「このページの訳は……」

 中学三年生のときは、進学校、進学校、進学校と連呼してきた大人たちに囲まれて育った。
 大学進学率の高い高校を目指すようにという一種の洗脳が行われてきた中学時代を終え、私は無事に希望していた鐘木(しゅもく)高校に進学することができた。

「次のページの訳にいきます」

 進学先の鐘木高校は進学校と呼ばれているのが理由なのか、それともハズレの先生を引いてしまったのか。
 英語Ⅰの授業になると、教室の空気が一気に張りつめる。
 時計の針だけは静かに進んでいくのに、先生の声だけは快活に響き渡っていく。
 中学校時代ののんびりとした英語の授業が、遥か遠い記憶の彼方に感じられる。

(速い……)

 無情という言葉は、英語Ⅰを指導する先生のためにある言葉のような気さえしてくる。
 目の前に表示された文字は先生の手によって、あっという間に消去される。
 どんなに心の中で『速い』と嘆いたところで、それを声に出す余裕すら与えてもらえない。

「っ」

 先生からはスピードを落とすつもりなど微塵も感じられず、淡々と授業が進んでいく。
 同じクラスで授業を受けている人たちは付いていくことができているのか確認したいけど、その確認作業すら怯えてしまう。

(付いていけてないの、私だけかも)

 教科書のページが次々と捲られていく。
 周りは先生の速度についていくことができて、置き去りにされているのは自分だけかもしれない。
 頭が混乱し、焦燥感が募っていく。
 理解しなければならないという重圧は、さらに自分のことを追い詰める。

「もう一度、説明してください」

 まだ名前も覚えていないクラスの誰かが、勇気を奮ってくれた。
 先生は一瞬だけ止まってくれたけど、すぐに質問があった場所への返答を終えると次のコースへと向かってしまう。
 その冷たさが、思っていたよりも深く突き刺さる。

(これが、お母さんが望んだ進学校……)

 新しい世界の中で、立ち止まることは許されないと諭されているような気持ちになってくる。
 必死に先生のペースに食らいつこうとしても、無力感という名の大きな波に襲われる。

「英語の授業、嫌い……」
「ねえ、ねえ、ノート見せて」
「私も、ほとんどメモれなかったんだけど……」

 まともに呼吸することすらできなかった英語Ⅰの授業が終わり、笑顔を失っていたクラスは晴れやかな表情を取り戻し始める。

「羽澤さん、ノート、どんな感じ?」
「訳がさっぱりで……」
「羽澤さんも、そっかぁ」

 同じ教室で授業を受けていた女の子たちは、このクラスで、まともに授業内容を記録できた人はいないのだと悟った。
 ほかのクラスのノートに期待することしかできず、今後この教室で展開される英語の授業に溜め息を漏らした。

「部活、行こ……」
「何部?」
「ダンス」

 高校一年の一年間だけは、全員が部活動に入ることを義務づけられている。
 クラスの子が話題にしているダンス部のように毎日活動がある部活もあれば、生物部のような週に一回しかないような部活動もある。
 どの部活動に入るかを決める体験入部の期間はあっという間に終わってしまい、高校一年として一緒に入学してきた人たちは一年間の時間の使い方を選択したということ。

(とりあえず、一年間……)

 あんなにも過酷な英語の授業を終えたばかりなのに、クラスはこれから始まる部活動への期待に包まれる。
 もちろん部活動が面倒という感情を持つ人たちもいるだろうけど、そういう人たちは週に一回の部活動を選択しているはず。
 私の視界に入るのは、どちらかというと期待の眼差しが多いような気がした。

「え、これからバイトなの?」
「うん、ちゃんと学校の許可もらってるんだよ。ほら」

 学校に届け出をすることで、高校一年生でもアルバイトを通して賃金を得ることは許可されている。

「高校卒業したら、学費は出さないって言われたから」

 長いまつ毛に大きな瞳。
 少しだけ明るい茶色の髪は軽くカールされていて、お洒落に気遣っていることが一目瞭然の彼女はしっかりと将来の夢を持っていた。私とは正反対の鮮やかな人生を送る彼女は、もう既に三年後の未来を見据えていた。

