清心館女学院生徒会役員『支倉(はせくら)七々瀬(ななせ)』のことを雑学王などと言おうものなら彼女の信奉者から、いかに彼女が持ち前の知識をひけらかすことをせず、心を尽くした説明をするか、と言うことについて猛攻撃と実例を持った非難を受けることだろう。
ある時、彼女が親戚の小学生から数字のゼロについての質問をされ、一ヶ月にわたって家を訪問しては説明をした事を何度も聞かされるだろう。
またある時は老人ホームに慰問に行った際に、俳句について文学部の大学院生さながらの知識を全員に与えたという話も同様に聞かされるのは確実だ。
もちろんそれだけにとどまらず、彼女が行く先々でそういった話は生まれ続けていたという事は言うまでもない。
また、誰かが彼女のことを生まれながらの才女などと評するものなら、いかに彼女が努力を重ねて今の立ち位置を築いたかを、これまた周囲の人々から聞かされることだろう。
大英百科事典とコロンビア百科事典を読破した話とロケットの打ち上げ軌道を調べるためにシミュレーションプログラムをごく初歩的な子供向けソフトで組んだ話、さらには今、学生に最も人気のあるコスメを調べているうちに、いわゆるインフルエンサーと呼ばれてしまい、慌ててアカウントを消した話を同時に聞かされる羽目に(おちい)るのだ。
そしてその手の話が彼女の耳に入ると、彼女は肯定するでも否定するでもなく、その知識欲を満たすためなのだろうか、ただ微笑(ほほえ)んでその様子を眺めているのだった。
 
支倉七々瀬は同年代の女子と比べると、ややスレンダーでよくよく見なければ気づかない程度に、しかし一切の手抜かりなくメイクをしている。地肌よりも自然に見えるとはこういうことを言うのだろう。
その手腕は確かにメイクテクニックのインフルエンサーだったという裏付けと言えた。
そんな七々瀬が、少し相談したいことがある、と廊下で雪乃を呼び止めたのは
文化祭二日目の午後遅くになった頃だった。

「こんな果ての果てまで展示を見に来るなんてね、雪乃」
七々瀬はいつもの生徒会役員としての顔の時は決して見せない、わずかに疲れた雰囲気を(にじ)ませていた。
開け放たれた窓から少しだけ顔を出すと、遠くの喧騒に耳をそば立てている。
こんな果ての果てと言われるだけあって、文化祭期間とはいえ特別教室棟四階には展示の店番以外にはほとんど生徒もおらず、ここにだけ夏でも秋でもないような、熱気と肌寒さがないまぜになったような不思議な空気が満たされていた。
そんな結界のようなねっとりとした雰囲気をかき乱すような二人の会話に、店番をしていた文化部の生徒たちも、ドアの入り口から興味深そうに顔を覗かせている。

雪乃は、文化祭を楽しく見学していた事もあり、少し気分を害した様子を隠すこともせずに、普段から自然に見えるようにかなりの時間をかけて整えられた髪の毛を、わざと大きくかきあげて乱しながら

「要件はなんですか?七々瀬さん。あなたが自力で解決できないことがあるなんて」
突き放すような声でそう言った。
「君の好きな事件というやつだよ。雪乃。おそらくは、だけれどね」
他人が自分に向ける好悪になど興味がない、と言う態度で七々瀬は答えた。

「まだ展示は半分も見ていないんですが……そう言う事でしたらお話を伺いましょう」
「立ち話もなんだから……」
「君の事務所……ではないか、司書室で話したいんだけれど、どうかな?」
廊下の先の見終わっていない展示への未練ともつかない、もの思いに耽るような遠い目をしながら雪乃は黙って先を歩き始めた。
それが肯定の意味のようだった。

階段を降りると数人の生徒が足早に追い越しながら並んで歩く二人を振り返る。
お目当ての展示があるのか、人気の模擬店に並びに行くのか、あちらこちらで人にぶつかりながらごめんなさい!と言いながら、渡り廊下を駆け抜けていく。その先でシスターにとがめられて、一瞬だけ早歩きになりながら、またも走り出しては謝罪を繰り返しているのが遠目に見えた。

秋の午後の風が舞いあげた金色に染まった銀杏の葉が二人の髪を飾りつけると、特別教室棟の静寂の世界から、再び文化祭の喧騒の中に降り立ったような気持ちになる。
先ほど生徒に厳しく指導をしていたシスターが二人の方に向かってくる。

すれ違いざま
「ごきげんよう。シスター」
と二人揃って丁寧に挨拶をする。
雪乃は、見ない顔のお若いシスターだな、とまじまじと見つめながら、そういえばお休みに入られたシスターの代わりが来るという連絡が来ていたっけ、と一人で納得しながら少し距離を取って通り過ぎる。雪乃も一人の学生としては、教師でもあり、指導者でもあるシスターという人種のことがそれほど得意でもないのだった。

五分ほどして、到着した司書室に七々瀬を招き入れると、扉を後ろ手に閉めてから雪乃は来客用ソファを指差す。
とっておきのお茶が仕舞われた戸棚に向かう前に、窓を大きく開け放した。
今年は少し早い金木犀の香りを捉えると、まだこちらは朱に染まりきっていない落葉が風に乗って部屋を訪れる。
新鮮な空気を吸い込んで満足すると、部屋に備え付けの電気ポットにスイッチを入れた。
「紅茶はおまかせでいい?」

