(今日のお話し会は、第二理科室……)
着慣れない制服を着ている自分は、周囲から浮いてしまってはいないか。
それを確認したくても、放課後の廊下は初対面の人ばかりが溢れ返っている。
人の目を気にしすぎていると気づいたから、私は窓の向こうへと視線を逃走させる。
(高校って、理科室が二つもあるんだ)
そもそも理科室を利用する機会に恵まれていないため、目的の教室に辿り着くまでが一苦労。
中学時代は理科室での実験が多かった気もするけれど、高校での理科系統の学習は大学受験に合格するためのもの。
理科室なんて飾りだけのもので、自分の体で起きている事象を体験するという機会には恵まれないまま高校生活を終えてしまうような気がする。
(教師じゃない私は、何ができるのかな)
ピアサポート部の部員は、同じ高校生。
ピアサポート部の生徒と話をしたいと思っている相手も、同じ高校生。
悩みがあるのなら、高校生ではなく教師に話すべきかもしれない。
でも、ピアサポートの制度を利用する人たちは教師ではなく、同世代の子に話をすることを選んでくれた。
部活内で行われている研修の内容を頭に浮かべながら、私は目的の教室へと足を運んでいく。
(他人の人生を変える可能性……)
言葉は人を傷つける武器にもなるけれど、人を救う武器にもなる。
私たちピアサポート部員は、そのことをしっかりと頭に入れておかなければいけない。
昨日今日が初めましての人たちと関わることの責任の重さと言ったら、とても一人で背負いきれるものではない。
(それでも、やるしかない)
ピアサポート部での活動を乗り切れるかどうかが、自分の未来を決めるような気がする。
教師になりたいって希望はあっても、私の未来はまだ何も決まっていない。
神様が現れて、君が進む道はこっちだよと教えてくれるわけでもない。
(今の私にできるのは、今の人生を生きること)
静かに扉を横に移動させ、第二理科室という名前の教室に足を踏み入れる。
生徒同士のお話し会のため、部屋に鍵をかけることはできない。
扉は必ず開けたままで、いつ顧問の先生が部屋を訪れても大丈夫にしておかなければいけない。
「あ……すみません、お待たせして……」
「あ、本物の羽澤灯里ちゃんだ~」
私を待っていたのは、眩しいくらいの笑顔が特徴的な女の子。
初めて会うにもかかわらず、いつも多くの友達に囲まれているんだろうなって容易に想像できてしまうような社交性に心惹かれる。
「あの、百合宮さんとは、初めましてですよね? どうして私の名前を……」
「感激だな~! あの天才ヴァイオリニスト、羽澤灯里ちゃんとお話しできる日が来るなんて」
ぎこちないだろう笑顔を返した私に対して、百合宮さんは満面の笑みを浮かべながら話しかけてくる。
そして、彼女が私の名前を知っていた理由にも気づいてしまった。
「今は、ただの高校生ですよ」
「ただの高校生じゃないよ! 私からすれば、灯里ちゃんは憧れの人だよ!」
幼い頃に経験した記憶が甦ってくる。
蓋をして、永遠に開かなければいいのにと思っていた記憶が、扉をとんとんと叩いてくる。
「指定された教室はここですけど、かび臭いですね……この教室……」
「窓、開けてもいいかな?」
「開けましょう」
才能がない者は、夢を諦めなければならないと宣告された日の事を思い出す。
「先生に言って、場所を変えてもらいましょうか?」
「灯里ちゃんとお話してみたかっただけだから、場所はどこでも大丈夫だよ」
才能がないなら、才能がないなりに努力をすればいいと思っていた。
才能がある人に負けないためには、努力を積み重ねていくしかないと思っていた。
だけど、最後の最後には。
努力は才能に勝てないということを思い知らされたときの、あのときの感覚が鮮明に思い出される。
「私の名前を知っているってことは、百合宮さん……」
「世界で活躍するヴァイオリニストを志望している、百合宮杏珠ですっ」
暗くて陰湿な雰囲気さえも漂う教室なのに、百合宮さんの笑顔は消えたりしない。
彼女だったら、世界を魅了できるほどの実力ある演奏を響かせることができるのかもしれない。
「灯里ちゃんに会えて、すっごく感動してるの」
「……ありがとうございます」
何を、どう努力すれば、天才の領域に届くのだろう。
考えた。
でも、分からない。
いっぱい考えた。
でも、分からない。
どうすればいい?
どうしたら、私は世界に勝つことができるの?
勝つための方法を、ひらすら考えてきたときのことを思い出す。
分からない。
分からない。
分からない。
努力って、何?
『よくヴァイオリン、続けられるね』
『好きだからって、続けられるものでもないからなー……』
『追いかけるのも大変だけど、上からの転落はもっと大変だよね』
諦めよう。
諦めよう。
諦めてしまおう。
大好きなものを手放す喜びを受け入れよう。
終わるんじゃなくて、これは始まり。
私の、第二の人生開幕。
諦めよう。
諦めよう。
諦めよう。
私が幼い頃に、大好きな世界から卒業することを選んだことを思い出す。
「あ、灯里ちゃん! せっかくなら二人で掃除する?」
「制服が汚れちゃいますよ」
「なかなか掃除のし甲斐があるねっ!」
「演奏家志望の人を、怪我させるわけにはいかないので……」
理科とは無縁そうな道具や資料が山積みの中……そもそも、一体何に使うのか分からないような道具や資料が山積みの教室。
人手は一人でも多い方が助かるけれど、百合宮さんの手は将来数えきれないほどの人を幸せにするための手。
傷ひとつ許されない体なのだから、まともに清掃なんてさせるわけにはいかない。
「百合宮さんは、雑巾禁止です」
「えー」
「私も、普通の高校生をやりたいなーって」
どこから手を付けようかと頭を悩ませていたときに、百合宮さんがいる方向を振り返った。
百合宮さんが笑顔を浮かべていることに間違いはない。
けれど、百合宮さんが河原くんのような無理に笑おうとしていう笑顔を作り込んでいて、私の心はちくりと痛みを訴えかけてくる。
「今を……楽しみたいですよね」
「そうっ! ヴァイオリニストを目指している気持ちは本物でも、なれるかどうかは別問題だから」
自分にも夢を抱いていた頃があったからこそ、百合宮さんの気持ちはとても分かる。
高校生活を楽しみたい自分も本物で、プロになりたい気持ちも本物。
将来が約束されていない実力だからこそ、私たちの心は揺れ動く。
「適当に箒、探してくるね」
「私が行きま……」
音楽で食べていくことを決心して今までの人生を生きているはずなのに、音楽で食べていくことのできる人間の数は決まっている。
「百合宮さ……」
「箒くらいは触らせてー」
こんなに無邪気な笑顔を向けてくる百合宮さん。
彼女がどんなにヴァイオリンを愛していても、どんなに音楽への思い入れがあっても、百合宮さんを必要としてくれる人と出会わない限りプロの道は拓かれない。
「あーかりちゃんっ」
「百合宮さん、軍手」
箒を取りに行って戻ってきた百合宮さんに、私は探し求めていた厚手の軍手を手渡す。
「女子高生は、軍手なんて身に着けません!」
「怪我! してもいいんですか?」
「うっ……」
軍手を身に着けることに抵抗を示す百合宮さん。
それでも、自分が抱いている夢を思い出した百合宮さんは渋々と軍手を受け取ってくれた。
「聖籠高校だったら、音楽科がありましたよね? 掃除も免除されるのでは……」
「さっきも言ったでしょ? 私は、普通にも憧れるの」
楽器を演奏する人にとって、ほんの小さな傷が命取りになることは知識として知っている。
たいしたことのない傷でも、演奏には大きな影響を及ぼす。
聴く人が聴けば、奏でる音の違いはすぐに分かる。
知識としては蓄えられているはずなのに、普通の女子高生としての生活を望む気持ちもあるからこそ百合宮さんは苦しんでいるのかもしれない。
「私の実力だと、プロになれるかどうか怪しくて……」
土曜日に開催される特別講義はお昼で終わったため、今はまだ太陽が輝く時間帯。
百合宮さんは開いた窓から、淡い青が広がる外の景色を見渡した。
大きく深呼吸をして、新鮮な空気を吸い込みたくなる彼女の気持ちがよく分かる。
「実力が中途半端。プロになれるかなれないか、微妙な位置に立っているのは、自分が一番よくわかるから」
やることが山積みの部屋で吸い込む空気は、まだ美味しく感じられない。
窓を開けることで新鮮な空気を取り込むことができるようになったのに、空気を吸い込もうとする動作に息苦しさを感じる。
「灯里ちゃんは昔、天才ヴァイオリニストって呼ばれていたでしょ?」
「昔の話を掘り起こさなくても……」
「私が産まれる前の話だっけ?」
「同い年です!」
「ふふっ、ごめんなさい」
表情がころころと変わる百合宮さんは、小学生みたいな元気で快活な印象を与えてくる。
でも、この感受性の豊かさが将来の彼女の大きな力になるのかもしれない。
「不安と、どうやって闘ってきたの?」
「私は、闘うことを諦めた人間です」
少しも日当たりの良い教室とは言えない場所で、私は気丈に振る舞う。
眩しいくらいの太陽の光を浴びることができない場所で、私は次の未来に向かっているフリをする。
「不安と闘うことが、怖くなっちゃいました」
幼い頃は、望む未来を実現するために命を捧げる覚悟を持っていたはずなのに。
いつの頃からか、心を燃え上がらせるほどの燃料がなくなってしまった。
「あんなに好きだったんですけどね」
現実は、無情で、非情。
そんな言葉を、どこかで聞いたことがある。
でも、どこかの大人が表現した通り、現実は無情で非情だと感じた。
だから、私は大好きなものを手放した。大好きなものから離れる決意をした。
「もう、引いてないの……?」
「ヴァイオリン、売却したんです」
「……そっか」
ヴァイオリンを手放そうと思った瞬間と、家庭の経済状況が悪化したのはほぼ同時。
逃げるには最適の環境が用意されてしまって、私はその既定路線に乗っかってしまった。
それが、自分の心を守る一番の方法。
そんな言い聞かせを続けながら、私は今日まで生きてきた。
「今の私は、普通の高校生です」
ピアサポート部の顧問の深野先生が言っていた通り、同じ高校に通う同士っていうのは大きな強みだと思う。
初めましての相手でも、共通の思い出や感情があるだけで話を膨らませることができる。
そういう意味では安堵の気持ちを抱くけど、共通があるということは他人の痛みを自分の痛みのように感じてしまうときもあるということ。
「お金……かかるもんね」
安価で購入できるヴァイオリンももちろんあるけれど、幼い子どもの習い事と考えると体の成長に合わせてヴァイオリンを買い替えなければいけない。
いつまで習い事を続けるかにもよるけれど、ヴァイオリンが高級な習い事であることに変わりはないと思った。
「子どもって、ずっと子どものままですよね」
「自分で稼ぐことができない限り、ずーっと私たちは子どもだね」
互いの事情を知りながらも、互いの事情に踏み入りすぎない。
ちょうどいい距離感の中、私たちは互いに置かれている環境下を思い合っているのを感じる。
だからこそ、百合宮さんとの間に流れる空気にも不快感が発生しない。
「夢って、裕福な人しか叶えることができないのかな」
「そうであってほしくないですけどね」
両親の収入によって、子どもの人生が変わるっていうのは本当かもしれない。
でも、両親の収入が理由で、子どもの夢が狭まることのないようにと願わずにはいられない。
「私ね、灯里ちゃんみたいな凄い子が同級生にいて驚いちゃった」
過去に経験したことの意味を考えながら掃除をしていたせいか、ときどき雑巾を持つ手が止まってしまっていたらしい。
私の異変に気づいた百合宮さんが、率先して私に話しかけてくれた。
「灯里ちゃんの活躍を見て、勇気づけられた人っていっぱいいると思うんだよね~」
百合宮さんの言葉が、私の心を強く叩いてくる。
天才ヴァイオリニスト現ると、いろんな業界の人たちが騒いでくれた頃のことを思い出す。
そんな風に、もてはやされていたときのことを思い出す。
(ちゃんと……ちゃんと努力はしてきたつもりだったけど……)
将来の夢なんて、まだぼんやりしていた幼い頃。
好きなことで食べていきたいと漠然とした夢を抱いていた頃に、私は賞レースで結果を残すことができなかった。
夢を叶えるための努力を続けていきたかったけど、溜め息を数が増える私に両親は声をかけた。結果の出ない努力に、意味はないと。
「灯里ちゃんを天才って最初に呼んだ人を、ここに連れてきたいね」
「どうするんですか?」
ヴァイオリンが関わる職業は多種多様あると知っていたから、独奏者になれなくてもいい。
ヴァイオリンに関わることができたら、それだけで私は幸せ。
そんな甘えた考えだったから、私は両親に待ったをかけたのかもしれない。
独奏者以外は、意味がない。
両親にとって、独奏者以外の道は選択肢になかったということ。
「あなたたちが騒ぎ立てた天才は、今は普通の高校生ですよって」
「ふふっ、仕返しでもしちゃいますか?」
「おっ、灯里ちゃんにも人間らしい感情があるんだね」
百合宮さんの言葉を受けて、始めに『天才』だと騒ぎ立ててくれたのは両親だったかもしれない。
そんな幼き頃の記憶を辿りながら、私は目の前にいる百合宮さんと言葉を交わしていく。
「私がいなくても、世界は成り立っちゃうんですよね」
「そんなこと言ったら、私も灯里ちゃんと同じ。いてもいなくも変わらない人間の一人だよ」
誰もが、誰かにとってのたった一人になりたい。
百合宮さんとの会話を通して、そういう願いを抱いているのは自分だけではないと気づかされる。
ピアサポート部の部員として百合宮さんを支えなきゃという意気込みがゆっくりと解かれ、私は彼女との会話を楽しむように意識を切り替えていく。
「でも、百合宮さんを支えてくれる何かがあるからこそ、今もヴァイオリンを続けているんですよね?」
「灯里ちゃんは、鋭いね~」
音楽の才能がある者には、音を与える。
音楽の才能がない者からは、音を奪った。
音を審査する人たちは、独奏者を目指す人たちをふるいに掛けていく。
「私の演奏を好きって言ってくれた人がいた。ただ、その思い出だけで、ヴァイオリンにしがみついてるの」
現実は、残酷で過酷。
どんなに音楽への愛情が深くても、私たちは生きるために食べなければいけない。
幼い頃からコンクールで競うことに重きを置いてきた私たちは、お金を稼ぐことと自分の好きなことを続けるかどうかの狭間で揺れ動く。
「音楽業界に、おまえはいらないって言われてるのにね」
独奏者の道を諦めた私は、音楽の世界から離れることを選んだ。
でも、目の前にいる百合宮さんは、今もコンクールに出場し続けている。
「好きなら、続ければいいっていう人もいるけど」
「それは、投げやりな言葉ですよね」
音楽の神様に愛された人は、自分が思い描いたままの道に進むことを許される。
音楽の神様に愛されなかった人は、音楽に携わることを諦めなければいけない。
「だって、愛だけでは食べていくことはできませんから」
音楽を教える教師を目指すという発想には至ったけれど、そもそも音楽の先生は授業中にヴァイオリンの演奏を披露したりしない。
教師になることができたとしても、そこに私がかつて愛したヴァイオリンの姿はない。
「好きなことを続けるには、やっぱりお金が必要ですから」
「生きていくのにお金が必要なのと、一緒だよね」
週に一回あるかないかの音楽の授業。
単位を取ってしまえば、大抵の生徒の人生には関係がなくなってしまう音楽。
ほとんどの人にとって価値のない音楽の授業かもしれないけど、その価値のない中で生まれるものがあるって信じて、教師という新しい夢を見つけた。
(でも、不安)
見えない未来に向かうことが、こんなにも怖い。
それは大人たちも経験しているはずなのに、その恐怖の乗り越え方を誰も教えてはくれない。
「他人への嫉妬って、本当に醜いものですね」
「嫉妬? どうしたの、灯里ちゃん?」
希望していた職に就くことができなかった。
ずっと抱いていた夢を叶えることができなかった。
そんな境遇に立たされているのは、私だけではない。
こういう現実に直面している人たちは大勢いる。
理想していた道を歩むことができかったとしても、前を向くために必死に日々を生きている人たちがいる。
それなのに、私はいつまで悲劇のヒロインを演じているつもりだろう。
「私、百合宮さんに凄く嫉妬しています」
「え? なんで、なんで!?」
早く前を向いて、新しい夢を探しにいかなきゃいけない。
これからも続いていく毎日を生きていくために、しっかりしなきゃいけない。
「私は、灯里ちゃんの演奏が凄いって話をしただけ……」
「好きって感情を、真っすぐに伝えられる百合宮さんがかっこいいなぁって思います」
立てる、だろうか。
一人で立って、歩いていくことはできるだろうか。
頭で理解しているつもりのことを、実行していく勇気と覚悟。
私には、きちんと備わっているのか。
「好きなものは好き、だよっ!」
「そういうところが、かっこいいです」
何かは始まったのかもしれないけれど、何が始まったのか具体的に述べることはできない。
だけど、何かを終わらせることはないようにしたい。
大好きなものを手放す喜びを、理解してほしくない。伝えたくない。
この感情だけは、知らないままでいてほしい。
「っ」
世界が光に包まれて、辺りが真っ白に染まっていくような感覚。
何も見えなくなるくらい多くの光が降り注いで、私は目を開けていることができなかった。
それだけ太陽の光が降る注ぐ時間帯に下校する特別感に、ほんの少しだけ胸がときめいた。
(百合宮さん、かっこよかった)
奇跡のような、夢のような、物語のような、百合宮さんとのお話し会が終わりを迎えた。
土曜日の特別講義から解放されただけでもありがたいのに、百合宮さんから夢のような素敵な時間をもらった。
交わし合った言葉に素敵という文字は見つからないのに、感情を共有するという感覚が私の心をほんの少し軽くしてくれた。
(好きなものを続ける覚悟……)
このあとの予定を話し合う声を背に受けながら、校門に向かっていく。
中学のときまでは同じ方向に帰る友人がいたはずなのに、高校生になると同じ方向に帰る人を探すのすら難しくなる。
それだけ交友関係が広がったということでもあるけれど、私の日常は高校生になったからといって中学時代とあまり変わらない。
話をする友達はいるけど、きっと彼たちはクラスが変わると同時に付き合いがなくなる。
親友と呼べる存在を必要としたこともなく、きっと私はこれからも希薄な人間関係の中で生きていくのだと思う。
(この空を、綺麗だって思うのは私だけ)
中学時代と唯一、変わったこと。
それは、目の前に広がる景色。
(歩く道が、光って見えるのも私だけ)
いつもなら薄暗い夕方に歩く道が、太陽の光を浴びて輝いて見える。
中学時代と変化があることを嬉しく思うのに、羽澤灯里という人間を見つめ直すと何も変化がない。