(見えない未来に向けて頑張る、か)

 校則をきちっと守った容姿をしている自分は外見だけが真面目で、少しも進学した高校の色に染まることができていないと下を俯く。

(怖い、な)

 入学式が執り行われた日は、『おめでとう』の言葉が異様に少なかったことを思い出す。
 校長先生に始まり、偉い先生たちはみんな厳かな声で進学の話を始めたことに目を見開いた。
 やっと『合格』の二文字を手にすることができたのに、もう次の未来に向けて行動しなさいと諭されるとは思ってもみなかった。
 進学という言葉が、今も重たい石のように心にのしかかっている。

(努力が実らなかったら、もう、人生は終わっちゃうのかな……)

 毎日の授業に付いていくだけでも精いっぱいな私は、無事三年生になれているのかさえ不安になる。
 入学式初日から偏差値の高い大学に進学するための競争が始まっていると言われたら、友達を作ることさえも思い通りにならない。 
 あの子やこの子と、志望している大学が同じになったらどうしたらいいのか。

(なんでこんなに、余裕がないんだろ)

 なんでと言われたら、授業に付いていけない時点で後れを取っているから。
 授業に追いつくために余計な時間を費やして、自分の時間はどんどんすり減っていく。
 余裕なんてものが生まれてくるはずがない毎日に頭を抱えながら職員室に向かうけれど、その下げた視線を上げてくれる人は私の前に現れない。

「失礼します」

 職員室の扉を開けると、そこには顧問の先生が待っていた。
 でも、扉を開けただけでは、生徒は先生の視界に入ることすらできない。

「一年二組の羽澤です。深野先生をお願いします」

 中学のときまでは、自由に先生の元へと向かうことが許されていた。
 でも、高校入学すると同時に、その行動には制限がかかることを知る。

「深野先生!」

 職員室の入り口で、生徒は〇〇先生に用があってきたことを伝えなければいけない。
 入り口付近の先生の負担が半端ないとは思うけれど、これが高校に入学してから知った窮屈なルール。
 かつてテストのカンニング騒ぎがあって以降、入り口付近の先生に声をかけなければいけないという措置が取られてしまった。
 過去に迷惑をかけた先輩のせいで、後輩は用のある先生に会いに行くことも許されなくなってしまった。

「羽澤さんっ」

 視線を交えて、手招きをされて、ようやく私は目的の先生の元に向かうことを許される。
 教職員の負担を減らす方向で世の中は動いているはずなのに、この高校独自の仕組みはなんなんだと疑問を呈したくなる。
 でも、その疑問を投げやったところで、世界はそう簡単に変わらないということも知っている。

「このノートに、記録をお願いします」

 深野先生の見た目は、四十代後半くらい。
 英語系統の科目を教える男性の先生で、英語という単語が頭を過るだけで抵抗感を抱いてしまうのも事実。
 それでも深野先生は穏やかな声と笑顔で生徒を出迎えてくれるから、凝り固まった緊張がほんの少し解れるのを感じる。

「リラックス。なるべく肩の力を抜きましょうね」

 生徒に対して丁寧な喋り方をする深野先生は、すぐに私の緊張を見抜いて声をかけてくれる。
 先生から授業を教わったことはないけれど、先生の英語の授業なら英語も好きになれたかもしれない。
 ありもしない妄想に浸ることで大嫌いな英語の授業から逃避し、私は先生から記録ノートを受け取って職員室を後にした。

(ここからは、一人の活動)

 私が所属しているのは、『ピアサポート部』という名称の部活動。
 ピアサポートとは、同じような立場の人たち同士で支え合うための活動。
 具体的には、病気や障がいを抱えていて、その生き辛さを仲間同士で支え合う。
 これが、世間に浸透しているピアサポートという言葉。

