エピローグ 

話を終えたわたし達は、何となく下校ルートをそれて、あてもなく歩き出した。
雪乃先輩の後を無言でついていくと川沿いの土手へと出る。
今日は朝から少し暑いくらいだったのが、今は気持ちのいい風が吹いてくる。
さっきの雨の気配も嘘のようだ。

「ホントはね、一人で抱えてるのは、ちょっとだけ辛かったの」
「今日だけでも一緒に落ち込んでくれる人がいるのは、なんだか嬉しいな」
それだけ言うと先輩は夕暮れの空を遠い目で眺める。
その顔は逆光でよく見えないけれど、うっすらと目が潤んでいるようにも見える。
やはり先輩はわたしとは今後会わないつもりなのだろう。
「あ、あの……ごめん……なさい」
「ううん、もかちゃんの方がショックでしょ、ごめんね」
「私の嘘が下手だったから、もかちゃんのこと二重に傷つけちゃった」
そんなわけないのに、わたしこそ『好奇心、猫を殺す』だったのに。そう言いたいのに声が出ない。
そのまま二人とも、黙ったままで歩き続ける。

「もかちゃんは本当に本が、読書が好きでしょ?」
急に話を切り出してくる先輩。
「もう一つ謝りたいことがあってね……」
言い淀みながらも続ける。
「入学してすぐのとき、何回か図書室に来てたよね?」
「私のせいで大切な場所が……本当にごめんなさい」
「きっと、もかちゃんだけじゃない、他にもわたしのせいで来れない子がいると思う」
「私も、図書室が本当に好きだから……」
「だから、ごめんね?」
目線を地面に落としたまま、先輩はいう。

「どう……ですかね」
「本を読んでる自分が好きなだけな気もします」
「だから、先輩が謝る必要、ないです」
自分でもこれが本音なのか、気遣いなのかはっきりとしない。
「もかちゃんはやっぱり優しいね」
「私が、図書委員長なんかやらずに……ううん」
「本当は……学校にも……来ない方がいいって」
「そう言われたこともあるし、自分でもそう思うことはあるの」
「だからせっかく学校に通えるようになったのに、司書室で自習をする事が多いのよ」
「今回みたいな事も初めてじゃないし、私がいるだけで誰かを傷つけてる……」
「だからね、こんな私とはもう関わらない方がいいと思う」
消え入りそうな、それでいて別れの決意を秘めた声。

その言葉にわたしはハッと息を呑む。

一輪の美しい薔薇、一人の生きる人間――
ただそれだけの事なのに……
人を楽しませるために薔薇は咲いているわけじゃないのに。
人を傷つけるために薔薇の棘があるわけじゃないのに――
そのように生まれたかったわけではないのに。
鼻の奥がツンと熱くなってくる。
泣いちゃダメだ。ここで泣いてしまったら、先輩を余計に傷つけてしまう。
そう思って必死に涙をこらえる。

彼女はまさに咲き誇る薔薇なのだ。
勝手に愛され、憧れられて、疎まれ、そして勝手に憎まれる。

先輩もただ一人の十七歳の少女なのに。そうありたいだけなのに。

そんなことにも気づいていなかった。
わたしはなんと馬鹿だったのだろう。自分にないものに勝手に憧れ、嫉妬して……
そして、自分がそうでないことに――薔薇でない事に安心しきっている。

静寂の中、遠くで鉄橋をわたる電車の音だけが聞こえる。
沈みゆく夕陽は、その最後の輝きを水面に映している。
昼でも夜でもないこの時間帯は、ただの顔見知りでもなく、かといって友達でもない。
どっちつかずのわたしたちのようだ。
わたしが意を決して言葉を発しようとしたその時、
先輩はゆっくりと一語一語、間を取りながら澄んだ声で言う。

「薔薇の木に 薔薇の花咲く 何事の 不思議なけれど」

その声は、夕暮れの空に不思議に響き渡るようだった。

再びの静寂。何も言えないままのわたしを見つめると、
夕日に照らされた先輩の顔が、それ以上に真っ赤に染まった。
あわてた様子で言う。

「……好きな……詩なんだ」

その時、心と心が通じ合うような永遠の一瞬があった。
恋に落ちるとは誰がいったのか、その刹那、わたしの世界から、全てが――
時間も空間も何もかもが消失した――
ただ一人、雪乃先輩だけを残して。
そんな二人だけの世界で、わたしは呟いた。
「薔薇の花はいつの日も、なんの不思議もなく咲き誇るけれど……」
「本当はそれって……とっても奇跡的なこと」
「……そうですよね?」

「北原白秋……薔薇二曲……わたしも好きなんです」
わたしの言葉を聞くと、雪乃先輩は本当に嬉しそうに微笑む。
その目を直視できないわたしは、慌てて目を()らしてしまう。

先輩以上に真っ赤になっているだろう顔の火照りを感じながら
「だから、その……つまり」
わたしは今、絶対に言わなければいけないと思う言葉を、
必死に、勇気を振り絞って口にした――

「先輩は――そのままでいてください」
「薔薇が、ただそこに咲くように……」
「先輩が好きな図書室にいてください」
「わたし、誰になんて言われようと、絶対にまた遊びに行きますから……」
「他の子達にも声をかけます……から」
「誰にも文句なんて……言わせません……から」
「もちろん、先輩が嫌だって言っても……きっと行きますから」

胸が詰まってうまく言葉にならない。
「それで……それで、もしよかったら……」
これが本当に最後の勇気だ、震える声で口に出す。

「わ、わたしと……お友達になってくれませんか?」

どうしても先輩と目を合わせることができない。
自分の鼓動だけが聞こえてくる。早く何か言って欲しい気持ちと、
ずっとこのまま沈黙が続けば良いのにという気持ちが入り乱れる。
長い沈黙に耐えきれず、おそるおそる顔を上げる。
先輩は大きく目を見開き、さっきよりも真っ赤な顔で私の方を見つめていた。
潤んだ瞳は、黄金色の輝きをたたえ、夕空よりも明るく澄みわたっている。
何度か大きく深呼吸をして、少し震える声で雪乃先輩はこう言った。

「どうぞ。よろしくね、もかちゃん」

「でもね、ほんとは私から申し出をするはずだったのに」
「勇気がなくて言えなかったの」
わたしが見惚れてしまった、あのはにかんだ笑顔でそう付け足した。

わたしは薔薇にはなれないかもしれないけれど――
美しく咲く花を照らす、あたたかな光になれたらと、今は心からそう思う。
そう、冬が春になって——雪が溶けて、花が萌え出づるように……
わたしは初めて自分の名前が好きになった。
「わたしのことは、『もか』でいい……よ」
「ね?雪乃」
精一杯の強がりで友達に言うように話しかける。
わたしの目にも、先輩の目にもうっすらと涙が浮かんでいる。
それに気づいたわたしたちは、今日一番の笑顔で笑いあうのだった。