昨夜は遅くまで寄宿舎で聞き取りをしたせいで、迎えの車を寄越されてしまった……雪乃は反省しつつも、談話室の心地よさと、少し面倒な会話を思い出していた。
起床の時間になると、どんなに眠くても起こされるので、自然と五分前に目が覚めるようになってしまっている。
ぼんやりとした頭を振ると、寝癖のついた髪が振り子のように揺れる。

朝方はそろそろ冷気が籠るようになってしまったフレンチヘリンボーンに組まれた板張りの床にそっと足で触れる。
寝台から足を下ろすときはどんなに冷たくても板張りの床が好きだった。
足先からの感触でそれぞれの季節を感じられるからだ。

フランス窓のカーテンを開け放つと海外のガーデナーが作ったこの季節の庭は少し寂しい。
薔薇の種類を少し増やしてもらいたいな、学校なら銀杏の葉が目に美しいと言うのに。
窓から差し込んでくる朝日が雪乃の顔を照らす。刹那遅れてドアがノックされた。

「どうぞ」
 雪乃はわざと不機嫌な声色で応答する。
「お嬢さま、あまり好きに動かれますと庇いきれませんよ」
メイド長がいつもの小言を言いながらサイドテーブルを室内に運び込むと定位置にセットする。
雪乃はその上に置かれたボウルのお湯で丁寧に顔を洗うと、夜着を足元に滑り落とす。
「お嬢様、また、はしたないまねを」
小言を聞き流しながら音もなく入ってきたもう一人のメイドの慣れた手つきに任せて着替えを済ませる。
 いつもの制服に身を包むとシワや埃を念入りにチェックしてから、鏡台の前に腰掛ける。
メイクだけは人任せにせず自らの手で行なうのが雪乃のこだわりだ。髪は二人のメイドが仕上げたものを毛先まで確認してから
「さて、と、少し急がないと待ち合わせに間に合わないな」
 独り言を言うと、冷え冷えとした食堂に移動する。会食用のアンティークの長テーブルに一人で座ってから、欠かすことが許されない朝食——季節のフルーツを少しとヨーグルトに紅茶の組み合わせ——を、いつもより早く、いつものようにつまらなそうに、いつものように一人きりで食べてから、いつものように家を出る。

「おはようございます」
清心館女学院の礼拝堂の入り口で待ち合わせをしていた雪乃と七々瀬。
まだ朝七時を少し回った時間帯、当然周囲も二人きりだ。

「告解室ってミッション系の学校にもないらしいですね」
「私、清心館に入った時に、そう言うものがあるのかと思っていろいろ調べたんです」
七々瀬は状況が飲み込めないようだった。

「ごめんなさい、関係ない話から入ってしまって。でも暁希さんの代わりにね」
「暁希は見つかったの?どこ?どこにいるの?」
七々瀬は喜びと不安がないまぜになった声色で問い詰める。
「順番に話しましょうか」
問いかけには答えずに雪乃はひんやりとした礼拝堂の椅子に腰をかけた。

七々瀬はどうしていいかわからずにそのまま立ちすくんでいる。
「この事件を調べていく過程で思ったのは、暁希さんのユーモラスな性格のことでした」
「暁希が?真面目な生徒会役員だけれど?」
「あなたにとってはそうなのかもしれませんね。七々瀬さんに比べたら、暁希さんは内に秘めた情熱があるタイプと言えるのかもしれません。見た目も一見いかにも真面目なメガネの女学生ですものね。ふふっ、これ、悪口になってしまうかしら」

「少し昔話をしましょうか」
「中等部時代に廃部になってしまった奇術部と演劇部の昔話です」
困惑の表情のままの七々瀬に雪乃は、はぐらかすように続ける。
「事件に関係あるってこと?」
七々瀬が(いぶか)しむ。
「どうでしょうか——実は、関係ない気もしています」
「でも、まずは私のお話を聞いてください」
礼拝堂に雪乃の澄んだ声が静かに響く。