『顧問と、ピアサポートの研修を担当する深野です』

 学生生活を仲間が支えるために、思いやりを学んでいくための部活動。
 それが、ピアサポート部。

『同じ学校に通う人たちの悩みを解決しなきゃいけない! そんなプレッシャーは抱えないでください』

 ピアサポート部員の主な活動は、先輩や後輩・同級生の相談を聞くこと。
 もしくは相手の話を聞く、聞き役を務めること。

『みんなは、心理カウンセラーではありません』

 ただし、深野先生が説明している通り、私たちは資格を持った心理カウンセラーではない。
 ピアサポート部に所属している人たちは、みんながみんな同じ高校に通う高校生。
 特別なんて何も持っていない、ごく普通の高校生たち。

『でも、みんなには強みがあります』

 将来的には心理カウンセラーを目指す人もいるかもしれないけど、多くの人たちは別の道へ進む。
 それでも高校生活の三年間を通して、相手の話を聞くという経験を積みたいと思ってピアサポート部へと集まった。

『お話を聞かせてくれる人たちと、同じ高校に通っているってことです』

 私なりに、未来を見据えた結果。
 学校の先生になりたいという夢に近づけるんじゃないかという理想を、中学の頃には存在しなかった珍しい部活動にぶつけた。

『同じ立場だからこそ、寄り添ってください』

 人間、そう簡単に夢を叶えることはできないかもしれないけれど。
 それでも、何か変わるといいなと願いを抱き続けたい。

「すぅー、はぁー……」

 指定された空き教室の窓際の席に腰を下ろした。
 外は晴れているのに、その明るさは私の心を照らしてはくれない。
 授業のときは驚くくらい時計の針の進みが速いけれど、いつもよりも遅く進んでいるように感じるせいで勝手に緊張感が高まってしまう。

「初めまして、一年三組の羽澤灯里(はねさわあかり)です」

 誰もいない教室で、誰にも聞こえないような小さな声で、自己紹介の練習を繰り返す。

(心臓が苦しい……)

 部活動で、ピアサポートの研修は何回か受けてきた。
 でも、研修を受けたからといって、自信が生まれると思ったら大間違い。
 自信は、経験を積み重ねることでしか生まれない。
 私が人の話を聞くことに自信を持つには、相手の話を聞くって経験を積み重ねていくしか方法はない。

「失礼します」

 教室の床と睨めっこをする時間が終わりを告げ、私が待機している教室にお話し会を希望する生徒が入ってくる。

(深呼吸、落ち着いて……)

 心臓がドキドキと早鐘を打つという表現をどこかで聞いたことがあるけど、まさに今の私の心境はそんな感じ。
 冷たさを感じる両手は汗ばんでいて、お話し会が始まる前から自信を喪失している自分に気づく。

(あとは、教室の出入り口を振り返るだけ)

 いつまでも私が窓と対面していたら、私は男子生徒とのお話し会を始めることができない。

「すぅー、はぁー……」

 こっそり、深呼吸。
 本当は大きく息を吸い込みたいけど、そんなみっともない姿は見せられない。
 せっかくピアサポート部員に話がしたいと思って、お話し会を希望してくれた男子生徒を失望させたくない。

「羽澤さん」
「初めまして! 一年二組の……」

 勢いよく振り返った。
 男子生徒が私の苗字を呼ぶタイミングと、私の自己紹介のタイミングが重なった。
 私が、彼の目を見なかったことが原因で事故は起きてしまった。

「すみません! 下手くそな自己紹介で……」
「ううん、俺のために一生懸命ありがとう」

 初対面の彼に、お礼を言われる。
 初回から大失敗したなって後悔に駆られそうになったけど、私がようやく彼を視界に入れることで、自分の世界に色が増え始める。

「久しぶり、羽澤灯里さん」
河原(かわはら)梓那(しいな)くん……」

 色が増えた世界で見た彼は、中学時代のときのような煌びやかな空気をまとっていなかった。

「一緒に合格できたね」

 上手く笑顔を浮かべることができなかった私と、みんなからの信頼をかき集めるような素敵な笑顔を浮かべることができる彼。
 正反対の生き方をしてきた私たちだったはずなのに、目の前にいる彼の表情は私と似ている。
 特に楽しいことも嬉しいこともないのに、笑えない。
 そんな空気をまとった彼に、私は言葉を失ってしまった。