独りでいることは楽だって思うけど、盛大な溜め息を拾ってくれる人は現れない。はずだった。
「羽澤さん?」
校門を出るタイミングで、校門に潜んでいた彼から声をかけられた。
「河原くん……」
心臓が一瞬、跳ねるような動きを見せた。
「講義……と、この時間だと部活かな? お疲れ様」
「河原くんも、お疲れ様でした」
また彼の柔らかな笑みに会えることを期待したけれど、そこに私が好きだと思う彼の笑顔は存在しなかった。
声だけはいつだって優しさを含んでいて、他人を心配させないように配慮しているのを感じるのは事実。
それなのに、昔のような満面の笑みだけは消失してしまっている。
「お話し会、以来ですね」
「その節は、お世話になりました」
私の口調を真似する河原くんに、思わず口角を上げてしまったのは私だった。
「河原くんも、いま帰りってことは……帰る方向が一緒ですよね?」
同じ中学に通っていたこともあって、彼とは通学手段が同じだと思って声をかける。
一緒に帰ろうという思惑が働いたというよりは、ちょっとした世間話のつもりで話しかけてみた。
でも、この思いつきが、私に次の展開をもたらした。
「あ、俺、中学のときとは住んでるとこ違うんだ」
空を見上げた瞬間が重なって、私たちは青い空に散らばる桜の花びらを見た。
「……桜って、枯れるの早いね」
「ついこの間まで、満開の花を咲かせていたんですけどね」
ほとんどの桜の花びらは一瞬の命を咲かせ終わり、枝に残っている花びらは数えられる程度。
その、たった数枚の花びらが風に乗って、蒼の空へと映り込んだ。
その瞬間を、私たちは一緒に見上げた。
「羽澤さん、暇?」
彼からの誘いに、私は首を縦に振って頷いた。
「ここは……」
鐘木高校は、海辺の近くにある学校。
徒歩十分程度で、私たちは潮の香りが混じる風を受けるところまでやって来た。
「俺のばあちゃんが営んでいる、海が見える本屋の近く……海っていうか、砂浜っていうか……」
「河原くんの、おばあさん……」
砂浜に並行するように続癒えているアスファルトの道路を歩いていると、古びた木製の看板に『海の見える本屋』と書かれているお店を見つけた。潮の影響を受けたせいなのか、お店の扉は灰色がかっていて開くのも大変そうな印象だった。
「今は、おばあさんの家にお世話になっているんですね」
「いきなり年代の違う人と暮らすって、結構、身内でも大変だなって感じ」
海の見える本屋の扉を開けると、錆びついたベルがからんという音を響かせようと意思を働かせる。
でも、理想通りの音を鳴らすことができず、私はベルの音に迎えられることなくお店の中に招かれることになった。
(受験が終わって、一ヶ月くらい)
高校受験が終わったばかりの河原くんの表情は、きらきらとした輝きを帯びていた。
鐘木高校に入学して、ピアサポート部の活動を通して彼と再会して、彼は周囲から愛される素敵な笑顔を失っていた。
(海の見える本屋に住むようになって、何かが起きた……)
その、何かを詮索するつもりはない。
彼のことを根掘り葉掘り聞くつもりもないけれど、彼が与えてくれる情報をひとつひとつ拾い上げていく。
「昔は、ちゃんと本屋をやってたんだけどね」
外には晴れやかな空が広がっているのに、海の見える本屋はただただ薄暗い。
無数の本が積まれて店内をそっと歩くと、古い紙の香りを体全体で感じた。
「ばあちゃんが倒れたのを機に、閉じることにしたんだ」
私たちの間に静かな時間が流れると、波音が海の見える本屋に溶け込むような穏やかさを運んでくる。
「あ、ばあちゃんは生きてるから、気遣わないでね」
口には出すことができなかった疑問は、河原くんがあっさりと解決してくれた。
まるで答えを用意していたかのような鮮やかな流れだったから、おばあさんが生きているという事実に嘘はないのだと信じる。
「転ばないようにね」
「お気遣い、ありがとうございます」
海が見える本屋という言葉だけを聞けば、なんて素敵な響きと思ってしまう。
けど、私の視界に入ってくる海の見える本屋は悲しいくらい寂れて視界に映る。
「羽澤さん、アイスでも食べる? 喉、乾いたよね」
彼を追いかけないと、私は積み重ねられた本の中に置いていかれてしまう。
迷子になるほどの広さはないはずなのに、迷子になるんじゃないかって焦りは彼を追いかけるきっかけになる。
「こっちが住居スペース」
海の見える本屋と呼ばれていくくらいだから、もちろん本屋から海までの距離は近い。
こんなにも本との相性が最悪な場所で本屋を経営するのなら、潮風で本が傷まないように工夫すべきだと思う。
それなのに、この海から見える本屋に工夫の陰は見られない。
「アイス、あった気がするんだけど」
河原くんは本屋さんと繋がっている住居スペースへと私を手招くと、冷凍庫の中から目的のアイスを探し出す。
(海の見える本屋が閉店して、時間が立ってるのかな)
待っている間、荒れ果てた店内を振り返る。
清掃をした方がいいと思うものの、きちんと片付けようと提案する人は現れない。
(海の見える本屋は、終わりを迎えた場所)
二人で口を閉ざしてしまうと、お店の外の音がよく聞こえるくらいの静寂が漂う。
海の見える本屋と書かれている看板が、風で揺れる音。
絶えることのない波の音。
海の見える本屋を訪れたのは初めてのはずなのに、活気ある時代が過去のものとなってしまったことに胸を痛める。
「ばあちゃんの経営なんて、こんなものだよね」
店内の本が駄目になったのをおばあさんのせいにするような言い回しをするけど、やっぱり彼の声は優しい。
おばあさんを責めるつもりはどこにもなく、他人の心境に合わせて言葉を呟いただけなのだと察する。
「夏には早いけど、はい」
「ありがとうございます」
畳が敷き詰められた部屋に招かれると、中央に低く構えたちゃぶ台。
壁際には、深みのある木の色が沈み込んだ古箪笥が静かに存在感を放っていた。
古き良き日本と呼ばれていた頃を思い返すような光景に目を奪われながら、河原くんからアイスを受け取った。
「ありがとうございます」
「和風の家屋って、今どき、珍しいよね」
「少し緊張しますね」
懐かしいと感じるはずのない風景なのに、不思議と心が穏やかになる。
右手でアイスを持ちながら、もう片方の手で畳の感触を確かめた。
「これ食べたら、送る」
ちゃぶ台の向こう側に河原くんがいて、私は正座をしながら河原くんを見つめる。
わざわざアイスを食べるためだけに、私を海の見える本屋に連れてきたことへの不可解さに首を傾げる。
アイスをご馳走してもらえるような仲じゃないのは明らかだけど、これといった理由が見つからないのならアイスを口にしていくしかない。
(なんで、ピアサポートを利用したのか)
目の前には、私がよく知っている人がいる。
小学一年生のときからの付き合いはあっても、私は彼に関する情報はほとんど持っていない。
(なんで、海の見える本屋に連れてきたのか)
付き合いばかりが無駄に長くなってしまって、今日も私たちは同級生のまま進展がない。
「りんご味、嫌い?」
食べる速度が遅いことに気づいた河原くんは、私を気遣う言葉をくれる。
「ううん、違います……ごめんなさい、いただきます」
今の河原くんと、どういう風に会話を続ければいいのか分からない。
生まれる空白の時間に気まずさを感じることがないのは河原くんの人柄のおかげかもしれないけど、できてしまう空白に申し訳ないって気持ちだけは止まらない。
「……月曜も、羽澤さんに会いたい」
冷えた物を口にした瞬間、彼は熱を帯びた言葉を零す。
「でも、羽澤さんは、誰かの相談を受けなきゃいけないからなー」
まるで、今日で会うのが最後。
そんな空気感をまとう言葉を告げられたけど、彼は自分が溢した言葉を気にすることなくアイスを食べ進めていく。
「結構……暇ですよ」
ピアサポート部とは、学生生活を仲間が支えるために思いやりを学んでいくための部活動。
同じ学校に通っているピアサポート部員に、何か話を聞いてもらいたいことがあったときに生徒たちはピアサポート部を活用する。
「部活は週に一回しか活動がなくて、お話し会の予定が入ったときだけ活動日が増えるって感じなので」
心理カウンセラーでもない高校生が同じ学校に通う人たちの話を聞く活動ということもあって、週に一回、研修会というものが催される。でも、その研修会を経験したからって、心理カウンセラーの資格は得られない。やっぱり私たちは、高校生でしかない。
「高校生が、高校生に話を聞いてもらう制度に……なんの意味があるのかって思う人たちもいるんですけど」
このピアサポート部は創設されたときから、部員が途絶えたことがないらしい。
私が卒業した後も、きっと誰かが誰かを助けるための制度は続いていくと信じている。
「河原くんが必要としてくれるなら、いつだって駆けつけます」
ピアサポート部が存在しなかったら、私と河原くんは同じ学年に属する他人のままだった。
「頼もしい、羽澤さん」
「言葉の通り、頼もしくなりたいな……と」
高校生活は三年の年月があるけれど、同じクラスになることができない同級生は数多くいる。
ほとんどの人たちとは他人という関係性のまま卒業式を迎えて、私たちは同級生という関係を終わらせる。
それが、普通。
それが、当たり前。
他人とは、他人のまま終わっていく。
それが、普通。
それが、当たり前。
「他人のために生きたいって思う羽澤さんは、かっこいいね」
「そんな凄い話ではなくて……」
「他人のためにたのもしくなりたいって、最高にかっこいいって」
河原くんは立ち上がって、食べ終わったアイスのゴミを捨てる。
「前も言ったけど、俺は夢が迷子だから」
楽観的な声を発したけれど、そこには『悔しい』という正反対の感情が含まれているような気がした。
(また、私に心配をかけないように配慮してる?)
きらきらとした輝きのある笑顔を見せなくなってしまった河原くんだけど、彼の優しさは彼と再会したときからずっと続いている。
変わらない河原梓那くんが、そこにいる。
それは確かなことなのに、他人の私にとっては彼との距離がまだまだ遠い。
「第一志望校に受けるって夢を叶えられたのに、どうして幸せを感じないのかな」
「おめでとうって言葉、欲しかったですよね」
進路を意識し始めたのは、中学二年生くらいの頃から。
そこから長きに渡る受験生活を乗り越えたのに、合格の先に待っていたものは次の進路を考えることだった。
「高校の先生たちはもちろんですけど、私、両親からもおめでとうの言葉がなかったんです」
ひたすらに問題集と向き合った日々も、朝早く起きて続けた勉強も、試験前のプレッシャーも、何ひとつ認めてくれることはなかった。
「塾に通ったおかげ、塾の先生のおかげ……それは確かにそうなんですけど、あれ? って思っちゃいました」
第一志望校の鐘木高校に入学することで煌く希望を手にできると思ったのに、虚しさに押し潰されそうになった日のことは今も忘れられない。
「自分が積み上げてきた頑張り、どこに行っちゃったんだろうね」
「おめでとうの言葉をもらうのって、こんなにも難しいんだなって」
血の繋がりのある両親だったらっていう期待はあっけなく崩れ、自分の努力を知っているのは自分だけなんだと思い知らされた。
「そっか……だから、幸せじゃないんだ」
河原くんは、じっと宙を見つめていた。
「あ、でも、これは私の経験で……」
「俺も同じ。おめでとうの言葉、なかったなって」
けど、すぐに私に視線を戻した。
「両親から、おめでとうの言葉をもらうために頑張ってたんだ……」
高校受験に合格するのが、河原くんの夢だったことに間違いはない。
でも、その夢の中には、両親の笑顔が含まれていた。
「両親のために頑張ったから、こんなに虚しいってことか……」
私も河原くんも、自分のために頑張れば良かったのかもしれない。
高校受験に合格するのは両親に喜んでもらうためではなく、自分の夢だって自覚しながらの受験だったら、こんなにも虚しい感情に縛れることはなかったかもしれない。
「でも、両親のために、頑張りたかったですよね」
自分の夢の中に、両親の笑顔を含むのは間違いですか。
そう大人の人たちに問いかけたら、間違いですって返されるかもしれない。
でも、私も河原くんも、両親の笑顔が見たかった。
両親の笑顔のために頑張った自分を、今はどうしても否定したくない。
「河原くん、合格、おめでとうございます」
河原くんが求めているのは、私からの『おめでとう』の言葉ではないと分かっている。
彼が求めているのは、家族からの『おめでとう』の言葉だと知っている。
でも、この言葉を伝えずにはいられなかった。
「羽澤さんも……」
河原くんは躊躇いながらも、ゆっくりと口を開いた。
「鐘木高校、合格。おめでとう」
河原くんは上手く笑うことができなくなってしまったかもしれないけど、私は上手に笑えるように心がけた。
「ありがとうございます」
「俺こそ、ありがとう」
おめでとうの言葉を求めているのは、自分だけだと思っていた。
でも、他人と同じ思いを抱えていることを知ると、孤独感が薄れていく気がした。心がほんの少し軽くなったのを感じた。
「そろそろ、送ろっか」
「まだ太陽が輝く時間帯ですけどね」
「海辺まで連れてきちゃったのは俺だから、見送りくらいさせてよ」
手渡されたアイスはりんご味だったはずなのに、最初はりんご味のアイスを食べたっていう感覚がなかった。
味覚が死んでいるとかそういうことではなくて、彼と一緒に食べるアイスだから、味がしなかったのだと思った。でも。
「河原くん」
今は、ちゃんとりんご味のアイスを食べたって自覚がある。
「アイス、ご馳走様でした」
今は、ちゃんとりんご味のアイスを美味しいって感じることができた。
「羽澤さんは、何が好きなの?」
太陽の光が燦々と降り注ぐ午後。
海岸沿いを並んで、高校の方角へと向かって歩く。
「好きなものが、将来の夢に繋がっていくとか言うから」
波の音が優しく耳に響き、遠くでは真っ白な鳥が自由に舞っている。
砂浜は日差しを受けて、きらきらと輝いて、青春らしい空気が私たちを包み込んでいる。
「私は……音楽、かな」
河原くんの前で、初めて丁寧ではない喋り方をした。
青春っぽい空気に踊らされたのかは自分でも分からないけど、この喋り方をしてみたいと思った。
「音楽? J-POP……じゃないか。クラシック?」
河原くんの視線は空に向けられていて、無限に広がる青を見つめていた。
私は、ずばり言い当てられたことに驚いて、彼に視線を向けた。
「そんなに詳しくはないですけど……はい」
私たちは青春らしい空気をまとっているはずなのに、交わす言葉たちに熱らしきものは感じない。
河原くんは私の気持ちを汲むような優しい話し方をしてくれるけど、ぎこちなく動く口角はやっぱり気がかりだった。
「河原くんは、好きなものありますか? 将来に関係なく」
「勉強以外、なーんにもない人生だったかなぁ」
大きく腕を伸ばして体を解そうとするけど、真新しい制服を着込んでいる彼は腕を伸ばしづらそうにしていた。
「体育の授業で活躍してるとこ、見かけたことありますよ」
中学時代に同じクラスになることはなかったけれど、隣のクラスと体育の授業が合同になったときに彼の活躍を目にした。
小学校時代と変わらない運動神経の良さを羨ましく思ったことがあるのは、今も記憶に残っている。
「運動神経に恵まれたってだけ。そこに、好きも嫌いもないってところが……ね」
海は驚くほど穏やかなのに、心はずっとざわついたまま。
それを青春らしいという言葉で表現するのかもしれないけど、青春という言葉では片づけないでほしいと叫びたい。
「羽澤さんは、好きな音楽を伸ばす方向に進むの?」
高層の建物がない場所では、空も海も大地さえも広い視野で観察することができる。
時が流れれば流れるほど太陽は沈んでいくはずなのに、太陽はさらに輝きを増しているような気がしてしまう。
それだけ、視界に映り込む世界が美しすぎて嫌になる。
「私は、ちっちゃいときに諦めちゃいました」
どんなに頑張った、どんなに努力したとアピールしたところで、結局は自分をプロと必要としてくれる人と出会わなければいけない。
結果がすべてとは言うけれど、プロとして音楽を続けることはできませんと手渡された現実は想像以上に重たかった。
「お金を稼ぐことができない音楽に、価値はないって」
空も、海も、深い青が広がっている。
その蒼が美しすぎて、視界を背けたくなる。
それなのに、海沿いの道は真っすぐ続いている。
「もちろん、そんなことはないです。お金がすべてではないですけど、幼少期の習い事って……どうしてもお金がかかってしまうので……」
もうしばらく歩かなければ、広がる青から逃げ出すことはできない。
だから、私は隣を歩く河原くんに助けを求める。
「親の経済的な負担になる音楽では、音を楽しむことができないなって」
今だけ、視界に入れることを許してくださいって。
「……羽澤さんは、後悔してる?」
ピアサポートの活動をしているわけではないけど、彼の背中を押すための言葉を紡ぎたいと思っていた。
でも、私は救い上げる側の人間ではなく、彼から救われる側の人間だった。
「後悔だらけの人生、です」
プロの道に進みたいという夢は確かに私の中に存在していたのに、その夢は霞のように儚く消えてしまった。
「今も絶賛、後悔中です」
誰からも必要とされない音楽は、お金にならない。
お金にならない音楽は、幼少期の両親の負担にしかならない。
ヴァイオリンが裕福な家の習い事だと気づいた瞬間。
神様は、夢を追いかけられる人と追いかけられない人の二通りに分けているのだと絶望した。
「後悔している割に、綺麗に笑うね」
「……綺麗に、笑えてますか?」
「うん、大丈夫」
鏡のない場所では、自分の表情を確認することができない。
自分が口角を上げることができているのか不安になっていたことに気づいた河原くんは、真っ先に気づいて励ましの言葉を与えてくれた。私なんかよりも、よっぽどピアサポート部の部員らしいと思った。
「良かった……」
声にするつもりはなかったのに、声が漏れ出てしまった。
ちゃんと笑顔を作ることができれば、家に帰ったとき家族に心配をかけずに済むっていう安堵の気持ちが私を包み込む。
「良かった……」
学校に帰る、途中の道で。
隣を歩く彼に、泣いている顔を見せることがなくて良かったと思った。
音楽を捨てたことを未だに後悔しているからこそ、前を向いているフリができた自分を褒め称えたい。
一瞬だけでも綺麗な笑みを浮かべることができれば、家族を誤魔化すことができるのだから。
「好きなことも嫌いなこともない人生も辛いって思ったけど、好きがあるっていうのも辛いね」
彼の視線の先には私がいて、彼は私のことしか見ていない。
真っすぐな瞳で、とんでもない発言を投げつけてくる彼が纏う空気はどこか儚い。
「好きを続けるには、覚悟が必要だって……ちっちゃいときに学びました」
