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「一年F組 如月萌花です」
「本日は、お招きありがとうございます」
わたしも由緒ある清心館女学院の生徒の一人なのだ。最低限の礼儀として挨拶をする。
「もかちゃんね。改めて今日はわざわざありがとう。そちらにかけてね」
豪華なソファを指し示してから、日ノ宮雪乃は慣れた手つきでお茶を淹れはじめる。
来客用なのか普段使いなのか、一辺が五、六センチほどの四角い缶は、黒に金字のわたしでも知っている高級ブランドのものだった。
「失礼します」
わたしはそれだけ言うと、学校備品としては豪華すぎるソファに腰を下ろした。
手持ち無沙汰なまま、お茶を淹れる様子を観察する事にする。
今までも遠目で見かけることはあったが、なんと言っても、正面からこの人の事を見るのは今日の朝をのぞいて初めてなのだ。
地毛なのが信じられない銀灰色の髪は、窓から入ってくる午後の光を受けて、冬の海のように、ゆるく波うった毛先が淡い虹色を紡いでいる。それはわたしの好きなフランスの画家、シダネルの絵のようだった。
お茶を注ぐカップを見つめる瞳を縁取る、繊細な長い睫毛まで銀色で、写真でしか見たことのない珍しい鳥の羽のようだ。
その向こう、茶葉の状態を見極める真剣な眼差しはいつか見た夕焼けを思い起こさせる色をしていてどこか遠い世界へ誘ってくれそうだ。これは何色と形容するのがぴったりなんだろう?
カラコンじゃないんだよね?
淡いブルーとピンクのグラデーションは、なんだか綿菓子のような甘さを湛えていた。
けれども、甘いだけではなくて、どことない憂愁さを帯びている。
陶器のように滑らかな肌(我ながら月並みな表現だ)は人形のように見える白さだけど
薔薇色の頬が儚さの中に、確かな生命感をそこに付け加えている。ほんの少し浅くゆっくりとした呼気の中に病弱だった名残があるようだった。
わたしの人生で出会った中で最も美人なのは間違いないだろう。
この記録が破られる時が来るのか想像もつかない。
自分で嫌いだといっている人に思わず目を奪われて、少しだけ苛立ちを覚えてしまう。
「図書室っていいわよね」
お茶をカップに注ぎながら、誰にともなく日ノ宮雪乃は言った。
「入ってくるときのもかちゃん、楽しそうに見えたから」
「本好きな人ってなんだか雰囲気でわかるでしょ?」
入り口で本の匂いを胸いっぱいに吸い込んでいたところを見られていたらしい。
恥ずかしさで目を逸らしながら
「ええ、まあ」
と曖昧に答える。
また、無意識に前髪を引っ張って片目を隠そうとしている自分に気づく。
いつの頃からか伸ばし始めた、切りたいのに切れない前髪。
中学までのわたしにとって、図書室はまさに聖域だった。
子供の頃から読書が大好きで、思えばあの頃は手に取る本全てに、目を輝かせていたように思う。
友達と図書室に行ってはこの本が面白かった、あの本は一生読める一冊だ。
そんな事を子供ながらによく話し合っていたものだ。
それが、いつの頃からだろう?物語の人物に憧れて、無邪気にそうなれると思っていた自分が、平凡で代わり映えがしないということがわかってしまう。平凡な事を自覚してしまった自分――それならもう、目立ちたくない、脇役で良いという気持ちと、世の中の誰かにわたしを見いだして欲しいという、そんな矛盾した思いからか、同じ年頃の友達が誰も手をつけない本を探しては、端から読んで人とは違う自分をアピールしようとしていた。
例えば、ユゴーの「レ・ミゼラブル」次はスタンダールの「赤と黒」
古典SFからレイ・ブラッドベリを一通り読んだと思ったら
ジョン・ディクスン・カーを何冊か、また、ヘルマン・ヘッセの「ダミアン」に戻って
それからカミュの「異邦人」と言った具合に手当たり次第だ。
図書カードに誰の名前も記入されてない本を探すのを楽しみにするような——
本の内容なんてどうでもいい、一番乗りしたいだけの幼稚さ――