「七々瀬さん、あなたは本当にすごい人です。あなたに関しては色々な話を聞いたことがありますが、今回の件で言うとあなたは奇術部を見た時にもっといい部にできると思った。もちろんそれは正しい判断なんだと思います」
「実際にプロの卵と言えるような人まで輩出しているのですから。茜さん、本当にあなたのことを褒めていましたよ」
「それに面白いことも言っていました。見えない人を見えるようにできる人だって」
「見えない人っていうのは面白い——と言っては失礼だけれど」
「着眼点にセンスがあるのはさすがマジシャンになるだけのことはある……というところでしょうか」

「今、この世界には見えない人がたくさんいると思うんです。もちろん、私にも七々瀬さんにも見えてないんじゃないでしょうか。それは——つまり私たちが無関心だから——そうじゃないでしょうか」
「貧困や差別、色々なことで見えない人、誰からも見て見ぬふりをされている人——それを気にもとめない人がたくさん存在する……この世はそんな場所だと言ってしまうこともできるでしょう」

「駅で寝泊まりをする老人を私たちは気にもかけません。それでいて私は自分の恵まれた境遇にさえ文句を言ってしまう」
「本当に救われない人間だなと思います。私は。私たちは——かもしれませんけれど」
「もっと身近な——そうですね。学校内の話でも私たちは日常的に、無関心によって、本当は見えているはずなのに、見ていない、見ようとしていないことがある」

「茜さんは何者でもない、見えない人、見られない人、もっというなら(かえり)みられることがない人——から変わりたかったんでしょうね。だから七々瀬さんに大変感謝していたし、ある種の崇拝をしていました」
「もう一度——もう一度、言いますけれど、七々瀬さん。あなたは本当に素晴らしい能力をお持ちだと思います」
「だけどね、七々瀬さん——自分で自分の道を探したい人もいるんじゃないでしょうか?自分自身で自分の世界を勝ち取りたい人もいるのです」

「詩織さん——この方も元奇術部員です——は言ってました。あなたのせいで部はバラバラになったって。それは感傷なのかもしれませんし、彼女の被害妄想なのかもしれません。それにあの部がうまく続いていく保証もない」
「いえ、この話に悪い人がいるなんて、私、思わないんです。でも全ての人が、見える人になりたいとは考えていない、望んではいないと、私はそう思うんです」

「七々瀬さん、あなたのやり方は標本箱に入れてしまうように、人を分析して分類しているように見えてしまった人もいたのではないでしょうか?人を百科事典の一項目に分類するように」

「訳のわからないことを言っていますよね、私。でももう少しだけ聞いてください」
「暁希さんはね。七々瀬さんにそれを伝えたかったんだと思いますよ」
「あなたは全ての人を見える人にしようとした」
「けれど暁希さんは自分自身を見えないようにした。それは何故でしょうか」
「見えなくなることによって、隣にいないことによって暁希さんの存在を七々瀬さん、あなたに伝えたかったんだと思います」
 
「だから私は暁希さんの事をユーモア精神に溢れた人だと思いますし、今回の件でもあまり責めないであげてほしいのです」

「さてここで、私の魔術——暁希さんを出現させる——をご覧いただきましょう」

「レディースアンドジェントルメン、これは世にも珍しい人体出現マジックです!」

 高らかに告げた後で我に返った雪乃は照れながら言い訳をした。

「い、一度こういうの言ってみたかったんです」
「わ、私にはショービジネスは無理ですね」

雪乃の指し示す指の先、気づけば礼拝堂で一人のシスターが祈りを捧げていた。

「シスター、大変恐縮ですが暁希さんの居場所をお教えいただけますでしょうか」

雪乃はシスターに向かって話しかける。それは、よく見ると職員室にいた、あの年若いシスターだった。
「あなたたちまだ悪ふざけを?お祈りの邪魔をするなんて」

「いえ、悪ふざけではなく、大真面目ですよ。ここが肝要なところなのですからね」
雪乃はシスターへの敬意も忘れたようにそう言った。
 
しばらくの静寂の後、シスターはフード——ウィンプルを外すと

「あーあ、バレちゃった」
「七々瀬には自分の力で解いて欲しかったのに」
声色も——顔つきすらも変わっていた。
シスターが消失し、代わりに現れた志崎(しざき)暁希(あき)はそう告げた。
 