なるべく心配をかけないような、それこそ昔の河原くんが見せてくれたような綺麗な笑みを心がけた。
「凄く……凄く……悔しかったなぁ……凄く……」
悔しくなんかないよって言葉を伝えることが、ピアサポート部の部員としては正しいのかもしれない。
でも、そんな見栄を張る余裕すらないくらい心はぼろぼろ。
努力で覆せるものはあると信じてきたけれど、努力だけではどうにもならないことがあると知った。
いざ自分に才能がないことが分かると、心が切り裂かれたように痛みを感じる。
「音楽でご飯……食べたかったなぁ」
私が挫折したタイミングと、両親が離婚したタイミングがちょうど重なって、私の前には都合よく逃避するための環境が用意された。
その環境に乗っかって今日まで逃避行を続けてきたけど、その逃避行は今のところ後悔の感情しか招いていない。
「音楽で食べていけないって現実、認めたくなかったです」
私が生きてきた世界では、聴く側のプロがいる。音を審査するためのプロがいる。
そういう人たちが、才能ある人と才能のない人たちに分けていく。
音楽の神様に愛された人間は、未来永劫、音楽を続けていくことを許される。
音楽の神様に認められなかった人間は、どんなに音楽と言うものを愛していてもプロとして活躍する活路は用意してもらえない。
「羽澤さんは今も、音楽を愛しているんだね」
同い年の彼は、まるで私が生きてきた人生を見ていたかのように声をかけてきた。
「それは……」
泣きたい。
でも、泣かない。
泣くって、悔しいって思ったから。
屈したみたいで、嫌だったから。
だから、泣きたくても泣かない。
そんな道を選択した。
「当たり前のように、私の中に存在している感情です」
時代が流れることで、プロもアマチュアも関係なく活動ができるようになっていく。
私が社会人になることで、経済的な問題も解決できる。
自由に音楽を楽しむことができる環境が待っているのは間違いないけれど、その自由に音楽を楽しむことができる環境を手にするまでが遠い。時間がかかりすぎる。
残酷な結末を手渡されたまま、理想の環境を手に入れることの難しさを知って、この先の人生に楽しみを持つこともできない。
「音楽は、私にとっての生きがいですから」
今の私は、ちゃんと笑えているのか。
鏡がないと自分の顔を確認できないことが、ほんの少し怖い。
「将来は、音楽の先生になれたらいいなと」
こんな立派なことを言っているけど、本当は少し違う。
両親から公務員になりなさいって言われて、ほんの少し抵抗。
両親の願いと、自分の願いを叶えるために見つけた道が、音楽の教諭という職業だった。
「ピアノの練習、頑張らないとですけどね」
物分かりがいいフリをして、私はもう立ち直りました。
元気です、大丈夫です。
そう見栄を張って、両親から愛される努力を始めた。
だって、そうでもしなかったら、あの子はまだ音楽にしがみついてって。
そんな評価を下されてしまうのが、怖かった。怖かったから、無理矢理に夢を見つけた。
「必要とされる人間になりたいので」
河原くんに嘆きを訴えても、何も変わらない。何も始まらない。
世界から必要とされなくなった私は、ただ前を向いて生きていかなければいけない。
明日、命が終わってしまわない限り、私の人生は続いていく。
だから、もう心配しないでくださいって、嘘を吐く。
「かっこいいね、羽澤さんは」
「かっこつけているんです」
私がプロとして食べていくことができなかったのは、すべて自分の責任。
私の人生は、私だけのもの。
河原くんに想いをぶつけたところで、何も変わらない。時間は戻ってこない。
大好きだった音楽に触れる、大好きだったあの日々に帰ることはできない。
だから、無理にでも口角を上げる。
「俺は、自分が嫌いになった」
河原くんの口調が、まるで昔話を語り出すかのような口調に変わった。
「だから、かっこよく見えるんだよ。羽澤さんの生き方が」
大丈夫なフリをしている私を見かねて、河原くんは話を合わせてくれているだけかもしれない。
それでも、どこか心が通じ合ってしまう会話のやりとりに泣きそうになる。
(河原くんの優しさに泣きたいのか、彼の気遣いに泣きたいのか……)
それとも自分のことが情けなさすぎて、泣くことでしか感情を発散させる術を知らないのか。
自分のことなのに、自分のことが分からない。
それでも涙が溢れそうになって、緩み始めた涙腺を手の甲で擦る。
「昔は、自分をこと……好きとか嫌いとか考えたことなかったのに」
私たちは、足を止めた。
「いつから、自分のことを嫌いだって思うようになるんだろ」
足を止めるタイミングが重なって、なんだかそれを奇跡って呼ぶのかなって負った。
「自分を嫌いになった俺には、未練とか悔しさとか……」
自分を嫌いになったときの河原くんが、どんな様子で、どんな想いを抱いていたのかは分からない。
その瞬間に立ち会うことができかったのだから仕方のないことだけど、私は自分を嫌いになった瞬間の河原くんに会ってみたいと思ってしまった。
「そういう、糧にしていかなければいけない感情を、すべて失った」
語り口調は楽しそうなのに、河原くんの表情は少しも楽しそうに見えなかった。
当時の河原くんのことを考えると、なんだか自分が泣きたくなってしまうような感情にすら駆られてしまう。
河原くんことを真っ先に気にかけなければいけないときなのに、私はそんな自分本位な想いに駆られる。
「俺は、きっと人形みたいな生き方をしていくんだと思う」
波のささやきが、寄せては返す。
そんな表現が相応しいような音が、私たちの聴覚に届けられる。
「羽澤さんは、違うよね」
時折、吹きつける風に言葉がかき消されそうになる。
でも、私は彼の言葉を聞き逃したくないと思った。
「羽澤さんは、まだ音楽の世界を愛している」
聴く側のプロに愛されなかった私だけど、今も音楽の世界で食べていきたい。
聴く側のプロに切り捨てられた今も、私の中からその想いは消えることがない。
そんな私を、神様はしつこいと思うのかもしれない。
いつまでも未練がましい奴だって、あざ笑うのかもしれない。
「凄いんだよ、好きなものがある人って」
その言葉を、綺麗な笑みを浮かべた河原くんの声で聞きたかった。
「音ある世界を生きたいって、本気でかっこいい」
私が今でも好きだと思う、その笑顔。
その笑顔は、私を救ってくれるはずだった。
でも、目の前にいる彼に、他人を巻き込んでしまうくらいの朗らかな笑みは存在しない。
彼の声だけは、ずっとずっと優しさを含んでいるのに、彼は笑みを浮かべることができていない。
「河原くん、私は……」
どこからともなく、管楽器が音合わせをしている音が聞こえてきた。
潮風が頬を撫でるような場所で管楽器の音が響くわけがないのに、私は音の出どころを探してしまった。
「聖籠高校の管弦楽部?」
私は街並みに目を向けてしまったけど、河原くんは海に視線を向けていた。
「こんなところで演奏したら、湿気で楽器が駄目になる……」
一緒になって、海辺を覗き込んだ。
そこにいたのは、河原くんが指摘した通り聖籠高校の制服を着ている生徒たち。
制服の襟が風に揺れらながら、それぞれが大切な楽器を手にしていた。
「弦楽器と管楽器が、一緒に活動してる」
「はい、だから……管弦楽部って言うんです」
弓が弦に触れる瞬間、管楽器に息が通る瞬間。
それぞれの音が少しずつ繋がり、一つの作品を完成させるための準備を進めていく。
その様子を、海辺を訪れた観客たちは静かに見守っていた。
(湿気でやられても、大丈夫な楽器たちなのかもしれない)
どこの高校も少子化が進んでいて、ひとつの部活を形成するにも苦労しているという話は聞いている。
現に私たちが通っている鐘木高校は部員が足りないことが理由で、サッカー部と野球部が二年前に廃部となった。
近くの聖籠高校の管弦楽部も同様で、眠り続けて使われなくなった楽器たちが増えているのかもしれない。
眠らせたままなら、海での演奏に使おうということなのかもしれない。
「海辺の高校ならではだね」
自分では考えられなかった演奏会が、目の前で開催される。
釘づけになって言葉を失っている私を気遣うように、河原くんはときどき言葉を挟んでくれる。
これは夢でもなんでもなく、現実だってことを教えるために声をかけてくれる。
(海辺での演奏なんて、できないものだって思い込んでた)
私たちが通っている鐘木高校は、学校街と呼ばれている場所に存在する高等学校。
学校街と名づけられていることもあり、学校街には鐘木高校だけでなく、聖籠高校や、その他の高校が集合している。いろんな高等学校が集合しているからこそ、私たちは海辺の演奏会に参加することができた。
(不可能を可能にする音楽……)
やがて指揮者が腕を振り上げ、一瞬の静寂が広がる。
そして、その静寂を抜け出すように音楽が海辺全体へと広がっていく。
弦楽器が奏でるメロディ、管楽器の澄んだ音色が、海辺という舞台にひとつの作品を生み出していく。
演奏する生徒たちの表情は引き締まってはいるものの、音を楽しむ気持ちが込められているおかげで堅苦しさを感じない。
楽器たちが織りなす旋律が心に溶け込んでいき、さっきまで泣きそうだった気持ちが少しずつ晴れていく。
(聖籠高校……行きたかったな)
心の中に、いくつもの感情が渦巻いていく。
懐かしさ、切なさ、悔しさ、言葉では表現しきれないほどの感情が次から次へと生まれてくる。
(管弦楽部、入ってみたかったな)
管弦楽部が演奏する作品は、ただ音として耳に届くだけではなかった。
心の奥深くに響き渡らせるために、彼らが演奏しているってことが伝わってくる。
(でも、今を選んだのは、私)
最後の一音が消えた瞬間、観客たちの拍手が波のように広がっていく。
海辺の演奏に相応しい波音と盛大な拍手が聴覚を刺激して、私も自然と手を叩いて拍手を送った。
アスファルトの道路からでは拍手が届かないと分かっていても、それでも拍手を送らずにはいられなかった。
「羽澤さん」
「はい」
海辺の観客たちは、アスファルトの道路にいる私たちの分も、手を大きく叩きながら声援を送ってくれた。
そんな様子に見入っていると、隣に並んだ河原くんが声をかけてきた。
「いい顔してる」
彼と、視線を交える。
演奏をしていたのは聖籠高校の管弦楽部の生徒たちなのに、彼は私の表情が眩しく輝いていると指摘する。
「っ、そんな……そこまでいい顔は……」
「受験が終わった日の笑顔、思い出す」
穏やかで優しい声が降り注ぐ。
河原くんの優しさは昔から何ひとつ変わっていないのに、どうして彼は笑顔を浮かべることができなくなってしまったのか。
「羽澤さん、時間ある?」
あまりにも美しすぎる世界に、近づく勇気すら出なかった。
「もっと近く、行ってみない?」
眩しいほど美しい演奏を、ただただ見つめることしかできなかった。
でも、河原くんは、私の背を押すための言葉をくれる。
「今から、ここにある楽器の体験会を開きます」
一歩、また一歩、私は聖籠高校の管弦楽部へと近づく。
遠くから見ているだけだった世界が、視界いっぱいに広がる。
「羽澤さん、弾ける楽器ある?」
吹奏楽部でも、管弦楽部でもない河原くんは、こんなにもたくさんの楽器を見るのは初めてかもしれない。
控えめに声をかけた河原くんは少し緊張した面持ちで、久しぶりに彼の感情が動いたのかなって期待が生まれる。
「……ヴァイオリン」
「ここにある楽器は、ずっと倉庫で眠っていた楽器たちです」
私がヴァイオリンと口にするのと、部長らしき女子高生の説明が重なった。
「譲ることもできない状態の楽器たちに、どうぞ触れてみてください」
少子化で部員も少なければ、楽器のメンテナンスにかけるお金も少ないということなのかもしれない。
どうしようもできない現実に心を痛めたところで、楽器たちは過去の音色を取り戻すことができない。
「一緒に、音を楽しみませんか」
メンテナンスされていなかった楽器は海辺の湿気に晒されていくけれど、それを悲しさだけで終わらせたくないと思った。
「河原くん、私……」
「いってらっしゃい」
いってらっしゃいと言葉をくれた彼の表情が、ほんの少し。ほんの少しだけ、過去の笑みを思い出させるものだったのは私の都合のいい解釈なのか。それとも、本当に自然な笑みを浮かべてくれたのか。
答えを見つけられないまま私は、河原くんに背中を押される。
「あの、ヴァイオリンお借りできますか」
「大丈夫ですよ」
潮を浴びた楽器たちは管弦楽部員の手にかかって、あれだけ人の心を引き寄せる音を奏でることができた。
まだ、音を鳴らしたいって気持ちが楽器に残っているのなら、私は手を差し伸べたい。
過去にヴァイオリンを拒んだ後悔があるからこそ、今度はヴァイオリンを愛するために音を鳴らしたいと思った。
「すぅー、はぁー」
大きく深呼吸を繰り返す。
「緊張しますよね」
「とても……」
背筋を伸ばす。
「ヴァイオリンの持ち方は……」
「これで大丈夫ですか」
もう十年以上、ヴァイオリンには触れていないはずなのに。
私の体は、音楽を愛していた頃の記憶をしっかりと覚えていた。
「あ、綺麗ですね。経験者ですか」
「ちっちゃい頃に、ほんの少しだけ……」
思っていたよりも軽いのに、肩に置くだけで圧倒的な存在感を感じることができる。
小さな手で弦を抑え、弓を滑らせた、あの瞬間が一気に甦ってくる。
幼い頃に感じた喜びの気持ちは私を奮い立たせ、私の中で覚悟が決まる。
「弾きます」
その一言を最後に、案内をしてくれた高校生は私に自由を与えてくれた。
指先は迷いなく弦に触れ、その指先から感じた懐かしさは体を自然に動かしてくれる。
かつては演奏者がいたはずなのに、その演奏者を失ったことで、倉庫に眠ることしかできなくなったヴァイオリンたちのことを想いながら弓を引く。
「っ」
不完全な音が弦から零れると同時に、胸に小さな痛みが生じる。
自分が未熟なせいで零れた不協和に耳を塞ぎたくなったけど、目の前にいる高校生たちは観客から拍手をもらえるだけの演奏ができていた。
かつて挫折した頃の記憶に影響されていては、音を奏でたいという願いを叶えることができない。
弓を握り直して、もう一度、決意を新たにする。
(よし)
ヴァイオリンから徐々に、旋律というものが形を成し始める。
周囲が楽器の体験会で賑わっているおかげで、いろんな音を聴覚が拾うようになっていく。
もう、過去に囚われることはないと言わんばかりに、生き生きとした音たちが音を鳴らす喜びを伝えてくる。
音楽から逃げ出した私に、こんなにも感情をざわつかせる音を奏でる楽器たちを狡いと思う。
(綺麗な音……)
湿気の影響を受けた楽器が、混じり気のない音を出すのは難しい。
たどたどしい音が空間に広がるだけで、この音色では誰の心も惹きつけることができない。
(もっと綺麗な音……)
理想の音を出すにはメンテナンスが足りないけれど、久しぶりに再会した音に心を奪われる。
でも、心を奪われるのは、私だけでは駄目。
海辺を訪れた人たちみんなを巻き込むような音を奏でなければ、このヴァイオリンの魅力を届けることができないから。
(もっと、もっと、もっと)
音が鳴り始めると、私のヴァイオリンの音色が海辺を駆け巡っていく。
海辺全体に広がっていく音色が、観客の心を離さないものであるようにと願いを込める。
私の演奏を聴きなさいと命令するような、そんな迫力ある音を奏でていく。
(もっと、綺麗な音を届けたい)
自然と耳を傾けてしまうくらいの演奏ができているか。
周囲を確認する余裕はない。
観客の顔を見る余裕がないことを残念に思うけど、私は私と出会ってくれたヴァイオリンの世界に夢中になった。
無我夢中って言葉の意味を、自身の経験を通して体感できた。
「は、はっ……」
演奏が終わると同時に、私は海岸を形成する砂へと目を向けた。
海辺に、鏡は存在しない。
どんなに砂浜と睨めっこを続けても、自分がどんな顔をしているのか確認する手段はない。
でも、生き生きとした表情を浮かべることができたら、こんなにも嬉しいことはない。
そう思って、俯いた視線を上げた。
勢いよく顔を上げると、そこには河原くんの姿があった。
「かっこよかった」
彼とは距離があるため、本当に彼が『かっこいい』という言葉をくれたのかは分からない。
それだけ離れた場所にいる私たちだけど、彼の唇の動きは『かっこいい』という言葉を送ってくれた気がした。
「は、は……」
息が乱れていることに気づいて、息を整えようと大きく息を吸い込もうとしたとき。
河原くんが、私に向かって手を叩き始めた。
彼の拍手をきっかけに、周囲の人たちからも一斉に拍手が沸き上がる。
「っ」
ここは私の独壇場ではなく、聖籠高校管弦楽部の生徒たちや海辺を訪れた観客たちが楽器の体験を楽しむための場所だったはず。
それなのに、周囲の視線を自分が独占していることに気づいた。
鳴りやまない拍手に恥ずかしさを抱くけど、心は素直に喜びなさいと命令してくる。
「ありがとうございました!」
深く頭を下げて、感謝の気持ちを伝える。
次に顔を上げたときには、もっとちゃんと観客の人たちの顔を見たい。
そんな気持ちがあるのは事実でも、私は多くの視線から逃げ出すことを選んだ。
(寂しい、な……)
演奏が終わってしまうことを、素直に寂しく思った。
寂しい。
寂しい。
寂しい、けど。
聖籠高校に進学をしなかった私は、ヴァイオリンに触れる権利がない。
私はお借りしたヴァイオリンを返して、急いで河原くんの元へと戻った。
「やっと笑った」
河原くんの元へと駆け寄り、彼がくれた第一声は、『やっと笑った』という不思議な言葉だった。
「やっぱり私、笑えてなかったですか」
「ううん、やっと作り笑顔じゃない笑顔に会えたなって」
作り笑顔が大得意になっていて、ちゃんと笑うことができていなかったことを同級生の彼に指摘される。
「恐ろしいくらいの才能で怖い」
「そこまで感じてくれたなら、嬉しいです」
今は、どんな顔をしていますか。
自分で自分の表情を確認することができないから、私たちは今日も表情を作り込むことが上手くなっていくのかもしれない。
「私は、音楽を手放した人間なので」
空を見上げると、そこには相変わらず美しい青が広がっていた。
太陽はきらきらとした輝きを放っていて、その輝きは誰しも平等に与えられているのに、私はその輝きに触れることすらできない。
「俺と約束しない?」
河原くんが声を発すると、辺りの空気が和む。
河原くんの澄んだ優しい声と言葉が、私の心を突き刺してくる。
それなのに、彼の口角は上がらない。
他人を元気づけるような笑顔を浮かべられる彼を知っているから、ときどき不安になる。
「どんな約束を交わせば……」
私が視線を彼に戻すと、今度は彼が真っ青な空に視線を向けた。
私たちの視線は、再び一方通行。
「羽澤さんの夢」
空を見上げる彼の姿を、ただただ美しく思った。
美しいしか形容する言葉が出てこないのも申し訳くらい、綺麗なものは綺麗だって思った。