「何回か羽澤さんを見かけたんだけど、男がわざわざ声をかけにいくのも……と思って」

 他人を勇気づける明るさを持っているはずなのに、今の彼からはお得意の笑顔というものが消えていた。
 声だけは昔と変わらずに柔らかい印象で話しかけてくれるのに、今は他人を元気づけるための笑みが彼には存在しない。

「クラスの違う羽澤さんと、どうやったら話ができるんだろうって考えて……」

 無理に笑顔を作ろうとしているのだけは伝わって、時折、口角が震えそうになる。
 この優しさ溢れる声すらも作りもの、偽物かもしれないって思うだけで、心がちくりとした痛みを感じた。

「羽澤さんが所属してるピアサポート部を利用したって流れ」

 小学校の六年間を共にしただけに過ぎない。
 私たちの関係は、それだけ希薄なものであることに間違いない。
 でも、小学校で過ごした六年間と、高校受験の日に声をかけてくれた彼のことを知っているからこその違和感が心に居残る。

「河原くん」

 無理に作り込んだ笑みも声も、確かに過去の彼を思い起こすような魅力がある。
 けれど、私はいつも通りを装おうとする彼を止めなければいけない。
 そんな使命感に駆られてしまった。

「楽にしてください」

 私が無理に笑わなくてもいいよと声をかけたところで、それらはすべて勘違いという可能性もないわけではない。
 彼が無理に笑顔を作ってたと告白してくれるまでは、私は彼の強がりに触れることができない。
 深野先生が私たちを『心理カウンセラー』ではないと言ったことを、しっかり頭に叩き込みながら二人分の椅子を用意する。

「羽澤さんも、力抜いてね」

 河原くん用の椅子を用意しようとすると、彼は私の手伝いに入ってくれた。

「肩に力、入りまくってる」

 こういう気遣いができるところが同い年の男の子と思えなくて、小学校だけでなく中学校でも女の子たちから大人気だったことを思い出す。
 中学時代は一度もクラスが同じにならなかったはずなのに、遠くから彼の人気が伝わってきたことを懐かしく思い返す。

「お互いに、リラックスですね」
「だね」

 いつだって河原くんの笑顔には温かさがあるのに、無理に作り込まれた笑顔は違和感しかない。
 軽い口調で言葉を返してくれるところはいつも通りなのに、その言葉の端々に重みを感じてしまうのは私が心配しすぎなのか。
 現実逃避の妄想が大好きになった結果、思い込みの激しい人間になってしまったのか。
 河原くんが言葉をくれない限り、私は彼に何もしてあげることができない。

「生徒二人で話ができるのって、面白いね」
「学校の一部屋を貸してもらえるって、なんだか贅沢ですよね」

 面白い。
 口では、そう言っているはずなのに、彼の表情は寂しそうに見えた。

「この部屋、太陽の光が差さないので寒いですね」

 心理カウンセラーの資格を持っていない高校生(私たち)は、悩み相談ごっこをするわけにはいかない。
 私たちにできることは、あくまで相手の話を聞くことだけ。

「羽澤さん。無理しないで、ブランケット使いな」

 ピアサポート部の活動は、教室にいつ誰が入ってきてもいいように公にしなければいけない。
 つまり、教室の扉を開けっぱなしにしなければいけないという決まりがある。
 四月に入って数週間しか経っていないこの時期は、まだまだ肌寒さが残っていて体が芯から冷えていくのを感じていたときに河原くんは声をかけてくれた。

