職を目指している人間が、空の美しさに気づかなかったなんて……)

 自然の美しさに感動する人と、自然を見たところで何も感じない人が、高校生くらいの年齢になるとはっきりとしてくる。
 自然に対して無だった私は、将来ちゃんと教師をやれているのか不安になる。

「第二の人生開幕……」
「羽澤さん?」
「私を必要としてくれる人のために、頑張っていきたいなと思っていたところです」

 血の繋がりがある父を亡くしたときは、理想を生きることができなかった。
 そんな私が何を言っているんだって、天国の父には笑われてしまうかもしれない。
 今は誰の導きにもなれないピアサポート部員でも、今を生きることが許されているのなら、少しは変わりたいと思ってしまう。

「羽澤さんの頑張り、応援してもいい?」
「励みになります」
「じゃあ、遠慮なく」
「ありがとうございます」

 お気に入りのスマートフォンを手に、夕陽と海を背景に写真を撮り合うシャッター音が響いた。
 これがいかにも青春っぽい空気で、この流れる空気感をめいっぱい体で感じたいと思った。

「羽澤さんたちも、ビーチバレーするー?」
「見学してます」
「了解っ」

 青春という時間が、いつまで続くのか。
 そんな定義的なものは分からないけど、この、みんなが笑い合っている一瞬一瞬を記憶に残しておきたい。

「って、百合宮さんは駄目ですよ!」
「審判だよー」

 放課後に勉強することを選択しなかった自分に、少しだけ不安を抱いているのは事実。
 海に遊びにくる暇があったら、周囲に追いつくための勉強をするべきだと思う。

(でも、河原くんの傍にいたかった)

 頑張って、頑張って、自分のための時間を作り出していく。
 それは高校生に限った話ではなく、この世界を生きる人たちはみんな時間を作るために苦労している。
 河原くんだって、本当は家族の傍にいたいかもしれない。本当は、みんなと混ざって青春を楽しみたいかもしれない。
 彼の気持ちは見えないけれど、海に行くことを選択した彼の傍にいたいという自分の気持ちに従った。

「梓那は、どうするー?」
「羽澤さんと見学してる」

 他人の力になるって、本当に難しいことだと思った。
 結局、他人は他人のままで終わるかもしれないっていう不安はある。
 今も未来も未練だらけかもしれないけど、私と出会ってくれた河原くんには幸せになってほしいという願いは絶えない。

「丁寧な喋り方をしてる羽澤さん」
「私の話題ですか?」
「なんか、先生みたい」
「……将来、ちゃんとやれていることを願います」

 ビーチバレーをやっている人たちの中には、河原くんと仲のいい友達もいるらしい。
 でも、河原くんはビーチバレーの輪に入らず相変わらず私の隣にいる。
 私たちは砂塗れにならないような適当な場所を探して、私と河原くんは飛び交うボールに目を向ける。

「できるよ、羽澤さんなら」

 でも、私はときどき河原くんの方を見た。
 気づかれないように、そっと。

(本当に、河原くんが隣にいる……)

 当たり前。
 当たり前のことを、何度も何度も確認する。
 単純に、怖いと思うから。
 彼が、いつか私の隣からいなくなってしまうのかって怖くなるから。

「羽澤さん」
「ほかに何か話したいこと見つかりました?」
「いや……あの……ちらちらと、こっちを見てるの気づいてるから」
「え……」

 笑顔を失ってしまった河原くんのことを気にかけていたから、彼をずっと視界に映し続けたいと思っていた。
 感傷的な想いに浸っていたはずなのに、河原くんの一言は私の心を現実へと帰す。

「そんなに見つめなくても、俺はここにいるよ」
「見つめてないです……!」
「羽澤さんこそ、何かあったら話しかけて」
「……すみませんでした」

 河原くんを気にかけてるのは私の方なのに、結局は彼に気遣われてしまうのはいつものパターン。
 早速ピアサポート部員らしくないことをしでかしてしまい、私は返す言葉もなくなってしまう。

(河原くんのこと、知りたい……けど)

 今のままでは、駄目な同級生として河原くんの記憶に残ってしまう。
 でも、無理に彼の事情に立ち入りたいというわけでもない。

(他人には話せないこと、誰もが抱えているはずだから)

 自分も幼い頃に父を亡くしたことは話すことができても、そのあとにお父さん候補の人が何人も現れていること。
 ほとんどが不倫関係だったことは、多分、これから先の人生で誰にも話すことがないと思う。
 他人に他人の事情を受け入れてもらう難しさを知っているからこそ、無理に河原くんの口を割りたいという気持ちは湧かない。