彼には彼が抱えている事情があると分かっていても、彼が生きる姿は美しい。
「羽澤さんの夢を、いつか聞かせて」
「……いつか」
きっと、誰もが美しさを持って生まれてきたのだと思う。
きっと誰もが美しさを持っていて、自分が持っていない他人の美しさを羨んでいくようになるのかもしれない。
「音楽教諭を目指すこと以外の、羽澤さんの夢が聞きたいなって」
美しいのに、どこか寂しそう。
彼が消えてしまうわけがないのに、今にも消えてしまいそうな儚い空気が彼を纏う。
手を掴んでいないと、今にも彼がいなくなってしまうような。
そんな感覚に囚われていく。
「私には、それ以外の夢なんて……」
「俺もないから、そこは気にしなくていいよ」
ここは、河原くんの穏やかな笑みに会えるところ。
ここは、河原くんの優しい笑みを励みにするところ。
いつもはそうだったはずなのに、そのいつもは存在しない。
「……河原くんも、夢を探すんですか」
高校に進学した彼は、変わってしまった。
何があったかは教えてもらえないけど、彼は変わらざるを得なかった。
「羽澤さんを、目指さないこととか……?」
「疑問形で返すの、狡くないですか」
「そう?」
「自分の夢だったら、言い切ってほしいです」
河原くんは、昔の自分に戻ることを選ぶのか。
それとも、未来に進むことを選ぶのか。
「だって、河原くんは、私になることはできない。最初から、私を目指す必要はないです」
小学校、中学校、高校が同じという共通はあっても、河原くんとは親しくもない間柄。
「それぞれが存在するから、きっと世界が成り立っていくのかなって」
でも、今までの河原くんが目標を持って生きてきたのだったら、何か言葉をかけたいと思ってしまった。
「羽澤さんなら、絶対に素敵な教師になれると思う」
「ありがとうございます」
河原くんは軽く曲げた小指を差し出して、約束を交わすポーズを取る。
「俺が夢を見つけられるかは分からないけど」
少しだけ恥ずかしそうしているのが伝わってきたから、私は彼との距離を縮めて、彼の小指に自分の小指を絡めた。
「夢の発表会って、いいですね」
観客がいなくなってしまった海で、小指と小指を結んで約束が生まれる。
単純な約束の交わし方。
約束を破ったからといって何も起きないことを私たちは知っているけど、あらためて未来に向けての約束を交わし合う。
「世界に一つだけの、羽澤さんの夢を聞かせて」
河原くんの瞳は希望に満ちているように見えるけれど、どこか寂しくて悲しくて儚い。
そんな瞳は、やっぱり彼が今にも消えてしまいそうな錯覚を引き起こす。
「河原くんも、ですよ」
「……俺が、夢を抱いてもいいのかな?」
「河原くんが、自分のことを好きになれますように」
約束を交わして、指が解かれる。
「俺も、やってみたいな」
届くはずのない空へと手を伸ばして、河原くんは願いを託す。
「羽澤さんみたいな、優しい演奏」
優しさがあると、人は笑顔になることができる。
それは、私と接してくれた河原くんが教えてくれたこと。
彼が私に優しさを与えてくれたから、私は作り笑顔を自然な笑みに変えることができた。
「あ、もちろん、ヴァイオリンを始めたいとかじゃなくて」
「大丈夫です、分かってます」
私たちは大切な人の笑顔を望んでいるはずなのに、肝心の自分たちは上手く笑うことができていない。
笑顔を浮かべることができない人生になったのは自分のせいだって言われても、自分の人生に全部の責任を持ちなさいって言われても、それは難しい。
「羽澤さんみたいに、愛される人間になりたい」
自分の身に起きるすべての出来事すべて、あなたのせいでしょって突き放されてしまったら。
きっと誰もが、笑顔を浮かべることができなくなってしまう。
それを知っているはずなのに、私たちは他人を突き放してしまうことがある。
「……優しかったですか、私の演奏」
「優しすぎて、泣きたくなる」
私も、優しさを贈る人になりたい。
河原くんが贈ってくれた優しさを、今の彼に贈り物として返したい。
してもらったから、返すということではなく。
私が、彼に優しさを贈りたいって思った。
「握手、してもいい?」
「なんだか、有名なヴァイオリニストになったみたいです」
「本当に、有名なヴァイオリニストだったんじゃない?」
私の手を掬い上げる瞬間、彼の指先が触れた。
これから握手を交わすのだから、彼の指が触れるのは当たり前。
頭では分かっているはずなのに、同級生と握手を交わすっていう初めてに心が追いつかない。
「握手って、あったかいんですね」
「太陽のせいもあるかもね」
しっかりと握られた手の間に、言葉以上の何かが存在しているような気がする。
それらを言葉にできたら、きっと私たちは距離をほんの少し縮めることができるかもしれない。
でも、それができないから、今日も私たちは他人のまま。
「行こっか」
「はい」
彼の瞳から逃げ出さなくていいんだって自覚できた瞬間、私の涙腺は崩壊してしまいそうになった。
真っすぐに向けられた視線に逃げ出したくなることの方が多いのに、真っすぐに瞳を見つめることができる幸福もあるってことを彼が教えてくれる。
「梓那じゃないか」
バス停に向かって歩き出そうとしたとき、聞き慣れない声が河原くんの名前を呼んだ。
振り返ると、そこには黒縁の眼鏡をかけた白髪頭の男性がいた。
「じいちゃん」
「こんなところで彼女とデートとは……」
「そんな定番のやりとりいらないから……」
深い笑い皺が刻まれた顔の男性は、河原くんのおじいさんだと気づく。
灰色のコートはくたびれて見えるけど、どこか品のある雰囲気を漂わせるところは年長者らしいのかもしれない。
「羽澤灯里です」
「初めまして、梓那の祖父です」
私たちの関係性を否定するものの、おじいさんの意味深な笑みは変わらない。
でも、それが河原くんのおじいさんらしさなんだと気づくと、私の口角も自然と上がっていく。
「先程の演奏、素晴らしかったですよ」
「……貸してもらったヴァイオリンが、頑張ってくれました」
ヴァイオリンを手に取る喜びや、胸を躍らせる瞬間が確かにあったのに、それらすべては過去のものとなってしまった。
それでも河原くんのおじいさんは、経験したすべての感情に無駄なことはない。そんなことを感じさせるような力強い言葉をくれた。
「……久しぶりで、怖かったですけど」
どこかのコメンテーターが、若いうちに才能がないと判断されるのは良いことだと言っているのを見かけることがある。
だけど、それは果たして本当にその人にとって良いことなのか。
ピアサポート部の部員をやっていても、そのコメンテーターに対抗する言葉を私は未だに持っていない。
「弾いて……良かったなって」
音が奏でられた瞬間、世界が変わった。
音を愛した瞬間、世界が変わることを知った。
幼いときに感じた感情はすべて手放さないといけないと思っていたけど、覚えていてもいい感情があるのかもしれない。
「自分の命を懸けられるほど、熱中できるものに出会ったんですね」
河原くんのおじいさんが私に言葉をくれた、その瞬間。
太陽が傾いたわけでもないのに、眩しいと感じられるほどの陽の光が降り注いできた。
それらが同時に起きたのは偶然だったと思うけど、瞳を閉ざしたくなるほどの光を感じたのを奇跡って呼ぶのかなって思った。
「……ありがたい環境だったなと思います」
太陽の光が眩しすぎて、嫌いだと思う日もあった。
それなのに、今の私は視界に入ってくる世界を美しく思えた。
太陽の光が差し込む世界は、こんなにも輝いて見えるんだってことを初めて知った。
「河原くん、ここまでで大丈夫です」
「迷ったら、海の見える本屋まで戻ってきて」
「ありがとうございます」
空に存在する太陽がやけに眩しくて、やけに光り輝いているような気がして、なんだか心惹かれてしまう。
「また学校で」
「はい、また明後日に」
きらきらとした光が、自分に向かって舞い込んでくるような。
まるで、自分が光というものに包まれているかのような。
そんな感覚を持ちながら、私は帰りたくて帰りたくない家路へと向かった。
海辺にいたときは太陽の暖かさを感じられたはずなのに、河原くんと別れた帰り道は春のまだ冬の名残が残っているような肌寒さに襲われた。さすがに息は白くならないけれど、暖かなご飯と家族の声に迎え入れてもらうために歩調を速めた。
「ただいま」
でも、玄関の扉を開けても、誰の声も返ってこなかった。
かつて愛した家族の温もりが帰ってくることはなく、私を出迎えたのは家の冷たい空気だけだった。
(今日も、お母さん遅いのかな)
静かな玄関に足を踏み入れると、いつもより靴の数が多いことに気づいた。
(お夕飯、どうしよう)
ふと奥の部屋へ目を向けると、わずかに漏れ出る灯りがあった。
リビングの扉をそっと開けると、そこには酔い潰れたお母さんと血の繋がりのない男性の姿があった。
「おかえり、灯里ちゃん」
「ただいま帰りました、松田さん」
身長が高く、背筋がすっと伸び、柔らかい眼差しは私のお父さんに似ていて、お母さんが好きなる理由が分からなくもないなと思った。
「すみません。またお母さん、酔い潰れちゃったんですね」
「お店が盛り上がってね……」
「いえ、スナックの従業員が飲みすぎるのは良くないと思います」
少しゆっくりとした口調だけはお父さんと違うと思ったけど、いつかは耳に馴染んでいくのかもしれない。
そうであってほしいと願うけれど、お母さんの想いも、松田さんという名前の男性の想いも叶わないことを私は知っている。
「何か温かいもの作ります」
「僕も手伝うよ」
学生が帰宅するような時間帯に、この男性はどうして我が家にいるのか。
今日は土曜日だから会社は休みと説明されるかもしれないけど、だったらスーツを着て我が家に立ち入らないでほしいと思ってしまう。
「灯里ちゃん、鐘木高校に合格したんだって?」
「はい、なんとかぎりぎり……」
「お母さんも鼻が高いと思うよ」
どこかぎこちないかもしれないけど、言葉に込められた温かさを無視することができない私は言葉を紡ぎ続ける。
親子らしい会話を繰り広げながら、お味噌汁の準備を始める。
「鐘木高校に入学するのはお母さんと、四番目のお父さん候補の人の夢だったので、叶えることができて良かったです」
四番目のお父さんという言葉を受けて、松田さんの手が止まった。
「スナック勤めなので、お母さんからいろいろ聞いてますよね」
四番目のお父さん候補って言っても驚かなかった松田さんだけど、言葉を詰まらせたことだけは気づいてしまった。
「四番目のお父さん候補の人は、私の塾のお金を援助してくれた方で……世の中には、二つの世帯を養えるくらいお金ある人がいるんだって驚いちゃいました」
冷蔵庫を開けて材料を探っていると、松田さんが包丁でネギを切る音だけが異様に響いた。
「お気づきだと思うんですけど……私の受験結果を知る前に、関係と切ることになりました」
松田さんがネギを切り終わったのか、私の言葉に衝撃を受けたのか、キッチンには静寂が漂った。
「まだ別れて二か月? 一ヶ月くらいだったので、松田さんを連れてきたときは驚いちゃいました」
お父さんと呼ぶには、距離がありすぎる私たちの関係。
松田さんの言葉や行動にはいつも優しさが込められていて、この距離も少しずつ埋めていけるのではないかと期待してしまう。
でも、その期待は、いつもあっさりと簡単に崩されてしまうのを私は知っている。
「お母さんって、よく放っておけないって言われるんです」
暖房をつけなくてもいい季節になってきたはずなのに、家の中を漂う空気は凍りついたように静まり返っていく。
「前のお父さん候補の人も、前の前のお父さん候補の人も、それが理由でお母さんと付き合い始めたみたいです」
松田さんに、私の声は届いているのか。
私の声が遠く感じられるくらい頭が混乱しているかもしれないけど、私は冷静に言葉を紡ぎ続ける。
「放っておけないお母さんと一緒にいると、必要としてもらえるのが嬉しいみたいです。頼ってもらえることに、喜びを感じるみたいで……」
私の隣に立つ松田さんをじっと見つめるけど、松田さんは私に視線を向けてくれない。
暖かな空気を与えてくれたのは確かに松田さんのはずなのに、一気に松田さんとの距離が遠ざかるのを感じる。
「松田さんも、同じですか」
松田さんは一瞬だけ、目を泳がせた。
そして、喉を鳴らして次の言葉を探した。
でも、松田さんから言葉は返ってこない。
「多分、今日まで、私の家の食費とか……高校に進学するときにかかったお金とか……そういうの、松田さんに払ってもらったと思うんです」
日本は所得格差が進んでいるとは言うけど、二つの家庭を養えるくらいの経済力ある男性が次から次へと現れるのも不思議な話だった。それだけ、誰かに必要とされたいと願う大人たちが多いというということなのかもしれない。
「そこには、とても感謝しています」
シングルマザーのお母さんなら、経済力のある自分のことを必要としてくれるんじゃないか。
そう思った男性たちは、二つの家庭を養うという禁忌に手を伸ばす。
現に私もお母さんも、次から次へと現れる経済力ある男性たちに生活を支援してもらった。
鐘木高校に合格できたのも、四番目のお父さん候補がいたおかげというのも間違いはないかもしれない。
「でも、うち……慰謝料を払う余裕がないんです……」
私は、なるべく柔らかな笑みを浮かべる努力をする。
不倫相手のみなさんに感謝しているのは事実だってことを伝えるために、必死に笑顔を作り込む。
「大事になる前に、どうかお引き取りください」
松田さんは言葉を発しようと口を開くけれど、そこから先は何も出てこない。
彼の沈黙は、私の言葉を肯定する材料になっていく。
「松田さんが暴力を振るうような方じゃなくて、本当に良かったです」
松田さんは、床に視線を落とした。
五番目のお父さん候補の人とお味噌汁を完成させることはできず、私はお母さんが目を覚ます前に松田さんを送り出した。
「お母さん……私、頑張るから」
不倫相手を頼らなくても、お母さんに経済的な余裕がある生活を送ってもらうのが私の夢。
それを河原くんの前では言い出せなかったけど、私はその夢を叶えるためだけに今日も明日も明後日も頑張っていく。
「うちの娘ね……すっごく頭がいいの」
「っ」
夢の中で、お母さんは不倫相手の人と会っているのかもしれない。
夢の中で、娘の自慢をしてくれているのかもしれない。
「ちゃんと、お母さんの夢……叶えるからね」
酔い潰れたお母さんを起こさないように、小さな声で自分の夢を呟く。
こうして私の人生は始まって、こうして私の人生は終わっていく。
自分の夢の守り方を知らないまま、私は大人の階段を上っていく。
着慣れない制服を着ている自分は、周囲から浮いてしまってはいないか。
それを確認したくても、放課後の廊下は初対面の人ばかりが溢れ返っている。
人の目を気にしすぎていると気づいたから、私は窓の向こうへと視線を逃走させる。
(高校って、理科室が二つもあるんだ)
そもそも理科室を利用する機会に恵まれていないため、目的の教室に辿り着くまでが一苦労。
中学時代は理科室での実験が多かった気もするけれど、高校での理科系統の学習は大学受験に合格するためのもの。
理科室なんて飾りだけのもので、自分の体で起きている事象を体験するという機会には恵まれないまま高校生活を終えてしまうような気がする。
(教師じゃない私は、何ができるのかな)
ピアサポート部の部員は、同じ高校生。
ピアサポート部の生徒と話をしたいと思っている相手も、同じ高校生。
悩みがあるのなら、高校生ではなく教師に話すべきかもしれない。
でも、ピアサポートの制度を利用する人たちは教師ではなく、同世代の子に話をすることを選んでくれた。
部活内で行われている研修の内容を頭に浮かべながら、私は目的の教室へと足を運んでいく。
(他人の人生を変える可能性……)
言葉は人を傷つける武器にもなるけれど、人を救う武器にもなる。
私たちピアサポート部員は、そのことをしっかりと頭に入れておかなければいけない。
昨日今日が初めましての人たちと関わることの責任の重さと言ったら、とても一人で背負いきれるものではない。
(それでも、やるしかない)
ピアサポート部での活動を乗り切れるかどうかが、自分の未来を決めるような気がする。
教師になりたいって希望はあっても、私の未来はまだ何も決まっていない。
神様が現れて、君が進む道はこっちだよと教えてくれるわけでもない。
(今の私にできるのは、今の人生を生きること)
静かに扉を横に移動させ、第二理科室という名前の教室に足を踏み入れる。
生徒同士のお話し会のため、部屋に鍵をかけることはできない。
扉は必ず開けたままで、いつ顧問の先生が部屋を訪れても大丈夫にしておかなければいけない。
「あ……すみません、お待たせして……」
「あ、本物の羽澤灯里ちゃんだ~」
私を待っていたのは、眩しいくらいの笑顔が特徴的な女の子。
初めて会うにもかかわらず、いつも多くの友達に囲まれているんだろうなって容易に想像できてしまうような社交性に心惹かれる。
「あの、百合宮さんとは、初めましてですよね? どうして私の名前を……」
「感激だな~! あの天才ヴァイオリニスト、羽澤灯里ちゃんとお話しできる日が来るなんて」
ぎこちないだろう笑顔を返した私に対して、百合宮さんは満面の笑みを浮かべながら話しかけてくる。
そして、彼女が私の名前を知っていた理由にも気づいてしまった。
「今は、ただの高校生ですよ」
「ただの高校生じゃないよ! 私からすれば、灯里ちゃんは憧れの人だよ!」
幼い頃に経験した記憶が甦ってくる。
蓋をして、永遠に開かなければいいのにと思っていた記憶が、扉をとんとんと叩いてくる。
「指定された教室はここですけど、かび臭いですね……この教室……」
「窓、開けてもいいかな?」
「開けましょう」
才能がない者は、夢を諦めなければならないと宣告された日の事を思い出す。
「先生に言って、場所を変えてもらいましょうか?」
「灯里ちゃんとお話してみたかっただけだから、場所はどこでも大丈夫だよ」
才能がないなら、才能がないなりに努力をすればいいと思っていた。
才能がある人に負けないためには、努力を積み重ねていくしかないと思っていた。
だけど、最後の最後には。
努力は才能に勝てないということを思い知らされたときの、あのときの感覚が鮮明に思い出される。
「私の名前を知っているってことは、百合宮さん……」
「世界で活躍するヴァイオリニストを志望している、百合宮杏珠ですっ」
暗くて陰湿な雰囲気さえも漂う教室なのに、百合宮さんの笑顔は消えたりしない。
彼女だったら、世界を魅了できるほどの実力ある演奏を響かせることができるのかもしれない。
「灯里ちゃんに会えて、すっごく感動してるの」
「……ありがとうございます」
何を、どう努力すれば、天才の領域に届くのだろう。
考えた。
でも、分からない。
いっぱい考えた。
でも、分からない。
どうすればいい?