崩れ落ちそうになる七々瀬を座らせると、二人に向かって雪乃は語り始める。
七々瀬はまだ状況が飲み込めていないが、なんとか話を聞く努力はしていた。

「寄宿舎で暁希さんの協力者のお二人から動機に関しては伺いました」
「暁希さんが部がなくなった事の復讐をするつもりなら——」
「この話は断っていたと言っていましたよ」
「トリックはあなたが解いたの?」
暁希は雪乃に問いかける。

「遅ればせながらですけれどね」
雪乃はため息とともに答える。
「動機は私が話したほうが……いいんだろうな」
「そりゃそうか」
暁希はあっけらかんと笑った。

「あの二人にも七々瀬から直接訊かれたら答えてくれるように伝えていたの」
「もちろん私(シスター)もね。暁希はどこって。ただそれだけ訊いてくれていたら」
「さっき雪乃さんが言った通り、七々瀬が全ての原因ってわけじゃないけれど、中等部のころの演劇部と奇術部が話の発端なの」
「あなたが来てアドバイスをしてからどっちも半年くらいしてかな」

「廃部の原因、七々瀬はきっと、知らなかったよね。それどころか、それに対して何か思ってたり原因を考えたことはあった?そうだよね、ないよね。あなたは、現在よりも過去と未来を重視する人だものね。でもね、人は今を生きているのよ。今の居場所、自分の考え、自分の心があるの」

「さっき雪乃さんが言っていた茜と詩織、どんな子かも七々瀬はわからないんじゃないかな。崇拝も、軽蔑もあなたには興味がない。知ろうとしないから、見ようとしないから」
「七々瀬はね、知らないの。個々の人格、その中でそれぞれの思いがあるって事を」

「でもね七々瀬、さっきも言ったけど、それであなたに嫌がらせをしようとか、意趣返しをしようとか、復讐がどうとか、そんなことじゃないの」

「私はね、そんなあなたのことがどうしても好きになっちゃったの」
「それが今回の事件の動機」

言葉の中にさりげなく織り込むように暁希は七々瀬への想いを口にする。
それは、虚空に溶け込ませるような、そんなさりげなさだった。
けれど、それゆえに部屋中に、世界中へと響いて聞こえるようですらあった。

「私はね、頭もいいし、顔も悪くないし、自分で言うなって?でも事実だからね」
「雪乃さんの——茜のかな、言い方で言えば、『見えている人』なんだと思う」

「そんな私だけど、七々瀬だけから見てもらえればそれでよかったの」
「でもあなたは私のことは見てくれなかった」

「あなたにとって私は『見えない人』だった。ただあなただけに見て欲しかったのに」
「そんなことを考えてたらね、だったら見えなくなったら、世界から消えてしまったら、七々瀬はどう思うんだろう?どうなるんだろう、って思ったの」
「そんなことをずっと考えていたらね、どうしても気持ちを止められなくなっちゃって。それで今回、いろいろな人を巻き込んでこんな事を起こしてしまった」

「本当にごめんなさい」

暁希の目にはうっすらと涙が浮かんでいるようだった。
「せっかく、だから、トリックの推理は雪乃さんにお願いしてもいいかしら」
目尻をそっとぬぐいながら震える声で暁希は雪乃にお願いをする。

「ええ、わかりました」
「探偵の立場を譲ってくださってありがとうございます」
雪乃の目は二人の上に注がれていたが、その瞳は慈愛に溢れているようだった。

「そうですね、まず私が最初におや?と思ったのは、密室が破られた時の状況です」
「どのくらい室内がざわめいていたのか、わかりませんけれど——」
「一つはシスターが入ってくるタイミングが、あまりにもよかったことです」
「人は、ドアが開いて声がしたら、外から入ってきたと思うでしょう」
「私でもそう思うはずです」

「でも実は室内のドアが開かれて外から入ってきた人物として声を出していた」
「非常にシンプルながらも心理的トリックが見事だなと思います」
「特に一番見事なのは暁希さんの演技力、とも言えますけれどね」

「消失トリックが先でしたよね、話が前後してしまいました、ごめんなさい」
雪乃はしっかりと噛んで含ませるように話を続ける。
「トリックとしてはこうです、着替えのカーテンは、部員が手に持っていましたが、足元から上に持ち上げるタイプのものでした」
「暁希さんはその中央に入るのですが、そこには黒いシスター服が内側に取り付けられています」