「新しく出会うためには、忘れることも必要って本当かな」

 何を思ったかは分からないけど、河原くんの方から話題を振ってくれた。

「ほんの少し、寂しい考え方ですね」

 前向きな、消失。
 ぽっかりと空いた隙間を、新しい出会いで埋めるという意味を指すんだと思った。
 別れの寂しさを、新しい出会いで紛らわせるということ。

「父のことを覚えているから、私は今も寂しいんですね」
「っ、ごめん。羽澤さんを傷つけるつもりはなくて……」
「そう簡単に、傷はつかないから大丈夫ですよ」

 私は亡くなったお父さんのことをずっと覚えているけど、もしかすると天国にいるお父さんは私のことを忘れているかもしれない。
 新しく出会うために、(わたし)のことは忘れてしまったかもしれない。

「お父さんに新しい出会いが訪れていたら、祝福できるような人間になれたらいいんですけどね」

 でも、綺麗事も少し混ざっている。

(私のことも、覚えていてほしい)

 新しく始まる人生に、過去の娘()も連れていってほしい。
 そんな願いから、いつになったら卒業できるのか。

「忘れてもらうって、幸せなことなのかも」

 夕焼け空を橙色に染めるために、太陽が光を放つ。
 ただそれだけのだけなのに、こんなにも私は空の色というものに心を奪われてしまう。
 隣にいる河原くんと一緒に空を見上げるから、尚更、視界に入れるすべてのものを美しいと思ってしまうのかもしれない。

「忘れたくても忘れられないものがあるのも、知ってはいるけど」

 みんなが海辺でビーチバレーをしている様子を見ていたけれど、河原くんの視線が自分に向けられたことに気づいて彼の方を振り返る。

「心の中を覗いてるみたいなタイミングで、言葉をくれるんですね」

 自分が心で思っていたことを、河原くんが言葉にしてくれた。
 それが、なんだか悲しいことに思えた。

「やっぱり、新しく出会ってほしいなって。俺のことなんて忘れて、さっさと幸せになってほしいなって」

 自分だけが考えていることなら全部を自己責任だと思えるけど、河原くんが『忘れてほしい』と口にするのはまったくの別物に感じられる。

(そんな悲しい顔をさせたくない)

 自分ではない誰かを笑顔にしたいのに、それが人生で一番、難しいことなのかもしれないって想いに駆られる。
 望むのは、目の前にいる人に笑ってもらうこと。ただそれだけなのに、その、ただそれだけを叶える力が私にはない。

「忘れることが、新しい出会いに繋がるってことですよね」

 好きと言う感情は、いつかは消えてしまう。
 消えるって表現は後ろ向きのものかもしれないけど、好きが変わっていくのはいいことだと思う。
 それは、その人に素晴らしい出会いが訪れたってことだから。

「もちろん、羽澤さんの覚えていたいって気持ちを否定してるわけじゃない」

 河原くんの声は優しいから、始めから私を否定しているとは思っていなかった。
 それでも彼は、一言一言を丁寧に挟んで私のことを気遣ってくれる。

「河原くん」
「ん?」

 だったら、私も彼のことを精いっぱい想ってみたいと。

「その気持ち、本物ですか」

 太陽な柔らかな光が降り注いで、砂浜が金色に光り輝くような錯覚が起きる。
 世界は、こんなにも美しく輝いているのに。
 どうして私たちの毎日は、こんな風にきらきら輝くことができないのか。
 ときどき息が詰まりそうになるけど、言葉を紡ぐことは諦めたくないと思った。

「ちゃんと口角、上げられますか」

 左手の人差し指と、右手の人差し指を使って、自分の口角を上げてみせる。
 河原くんの口がほんの少しだけ開いて、彼は自分の指で自身の口角をなぞった。

「……ごめん、羽澤さん。やっぱ嘘」

 河原くんに変化が起きても、海を訪れている人たちは誰も気づかない。
 それなのに、強い太陽の光だけは、私たちの会話の嘘を見抜くかのように光を私たちの言葉に突き刺してくる。