どうしたら、私は世界に勝つことができるの?
勝つための方法を、ひらすら考えてきたときのことを思い出す。
分からない。
分からない。
分からない。
努力って、何?
『よくヴァイオリン、続けられるね』
『好きだからって、続けられるものでもないからなー……』
『追いかけるのも大変だけど、上からの転落はもっと大変だよね』
諦めよう。
諦めよう。
諦めてしまおう。
大好きなものを手放す喜びを受け入れよう。
終わるんじゃなくて、これは始まり。
私の、第二の人生開幕。
諦めよう。
諦めよう。
諦めよう。
私が幼い頃に、大好きな世界から卒業することを選んだことを思い出す。
「あ、灯里ちゃん! せっかくなら二人で掃除する?」
「制服が汚れちゃいますよ」
「なかなか掃除のし甲斐があるねっ!」
「演奏家志望の人を、怪我させるわけにはいかないので……」
理科とは無縁そうな道具や資料が山積みの中……そもそも、一体何に使うのか分からないような道具や資料が山積みの教室。
人手は一人でも多い方が助かるけれど、百合宮さんの手は将来数えきれないほどの人を幸せにするための手。
傷ひとつ許されない体なのだから、まともに清掃なんてさせるわけにはいかない。
「百合宮さんは、雑巾禁止です」
「えー」
「私も、普通の高校生をやりたいなーって」
どこから手を付けようかと頭を悩ませていたときに、百合宮さんがいる方向を振り返った。
百合宮さんが笑顔を浮かべていることに間違いはない。
けれど、百合宮さんが河原くんのような無理に笑おうとしていう笑顔を作り込んでいて、私の心はちくりと痛みを訴えかけてくる。
「今を……楽しみたいですよね」
「そうっ! ヴァイオリニストを目指している気持ちは本物でも、なれるかどうかは別問題だから」
自分にも夢を抱いていた頃があったからこそ、百合宮さんの気持ちはとても分かる。
高校生活を楽しみたい自分も本物で、プロになりたい気持ちも本物。
将来が約束されていない実力だからこそ、私たちの心は揺れ動く。
「適当に箒、探してくるね」
「私が行きま……」
音楽で食べていくことを決心して今までの人生を生きているはずなのに、音楽で食べていくことのできる人間の数は決まっている。
「百合宮さ……」
「箒くらいは触らせてー」
こんなに無邪気な笑顔を向けてくる百合宮さん。
彼女がどんなにヴァイオリンを愛していても、どんなに音楽への思い入れがあっても、百合宮さんを必要としてくれる人と出会わない限りプロの道は拓かれない。
「あーかりちゃんっ」
「百合宮さん、軍手」
箒を取りに行って戻ってきた百合宮さんに、私は探し求めていた厚手の軍手を手渡す。
「女子高生は、軍手なんて身に着けません!」
「怪我! してもいいんですか?」
「うっ……」
軍手を身に着けることに抵抗を示す百合宮さん。
それでも、自分が抱いている夢を思い出した百合宮さんは渋々と軍手を受け取ってくれた。
「聖籠高校だったら、音楽科がありましたよね? 掃除も免除されるのでは……」
「さっきも言ったでしょ? 私は、普通にも憧れるの」
楽器を演奏する人にとって、ほんの小さな傷が命取りになることは知識として知っている。
たいしたことのない傷でも、演奏には大きな影響を及ぼす。
聴く人が聴けば、奏でる音の違いはすぐに分かる。
知識としては蓄えられているはずなのに、普通の女子高生としての生活を望む気持ちもあるからこそ百合宮さんは苦しんでいるのかもしれない。
「私の実力だと、プロになれるかどうか怪しくて……」
土曜日に開催される特別講義はお昼で終わったため、今はまだ太陽が輝く時間帯。
百合宮さんは開いた窓から、淡い青が広がる外の景色を見渡した。
大きく深呼吸をして、新鮮な空気を吸い込みたくなる彼女の気持ちがよく分かる。
「実力が中途半端。プロになれるかなれないか、微妙な位置に立っているのは、自分が一番よくわかるから」
やることが山積みの部屋で吸い込む空気は、まだ美味しく感じられない。
窓を開けることで新鮮な空気を取り込むことができるようになったのに、空気を吸い込もうとする動作に息苦しさを感じる。
「灯里ちゃんは昔、天才ヴァイオリニストって呼ばれていたでしょ?」
「昔の話を掘り起こさなくても……」
「私が産まれる前の話だっけ?」
「同い年です!」
「ふふっ、ごめんなさい」
表情がころころと変わる百合宮さんは、小学生みたいな元気で快活な印象を与えてくる。
でも、この感受性の豊かさが将来の彼女の大きな力になるのかもしれない。
「不安と、どうやって闘ってきたの?」
「私は、闘うことを諦めた人間です」
少しも日当たりの良い教室とは言えない場所で、私は気丈に振る舞う。
眩しいくらいの太陽の光を浴びることができない場所で、私は次の未来に向かっているフリをする。
「不安と闘うことが、怖くなっちゃいました」
幼い頃は、望む未来を実現するために命を捧げる覚悟を持っていたはずなのに。
いつの頃からか、心を燃え上がらせるほどの燃料がなくなってしまった。
「あんなに好きだったんですけどね」
現実は、無情で、非情。
そんな言葉を、どこかで聞いたことがある。
でも、どこかの大人が表現した通り、現実は無情で非情だと感じた。
だから、私は大好きなものを手放した。大好きなものから離れる決意をした。
「もう、引いてないの……?」
「ヴァイオリン、売却したんです」
「……そっか」
ヴァイオリンを手放そうと思った瞬間と、家庭の経済状況が悪化したのはほぼ同時。
逃げるには最適の環境が用意されてしまって、私はその既定路線に乗っかってしまった。
それが、自分の心を守る一番の方法。
そんな言い聞かせを続けながら、私は今日まで生きてきた。
「今の私は、普通の高校生です」
ピアサポート部の顧問の深野先生が言っていた通り、同じ高校に通う同士っていうのは大きな強みだと思う。
初めましての相手でも、共通の思い出や感情があるだけで話を膨らませることができる。
そういう意味では安堵の気持ちを抱くけど、共通があるということは他人の痛みを自分の痛みのように感じてしまうときもあるということ。
「お金……かかるもんね」
安価で購入できるヴァイオリンももちろんあるけれど、幼い子どもの習い事と考えると体の成長に合わせてヴァイオリンを買い替えなければいけない。
いつまで習い事を続けるかにもよるけれど、ヴァイオリンが高級な習い事であることに変わりはないと思った。
「子どもって、ずっと子どものままですよね」
「自分で稼ぐことができない限り、ずーっと私たちは子どもだね」
互いの事情を知りながらも、互いの事情に踏み入りすぎない。
ちょうどいい距離感の中、私たちは互いに置かれている環境下を思い合っているのを感じる。
だからこそ、百合宮さんとの間に流れる空気にも不快感が発生しない。
「夢って、裕福な人しか叶えることができないのかな」
「そうであってほしくないですけどね」
両親の収入によって、子どもの人生が変わるっていうのは本当かもしれない。
でも、両親の収入が理由で、子どもの夢が狭まることのないようにと願わずにはいられない。
「私ね、灯里ちゃんみたいな凄い子が同級生にいて驚いちゃった」
過去に経験したことの意味を考えながら掃除をしていたせいか、ときどき雑巾を持つ手が止まってしまっていたらしい。
私の異変に気づいた百合宮さんが、率先して私に話しかけてくれた。
「灯里ちゃんの活躍を見て、勇気づけられた人っていっぱいいると思うんだよね~」
百合宮さんの言葉が、私の心を強く叩いてくる。
天才ヴァイオリニスト現ると、いろんな業界の人たちが騒いでくれた頃のことを思い出す。
そんな風に、もてはやされていたときのことを思い出す。
(ちゃんと……ちゃんと努力はしてきたつもりだったけど……)
将来の夢なんて、まだぼんやりしていた幼い頃。
好きなことで食べていきたいと漠然とした夢を抱いていた頃に、私は賞レースで結果を残すことができなかった。
夢を叶えるための努力を続けていきたかったけど、溜め息を数が増える私に両親は声をかけた。結果の出ない努力に、意味はないと。
「灯里ちゃんを天才って最初に呼んだ人を、ここに連れてきたいね」
「どうするんですか?」
ヴァイオリンが関わる職業は多種多様あると知っていたから、独奏者になれなくてもいい。
ヴァイオリンに関わることができたら、それだけで私は幸せ。
そんな甘えた考えだったから、私は両親に待ったをかけたのかもしれない。
独奏者以外は、意味がない。
両親にとって、独奏者以外の道は選択肢になかったということ。
「あなたたちが騒ぎ立てた天才は、今は普通の高校生ですよって」
「ふふっ、仕返しでもしちゃいますか?」
「おっ、灯里ちゃんにも人間らしい感情があるんだね」
百合宮さんの言葉を受けて、始めに『天才』だと騒ぎ立ててくれたのは両親だったかもしれない。
そんな幼き頃の記憶を辿りながら、私は目の前にいる百合宮さんと言葉を交わしていく。
「私がいなくても、世界は成り立っちゃうんですよね」
「そんなこと言ったら、私も灯里ちゃんと同じ。いてもいなくも変わらない人間の一人だよ」
誰もが、誰かにとってのたった一人になりたい。
百合宮さんとの会話を通して、そういう願いを抱いているのは自分だけではないと気づかされる。
ピアサポート部の部員として百合宮さんを支えなきゃという意気込みがゆっくりと解かれ、私は彼女との会話を楽しむように意識を切り替えていく。
「でも、百合宮さんを支えてくれる何かがあるからこそ、今もヴァイオリンを続けているんですよね?」
「灯里ちゃんは、鋭いね~」
音楽の才能がある者には、音を与える。
音楽の才能がない者からは、音を奪った。
音を審査する人たちは、独奏者を目指す人たちをふるいに掛けていく。
「私の演奏を好きって言ってくれた人がいた。ただ、その思い出だけで、ヴァイオリンにしがみついてるの」
現実は、残酷で過酷。
どんなに音楽への愛情が深くても、私たちは生きるために食べなければいけない。
幼い頃からコンクールで競うことに重きを置いてきた私たちは、お金を稼ぐことと自分の好きなことを続けるかどうかの狭間で揺れ動く。
「音楽業界に、おまえはいらないって言われてるのにね」
独奏者の道を諦めた私は、音楽の世界から離れることを選んだ。
でも、目の前にいる百合宮さんは、今もコンクールに出場し続けている。
「好きなら、続ければいいっていう人もいるけど」
「それは、投げやりな言葉ですよね」
音楽の神様に愛された人は、自分が思い描いたままの道に進むことを許される。
音楽の神様に愛されなかった人は、音楽に携わることを諦めなければいけない。
「だって、愛だけでは食べていくことはできませんから」
音楽を教える教師を目指すという発想には至ったけれど、そもそも音楽の先生は授業中にヴァイオリンの演奏を披露したりしない。
教師になることができたとしても、そこに私がかつて愛したヴァイオリンの姿はない。
「好きなことを続けるには、やっぱりお金が必要ですから」
「生きていくのにお金が必要なのと、一緒だよね」
週に一回あるかないかの音楽の授業。
単位を取ってしまえば、大抵の生徒の人生には関係がなくなってしまう音楽。
ほとんどの人にとって価値のない音楽の授業かもしれないけど、その価値のない中で生まれるものがあるって信じて、教師という新しい夢を見つけた。
(でも、不安)
見えない未来に向かうことが、こんなにも怖い。
それは大人たちも経験しているはずなのに、その恐怖の乗り越え方を誰も教えてはくれない。
「他人への嫉妬って、本当に醜いものですね」
「嫉妬? どうしたの、灯里ちゃん?」
希望していた職に就くことができなかった。
ずっと抱いていた夢を叶えることができなかった。
そんな境遇に立たされているのは、私だけではない。
こういう現実に直面している人たちは大勢いる。
理想していた道を歩むことができかったとしても、前を向くために必死に日々を生きている人たちがいる。
それなのに、私はいつまで悲劇のヒロインを演じているつもりだろう。
「私、百合宮さんに凄く嫉妬しています」
「え? なんで、なんで!?」
早く前を向いて、新しい夢を探しにいかなきゃいけない。
これからも続いていく毎日を生きていくために、しっかりしなきゃいけない。
「私は、灯里ちゃんの演奏が凄いって話をしただけ……」
「好きって感情を、真っすぐに伝えられる百合宮さんがかっこいいなぁって思います」
立てる、だろうか。
一人で立って、歩いていくことはできるだろうか。
頭で理解しているつもりのことを、実行していく勇気と覚悟。
私には、きちんと備わっているのか。
「好きなものは好き、だよっ!」
「そういうところが、かっこいいです」
何かは始まったのかもしれないけれど、何が始まったのか具体的に述べることはできない。
だけど、何かを終わらせることはないようにしたい。
大好きなものを手放す喜びを、理解してほしくない。伝えたくない。
この感情だけは、知らないままでいてほしい。
「っ」
世界が光に包まれて、辺りが真っ白に染まっていくような感覚。
何も見えなくなるくらい多くの光が降り注いで、私は目を開けていることができなかった。
それだけ太陽の光が降る注ぐ時間帯に下校する特別感に、ほんの少しだけ胸がときめいた。
(百合宮さん、かっこよかった)
奇跡のような、夢のような、物語のような、百合宮さんとのお話し会が終わりを迎えた。
土曜日の特別講義から解放されただけでもありがたいのに、百合宮さんから夢のような素敵な時間をもらった。
交わし合った言葉に素敵という文字は見つからないのに、感情を共有するという感覚が私の心をほんの少し軽くしてくれた。
(好きなものを続ける覚悟……)
このあとの予定を話し合う声を背に受けながら、校門に向かっていく。
中学のときまでは同じ方向に帰る友人がいたはずなのに、高校生になると同じ方向に帰る人を探すのすら難しくなる。
それだけ交友関係が広がったということでもあるけれど、私の日常は高校生になったからといって中学時代とあまり変わらない。
話をする友達はいるけど、きっと彼たちはクラスが変わると同時に付き合いがなくなる。
親友と呼べる存在を必要としたこともなく、きっと私はこれからも希薄な人間関係の中で生きていくのだと思う。
(この空を、綺麗だって思うのは私だけ)
中学時代と唯一、変わったこと。
それは、目の前に広がる景色。
(歩く道が、光って見えるのも私だけ)
いつもなら薄暗い夕方に歩く道が、太陽の光を浴びて輝いて見える。
中学時代と変化があることを嬉しく思うのに、羽澤灯里という人間を見つめ直すと何も変化がない。
独りでいることは楽だって思うけど、盛大な溜め息を拾ってくれる人は現れない。はずだった。
「羽澤さん?」
校門を出るタイミングで、校門に潜んでいた彼から声をかけられた。
「河原くん……」
心臓が一瞬、跳ねるような動きを見せた。
「講義……と、この時間だと部活かな? お疲れ様」
「河原くんも、お疲れ様でした」
また彼の柔らかな笑みに会えることを期待したけれど、そこに私が好きだと思う彼の笑顔は存在しなかった。
声だけはいつだって優しさを含んでいて、他人を心配させないように配慮しているのを感じるのは事実。
それなのに、昔のような満面の笑みだけは消失してしまっている。
「お話し会、以来ですね」
「その節は、お世話になりました」
私の口調を真似する河原くんに、思わず口角を上げてしまったのは私だった。
「河原くんも、いま帰りってことは……帰る方向が一緒ですよね?」
同じ中学に通っていたこともあって、彼とは通学手段が同じだと思って声をかける。
一緒に帰ろうという思惑が働いたというよりは、ちょっとした世間話のつもりで話しかけてみた。
でも、この思いつきが、私に次の展開をもたらした。
「あ、俺、中学のときとは住んでるとこ違うんだ」
空を見上げた瞬間が重なって、私たちは青い空に散らばる桜の花びらを見た。
「……桜って、枯れるの早いね」
「ついこの間まで、満開の花を咲かせていたんですけどね」
ほとんどの桜の花びらは一瞬の命を咲かせ終わり、枝に残っている花びらは数えられる程度。
その、たった数枚の花びらが風に乗って、蒼の空へと映り込んだ。
その瞬間を、私たちは一緒に見上げた。
「羽澤さん、暇?」
彼からの誘いに、私は首を縦に振って頷いた。
「ここは……」
鐘木高校は、海辺の近くにある学校。
徒歩十分程度で、私たちは潮の香りが混じる風を受けるところまでやって来た。
「俺のばあちゃんが営んでいる、海が見える本屋の近く……海っていうか、砂浜っていうか……」
「河原くんの、おばあさん……」
砂浜に並行するように続癒えているアスファルトの道路を歩いていると、古びた木製の看板に『海の見える本屋』と書かれているお店を見つけた。潮の影響を受けたせいなのか、お店の扉は灰色がかっていて開くのも大変そうな印象だった。