友人達から「萌花ちゃんは難しい本ばかり読んで、本当にすごいね」なんて
言われるためだけの虚しいトロフィー集め。
思い出すだけで恥ずかしさで布団をかぶって大声で叫びたくなるような。
それでもわたしは、図書室と本が大好きだった。
しかし高校になってから、図書室の主、日ノ宮雪乃があまりにもこの場所で存在感を示しすぎていた。
彼女の、世界の主人公とでも思えるような姿は、わたしの劣等感を刺激するには十分すぎたのだ。
それに入学直後、何も知らずに司書室がよく見える、陽当たりのいい席で本を読んでいると彼女のファンから「その席は私たちの指定席なんですけれど?覚えておいてくださいね」などと言われ追い出されたこともあった。
指定席というならわかるようにしておいてくれれば良いのに。
そんな出来事があってから、わたしは図書室には近づかないようにしていた。
それでも少ないお小遣いでは満たせない読書欲があったわたしは、市立図書館へ通うことにしたのだった。
しかし、これがまた遠くて仕方がない。
結局どうあっても、本から離れられない自分自身の事も嫌いだった。
それがこの人のせいでないことは心の奥底では分かってはいるけれど、自分のコンプレックスに向き合う勇気も、同世代の女の子たちにも立ち向かうこともできないわたしは、彼女にそれをぶつけていたのだ。意外にも自分が冷静な分析をしていることに少し驚く。
でも、きっと他にも学院にはわたしと同じような気持ちの子もいるはずだ……
表立って日ノ宮雪乃の悪評を聞くことはないけれど、彼女に対する噂話の中には、そういったひときわ目立つ存在の彼女を揶揄する意味合いのものも含まれているのだろう、そう思う。
それが、今、こんなところまでのこのこやって来て、その本人と話をしているのだから人生はわからない。
「私もね、図書室と本がとても好き」
その言葉はどこか遠くに向かって囁いているようだった。
いつの間にか差し出されていた紅茶に目線を落としたわたしの方に、しっかりと向きなおって話を続ける。
「最近まで体が弱くてね。病院の消毒液、それと図書室の本が一番馴染んだ匂いなんだ」
「高校に入るまでは休みがちだったし」
「友達もいないから」
本気なのか冗談なのかわからない笑い方で言う。
「入学して半年が経つのに友達が一人だけの、わたしへの嫌味、じゃないですよね?」
この人がわたしの交友関係まで把握しているわけがないのに、ついそんなことを口走ってしまう。
少し警戒し過ぎているようだ、自分でも言いすぎたと思う。おそらくわたしは嫉妬とやっかみが入り混じった、とてもひどい顔をしていたのだろう。その顔を隠すために髪の毛を伸ばし始めたような気がする。彼女はゆったりとした仕草で紅茶を一口飲むと、
「ごめんね。そんなつもりじゃなかったの」
「他の人と、どういう距離で接すればいいか、いまだによくわからなくて」
また、寂しげな顔で、少し間を置いてから続ける。
「わからないから、ストレートに聞いちゃうんだけど」
一拍置いてから
「ううん、やっぱりなんでもない」
先輩は、はにかんだ様子で、ゆっくりとそういった。
今日の朝とは別人のような、初めてみる恥じらいを含んだその表情は
不思議と心に沁み入るような温かさがあり――
なんだか可愛い人だな。そんな事まで思ってしまうのだった。
気まずい沈黙が流れる。
場の空気を変えようとするように先輩が話を切り出す。
「わざわざ来てもらったし、あまり引き止めちゃダメね」
「本題に入ろうか?お話——聞かせてもらえる?」
ほんの一瞬だけ垣間見えた扉の向こうが錯覚だったと感じるような――
いつもの、あの万人に向けた微笑で雪乃先輩は言う。
「司書の先生、いつもいらっしゃらないから、本当はゆっくりお話もできるんだけどね」
「あんまりもかちゃんの時間とっちゃうのも迷惑だろうし」
「そうだ、お茶も温かいうちに、ね?」
そう言い添える表情の奥にほんの少しだけ、照れ隠しのようなものを感じる。
さっきわたしに何を言おうとしたのだろうか?