「どっちがピアサポート部員かわからないですね。ありがとうございます」
「気にしなくていいよ」

 用意してあったブランケットを膝にかけて、ほんの少し回復した温もりに心が癒される。

「河原くんも、暑くなければ使ってください」
「ありがと」

 河原くんは、そこまで寒さを感じていないかもしれない。
 でも、河原くんはブランケットを受け取って、私と同じく膝にかけた。

「意外とブランケット使ってる人、少ないよね」
「本当に寒さに強い人と、強がっている人がいるのかもしれませんね」
「強がってもいいんだけど、高校の校舎めっちゃ寒くない?」

 ほとんど言葉を交わしたことがない私たちのはずなのに、次から次へと言葉が繋がっていく感覚を不思議に思った。
 それは私たちが初めましての関係ではないことを指しているのか、それとも気遣い屋さんの河原くんに無理をさせているのか。
 顔と名前くらいしか知らない仲では、何かを察することすら難しいのだと気づく。

「良かった……普通に話ができて」

 顔と名前だけは知っているから、私たちは久しぶりでもある。
 でも、こうして親しく同い年として言葉を交わすのは、ほぼほぼ初めまして。
 久しぶりでもあって、初めましてという特異な関係性だから、互いに余計な力が入ってしまうのかもしれない。

「緊張してました……?」
「すっごく」

 声色に変化をつけて、会話を通して相手を楽しませようという気遣いが伝わってくる。
 でも、河原くんは昔のような綺麗な笑顔を取り戻すことができていない。

「ちっちゃいときから知ってるのに、初めましてとか……ね」
「どうしても、同性でグループを作ってしまいますからね」
「あー、確かに、俺が羽澤さんと仲良くってのも難しいのか」

 ピアサポートという名称に囚われすぎて、体も頭もかちこちに固まってしまった。
 ピアサポート部員は、話し相手の緊張を解す側にならないといけない。
 それを理解していながらも、私が緊張せずに話せるような環境を整えてくれた河原くんには感謝してもしきれない。

「今だから、の、関係ですね」
「高校生になるってのも、いいかもね」

 無理に作り上げた笑顔を保とうとする彼は、まるで硝子のように脆いもののように感じた。
 硝子にたとえるという表現を見かけることはあったけど、こうして現実で使う機会があるたとえだと思うと再び胸がちくりと痛む。

「羽澤さんは、進路、決めてる?」

 その、感じた痛みに、重くのしかかる言葉が聴覚に響いた。

「って、入学したばっかなのに、焦りすぎか」

 彼は、窓の外の青空を見つめた。
 私は彼の言葉が何度も何度も頭を過るようになって、青い空を一緒に見上げることができなくなってしまった。

「でも、先生たち、言ってたよね」

 言葉で傷ついた人は、ずっと塞がることのない傷跡を抱えて生きていく。
 それなのに、傷を与えた側の人は、傷をつけたことすら忘れてしまうって言われている。
 いじめの話をするときに、よく出てくる話。
 いじめられた人は、いじめられたことをずっと覚えている。
 いじめた人は、いじめたことすら忘れて幸せになってしまう。
 そんな幼い頃から繰り返し紡がれてきた言葉が、頭の中を駆け巡る。

「今日からが、大学受験の始まりだって」

 先生たちは、入学したばかりの生徒を傷つけるために発言したわけではない。
 先生たちは、入学したばかりの生徒の未来を想って発言しただけに過ぎない。
 それは、分かってる。
 それは、理解している。
 でも、入学式で、先生たちの言葉に傷ついた人は私だけではなかった。

「大学受験しない人だっているのに、ね」

 春の柔らかな光が、校舎の窓から差し込んでくるのが理想の高校生活の始まりだった。
 でも、現実の高校生活は、まだ寒さを感じるほどの冷たさが私たちを包み込む。
 少し硬さを感じてしまう新品の制服は、入学したばかりの生徒たちに更なる窮屈さを押しつけてくる。