「今回の共犯のお二人はそれを持ち上げるのですが、持ち上げるとその時点でシスターの服の頭以外は着替えが終わっているのです」
「なんと言っても制服を脱ぐ必要がありませんからね。演劇部ご自慢の早着替えです」
「そのあとで顔だけ出して消失前の存在を証明する」

「ここは、首から下は着替えが終わっていて一番ハラハラする部分ですが、室内は暗いですし、光源はキャンドルの光だけです。リハーサルでうまくバレない角度を下調べして、七々瀬さんの座り位置も事前に計算されていたのではないでしょうか?」
「そうしてうまく着替えが済むと、小道具のカーテンの後ろの切れ込みから、そっとドア横の暗幕まで移動する」

「小道具のカーテンはもう一セット用意しておいて、後からトリックがバレないように、切れ込みがない、抜け出せないと思える物と入れ替えたのでしょうか?私たちが現場を見たのは一日経ってからですから。ただ、ここは定かではないです。そこまでやらなくてもいいかもしれませんね。もし入れ替えを用意していたなら、シスターが現れた時に視線がそちらに行きますから、タイミングはそこでしょうか」

「そうして、いつまでも現れない暁希さんに観客がざわめきだす。観客はさすがに仕込みではないですよね」
「知り合いを集めた、くらいで口止めをした程度でしょうか」
「部の復活公演で学校に目を付けられるわけにはいかない、といった言い訳でもすれば一日二日はじゅうぶん持つでしょう」
「秘密の共有者はすくないほうがいいですからね」

「ここで先ほどの話とつながるのですが……」
「暁希さんが消失した後、ちょうどいいタイミングで部屋のドアが開けられます。あまり速すぎてもいけませんし、遅すぎては室内にいるところを見つけられてしまう。ここも意外と際どくて難しい部分と言えるでしょう」
「無事にドアを開けると暁希さんの独壇場です」
「最悪ここで正体がバレてもかまいません」
「むしろ気づいてほしかったのではないでしょうか?」
「暁希さんとしては、私ね。こんなことをできるんだよ」
「私を見て!七々瀬!と主張することが出来るのですから」

窓の外を見つめながら話していた雪乃は、二人の方を少し見てから話を続ける。
「ところが、七々瀬さんはこの場ではトリックに気づかずに学校中を探し回る」
「手紙や暁希さんの声はシスターに扮装した暁希さん自身が仕込んだことですよね」
「ここは——ユーモアと言ってもブラックユーモア、少し趣味が悪いとも言えます」
「古典作品へのリスペクト——とも言えますけれどね」
「七々瀬さんが不審な人は見なかったと言っていました」
「けれど、この学校にはいて当然だけれど、ほかの学校にいないもの」
「清心館女学院にはいてもおかしくはないし生徒が誰一人、不自然に思わない存在」

「それはシスターなんです」

「七々瀬さんが手紙を拾い、そして暁希さんの声が聞こえた時の状況を伺ったのですが、生徒と教職員と保護者がいたけれど、怪しい外部の人はいなかったと言いました」
「教職員とは——すなわちシスターも含まれるはずです。コンビニに怪しい人がいたか?と聞いた時、人は店員が怪しいとはなかなか思いませんからね。その場にいて当たり前の存在——生徒はともかくシスターや保護者が事件にかかわっているとは思いませんもの」
「この部分もこの学校に合わせたうまいトリックと言えるでしょう」

「さて、問題はここからです、ある程度のところでネタばらしをするはずが、どうにも気づいてもらえない」
「これは暁希さんがご自身の演技力を過小評価していたせいもあるでしょうし、七々瀬さんが目の前の事象に心を奪われて、過去の事件を掘り返す発想に至らなかったのも意外だった。いえ、七々瀬さんの性格——特性を考えると意外ではないかもですが」
「ここも暁希さんの誤算だったと言えるでしょう」
「私は、あてもなく探し、走り回る七々瀬さんはかわいいと思いましたけれどね」
「おかげで校舎を何度も往復してしまいました」