「嘘を吐くって決めたなら、最後まで嘘を吐き通さなきゃいけないんだけど……」

 綺麗すぎて、眩しすぎて、嫌になる。
 嘘すら吐けないくらい美しい世界が、私たちの隠した心を見透かしていく。

「忘れてほしくない」

 想いが溢れるって、こういうことなのかもしれない。

「俺は、その人の人生にい続けたい。」

 言葉が止まらないって、今みたいな状況のことを言うのかもしれない。

「そんな、すぐに忘れられるなんて……嫌だ」

 気持ちを抑えきれないって、こういうことなのかもしれない。

「俺のこと、ずっとずっと覚えていてほしい」

 普段は隠しておきたい本音を、こうも素直に言えてしまう。
 私がようやく気づきかけた感情を、同級生の彼は包み隠すことなく吐き出してくれた。
 今も、昔も、いつだって彼が、世界を引っ張ってくれる。世界を変えてくれるんだってことを思い出す。

「覚えていてほしいだけなのに、なんで叶わないんでしょうね」

 それは、叶わない願いだと知っている。
 過去を、ずっと覚えているなんて不可能なこと。
 昔、私が奏でた音楽を好いてくれた人たちは……もう羽澤灯里という小さな女の子がいたことを忘れてしまった。

「こんなかたちの片想い、辛いです」

 早く、早く、音楽業界を去った私のことなんて忘れてほしい。
 けれど、ずっとずっと私の演奏を覚えていてほしい。
 どっちも叶えることはできない、私のわがまま。
 それを酷すぎる現実と叫びたくもなるけど、私たちは幸せになるために忘れていく。

「羽澤さんも、人なんだね」

 私を救うために現れたのは世界の美しさではなく、河原くんの優しさだった。
 さっきまで自分の感情を曝け出していた河原くんが、今は私を励ますために言葉をくれる。

「少しは部員らしいことを言いたかったのですが……」
「俺は、羽澤さんの本音が聞けた方が嬉しい」

 きっと私たちの関係も、高校を卒業したら終わってしまう。
 同じ学校に通うという奇跡を十二年間も続けていく予定だけど、その十二年間で彼と親しくなれた時間はほんのわずか。
 それを悔やみたくなるほどの濃密さが存在するのに、十二年の終わりに私たちは忘れることを選択するのかもしれない。
 それが、同じ学校に通う同い年という関係性。

「大切なものは失ってから気づくって言うけど、失う前に気づくことができてるなら……できることは、たくさんあるよね」

 気のせいかもしれないけど、本音を伝えることで気持ちが軽くなったような気がする。
 気のせいかもしれないけど、その気のせいすら今の私には心地よい。

「私は、ずっと自分のことを無力だと思ってきて……たくさんできることがあったのに、できなくて……」
「だから、相手には忘れてほしくなるんでしょ?」
「無力な自分なんて、いなくなった方がいいって……」
「だよね。相手には、自分のいいとこだけを覚えていてほしいよね」

 人が自分を嫌いになる瞬間の一つは、きっとこんなとき。
 とてつもなく素晴らしくて大きな優しさに出会って、どうやったらこの人の優しさを超えることができるんだろうと無力な自分に絶望する。

「自分はたくさんの幸せをもらって、私の人生はとても彩り豊かなものになったのに、私は何もできなかった……」

 一方的に、両親から幸せを与えてもらうだけ。
 与えてくれる人が傍にいることのありがたさに気づいているからこそ、自分も相手のために感謝の気持ちを返したい。
 家族なのに貸し借りという言葉を使うのは間違っているかもしれないけど、私は両親のことが大好きだと思う。
 だから、感謝の気持ちを返すことで、お母さんには笑顔になってもらいたい。

「お互いに、酷な道を進もっか」
「随分と抽象的な問いかけですね」

 幸せを認めることができたら、きっと私たちの想いは変わる。

「酷だと分かっていて、尚、進むことを選んだ。止めるものも、阻むものも、私たちの障害にはならないですよね」
「羽澤さんが傍にいてくれたら、強くなれるかも」
「そう思ってもらえたのなら、光栄に思います」

 私は、河原梓那【かわはらしいな】くんのことを覚えていたい。
 河原くんの顔も、声も、河原くんが私にくれた言葉も、ずっと覚えていたい。
 今度は、河原くんを忘れたいって考えに逃げることのないように。
 河原くんの前で自分の無力さを露呈して、最後に別れるとき『忘れてください』という言葉で終わらないために、私は顔をしっかりあげた。