「……河原くんには、夢があるんですね」
「どうして?」
「さっきの言葉に、間ができていたので」

 大学受験しない人だっているのに、ね。
 その言葉の、一瞬の隙に私は気づいた。

「反発したい気持ちがあるのかなって」

 一瞬だけ目を見開いた河原くんだったけど、すぐにいつもの表情を失った河原くんに戻ってしまった。

「なんで、大学に進学すること一択なんだろ」

 言葉の重さに、教室の空気が一瞬だけ止まったように感じてしまった。

「大学に行けば、大抵のことはなんとかなるって大人は言いますよね」
「うん。だから、分からなくなる」

 将来の夢というものが、まだぼんやりとしている。
 大学に進学するべきか、就職するべきか、留学するべきか、その他の進路を選択するべきか。
 選ぶことができない人だっているのに、先生たちは大学に進学することが最適解と言わんばかりの言葉を生徒たちにばら撒いてくる。

「新しい夢を見つけたいのに、新しい夢が見つからない」

 私たちは言葉を交わし合っているはずなのに、視線は交わらないまま。
 河原くんは窓向こうの青い空を見つめたままで、私は彼に視線を向けたまま。
 それが不快というわけではなく、あ、私たちは他人なんだってことを痛感させられた。
 相手のために何もできないって、こういうことを言うんだって思った。

「中学のときの離任式で、夢を持ちなさいって言われたの……覚えてる?」

 ほとんど会話をしたことのない私たちだけど、共通の思い出は記憶に残っている。

「澤崎先生、でしたよね」
「そう、俺たちの学年は一切、世話になったことなかったけどね」
「柔道部くらいしか接点なかったですけど、あのときの離任式は強烈でしたね」

 暦の上では春を示す頃合いになってきたのに、曇り空が続いている体育館は一向に暖かくならない。
 それでも学校を去る先生たちを送るために離任式が開かれ、嫌でも春の到来を知らせてきた。

「今も、澤崎先生の言葉が記憶に残ってて……」

 お世話になった先生が壇上にいない生徒たちは退屈を隠そうともせず、ただただ周囲に合わせて拍手を送るという時間が長く続いた。そんな空気の中、マイクの前に一人の先生が立った。

「君たちには、ひとつだけたりないものがある」

 河原くんは威厳を感じさせるような声を作り込んで、中学一年生のときの離任式を再現してくれた。

「それは、情熱だって」

 澤崎先生は主に三年生の学年を担当していたこともあって、体育館にいた大半の生徒たちは先生との深い絆を結んでいない。
 どこか遠くを見つめていた生徒たちの視線を、一斉にかき集めるだけの力ある喋りをしたのが澤崎先生だった。

「夢に向かって、もっと情熱を持ちなさい。夢に向かって、もっと命を懸けなさい」

 体育館全体に響き渡るような澤崎先生の話に誰もが耳を傾けた、あの瞬間。

「あのとき、誰も先生を馬鹿にしなかった」
「みんなが、先生の言葉に夢中になりましたね」
「……あのときの空気感、俺、忘れられなくて」

 静まり返った体育館。
 澤崎先生は話し終えると、優しい笑顔を浮かべた。
 厳しい先生だよという噂を聞くだけだった澤崎先生が、生徒たちに向けて柔らかく微笑んでくれた。
 あ、先生は生徒を傷つけるために言葉を向けたんじゃないって分かった。
 あ、先生は、他人(生徒)の未来を想ってくれている人なんだって気づいた。

「先生の影響、受けまくって……」

 あの離任式のあと、みんなで澤崎先生の授業を受けてみたかったと話し合ったことは今も記憶に新しい。
 まるで、澤崎先生の言葉は魔法のようだった。
 無関心の空気が漂っていた体育館に言葉の魔法をかけて、生徒たちは表情を変えた。
 それだけ、先生の言葉は生徒の心に刺さったということ。