「今は、おばあさんの家にお世話になっているんですね」
「いきなり年代の違う人と暮らすって、結構、身内でも大変だなって感じ」
海の見える本屋の扉を開けると、錆びついたベルがからんという音を響かせようと意思を働かせる。
でも、理想通りの音を鳴らすことができず、私はベルの音に迎えられることなくお店の中に招かれることになった。
(受験が終わって、一ヶ月くらい)
高校受験が終わったばかりの河原くんの表情は、きらきらとした輝きを帯びていた。
鐘木高校に入学して、ピアサポート部の活動を通して彼と再会して、彼は周囲から愛される素敵な笑顔を失っていた。
(海の見える本屋に住むようになって、何かが起きた……)
その、何かを詮索するつもりはない。
彼のことを根掘り葉掘り聞くつもりもないけれど、彼が与えてくれる情報をひとつひとつ拾い上げていく。
「昔は、ちゃんと本屋をやってたんだけどね」
外には晴れやかな空が広がっているのに、海の見える本屋はただただ薄暗い。
無数の本が積まれて店内をそっと歩くと、古い紙の香りを体全体で感じた。
「ばあちゃんが倒れたのを機に、閉じることにしたんだ」
私たちの間に静かな時間が流れると、波音が海の見える本屋に溶け込むような穏やかさを運んでくる。
「あ、ばあちゃんは生きてるから、気遣わないでね」
口には出すことができなかった疑問は、河原くんがあっさりと解決してくれた。
まるで答えを用意していたかのような鮮やかな流れだったから、おばあさんが生きているという事実に嘘はないのだと信じる。
「転ばないようにね」
「お気遣い、ありがとうございます」
海が見える本屋という言葉だけを聞けば、なんて素敵な響きと思ってしまう。
けど、私の視界に入ってくる海の見える本屋は悲しいくらい寂れて視界に映る。
「羽澤さん、アイスでも食べる? 喉、乾いたよね」
彼を追いかけないと、私は積み重ねられた本の中に置いていかれてしまう。
迷子になるほどの広さはないはずなのに、迷子になるんじゃないかって焦りは彼を追いかけるきっかけになる。
「こっちが住居スペース」
海の見える本屋と呼ばれていくくらいだから、もちろん本屋から海までの距離は近い。
こんなにも本との相性が最悪な場所で本屋を経営するのなら、潮風で本が傷まないように工夫すべきだと思う。
それなのに、この海から見える本屋に工夫の陰は見られない。
「アイス、あった気がするんだけど」
河原くんは本屋さんと繋がっている住居スペースへと私を手招くと、冷凍庫の中から目的のアイスを探し出す。
(海の見える本屋が閉店して、時間が立ってるのかな)
待っている間、荒れ果てた店内を振り返る。
清掃をした方がいいと思うものの、きちんと片付けようと提案する人は現れない。
(海の見える本屋は、終わりを迎えた場所)
二人で口を閉ざしてしまうと、お店の外の音がよく聞こえるくらいの静寂が漂う。
海の見える本屋と書かれている看板が、風で揺れる音。
絶えることのない波の音。
海の見える本屋を訪れたのは初めてのはずなのに、活気ある時代が過去のものとなってしまったことに胸を痛める。
「ばあちゃんの経営なんて、こんなものだよね」
店内の本が駄目になったのをおばあさんのせいにするような言い回しをするけど、やっぱり彼の声は優しい。
おばあさんを責めるつもりはどこにもなく、他人の心境に合わせて言葉を呟いただけなのだと察する。
「夏には早いけど、はい」
「ありがとうございます」
畳が敷き詰められた部屋に招かれると、中央に低く構えたちゃぶ台。
壁際には、深みのある木の色が沈み込んだ古箪笥が静かに存在感を放っていた。
古き良き日本と呼ばれていた頃を思い返すような光景に目を奪われながら、河原くんからアイスを受け取った。
「ありがとうございます」
「和風の家屋って、今どき、珍しいよね」
「少し緊張しますね」
懐かしいと感じるはずのない風景なのに、不思議と心が穏やかになる。
右手でアイスを持ちながら、もう片方の手で畳の感触を確かめた。
「これ食べたら、送る」
ちゃぶ台の向こう側に河原くんがいて、私は正座をしながら河原くんを見つめる。
わざわざアイスを食べるためだけに、私を海の見える本屋に連れてきたことへの不可解さに首を傾げる。
アイスをご馳走してもらえるような仲じゃないのは明らかだけど、これといった理由が見つからないのならアイスを口にしていくしかない。
(なんで、ピアサポートを利用したのか)
目の前には、私がよく知っている人がいる。
小学一年生のときからの付き合いはあっても、私は彼に関する情報はほとんど持っていない。
(なんで、海の見える本屋に連れてきたのか)
付き合いばかりが無駄に長くなってしまって、今日も私たちは同級生のまま進展がない。
「りんご味、嫌い?」
食べる速度が遅いことに気づいた河原くんは、私を気遣う言葉をくれる。
「ううん、違います……ごめんなさい、いただきます」
今の河原くんと、どういう風に会話を続ければいいのか分からない。
生まれる空白の時間に気まずさを感じることがないのは河原くんの人柄のおかげかもしれないけど、できてしまう空白に申し訳ないって気持ちだけは止まらない。
「……月曜も、羽澤さんに会いたい」
冷えた物を口にした瞬間、彼は熱を帯びた言葉を零す。
「でも、羽澤さんは、誰かの相談を受けなきゃいけないからなー」
まるで、今日で会うのが最後。
そんな空気感をまとう言葉を告げられたけど、彼は自分が溢した言葉を気にすることなくアイスを食べ進めていく。
「結構……暇ですよ」
ピアサポート部とは、学生生活を仲間が支えるために思いやりを学んでいくための部活動。
同じ学校に通っているピアサポート部員に、何か話を聞いてもらいたいことがあったときに生徒たちはピアサポート部を活用する。
「部活は週に一回しか活動がなくて、お話し会の予定が入ったときだけ活動日が増えるって感じなので」
心理カウンセラーでもない高校生が同じ学校に通う人たちの話を聞く活動ということもあって、週に一回、研修会というものが催される。でも、その研修会を経験したからって、心理カウンセラーの資格は得られない。やっぱり私たちは、高校生でしかない。
「高校生が、高校生に話を聞いてもらう制度に……なんの意味があるのかって思う人たちもいるんですけど」
このピアサポート部は創設されたときから、部員が途絶えたことがないらしい。
私が卒業した後も、きっと誰かが誰かを助けるための制度は続いていくと信じている。
「河原くんが必要としてくれるなら、いつだって駆けつけます」
ピアサポート部が存在しなかったら、私と河原くんは同じ学年に属する他人のままだった。
「頼もしい、羽澤さん」
「言葉の通り、頼もしくなりたいな……と」
高校生活は三年の年月があるけれど、同じクラスになることができない同級生は数多くいる。
ほとんどの人たちとは他人という関係性のまま卒業式を迎えて、私たちは同級生という関係を終わらせる。
それが、普通。
それが、当たり前。
他人とは、他人のまま終わっていく。
それが、普通。
それが、当たり前。
「他人のために生きたいって思う羽澤さんは、かっこいいね」
「そんな凄い話ではなくて……」
「他人のためにたのもしくなりたいって、最高にかっこいいって」
河原くんは立ち上がって、食べ終わったアイスのゴミを捨てる。
「前も言ったけど、俺は夢が迷子だから」
楽観的な声を発したけれど、そこには『悔しい』という正反対の感情が含まれているような気がした。
(また、私に心配をかけないように配慮してる?)
きらきらとした輝きのある笑顔を見せなくなってしまった河原くんだけど、彼の優しさは彼と再会したときからずっと続いている。
変わらない河原梓那くんが、そこにいる。
それは確かなことなのに、他人の私にとっては彼との距離がまだまだ遠い。
「第一志望校に受けるって夢を叶えられたのに、どうして幸せを感じないのかな」
「おめでとうって言葉、欲しかったですよね」
進路を意識し始めたのは、中学二年生くらいの頃から。
そこから長きに渡る受験生活を乗り越えたのに、合格の先に待っていたものは次の進路を考えることだった。
「高校の先生たちはもちろんですけど、私、両親からもおめでとうの言葉がなかったんです」
ひたすらに問題集と向き合った日々も、朝早く起きて続けた勉強も、試験前のプレッシャーも、何ひとつ認めてくれることはなかった。
「塾に通ったおかげ、塾の先生のおかげ……それは確かにそうなんですけど、あれ? って思っちゃいました」
第一志望校の鐘木高校に入学することで煌く希望を手にできると思ったのに、虚しさに押し潰されそうになった日のことは今も忘れられない。
「自分が積み上げてきた頑張り、どこに行っちゃったんだろうね」
「おめでとうの言葉をもらうのって、こんなにも難しいんだなって」
血の繋がりのある両親だったらっていう期待はあっけなく崩れ、自分の努力を知っているのは自分だけなんだと思い知らされた。
「そっか……だから、幸せじゃないんだ」
河原くんは、じっと宙を見つめていた。
「あ、でも、これは私の経験で……」
「俺も同じ。おめでとうの言葉、なかったなって」
けど、すぐに私に視線を戻した。
「両親から、おめでとうの言葉をもらうために頑張ってたんだ……」
高校受験に合格するのが、河原くんの夢だったことに間違いはない。
でも、その夢の中には、両親の笑顔が含まれていた。
「両親のために頑張ったから、こんなに虚しいってことか……」
私も河原くんも、自分のために頑張れば良かったのかもしれない。
高校受験に合格するのは両親に喜んでもらうためではなく、自分の夢だって自覚しながらの受験だったら、こんなにも虚しい感情に縛れることはなかったかもしれない。
「でも、両親のために、頑張りたかったですよね」
自分の夢の中に、両親の笑顔を含むのは間違いですか。
そう大人の人たちに問いかけたら、間違いですって返されるかもしれない。
でも、私も河原くんも、両親の笑顔が見たかった。
両親の笑顔のために頑張った自分を、今はどうしても否定したくない。
「河原くん、合格、おめでとうございます」
河原くんが求めているのは、私からの『おめでとう』の言葉ではないと分かっている。
彼が求めているのは、家族からの『おめでとう』の言葉だと知っている。
でも、この言葉を伝えずにはいられなかった。
「羽澤さんも……」
河原くんは躊躇いながらも、ゆっくりと口を開いた。
「鐘木高校、合格。おめでとう」
河原くんは上手く笑うことができなくなってしまったかもしれないけど、私は上手に笑えるように心がけた。
「ありがとうございます」
「俺こそ、ありがとう」
おめでとうの言葉を求めているのは、自分だけだと思っていた。
でも、他人と同じ思いを抱えていることを知ると、孤独感が薄れていく気がした。心がほんの少し軽くなったのを感じた。
「そろそろ、送ろっか」
「まだ太陽が輝く時間帯ですけどね」
「海辺まで連れてきちゃったのは俺だから、見送りくらいさせてよ」
手渡されたアイスはりんご味だったはずなのに、最初はりんご味のアイスを食べたっていう感覚がなかった。
味覚が死んでいるとかそういうことではなくて、彼と一緒に食べるアイスだから、味がしなかったのだと思った。でも。
「河原くん」
今は、ちゃんとりんご味のアイスを食べたって自覚がある。
「アイス、ご馳走様でした」
今は、ちゃんとりんご味のアイスを美味しいって感じることができた。
「羽澤さんは、何が好きなの?」
太陽の光が燦々と降り注ぐ午後。
海岸沿いを並んで、高校の方角へと向かって歩く。
「好きなものが、将来の夢に繋がっていくとか言うから」
波の音が優しく耳に響き、遠くでは真っ白な鳥が自由に舞っている。
砂浜は日差しを受けて、きらきらと輝いて、青春らしい空気が私たちを包み込んでいる。
「私は……音楽、かな」
河原くんの前で、初めて丁寧ではない喋り方をした。
青春っぽい空気に踊らされたのかは自分でも分からないけど、この喋り方をしてみたいと思った。
「音楽? J-POP……じゃないか。クラシック?」
河原くんの視線は空に向けられていて、無限に広がる青を見つめていた。
私は、ずばり言い当てられたことに驚いて、彼に視線を向けた。
「そんなに詳しくはないですけど……はい」
私たちは青春らしい空気をまとっているはずなのに、交わす言葉たちに熱らしきものは感じない。
河原くんは私の気持ちを汲むような優しい話し方をしてくれるけど、ぎこちなく動く口角はやっぱり気がかりだった。
「河原くんは、好きなものありますか? 将来に関係なく」
「勉強以外、なーんにもない人生だったかなぁ」
大きく腕を伸ばして体を解そうとするけど、真新しい制服を着込んでいる彼は腕を伸ばしづらそうにしていた。
「体育の授業で活躍してるとこ、見かけたことありますよ」
中学時代に同じクラスになることはなかったけれど、隣のクラスと体育の授業が合同になったときに彼の活躍を目にした。
小学校時代と変わらない運動神経の良さを羨ましく思ったことがあるのは、今も記憶に残っている。
「運動神経に恵まれたってだけ。そこに、好きも嫌いもないってところが……ね」
海は驚くほど穏やかなのに、心はずっとざわついたまま。
それを青春らしいという言葉で表現するのかもしれないけど、青春という言葉では片づけないでほしいと叫びたい。
「羽澤さんは、好きな音楽を伸ばす方向に進むの?」
高層の建物がない場所では、空も海も大地さえも広い視野で観察することができる。
時が流れれば流れるほど太陽は沈んでいくはずなのに、太陽はさらに輝きを増しているような気がしてしまう。
それだけ、視界に映り込む世界が美しすぎて嫌になる。
「私は、ちっちゃいときに諦めちゃいました」
どんなに頑張った、どんなに努力したとアピールしたところで、結局は自分をプロと必要としてくれる人と出会わなければいけない。
結果がすべてとは言うけれど、プロとして音楽を続けることはできませんと手渡された現実は想像以上に重たかった。
「お金を稼ぐことができない音楽に、価値はないって」
空も、海も、深い青が広がっている。
その蒼が美しすぎて、視界を背けたくなる。
それなのに、海沿いの道は真っすぐ続いている。
「もちろん、そんなことはないです。お金がすべてではないですけど、幼少期の習い事って……どうしてもお金がかかってしまうので……」
もうしばらく歩かなければ、広がる青から逃げ出すことはできない。
だから、私は隣を歩く河原くんに助けを求める。
「親の経済的な負担になる音楽では、音を楽しむことができないなって」
今だけ、視界に入れることを許してくださいって。
「……羽澤さんは、後悔してる?」
ピアサポートの活動をしているわけではないけど、彼の背中を押すための言葉を紡ぎたいと思っていた。
でも、私は救い上げる側の人間ではなく、彼から救われる側の人間だった。
「後悔だらけの人生、です」
プロの道に進みたいという夢は確かに私の中に存在していたのに、その夢は霞のように儚く消えてしまった。
「今も絶賛、後悔中です」
誰からも必要とされない音楽は、お金にならない。
お金にならない音楽は、幼少期の両親の負担にしかならない。
ヴァイオリンが裕福な家の習い事だと気づいた瞬間。
神様は、夢を追いかけられる人と追いかけられない人の二通りに分けているのだと絶望した。
「後悔している割に、綺麗に笑うね」
「……綺麗に、笑えてますか?」
「うん、大丈夫」
鏡のない場所では、自分の表情を確認することができない。
自分が口角を上げることができているのか不安になっていたことに気づいた河原くんは、真っ先に気づいて励ましの言葉を与えてくれた。私なんかよりも、よっぽどピアサポート部の部員らしいと思った。
「良かった……」
声にするつもりはなかったのに、声が漏れ出てしまった。
ちゃんと笑顔を作ることができれば、家に帰ったとき家族に心配をかけずに済むっていう安堵の気持ちが私を包み込む。
「良かった……」
学校に帰る、途中の道で。
隣を歩く彼に、泣いている顔を見せることがなくて良かったと思った。
音楽を捨てたことを未だに後悔しているからこそ、前を向いているフリができた自分を褒め称えたい。
一瞬だけでも綺麗な笑みを浮かべることができれば、家族を誤魔化すことができるのだから。
「好きなことも嫌いなこともない人生も辛いって思ったけど、好きがあるっていうのも辛いね」
彼の視線の先には私がいて、彼は私のことしか見ていない。
真っすぐな瞳で、とんでもない発言を投げつけてくる彼が纏う空気はどこか儚い。
「好きを続けるには、覚悟が必要だって……ちっちゃいときに学びました」