「……綺麗な世界ですね」
「突然、話が変わりすぎ」
「だって、ついこの間まで、受験で頭がいっぱいだったんです」

 胸の中に込み上げてくる感情に気づいて、涙腺が緩み始める。
 どんなに意志を高く掲げていたって、未来の不安が消えるわけではない。

「命ある限り……やれることは無限ですよね」

 そんな未来への不安に押し潰されそうになるけど、誰も泣いていないところで涙を流したくない。

「世界が綺麗だから、俺たちは安心して夢を描くことができるのかも」

 いろいろと都合が良すぎて、新しく生きることを誰かが許してくれているんじゃないかって自惚れてしまう。

「本当に……幸せな時間です……」

 真昼に吹く風と違って、だんだんと吹く風の温度が下がっていくのを感じるけど、その風すらもいいなって思えてくる。
 受験で追い詰められていたときには感じられなかったことを、自分の体が感じられるようになっていく。
 それを、幸福って呼ぶんじゃないかって予感が止まない。

(私は、河原くんからもらったすべてを覚えていたい)

 素晴らしい出会いだって自覚があるからこそ、これからを生きる私の人生は豊かなものになるんじゃないか。
 普段なら浮かぶことのない期待を、ほんの少しだけ胸に宿そうとしたときのことだった。

「着信音ですか……?」

 高校生たちの笑い声が響く海辺で、不意にスマホの着信音が鳴った。
 河原くんのものだったらしく、彼は慌てて制服のポケットを探った。

「悪い! 抜ける!」

 周囲の視線が集まってくるのを感じた河原くんは、真っ先にみんなのことを気遣った。
 心配しなくていいよという声色を残して、彼は海辺から去ろうとする。

「河原くん……」
「じいちゃんから」

 緊張が走る。
 通話ボタンを押す彼の手が微かに震えていたのに気づいて、私は彼に寄り添った。
 会話の内容は聞こえてこないけど、この緊迫した空気を私は知っている。
 幼い頃のおぼつかない記憶と言われるかもしれないけど、母の顔が凍りついたときのことだけははっきりと覚えている。

「危険な状態だって」

 風の音が、耳に響いた。
 彼の表情が青ざめるという展開にはならず、彼はしっかりと自分の足で立とうと力を入れる。

「えっと……えっと……」

 息を呑む音さえも、鼓膜を叩いてくる。

「家族じゃない人間は病室に入れませんが、病院までなら付き添えます」

 力強い声で、彼に言葉を向ける。
 彼が視線を上げると、彼の目には涙が滲んでいた。

「行きましょう」
「……ありがとう」

 砂浜を離れ、急いで近くの停車場へと向かう。
 彼の足取りが重く感じられたからこそ、私は彼の歩みを支えるために彼へと寄り添う。

「ごめん、迷惑かけて……」
「私が好きでやっていることなので」

 おばあさんが危険な状態だと聞かされているにもかかわらず、彼は涙を溢れさせることがない。
 他人の私が傍にいない方が思う存分、泣くことができたかもしれない。
 でも、スマホを手にする彼が震えているのに気づいたから、放っておくこともできなかった。

(病院まで……せめて病院まで……)

 視線を上げると空には薄い雲が広がり始めていた。
 さっきまであんなにも綺麗な色を魅せていた空が、今ではどこかぼやけて感じられた。
 手を伸ばしても美しさを掴むことができないと気づいて、益々、心が切なくなるのを感じた。

「ありがと、羽澤さん」

 バスに乗っている間、苦しいほどの焦燥感に襲われた。

「こういうのって、ドラマとかでは観たことあるけど……」
「河原くん、無理に喋らなくて大丈夫ですよ」

 こんなときまで話し相手を気遣おうとする彼の負担にならないように、彼の厚意を拒むことも大切だと思った。

「……うん、ごめん。ありがと」

 手を繋ぐ。
 どちらから手を握ったとか、そういうのは覚えていない。
 ただ、手を繋ぐことで、河原くんの不安な気持ちを分けてもらえたらと思う。

「ありがと……羽澤さん……」

 車窓から見える景色を記憶する余裕すらなく、バスは目的の場所へと向かっていく。

「病院です、河原くん」
「うん……」

 病院の名前が書かれた看板が目に入ったとき、ようやくまともに呼吸ができた気がする。
 足がもつれそうになりながらも、河原くんは病院の玄関へと飛び込んでいった。

「ごめん、行ってくる」

 私は家族ではないため、最後まで彼に寄り添うことはできない。
 河原くんのおばあさんの無事を願うことしかできない状況のため、私は朝方まで仕事で帰ってこないお母さんに連絡を入れながら彼の帰りを待った。

(私がちっちゃかった頃、お母さんはたった一人で不安を抱えていたのかな……)