雪乃はここまでしゃべってからようやく、ワンテンポ置くと

「事ここに至って、七々瀬さんは部外者——私のところに相談に来るところまで話が進んでしまった。でも、暁希さんにとっては好機とも言えます」

「私ならば——いえ普通の人の普通の動きではありますが、あてもなく探しまわったりせずに聞き込みをするだろうから、まずは職員室に名簿の確認に来るだろう」

「これは仲のいいシスターに演劇の練習で少しの間だけ当直を変わってもらったのでしょう。生徒会役員の活動の一環として学内外の方への案内はいつもしていましたし、ミッション系学校のシスターのリアルな演技をといえば三十分くらいなら普段から良好な関係を作っていればこれもたやすい——かどうかはちょっとわかりませんが、なんとか言い含めることができた。まあここは失敗しても問題はないですからね」

「ここでも新任のシスターとしてうまい演技をしましたね。私たちが昨日から目にしているお話をしているシスターはすべて、暁希さん、あなたですよね」
「生徒は大なり小なり教員が苦手ですからね、特に普段から厳しいと知られている当校のシスターならなおさらです」

「七々瀬さんが冷静ならまだしも、私も引きこもりの問題児ですから」
「すれ違った時に、私もお若いシスターだな、と思ったのですが」
「まさかそれが生徒とは夢にも思いませんでした。新任のシスターが来るという情報ですっかり騙されてしまいました。人は見るものを自分で選んでいる。見たいものを見たいように見る、というのはこういうことでもあるのでしょう。見えるもの、見えているけど見えていないもの——」

「それにしても、ふふっ、暁希さんの考えるとおりに動いてしまいましたね、私たちは」
真顔で雪乃は言った。

「新しいシスターは来週から赴任だってね。白髪のおばあちゃんだそうよ」
「だからこのトリックができるのは今週だけだったの」
 暁希はポツリとつぶやいた。

「そうですね、暁希さん自身のアイデアを試す千載一遇のチャンスですものね」
擁護(ようご)できるかと言われると難しいところですが気持ちはわからなくはないです」
「このようにして考えたトリック通りに、見えない人となった暁希さんですが、ますます困ったことになってしまいました。なんと三日目です」

「ひょっとしたら七々瀬さんが警察や学校に連絡してしまうかもしれない」
「探偵はなにをしているんだ、早く謎解きを——という状況です」
「内心、私からの呼び出しの連絡があったときはうれしかったのではないでしょうか」
「私としては本当に面目丸つぶれです」
「犯人である暁希さんにお願いだから礼拝堂に来てくれ、と懇願している訳ですからね」
「ただ、そんなダメな探偵の私にも一つだけわかることがあるんです」
「どうして七々瀬さんが暁希さんのことを見つけることが出来なかったのか」
「これは暁希さんも不思議なところなのではないでしょうか」
「私からお伝えすることもできますが——」
「もし、本人がお話できそうならお聞きしましょうか」

礼拝堂の中に沈黙が落ちた。登校してくる生徒の声が遠い音楽のように聞こえてくる。どれくらい時間が経った頃だろう、それは一分ほどかもしれないし、一時間ほど経った頃かもしれなかった。ようやく絞り出すように七々瀬が話し始めた。

「何もわからないの、私、何もわからない」
つとめて冷静に話そうとしている七々瀬の目からぽろぽろと涙が(こぼ)れる。
涙と一緒に心も溢れ出るように言葉を紡ぎ始める。
「わ、私、あなたがいなくなって、どうしていいかわからなくなって」
「わからないんだけれど、もしかしたら、もしかしたら」
言葉に詰まりながらも、恥ずかしがるでもなく想いを吐露していく。

「私、あなたのことが……暁希のことが好きなのかもしれない」
「どうなのかな?これが好きってことなのかな?」
「もしかしたらもう会えないのかもって思ったら、不安で、怖くてたまらなくて」
「わからないの、こんなの知らないの」
「たくさん本を読んで、恋の話も読んだけれど、わからないの」
「誰か……この気持ちがなんなのか教えて……教えてほしいの」
「今まで人を好きになったことがないから、わからないの」
「でも、暁希がいなくなったとき、どこを探してもいなくなっちゃった時に——」
「頭の中が真っ白になってどうしていいかわからなくなっちゃって」
七々瀬は泣きじゃくりながら最後は言葉にならない言葉でそう言った。