七々瀬はスカートの裾を整えてから音も立てずに腰掛けると
「お心のままに」
とだけ告げてから部屋の中を興味深そうに観察する。まるで目利きの骨董商のようだ。

雪乃は戸棚の中からいくつかの紅茶の缶を取り出して、一つずつ元の位置へと戻すと、最終候補なのだろう、両手に持った二つの缶を上げたり下げたりしている。
まるで正義の女神が審判を下す天秤を見るような真剣な眼差しで、どちらが今の自分の気分と客人の好みに合うかの決断をしているようだった。
しばらく悩んでから一つを戸棚に戻し、もう一つを両手でそっと包み込んでから振り返った。
外から吹き込んだ優しい風が髪を柔らかく揺らす。
自分の決断が正しかったのか、まだ少し悩んでいるのか、少しだけ自信なさげにテーブルの上におずおずと黒に金字の缶を置いた。
七々瀬がそれを確認してから

「今日はファイブオクロックにするわ」
「夏摘みのダージリン、春摘みのキームン、そしてジャスミンティーのブレンド」
「まだ午後五時には少し早いけれどね」
それは鳴り響く鐘の音のような、不思議な響きを持った雪乃の言葉。
黙って頷きながら、どんな味か想像している様子の七々瀬に満足そうな顔で微笑み返すと、慎重にすり切りで茶葉を計量してから陶器のポットに二人分よりほんのわずかに多い分量を入れる。
それから湿気が入らないようにしっかりと缶の蓋を閉じると脇に置いた。
 
ティーポットに沸いたばかりのお湯を注ぐと、素早く用意していた砂時計を返して、手慣れた動作でティーコゼーを被せる。
淡い水色とベージュのチェック柄のキルト生地だ。一連の動きに満足して二、三度頷くと、カップを温めるために軽くお湯をさしてから、その間にと、戸棚の定位置へ缶をしまう。流れるようなルーティーンを披露してふっと息を抜いてから
「二人分のお茶はあまり淹れないから……うまくできるか少し心配」
雪乃はそう呟いた。本当に緊張している響きがそこには含まれていた。
「そうそう、今日はカヌレもあるのよ。カヌレ。あなたはラッキーね。七々瀬さん」
少し唐突に雪乃が告げる。七々瀬の返答を待たずにまた違う引き出しを開けながら
「カヌレってフランスでは三百くらいレシピがあるみたいだけれど」
「貴女なら色々ご存知かな?」

会話のぎこちなさと唐突さに、滅多にない来客への雪乃の喜びと戸惑いが現れているようだった。
そんな雪乃の様子を気にするでもなく七々瀬は首を振りながら応える。
「お菓子についてはあいにくね、でもこれを機に歴史を学ぶのもありかな。カヌレは聞くところによるとフランスの修道女が起源という話もあるみたいだね。フランス革命で随分とレシピとその由来が失われてしまったみたいだけれど」
一泊置いてから

「ミッション系のうちにはぴったりのお菓子かもしれないね」
と七々瀬。
「詳しくないって言いながら、さすが七々瀬さん。今回は練馬の有名なお店の頂き物なんだけど、ご存知かしら?お口に合うといいんだけど」
箱の中からカヌレを二つ取り出すとカップとお揃いの皿に乗せる。

「お茶もちょうど良さそう」
とだけ言うと落ち切る直前の砂時計を(わき)退()けてから、まだふわりと湯気をたてるカップにお茶を注ぐ。
『ファイブオクロック』という名の通り、午後に飲むのにふさわしい夕暮れに向かうような淡い色が目に優しい。
「お先にごめんなさい」
テイスティングで自身のカップに口をつけると、しっかりと淹れ具合を吟味する雪乃。
少し間を置いてから

「上手にできた。七々瀬さんもどうぞ」
打ち()けてきてはいるけれど、まだ少しだけぎこちないで笑みで雪乃はそう告げた。
七々瀬は紅茶の爽やかな風味を味わってからカヌレを一口(かじ)る。
綺麗な歯形が焼き色のついた断面と、柔らかいクリーム色の境界線をかたどっている。

中の柔らかい部分の素材はなんだろう?と興味深く眺めると
「雪乃、君は今はこうして引きこもりの姫と言った感じだけれど、教師なんて向いてる気がするな、話のテンポがいいし、声も耳に心地いいから」
「あら、私が人を教えるなんてできるかしら。でもありがとう」
満更でもなさそうな、自分には向いてないと確信を持っているような曖昧な笑みで雪乃は礼を言う。
「本当はもっとゆっくりお茶とおしゃべりを楽しみたいんだけど、ごめんなさい」
七々瀬は一言詫びを入れると本題を話し始めた。

「信じられない話かもしれないけれど結論から話すわ」
「生徒会書記の志崎(しざき)暁希(あき)が私の目の前から消え去ってしまったの。それから学校中を探したのだけれど見つかってない」
「場所と時間は?」
耳を疑うような話にもかかわらず真剣な眼差しで雪乃は、手帳を開きペンの先を確認するとそう問いを返した。
 
「場所は特別棟の四階、さっき貴女と会った場所の近くね。時間は昨日の十四時頃かな」「奇術部の公演で人体消失マジックの公演だったのだけれど、あの子がそれに選ばれてマジックの最中(さいちゅう)消えてそれっきりになってしまって」
要点だけを素早く答えてゆく七々瀬。
「なるほど、大まかな事はわかりました。悪ふざけにしては……二十四時間も経っていますね。何かあったにしても余程の事情はありそうです……」
「覚えていることをはじめから全てお願いします」
記憶を探るように部屋の天井に視線を移しながら七々瀬は語り始めた。