そんなことを考えながら、先輩に促されて今日の朝の出来事を語りはじめるのだった。
「一年F組 如月萌花です」
「本日は、お招きありがとうございます」
わたしも由緒ある清心館女学院の生徒の一人なのだ。最低限の礼儀として挨拶をする。
「もかちゃんね。改めて今日はわざわざありがとう。そちらにかけてね」
豪華なソファを指し示してから、日ノ宮雪乃は慣れた手つきでお茶を淹れはじめる。
来客用なのか普段使いなのか、一辺が五、六センチほどの四角い缶は、黒に金字のわたしでも知っている高級ブランドのものだった。
「失礼します」
わたしはそれだけ言うと、学校備品としては豪華すぎるソファに腰を下ろした。
手持ち無沙汰なまま、お茶を淹れる様子を観察する事にする。
今までも遠目で見かけることはあったが、なんと言っても、正面からこの人の事を見るのは今日の朝をのぞいて初めてなのだ。
地毛なのが信じられない銀灰色の髪は、窓から入ってくる午後の光を受けて、冬の海のように、ゆるく波うった毛先が淡い虹色を紡いでいる。それはわたしの好きなフランスの画家、シダネルの絵のようだった。
お茶を注ぐカップを見つめる瞳を縁取る、繊細な長い睫毛まで銀色で、写真でしか見たことのない珍しい鳥の羽のようだ。
その向こう、茶葉の状態を見極める真剣な眼差しはいつか見た夕焼けを思い起こさせる色をしていてどこか遠い世界へ誘ってくれそうだ。これは何色と形容するのがぴったりなんだろう?
カラコンじゃないんだよね?
淡いブルーとピンクのグラデーションは、なんだか綿菓子のような甘さを湛えていた。
けれども、甘いだけではなくて、どことない憂愁さを帯びている。
陶器のように滑らかな肌(我ながら月並みな表現だ)は人形のように見える白さだけど
薔薇色の頬が儚さの中に、確かな生命感をそこに付け加えている。ほんの少し浅くゆっくりとした呼気の中に病弱だった名残があるようだった。
わたしの人生で出会った中で最も美人なのは間違いないだろう。
この記録が破られる時が来るのか想像もつかない。
自分で嫌いだといっている人に思わず目を奪われて、少しだけ苛立ちを覚えてしまう。
「図書室っていいわよね」
お茶をカップに注ぎながら、誰にともなく日ノ宮雪乃は言った。
「入ってくるときのもかちゃん、楽しそうに見えたから」
「本好きな人ってなんだか雰囲気でわかるでしょ?」
入り口で本の匂いを胸いっぱいに吸い込んでいたところを見られていたらしい。
恥ずかしさで目を逸らしながら
「ええ、まあ」
と曖昧に答える。
また、無意識に前髪を引っ張って片目を隠そうとしている自分に気づく。
いつの頃からか伸ばし始めた、切りたいのに切れない前髪。
中学までのわたしにとって、図書室はまさに聖域だった。
子供の頃から読書が大好きで、思えばあの頃は手に取る本全てに、目を輝かせていたように思う。
友達と図書室に行ってはこの本が面白かった、あの本は一生読める一冊だ。
そんな事を子供ながらによく話し合っていたものだ。
それが、いつの頃からだろう?物語の人物に憧れて、無邪気にそうなれると思っていた自分が、平凡で代わり映えがしないということがわかってしまう。平凡な事を自覚してしまった自分――それならもう、目立ちたくない、脇役で良いという気持ちと、世の中の誰かにわたしを見いだして欲しいという、そんな矛盾した思いからか、同じ年頃の友達が誰も手をつけない本を探しては、端から読んで人とは違う自分をアピールしようとしていた。
例えば、ユゴーの「レ・ミゼラブル」次はスタンダールの「赤と黒」
古典SFからレイ・ブラッドベリを一通り読んだと思ったら
ジョン・ディクスン・カーを何冊か、また、ヘルマン・ヘッセの「ダミアン」に戻って
それからカミュの「異邦人」と言った具合に手当たり次第だ。
図書カードに誰の名前も記入されてない本を探すのを楽しみにするような——
本の内容なんてどうでもいい、一番乗りしたいだけの幼稚さ――
友人達から「萌花ちゃんは難しい本ばかり読んで、本当にすごいね」なんて