それでも、説明は最後までしなければという思いだろうか、必死に語り続ける。
「それに……あなたが、暁希がそんな気持ちだったなんて全然気づかなかった」
「ごめんなさい。学校中探して、それでも見つからなくて、ゆ、雪乃さんに頼んで……そ、それにわたし、わたしのせいで、あなたの仲の良かった人が、大切な場所が、そんなことになってるなんて、全然知らなくて……気にもとめてなくて」
「謝って許されるとは思ってないけれど、ごめんなさい」
ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返しながら謝り続ける七々瀬。

「七々瀬は悪くないよ、私がやりすぎちゃっただけ」
「ね、私のことを嫌いになっても、構わないから、ね、もう泣かないで」
必死に背中をさすりながら暁希も泣き出してしまう。

「私がね、生徒会に入った時のこと覚えてる?ううん、覚えてなくてもいいの」
「七々瀬のところに文句を言いに行ってね」
「どうしてくれるんだって恨み言を言おうと思っていたの」
「でもね、生徒会室であなたが一心不乱に書類に向かう姿を見ちゃったら、私、あなたのことをいっぺんで好きになってしまって」
「夕暮れの生徒会室でね。あなたの髪がカーテンと一緒に揺れていて、夕日がね、書類に反射してね、それでね、部屋の中がオレンジの光で包まれていて」

「その時、私、一目惚れってあるんだって。いろんな舞台を観て演劇の勉強をしてたけど、恋心なんて——そうだよ、私も七々瀬と一緒、恋なんて全然わからなかったのに」 
「私、暗記して何回も演じたシェイクスピアのセリフよりも、あの時の——七々瀬の言葉とあの時間、あの光景を目の前に何度でも思い出せちゃうの」
「私にとって一番大切で新鮮で古くて宝物、そんな記憶」
「七々瀬、あなたなんて言ったか覚えてる?」
「私が、部屋に入っても全然気づかなくて。十五分くらいしてやっと目をあげたと思ったら、こう言ったのよ」
「生徒会に入りたい子かな?見ての通り書類が多くて大変なんだ、早速手伝ってもらえるとありがたいんだけれど」
「そう言ったのよ」

「私はその時までなんて言おうか、あなたをどう馬鹿にして(ののし)ろうかって考えてたのに、気づいたら笑ってて、じゃあ早速やりますねって、どの書類ですかって」
「そしたらね、七々瀬は、ありがとうって満面の笑みでそう言ってくれたの」
「その顔を観た瞬間にいっぺんに好きになっちゃって」
すこしだけ落ち着いた七々瀬が暁希に答える。
「暁希が……来てくれた時のこと、ちゃんと覚えてるの」

「私が、顔を上げたら、あなたがいて」
「随分待たせちゃったと思ったのにあなたは笑ってくれて——それで——」
二人は涙を流し続けていた。
ただ、それは泣き笑いで、先ほどまでの暗く冷たい礼拝堂の雰囲気ではなかった。
ステンドグラスの光は万華鏡のように三人をキラキラと柔らかく包み込んでいる。
泣きながらお互いのことをゆっくりと話し始めた二人を後に残して、雪乃はその輝きの中からそっと抜け出すと、礼拝堂の扉を閉めた。

慎重に、音一つない滑らかさで。

 『時は春、』

 『日は(あした)、』

 『朝は七時(ななとき)、』

 『片岡に露みちて、揚雲雀(あげひばり)なのりいで、』

 『蝸牛(かたつむり)枝に這ひ、』

 『神、そらに知ろしめす。』

 『すべて世は事も無し。』


「あーあ、春の朝ならこの詩がぴったりなのに!」

雪乃は天を仰ぎながらそうつぶやいた。
そして足元に目を移すと水たまりの縁を靴の先でなぞる。
きっと家に帰ったらメイドに怒られてしまうだろう。けれど何故だかそうしたくてたまらなかった。
 
「あーあ、私にも——」
 
最後は誰にも聞こえない声だった。
 
ただ、(そら)だけをのぞいては。