鐘木(しゅもく)高校に入学するって夢を立てて、それに向かって頑張ってきたのに……」

 河原くんのために何もできないと思っていたけれど、同じ思い出という共通は彼の話を聞くための力になる。

「はい、今日からは次の進路に向かってくださいとか言われても……ね」

 だったら、大学を目指せばいい。
 そういう話ではないからこそ、私たちは真剣に迷っていく。
 誰も迷子になんてなりたくないのに、真剣な表情で出口の見えない迷路をさ迷っていく。

「羽澤さんは……?」

 ずっと、手の届かない空に目を向けたままだと思っていた河原くんの視線。
 彼の視線が、私を真っすぐ見つめる。

「夢、見つけた?」

 春風が穏やかに頬を撫でるような、そんな高校生活を夢見ていた。
 窓から太陽の姿は見当たらなくても、空の青さだけははっきりと視界に映り込む。
 私は、河原くんの問いかけから逃げ出した。
 空の青さを愛でる勇気が私にはなく、私の青春はくすんだ灰色。
 濁った色を、河原くんには見せたくない。

「私は……」

 教師になりたい。
 それが私に与えられた夢のはずなのに、夢を言葉にすることを躊躇った。

「こう生きたいっていう理想はあっても……」

 正確には、躊躇ったとは違うかもしれない。
 毎日の中に抱える不安があまりにも大きすぎて、私なんかに教師になるという夢を叶えられるのか。
 そんな迷いが、私の口を理想通りに動かしてくれない。

「毎日、不安で……いっぱいいっぱいで……」

 夢を語る余裕が、ない。
 風に揺れる木々の音は、未来に対して否定的になっている私の気持ちをかき消してはくれない。
 あまりにも心細くなって、とうとう私は河原くんに視線を戻すことができなくなってしまった。

「不安なんて分け合えばいいよって言うけど」

 視線を戻すことができなくなった私に気づいたのか、それとも空の色を見たいという気持ちが河原くんにもあったのか。
 私たちは一緒に、同じ窓へと視線を向けた。

「他人に不安、託せるわけないよね」

 私たちの視線は、交わらないまま。

「不安を背負うことができるのって、結局は自分だけなんだよ」

 ピアサポートの存在そのものを否定するような言い回しをする河原くん。
 そのまま言葉を受け取るだけなら辛辣だなとも思ってしまうけれど、河原くんの声には優しさがある。
 昔のような朗らかな笑顔は彼から見られなくなってしまったけれど、彼がくれる優しさは今も昔も変わっていない。

「あ」

 河原くんの気づきに、私は目をほんの少し大きく見開いた。

「吹奏楽部の演奏ですね」

 ふと、耳に届いたのは吹奏楽部の演奏。
 私たち二人の視線が交わることはないけれど、私たちは一緒に聞こえてくる音楽に聴覚を引き寄せられていく。

「羽澤さん、吹奏楽部には入らないの?」
「どうして……」
「受験の日、聞こえてきた演奏に、すっごくいい表情をしてたから」

 一緒に窓向こうへ視線を投げていたはずなのに、ここで河原くんが私に視線を向けたことに気づいた。
 いま振り向けば、彼の笑顔に会えるかもしれない。
 そんな希望が生まれたのも確かだけど、昔のような笑みを失った彼が、そう簡単に笑顔を向けてくれるわけがない。
 そう思って、私は心の奥底まで届くような旋律に耳を傾けていく。

「……できたら、いいんですけどね」

 晴れて受験生から卒業する瞬間を祝福するように流れてきた演奏は、近くの聖籠(せいろう)高校の管弦楽部のもの。
 でも、私たちの聴覚に聖籠町高校の演奏は届かない。
 鐘木高校を受験した日には確かに聞こえてきた管弦楽の音色が、私たちの空き教室に響き渡ることはなかった。

「また、戻ることができたらいいんですけど……」

 空に吸い込まれそうになるくらいの青に魅了されながら、私たちは初回のお話し会を終了した。