言われるためだけの虚しいトロフィー集め。
思い出すだけで恥ずかしさで布団をかぶって大声で叫びたくなるような。
それでもわたしは、図書室と本が大好きだった。
しかし高校になってから、図書室の主、日ノ宮雪乃があまりにもこの場所で存在感を示しすぎていた。
彼女の、世界の主人公とでも思えるような姿は、わたしの劣等感を刺激するには十分すぎたのだ。
それに入学直後、何も知らずに司書室がよく見える、陽当たりのいい席で本を読んでいると彼女のファンから「その席は私たちの指定席なんですけれど?覚えておいてくださいね」などと言われ追い出されたこともあった。
指定席というならわかるようにしておいてくれれば良いのに。
そんな出来事があってから、わたしは図書室には近づかないようにしていた。
それでも少ないお小遣いでは満たせない読書欲があったわたしは、市立図書館へ通うことにしたのだった。
しかし、これがまた遠くて仕方がない。
結局どうあっても、本から離れられない自分自身の事も嫌いだった。
それがこの人のせいでないことは心の奥底では分かってはいるけれど、自分のコンプレックスに向き合う勇気も、同世代の女の子たちにも立ち向かうこともできないわたしは、彼女にそれをぶつけていたのだ。意外にも自分が冷静な分析をしていることに少し驚く。
でも、きっと他にも学院にはわたしと同じような気持ちの子もいるはずだ……
表立って日ノ宮雪乃の悪評を聞くことはないけれど、彼女に対する噂話の中には、そういったひときわ目立つ存在の彼女を揶揄する意味合いのものも含まれているのだろう、そう思う。
それが、今、こんなところまでのこのこやって来て、その本人と話をしているのだから人生はわからない。
「私もね、図書室と本がとても好き」
その言葉はどこか遠くに向かって囁いているようだった。
いつの間にか差し出されていた紅茶に目線を落としたわたしの方に、しっかりと向きなおって話を続ける。
「最近まで体が弱くてね。病院の消毒液、それと図書室の本が一番馴染んだ匂いなんだ」
「高校に入るまでは休みがちだったし」
「友達もいないから」
本気なのか冗談なのかわからない笑い方で言う。
「入学して半年が経つのに友達が一人だけの、わたしへの嫌味、じゃないですよね?」
この人がわたしの交友関係まで把握しているわけがないのに、ついそんなことを口走ってしまう。
少し警戒し過ぎているようだ、自分でも言いすぎたと思う。おそらくわたしは嫉妬とやっかみが入り混じった、とてもひどい顔をしていたのだろう。その顔を隠すために髪の毛を伸ばし始めたような気がする。彼女はゆったりとした仕草で紅茶を一口飲むと、
「ごめんね。そんなつもりじゃなかったの」
「他の人と、どういう距離で接すればいいか、いまだによくわからなくて」
また、寂しげな顔で、少し間を置いてから続ける。
「わからないから、ストレートに聞いちゃうんだけど」
一拍置いてから
「ううん、やっぱりなんでもない」
先輩は、はにかんだ様子で、ゆっくりとそういった。
今日の朝とは別人のような、初めてみる恥じらいを含んだその表情は
不思議と心に沁み入るような温かさがあり――
なんだか可愛い人だな。そんな事まで思ってしまうのだった。
気まずい沈黙が流れる。
場の空気を変えようとするように先輩が話を切り出す。
「わざわざ来てもらったし、あまり引き止めちゃダメね」
「本題に入ろうか?お話——聞かせてもらえる?」
ほんの一瞬だけ垣間見えた扉の向こうが錯覚だったと感じるような――
いつもの、あの万人に向けた微笑で雪乃先輩は言う。
「司書の先生、いつもいらっしゃらないから、本当はゆっくりお話もできるんだけどね」
「あんまりもかちゃんの時間とっちゃうのも迷惑だろうし」
「そうだ、お茶も温かいうちに、ね?」
そう言い添える表情の奥にほんの少しだけ、照れ隠しのようなものを感じる。
さっきわたしに何を言おうとしたのだろうか?
そんなことを考えながら、先輩に促されて今日の朝の出来事を語りはじめるのだった。