なるべく心配をかけないような、それこそ昔の河原くんが見せてくれたような綺麗な笑みを心がけた。
「凄く……凄く……悔しかったなぁ……凄く……」
悔しくなんかないよって言葉を伝えることが、ピアサポート部の部員としては正しいのかもしれない。
でも、そんな見栄を張る余裕すらないくらい心はぼろぼろ。
努力で覆せるものはあると信じてきたけれど、努力だけではどうにもならないことがあると知った。
いざ自分に才能がないことが分かると、心が切り裂かれたように痛みを感じる。
「音楽でご飯……食べたかったなぁ」
私が挫折したタイミングと、両親が離婚したタイミングがちょうど重なって、私の前には都合よく逃避するための環境が用意された。
その環境に乗っかって今日まで逃避行を続けてきたけど、その逃避行は今のところ後悔の感情しか招いていない。
「音楽で食べていけないって現実、認めたくなかったです」
私が生きてきた世界では、聴く側のプロがいる。音を審査するためのプロがいる。
そういう人たちが、才能ある人と才能のない人たちに分けていく。
音楽の神様に愛された人間は、未来永劫、音楽を続けていくことを許される。
音楽の神様に認められなかった人間は、どんなに音楽と言うものを愛していてもプロとして活躍する活路は用意してもらえない。
「羽澤さんは今も、音楽を愛しているんだね」
同い年の彼は、まるで私が生きてきた人生を見ていたかのように声をかけてきた。
「それは……」
泣きたい。
でも、泣かない。
泣くって、悔しいって思ったから。
屈したみたいで、嫌だったから。
だから、泣きたくても泣かない。
そんな道を選択した。
「当たり前のように、私の中に存在している感情です」
時代が流れることで、プロもアマチュアも関係なく活動ができるようになっていく。
私が社会人になることで、経済的な問題も解決できる。
自由に音楽を楽しむことができる環境が待っているのは間違いないけれど、その自由に音楽を楽しむことができる環境を手にするまでが遠い。時間がかかりすぎる。
残酷な結末を手渡されたまま、理想の環境を手に入れることの難しさを知って、この先の人生に楽しみを持つこともできない。
「音楽は、私にとっての生きがいですから」
今の私は、ちゃんと笑えているのか。
鏡がないと自分の顔を確認できないことが、ほんの少し怖い。
「将来は、音楽の先生になれたらいいなと」
こんな立派なことを言っているけど、本当は少し違う。
両親から公務員になりなさいって言われて、ほんの少し抵抗。
両親の願いと、自分の願いを叶えるために見つけた道が、音楽の教諭という職業だった。
「ピアノの練習、頑張らないとですけどね」
物分かりがいいフリをして、私はもう立ち直りました。
元気です、大丈夫です。
そう見栄を張って、両親から愛される努力を始めた。
だって、そうでもしなかったら、あの子はまだ音楽にしがみついてって。
そんな評価を下されてしまうのが、怖かった。怖かったから、無理矢理に夢を見つけた。
「必要とされる人間になりたいので」
河原くんに嘆きを訴えても、何も変わらない。何も始まらない。
世界から必要とされなくなった私は、ただ前を向いて生きていかなければいけない。
明日、命が終わってしまわない限り、私の人生は続いていく。
だから、もう心配しないでくださいって、嘘を吐く。
「かっこいいね、羽澤さんは」
「かっこつけているんです」
私がプロとして食べていくことができなかったのは、すべて自分の責任。
私の人生は、私だけのもの。
河原くんに想いをぶつけたところで、何も変わらない。時間は戻ってこない。
大好きだった音楽に触れる、大好きだったあの日々に帰ることはできない。
だから、無理にでも口角を上げる。
「俺は、自分が嫌いになった」
河原くんの口調が、まるで昔話を語り出すかのような口調に変わった。
「だから、かっこよく見えるんだよ。羽澤さんの生き方が」
大丈夫なフリをしている私を見かねて、河原くんは話を合わせてくれているだけかもしれない。
それでも、どこか心が通じ合ってしまう会話のやりとりに泣きそうになる。
(河原くんの優しさに泣きたいのか、彼の気遣いに泣きたいのか……)
それとも自分のことが情けなさすぎて、泣くことでしか感情を発散させる術を知らないのか。
自分のことなのに、自分のことが分からない。
それでも涙が溢れそうになって、緩み始めた涙腺を手の甲で擦る。
「昔は、自分をこと……好きとか嫌いとか考えたことなかったのに」
私たちは、足を止めた。
「いつから、自分のことを嫌いだって思うようになるんだろ」
足を止めるタイミングが重なって、なんだかそれを奇跡って呼ぶのかなって負った。
「自分を嫌いになった俺には、未練とか悔しさとか……」
自分を嫌いになったときの河原くんが、どんな様子で、どんな想いを抱いていたのかは分からない。
その瞬間に立ち会うことができかったのだから仕方のないことだけど、私は自分を嫌いになった瞬間の河原くんに会ってみたいと思ってしまった。
「そういう、糧にしていかなければいけない感情を、すべて失った」
語り口調は楽しそうなのに、河原くんの表情は少しも楽しそうに見えなかった。
当時の河原くんのことを考えると、なんだか自分が泣きたくなってしまうような感情にすら駆られてしまう。
河原くんことを真っ先に気にかけなければいけないときなのに、私はそんな自分本位な想いに駆られる。
「俺は、きっと人形みたいな生き方をしていくんだと思う」
波のささやきが、寄せては返す。
そんな表現が相応しいような音が、私たちの聴覚に届けられる。
「羽澤さんは、違うよね」
時折、吹きつける風に言葉がかき消されそうになる。
でも、私は彼の言葉を聞き逃したくないと思った。
「羽澤さんは、まだ音楽の世界を愛している」
聴く側のプロに愛されなかった私だけど、今も音楽の世界で食べていきたい。
聴く側のプロに切り捨てられた今も、私の中からその想いは消えることがない。
そんな私を、神様はしつこいと思うのかもしれない。
いつまでも未練がましい奴だって、あざ笑うのかもしれない。
「凄いんだよ、好きなものがある人って」
その言葉を、綺麗な笑みを浮かべた河原くんの声で聞きたかった。
「音ある世界を生きたいって、本気でかっこいい」
私が今でも好きだと思う、その笑顔。
その笑顔は、私を救ってくれるはずだった。
でも、目の前にいる彼に、他人を巻き込んでしまうくらいの朗らかな笑みは存在しない。
彼の声だけは、ずっとずっと優しさを含んでいるのに、彼は笑みを浮かべることができていない。
「河原くん、私は……」
どこからともなく、管楽器が音合わせをしている音が聞こえてきた。
潮風が頬を撫でるような場所で管楽器の音が響くわけがないのに、私は音の出どころを探してしまった。
「聖籠高校の管弦楽部?」
私は街並みに目を向けてしまったけど、河原くんは海に視線を向けていた。
「こんなところで演奏したら、湿気で楽器が駄目になる……」
一緒になって、海辺を覗き込んだ。
そこにいたのは、河原くんが指摘した通り聖籠高校の制服を着ている生徒たち。
制服の襟が風に揺れらながら、それぞれが大切な楽器を手にしていた。
「弦楽器と管楽器が、一緒に活動してる」
「はい、だから……管弦楽部って言うんです」
弓が弦に触れる瞬間、管楽器に息が通る瞬間。
それぞれの音が少しずつ繋がり、一つの作品を完成させるための準備を進めていく。
その様子を、海辺を訪れた観客たちは静かに見守っていた。
(湿気でやられても、大丈夫な楽器たちなのかもしれない)
どこの高校も少子化が進んでいて、ひとつの部活を形成するにも苦労しているという話は聞いている。
現に私たちが通っている鐘木高校は部員が足りないことが理由で、サッカー部と野球部が二年前に廃部となった。
近くの聖籠高校の管弦楽部も同様で、眠り続けて使われなくなった楽器たちが増えているのかもしれない。
眠らせたままなら、海での演奏に使おうということなのかもしれない。
「海辺の高校ならではだね」
自分では考えられなかった演奏会が、目の前で開催される。
釘づけになって言葉を失っている私を気遣うように、河原くんはときどき言葉を挟んでくれる。
これは夢でもなんでもなく、現実だってことを教えるために声をかけてくれる。
(海辺での演奏なんて、できないものだって思い込んでた)
私たちが通っている鐘木高校は、学校街と呼ばれている場所に存在する高等学校。
学校街と名づけられていることもあり、学校街には鐘木高校だけでなく、聖籠高校や、その他の高校が集合している。いろんな高等学校が集合しているからこそ、私たちは海辺の演奏会に参加することができた。
(不可能を可能にする音楽……)
やがて指揮者が腕を振り上げ、一瞬の静寂が広がる。
そして、その静寂を抜け出すように音楽が海辺全体へと広がっていく。
弦楽器が奏でるメロディ、管楽器の澄んだ音色が、海辺という舞台にひとつの作品を生み出していく。
演奏する生徒たちの表情は引き締まってはいるものの、音を楽しむ気持ちが込められているおかげで堅苦しさを感じない。
楽器たちが織りなす旋律が心に溶け込んでいき、さっきまで泣きそうだった気持ちが少しずつ晴れていく。
(聖籠高校……行きたかったな)
心の中に、いくつもの感情が渦巻いていく。
懐かしさ、切なさ、悔しさ、言葉では表現しきれないほどの感情が次から次へと生まれてくる。
(管弦楽部、入ってみたかったな)
管弦楽部が演奏する作品は、ただ音として耳に届くだけではなかった。
心の奥深くに響き渡らせるために、彼らが演奏しているってことが伝わってくる。
(でも、今を選んだのは、私)
最後の一音が消えた瞬間、観客たちの拍手が波のように広がっていく。
海辺の演奏に相応しい波音と盛大な拍手が聴覚を刺激して、私も自然と手を叩いて拍手を送った。
アスファルトの道路からでは拍手が届かないと分かっていても、それでも拍手を送らずにはいられなかった。
「羽澤さん」
「はい」
海辺の観客たちは、アスファルトの道路にいる私たちの分も、手を大きく叩きながら声援を送ってくれた。
そんな様子に見入っていると、隣に並んだ河原くんが声をかけてきた。
「いい顔してる」
彼と、視線を交える。
演奏をしていたのは聖籠高校の管弦楽部の生徒たちなのに、彼は私の表情が眩しく輝いていると指摘する。
「っ、そんな……そこまでいい顔は……」
「受験が終わった日の笑顔、思い出す」
穏やかで優しい声が降り注ぐ。
河原くんの優しさは昔から何ひとつ変わっていないのに、どうして彼は笑顔を浮かべることができなくなってしまったのか。
「羽澤さん、時間ある?」
あまりにも美しすぎる世界に、近づく勇気すら出なかった。
「もっと近く、行ってみない?」
眩しいほど美しい演奏を、ただただ見つめることしかできなかった。
でも、河原くんは、私の背を押すための言葉をくれる。
「今から、ここにある楽器の体験会を開きます」
一歩、また一歩、私は聖籠高校の管弦楽部へと近づく。
遠くから見ているだけだった世界が、視界いっぱいに広がる。
「羽澤さん、弾ける楽器ある?」
吹奏楽部でも、管弦楽部でもない河原くんは、こんなにもたくさんの楽器を見るのは初めてかもしれない。
控えめに声をかけた河原くんは少し緊張した面持ちで、久しぶりに彼の感情が動いたのかなって期待が生まれる。
「……ヴァイオリン」
「ここにある楽器は、ずっと倉庫で眠っていた楽器たちです」
私がヴァイオリンと口にするのと、部長らしき女子高生の説明が重なった。
「譲ることもできない状態の楽器たちに、どうぞ触れてみてください」
少子化で部員も少なければ、楽器のメンテナンスにかけるお金も少ないということなのかもしれない。
どうしようもできない現実に心を痛めたところで、楽器たちは過去の音色を取り戻すことができない。
「一緒に、音を楽しみませんか」
メンテナンスされていなかった楽器は海辺の湿気に晒されていくけれど、それを悲しさだけで終わらせたくないと思った。
「河原くん、私……」
「いってらっしゃい」
いってらっしゃいと言葉をくれた彼の表情が、ほんの少し。ほんの少しだけ、過去の笑みを思い出させるものだったのは私の都合のいい解釈なのか。それとも、本当に自然な笑みを浮かべてくれたのか。
答えを見つけられないまま私は、河原くんに背中を押される。
「あの、ヴァイオリンお借りできますか」
「大丈夫ですよ」
潮を浴びた楽器たちは管弦楽部員の手にかかって、あれだけ人の心を引き寄せる音を奏でることができた。
まだ、音を鳴らしたいって気持ちが楽器に残っているのなら、私は手を差し伸べたい。
過去にヴァイオリンを拒んだ後悔があるからこそ、今度はヴァイオリンを愛するために音を鳴らしたいと思った。
「すぅー、はぁー」
大きく深呼吸を繰り返す。
「緊張しますよね」
「とても……」
背筋を伸ばす。
「ヴァイオリンの持ち方は……」
「これで大丈夫ですか」
もう十年以上、ヴァイオリンには触れていないはずなのに。
私の体は、音楽を愛していた頃の記憶をしっかりと覚えていた。
「あ、綺麗ですね。経験者ですか」
「ちっちゃい頃に、ほんの少しだけ……」
思っていたよりも軽いのに、肩に置くだけで圧倒的な存在感を感じることができる。
小さな手で弦を抑え、弓を滑らせた、あの瞬間が一気に甦ってくる。
幼い頃に感じた喜びの気持ちは私を奮い立たせ、私の中で覚悟が決まる。
「弾きます」
その一言を最後に、案内をしてくれた高校生は私に自由を与えてくれた。
指先は迷いなく弦に触れ、その指先から感じた懐かしさは体を自然に動かしてくれる。
かつては演奏者がいたはずなのに、その演奏者を失ったことで、倉庫に眠ることしかできなくなったヴァイオリンたちのことを想いながら弓を引く。
「っ」
不完全な音が弦から零れると同時に、胸に小さな痛みが生じる。
自分が未熟なせいで零れた不協和に耳を塞ぎたくなったけど、目の前にいる高校生たちは観客から拍手をもらえるだけの演奏ができていた。
かつて挫折した頃の記憶に影響されていては、音を奏でたいという願いを叶えることができない。
弓を握り直して、もう一度、決意を新たにする。
(よし)
ヴァイオリンから徐々に、旋律というものが形を成し始める。
周囲が楽器の体験会で賑わっているおかげで、いろんな音を聴覚が拾うようになっていく。
もう、過去に囚われることはないと言わんばかりに、生き生きとした音たちが音を鳴らす喜びを伝えてくる。
音楽から逃げ出した私に、こんなにも感情をざわつかせる音を奏でる楽器たちを狡いと思う。
(綺麗な音……)
湿気の影響を受けた楽器が、混じり気のない音を出すのは難しい。
たどたどしい音が空間に広がるだけで、この音色では誰の心も惹きつけることができない。
(もっと綺麗な音……)
理想の音を出すにはメンテナンスが足りないけれど、久しぶりに再会した音に心を奪われる。
でも、心を奪われるのは、私だけでは駄目。
海辺を訪れた人たちみんなを巻き込むような音を奏でなければ、このヴァイオリンの魅力を届けることができないから。
(もっと、もっと、もっと)
音が鳴り始めると、私のヴァイオリンの音色が海辺を駆け巡っていく。
海辺全体に広がっていく音色が、観客の心を離さないものであるようにと願いを込める。
私の演奏を聴きなさいと命令するような、そんな迫力ある音を奏でていく。
(もっと、綺麗な音を届けたい)
自然と耳を傾けてしまうくらいの演奏ができているか。
周囲を確認する余裕はない。
観客の顔を見る余裕がないことを残念に思うけど、私は私と出会ってくれたヴァイオリンの世界に夢中になった。
無我夢中って言葉の意味を、自身の経験を通して体感できた。
「は、はっ……」
演奏が終わると同時に、私は海岸を形成する砂へと目を向けた。
海辺に、鏡は存在しない。
どんなに砂浜と睨めっこを続けても、自分がどんな顔をしているのか確認する手段はない。
でも、生き生きとした表情を浮かべることができたら、こんなにも嬉しいことはない。
そう思って、俯いた視線を上げた。
勢いよく顔を上げると、そこには河原くんの姿があった。
「かっこよかった」
彼とは距離があるため、本当に彼が『かっこいい』という言葉をくれたのかは分からない。
それだけ離れた場所にいる私たちだけど、彼の唇の動きは『かっこいい』という言葉を送ってくれた気がした。
「は、は……」
息が乱れていることに気づいて、息を整えようと大きく息を吸い込もうとしたとき。
河原くんが、私に向かって手を叩き始めた。
彼の拍手をきっかけに、周囲の人たちからも一斉に拍手が沸き上がる。
「っ」
ここは私の独壇場ではなく、聖籠高校管弦楽部の生徒たちや海辺を訪れた観客たちが楽器の体験を楽しむための場所だったはず。
それなのに、周囲の視線を自分が独占していることに気づいた。