 自分の鞄と彼の鞄を抱えながら、ただただ過ぎ去る時間に祈りを込めた。

「羽澤さん」

 何時間経過したのか分からないくらい病院の香りに鼻が慣れてくる頃、おじいさんに連れられた河原くんが私に声をかけてくれた。

「羽澤さん、梓那に付き添ってくれてありがとうございました」

 私は勝手に待っていただけに過ぎないのに、河原くんのおじいさんは深く頭を下げた。
 ぎゅっと力を込めていた両手から、やっと力を抜く。

「どうでしたか……」
「乗り切ったよ……今回は、大丈夫だった」

 河原くんの声はまだ少し震えていたけれど、彼の言葉に嘘はないことをおじいさんが証明してくれた。
 胸の奥に溜まっていた緊張が抜け、やっと深く息を吐き出すことができた。

「こんな遅い時間まで、申し訳なかったね。ご両親には……」
「もちろん連絡は入れています」

 待つことしかできなかったけど、河原くんのおばあさんの無事を確認できたことにようやく安堵する。

「羽澤さん、少しだけ梓那のことをお願いできますか。今度の話もあって……」
「大丈夫です。家族の理解も得られていますので」

 正直に告白するなら、家族の理解は得られていない。
 けど、同じ経験をしたことがあるお母さんなら帰りが遅くなることも許してくれるという確信があった。
 お母さんだったら、河原くんの傍にいなさいって言ってくれる自信があった。

「こういうのって初めてだから、どうしたらいいか分かんなくて」

 昼間の病院も静かな雰囲気かもしれないけど、夜の病院はより一層、静寂という言葉が身に染みる。
 かすかに響く機械の音くらいしか聞こえてこず、薄暗い廊下は不安しか煽らない。

「羽澤さんが落ち着いてたおかげで、病院まで無事に来れた……」

 疲労と安堵が混じった表情を見て、ようやく彼も落ち着きを見せ始めたのを感じる。

「ほんと、ありがと」

 彼は両手で顔を覆っていたけど、すぐにその手は取り払われた。
 涙の跡すら残すことなく、河原くんは私を真っすぐ見つめてくる。

「気づいていると思うけど、俺、両親がいなくて……」

 河原くんは、ゆっくりした口調で話し始めた。
 現代の国語の授業のような睡魔を誘うような喋り方ではなく、これから話しづらいことを話すっていう弱さが垣間見えるような喋り方が印象的だった。

「怖かった。だって、じいちゃんもばあちゃんもいなくなったら……俺、本当に独りぼっちで……」

 怖い。
 独りぼっち。
 そんな不安を煽るような言葉が溢れ出してくるのに、彼が涙を流すことはない。

「世間は、両親のいない子どものための施設を用意してくれてるけど……」

 児童養護施設。
 保護者と暮らすことができない子どもを養護する施設。
 そんな施設があるのは知識として知ってはいるけど、いざ自分がそこに行きますよと案内されたら混乱してしまうと思う。

「家族といたい……」

 私はただ彼の言葉を聞くことしかできなくて、自分には何もできることがないと改めて痛感する。

「そんな気持ちを抱えた子どもも、いるんだって……」

 冷たい電灯の光。
 無機質な壁。
 すっかり太陽が沈んでしまった世界は、真っ暗な闇で覆われていた。
 どれもが不安を煽る材料になるけど、それらすべてを排除する力は自分にはない。

「その望みが叶わないから、児童養護施設っていうのも分かる。分かるけど……」

 何も言葉を返すことなく、彼の背中を優しく擦る。

「俺は……家族とずっといたい……」

 人は、いつか亡くなってしまう。
 誰しも必ず死を迎えると理解していても、頭の中では駄々をこねたい。
 彼の肩が震えているのが分かって、彼の背中を撫でる手にほんの少しの力を込める。

「ずっと……ずっと……じいちゃんとばあちゃんと……」

 河原くんがどんなに願いを込めても、高齢の祖父母との時間には限りがある。
 胸の奥が、ちくりと痛みを感じる。
 でも、自分には何もできない。
 ただ、彼の言葉を否定せずに受け止めることしかできない。

「もう、独りになりたくない……」

 つい数日前までは、顔見知りという関係でしかなかった。
 赤の他人同士であることに変化は生まれないのに、もっと話をしてみたいと思ってしまう。

「羽澤さん」
「はい」

 河原梓那くんの、話を聞きたい。

「俺、家族の愛が欲しい」

 家族の愛は、当たり前に与えられるものではないと知る。
 家族だから、見返りのない愛を注いでもらえるわけではないと知らされる。
 同級生の河原梓那くんは、家族の愛が欲しいという気持ちを溢れさせた。