鳴りやまない拍手に恥ずかしさを抱くけど、心は素直に喜びなさいと命令してくる。
「ありがとうございました!」
深く頭を下げて、感謝の気持ちを伝える。
次に顔を上げたときには、もっとちゃんと観客の人たちの顔を見たい。
そんな気持ちがあるのは事実でも、私は多くの視線から逃げ出すことを選んだ。
(寂しい、な……)
演奏が終わってしまうことを、素直に寂しく思った。
寂しい。
寂しい。
寂しい、けど。
聖籠高校に進学をしなかった私は、ヴァイオリンに触れる権利がない。
私はお借りしたヴァイオリンを返して、急いで河原くんの元へと戻った。
「やっと笑った」
河原くんの元へと駆け寄り、彼がくれた第一声は、『やっと笑った』という不思議な言葉だった。
「やっぱり私、笑えてなかったですか」
「ううん、やっと作り笑顔じゃない笑顔に会えたなって」
作り笑顔が大得意になっていて、ちゃんと笑うことができていなかったことを同級生の彼に指摘される。
「恐ろしいくらいの才能で怖い」
「そこまで感じてくれたなら、嬉しいです」
今は、どんな顔をしていますか。
自分で自分の表情を確認することができないから、私たちは今日も表情を作り込むことが上手くなっていくのかもしれない。
「私は、音楽を手放した人間なので」
空を見上げると、そこには相変わらず美しい青が広がっていた。
太陽はきらきらとした輝きを放っていて、その輝きは誰しも平等に与えられているのに、私はその輝きに触れることすらできない。
「俺と約束しない?」
河原くんが声を発すると、辺りの空気が和む。
河原くんの澄んだ優しい声と言葉が、私の心を突き刺してくる。
それなのに、彼の口角は上がらない。
他人を元気づけるような笑顔を浮かべられる彼を知っているから、ときどき不安になる。
「どんな約束を交わせば……」
私が視線を彼に戻すと、今度は彼が真っ青な空に視線を向けた。
私たちの視線は、再び一方通行。
「羽澤さんの夢」
空を見上げる彼の姿を、ただただ美しく思った。
美しいしか形容する言葉が出てこないのも申し訳くらい、綺麗なものは綺麗だって思った。
彼には彼が抱えている事情があると分かっていても、彼が生きる姿は美しい。
「羽澤さんの夢を、いつか聞かせて」
「……いつか」
きっと、誰もが美しさを持って生まれてきたのだと思う。
きっと誰もが美しさを持っていて、自分が持っていない他人の美しさを羨んでいくようになるのかもしれない。
「音楽教諭を目指すこと以外の、羽澤さんの夢が聞きたいなって」
美しいのに、どこか寂しそう。
彼が消えてしまうわけがないのに、今にも消えてしまいそうな儚い空気が彼を纏う。
手を掴んでいないと、今にも彼がいなくなってしまうような。
そんな感覚に囚われていく。
「私には、それ以外の夢なんて……」
「俺もないから、そこは気にしなくていいよ」
ここは、河原くんの穏やかな笑みに会えるところ。
ここは、河原くんの優しい笑みを励みにするところ。
いつもはそうだったはずなのに、そのいつもは存在しない。
「……河原くんも、夢を探すんですか」
高校に進学した彼は、変わってしまった。
何があったかは教えてもらえないけど、彼は変わらざるを得なかった。
「羽澤さんを、目指さないこととか……?」
「疑問形で返すの、狡くないですか」
「そう?」
「自分の夢だったら、言い切ってほしいです」
河原くんは、昔の自分に戻ることを選ぶのか。
それとも、未来に進むことを選ぶのか。
「だって、河原くんは、私になることはできない。最初から、私を目指す必要はないです」
小学校、中学校、高校が同じという共通はあっても、河原くんとは親しくもない間柄。
「それぞれが存在するから、きっと世界が成り立っていくのかなって」
でも、今までの河原くんが目標を持って生きてきたのだったら、何か言葉をかけたいと思ってしまった。
「羽澤さんなら、絶対に素敵な教師になれると思う」
「ありがとうございます」
河原くんは軽く曲げた小指を差し出して、約束を交わすポーズを取る。
「俺が夢を見つけられるかは分からないけど」
少しだけ恥ずかしそうしているのが伝わってきたから、私は彼との距離を縮めて、彼の小指に自分の小指を絡めた。
「夢の発表会って、いいですね」
観客がいなくなってしまった海で、小指と小指を結んで約束が生まれる。
単純な約束の交わし方。
約束を破ったからといって何も起きないことを私たちは知っているけど、あらためて未来に向けての約束を交わし合う。
「世界に一つだけの、羽澤さんの夢を聞かせて」
河原くんの瞳は希望に満ちているように見えるけれど、どこか寂しくて悲しくて儚い。
そんな瞳は、やっぱり彼が今にも消えてしまいそうな錯覚を引き起こす。
「河原くんも、ですよ」
「……俺が、夢を抱いてもいいのかな?」
「河原くんが、自分のことを好きになれますように」
約束を交わして、指が解かれる。
「俺も、やってみたいな」
届くはずのない空へと手を伸ばして、河原くんは願いを託す。
「羽澤さんみたいな、優しい演奏」
優しさがあると、人は笑顔になることができる。
それは、私と接してくれた河原くんが教えてくれたこと。
彼が私に優しさを与えてくれたから、私は作り笑顔を自然な笑みに変えることができた。
「あ、もちろん、ヴァイオリンを始めたいとかじゃなくて」
「大丈夫です、分かってます」
私たちは大切な人の笑顔を望んでいるはずなのに、肝心の自分たちは上手く笑うことができていない。
笑顔を浮かべることができない人生になったのは自分のせいだって言われても、自分の人生に全部の責任を持ちなさいって言われても、それは難しい。
「羽澤さんみたいに、愛される人間になりたい」
自分の身に起きるすべての出来事すべて、あなたのせいでしょって突き放されてしまったら。
きっと誰もが、笑顔を浮かべることができなくなってしまう。
それを知っているはずなのに、私たちは他人を突き放してしまうことがある。
「……優しかったですか、私の演奏」
「優しすぎて、泣きたくなる」
私も、優しさを贈る人になりたい。
河原くんが贈ってくれた優しさを、今の彼に贈り物として返したい。
してもらったから、返すということではなく。
私が、彼に優しさを贈りたいって思った。
「握手、してもいい?」
「なんだか、有名なヴァイオリニストになったみたいです」
「本当に、有名なヴァイオリニストだったんじゃない?」
私の手を掬い上げる瞬間、彼の指先が触れた。
これから握手を交わすのだから、彼の指が触れるのは当たり前。
頭では分かっているはずなのに、同級生と握手を交わすっていう初めてに心が追いつかない。
「握手って、あったかいんですね」
「太陽のせいもあるかもね」
しっかりと握られた手の間に、言葉以上の何かが存在しているような気がする。
それらを言葉にできたら、きっと私たちは距離をほんの少し縮めることができるかもしれない。
でも、それができないから、今日も私たちは他人のまま。
「行こっか」
「はい」
彼の瞳から逃げ出さなくていいんだって自覚できた瞬間、私の涙腺は崩壊してしまいそうになった。
真っすぐに向けられた視線に逃げ出したくなることの方が多いのに、真っすぐに瞳を見つめることができる幸福もあるってことを彼が教えてくれる。
「梓那じゃないか」
バス停に向かって歩き出そうとしたとき、聞き慣れない声が河原くんの名前を呼んだ。
振り返ると、そこには黒縁の眼鏡をかけた白髪頭の男性がいた。
「じいちゃん」
「こんなところで彼女とデートとは……」
「そんな定番のやりとりいらないから……」
深い笑い皺が刻まれた顔の男性は、河原くんのおじいさんだと気づく。
灰色のコートはくたびれて見えるけど、どこか品のある雰囲気を漂わせるところは年長者らしいのかもしれない。
「羽澤灯里です」
「初めまして、梓那の祖父です」
私たちの関係性を否定するものの、おじいさんの意味深な笑みは変わらない。
でも、それが河原くんのおじいさんらしさなんだと気づくと、私の口角も自然と上がっていく。
「先程の演奏、素晴らしかったですよ」
「……貸してもらったヴァイオリンが、頑張ってくれました」
ヴァイオリンを手に取る喜びや、胸を躍らせる瞬間が確かにあったのに、それらすべては過去のものとなってしまった。
それでも河原くんのおじいさんは、経験したすべての感情に無駄なことはない。そんなことを感じさせるような力強い言葉をくれた。
「……久しぶりで、怖かったですけど」
どこかのコメンテーターが、若いうちに才能がないと判断されるのは良いことだと言っているのを見かけることがある。
だけど、それは果たして本当にその人にとって良いことなのか。
ピアサポート部の部員をやっていても、そのコメンテーターに対抗する言葉を私は未だに持っていない。
「弾いて……良かったなって」
音が奏でられた瞬間、世界が変わった。
音を愛した瞬間、世界が変わることを知った。
幼いときに感じた感情はすべて手放さないといけないと思っていたけど、覚えていてもいい感情があるのかもしれない。
「自分の命を懸けられるほど、熱中できるものに出会ったんですね」
河原くんのおじいさんが私に言葉をくれた、その瞬間。
太陽が傾いたわけでもないのに、眩しいと感じられるほどの陽の光が降り注いできた。
それらが同時に起きたのは偶然だったと思うけど、瞳を閉ざしたくなるほどの光を感じたのを奇跡って呼ぶのかなって思った。
「……ありがたい環境だったなと思います」
太陽の光が眩しすぎて、嫌いだと思う日もあった。
それなのに、今の私は視界に入ってくる世界を美しく思えた。
太陽の光が差し込む世界は、こんなにも輝いて見えるんだってことを初めて知った。
「河原くん、ここまでで大丈夫です」
「迷ったら、海の見える本屋まで戻ってきて」
「ありがとうございます」
空に存在する太陽がやけに眩しくて、やけに光り輝いているような気がして、なんだか心惹かれてしまう。
「また学校で」
「はい、また明後日に」
きらきらとした光が、自分に向かって舞い込んでくるような。
まるで、自分が光というものに包まれているかのような。
そんな感覚を持ちながら、私は帰りたくて帰りたくない家路へと向かった。
海辺にいたときは太陽の暖かさを感じられたはずなのに、河原くんと別れた帰り道は春のまだ冬の名残が残っているような肌寒さに襲われた。さすがに息は白くならないけれど、暖かなご飯と家族の声に迎え入れてもらうために歩調を速めた。
「ただいま」
でも、玄関の扉を開けても、誰の声も返ってこなかった。
かつて愛した家族の温もりが帰ってくることはなく、私を出迎えたのは家の冷たい空気だけだった。
(今日も、お母さん遅いのかな)
静かな玄関に足を踏み入れると、いつもより靴の数が多いことに気づいた。
(お夕飯、どうしよう)
ふと奥の部屋へ目を向けると、わずかに漏れ出る灯りがあった。
リビングの扉をそっと開けると、そこには酔い潰れたお母さんと血の繋がりのない男性の姿があった。
「おかえり、灯里ちゃん」
「ただいま帰りました、松田さん」
身長が高く、背筋がすっと伸び、柔らかい眼差しは私のお父さんに似ていて、お母さんが好きなる理由が分からなくもないなと思った。
「すみません。またお母さん、酔い潰れちゃったんですね」
「お店が盛り上がってね……」
「いえ、スナックの従業員が飲みすぎるのは良くないと思います」
少しゆっくりとした口調だけはお父さんと違うと思ったけど、いつかは耳に馴染んでいくのかもしれない。
そうであってほしいと願うけれど、お母さんの想いも、松田さんという名前の男性の想いも叶わないことを私は知っている。
「何か温かいもの作ります」
「僕も手伝うよ」
学生が帰宅するような時間帯に、この男性はどうして我が家にいるのか。
今日は土曜日だから会社は休みと説明されるかもしれないけど、だったらスーツを着て我が家に立ち入らないでほしいと思ってしまう。
「灯里ちゃん、鐘木高校に合格したんだって?」
「はい、なんとかぎりぎり……」
「お母さんも鼻が高いと思うよ」
どこかぎこちないかもしれないけど、言葉に込められた温かさを無視することができない私は言葉を紡ぎ続ける。
親子らしい会話を繰り広げながら、お味噌汁の準備を始める。
「鐘木高校に入学するのはお母さんと、四番目のお父さん候補の人の夢だったので、叶えることができて良かったです」
四番目のお父さんという言葉を受けて、松田さんの手が止まった。
「スナック勤めなので、お母さんからいろいろ聞いてますよね」
四番目のお父さん候補って言っても驚かなかった松田さんだけど、言葉を詰まらせたことだけは気づいてしまった。
「四番目のお父さん候補の人は、私の塾のお金を援助してくれた方で……世の中には、二つの世帯を養えるくらいお金ある人がいるんだって驚いちゃいました」
冷蔵庫を開けて材料を探っていると、松田さんが包丁でネギを切る音だけが異様に響いた。
「お気づきだと思うんですけど……私の受験結果を知る前に、関係と切ることになりました」
松田さんがネギを切り終わったのか、私の言葉に衝撃を受けたのか、キッチンには静寂が漂った。
「まだ別れて二か月? 一ヶ月くらいだったので、松田さんを連れてきたときは驚いちゃいました」
お父さんと呼ぶには、距離がありすぎる私たちの関係。
松田さんの言葉や行動にはいつも優しさが込められていて、この距離も少しずつ埋めていけるのではないかと期待してしまう。
でも、その期待は、いつもあっさりと簡単に崩されてしまうのを私は知っている。
「お母さんって、よく放っておけないって言われるんです」
暖房をつけなくてもいい季節になってきたはずなのに、家の中を漂う空気は凍りついたように静まり返っていく。
「前のお父さん候補の人も、前の前のお父さん候補の人も、それが理由でお母さんと付き合い始めたみたいです」
松田さんに、私の声は届いているのか。
私の声が遠く感じられるくらい頭が混乱しているかもしれないけど、私は冷静に言葉を紡ぎ続ける。
「放っておけないお母さんと一緒にいると、必要としてもらえるのが嬉しいみたいです。頼ってもらえることに、喜びを感じるみたいで……」
私の隣に立つ松田さんをじっと見つめるけど、松田さんは私に視線を向けてくれない。
暖かな空気を与えてくれたのは確かに松田さんのはずなのに、一気に松田さんとの距離が遠ざかるのを感じる。
「松田さんも、同じですか」
松田さんは一瞬だけ、目を泳がせた。
そして、喉を鳴らして次の言葉を探した。
でも、松田さんから言葉は返ってこない。
「多分、今日まで、私の家の食費とか……高校に進学するときにかかったお金とか……そういうの、松田さんに払ってもらったと思うんです」
日本は所得格差が進んでいるとは言うけど、二つの家庭を養えるくらいの経済力ある男性が次から次へと現れるのも不思議な話だった。それだけ、誰かに必要とされたいと願う大人たちが多いというということなのかもしれない。
「そこには、とても感謝しています」
シングルマザーのお母さんなら、経済力のある自分のことを必要としてくれるんじゃないか。
そう思った男性たちは、二つの家庭を養うという禁忌に手を伸ばす。
現に私もお母さんも、次から次へと現れる経済力ある男性たちに生活を支援してもらった。
鐘木高校に合格できたのも、四番目のお父さん候補がいたおかげというのも間違いはないかもしれない。
「でも、うち……慰謝料を払う余裕がないんです……」
私は、なるべく柔らかな笑みを浮かべる努力をする。
不倫相手のみなさんに感謝しているのは事実だってことを伝えるために、必死に笑顔を作り込む。
「大事になる前に、どうかお引き取りください」
松田さんは言葉を発しようと口を開くけれど、そこから先は何も出てこない。
彼の沈黙は、私の言葉を肯定する材料になっていく。
「松田さんが暴力を振るうような方じゃなくて、本当に良かったです」
松田さんは、床に視線を落とした。
五番目のお父さん候補の人とお味噌汁を完成させることはできず、私はお母さんが目を覚ます前に松田さんを送り出した。
「お母さん……私、頑張るから」
不倫相手を頼らなくても、お母さんに経済的な余裕がある生活を送ってもらうのが私の夢。
それを河原くんの前では言い出せなかったけど、私はその夢を叶えるためだけに今日も明日も明後日も頑張っていく。
「うちの娘ね……すっごく頭がいいの」
「っ」
夢の中で、お母さんは不倫相手の人と会っているのかもしれない。
夢の中で、娘の自慢をしてくれているのかもしれない。
「ちゃんと、お母さんの夢……叶えるからね」
酔い潰れたお母さんを起こさないように、小さな声で自分の夢を呟く。
こうして私の人生は始まって、こうして私の人生は終わっていく。
自分の夢の守り方を知らないまま、私は大人の階段を上っていく。



