「待っててくれてありがとう千里さん、椿姫さん」
「きっと来ると思っていたよ」
「来なかったらむしろ期待外れだったな」
百瀬先輩は陽も落ち切った美術室に一つだけつけられた電灯に照らされて、飾り気なくそういった。
天目先輩は不安げな様子で百瀬先輩に寄り添っている。
「まあ、座りたまえ、我らが名探偵殿の推理を拝聴しようじゃないか」
大仰な仕草でそう宣言する百瀬先輩。
椅子に座ると静かに指と指を触れ合わせた雪乃先輩は、どこから話すか悩むように目を閉じて、それから、ゆっくりと話し始めた——
 
「どうしても——今日お話をしたかったのは、今日ならばまだ間に合うと思ったから」
「だから二人が待っていてくれて本当によかった」
「本当に、ありがとうございます」
雪乃先輩は何が言いたいのだろう?
やっぱり犯人は……だとすると目的はなんだったのだろう?そんなわたしの疑問に答えるように雪乃先輩は話を続ける。

「思えば……最初から千里さんの発言と行動には少し不思議な点がありました」
 
「結論から言いますね。千里さんは——色覚多様性でしょう?」
 
色覚多様性……ゴッホもそうだったと聞いたことがある……赤と緑の区別が難しい型があったように思う。
「絵の具のラベルを剥がしても、絵を描いている人ならばパレットに出してみれば、すぐわかります」
「イタズラとしては手が込んでいる割にあまり意味のない行為だけれど……」
「千里さんの特性を考えれば、それはとても——」
窓の外——坂の上にある清心館女学院からは遠くの街並みから海までよく見える——
を見るでもなく目を向けながら雪乃先輩はそう言った。

「そういえば……百瀬先輩が美術室で何度も色の相談をしていたのが印象的でした」
先輩の言葉にわたしも思い出した事を口に出してしまう。
「そうだね」
雪乃先輩は、二人に目を向けてから、わたしの言葉を反芻しながら静かに頷いた。
「でも……私が不思議に思ったのは、学食で千里さんとお話をした時のことでした」
「私がりんごの色を千里さんの髪色に例えた時の事を覚えている?」

「千里さんはね『僕の髪色のようだとすると』って言ったの」

「そう言ったのよ」
もう一度雪乃先輩は繰り返した。
「絵を描く人なら目の前の赤を見ながら色を判断するでしょう」
「でも、もし千里さんが、赤と緑の判別が難しいなら……」
「そう考えたら、絵の具のラベルが剥がされた事が意味を持ってくるんです」
「椿姫さんは自分と百瀬先輩のチューブにだけ、花柄のラベルを貼った。そして、この花はカーマイン、こちらはビリジアンというように二人の絵の具には名前は書かずに、お花のシールだけ。千里さんは内心では意図に気づいていたのでしょう」
「ここでのポイントは千里さんと椿姫さんの絵の具には同じシールが使われていたけれど、そのシールは別の色に貼られていたことなの」
「どう言うことですか?」
急に話が難しくなってしまいわたしは問いかける。
「少しお話を整理しましょうか」

「絵の具のラベルがなくなったことで、千里さんは椿姫さんに頻繁に色の相談をする」
「椿姫さんは色を選んであげる」
「そうしているうちに、感覚の優れた千里さんは、この色とこの色が何パーセントくらいでこの赤色になるって少しずつ、理解していってしまう」
「だからね、二人の絵の具を入れ替えていくの」
「同じお花を貼った、例えば赤と緑の絵の具を入れ替えていくの」
「毎日一本ずつくらいかしら」
「そのためには、千里さんと椿姫さん二人のラベルを剥がす必要があった」
「でも、二人のだけではあまりにもあからさますぎる。木を隠すなら森の中——よ」
「ここまでは良いかな?」

話をなんとか飲み込んでからわたしは聞いた。
「つまり……えっと、百瀬先輩の作品を描き替えたのは百瀬先輩自身ってことですか?」
「色選びは最初だけは椿姫さんがしていたから……ある種のコラボレーションと言えなくもないけれどね」
「なんのためにこんなことをしたのか、それはわたしからは言わないようにしたいかな」
伏せた睫毛に隠された瞳からは、雪乃先輩の表情は読み取れない。
話し終えてからしばらくして、しっかりと確認するように雪乃先輩は顔を上げると天目先輩と百瀬先輩を交互に見つめる。
天目先輩は落ち着いた様子で頷く。
「ラベルの時点で私は気づいていたよ。しかし椿姫がこんなことをするなんてねえ」
「ここまで積極的だなんてね」
呆れたような感心したような、それでいて、いつもの態度は崩さずに百瀬先輩は答える。
その態度の中に、諦めとも悲しみともつかない、わたしたちが来るまで、同じ話を繰り返していたのだろう。
どうしても伝わらない、すれ違いの痛みが伝わってくるようだった。
「わたし、千里ちゃんの絵はずっと見てたから、どの色をどう選ぶかわかってるんです。
だから……相談されるたびに今までの千里ちゃんが選ぶだろう色を考えながら渡していたんです」
「千里さんもそこは一流の芸術家の卵です、先ほどの言葉通り、椿姫さんの意図に気づいていた」
「新しい絵の具を買って自分だけで仕上げることも出来たのに、それをしなかったのは、椿姫さんとしっかりと話をするつもりでいたのでしょう。千里さんは優しい人ですね」

天目先輩から話を引き継いだ雪乃先輩が囁くような声でそう言った。
「だから文化祭の当日まで誰にも見せないつもりだったんですね」
わたしも誰にともなく呟いてしまう。 
「でも偶然見られてしまってさ」
「騒ぎになって隠し通すことができなくなった……」
「あの子にも悪いことをしてしまった、後で謝らなくちゃね」
困ったように髪をかきあげる百瀬先輩。
「ずっとこの件は話し続けていたんだよ。全くわからずやなんだから」
ため息を付きながら天目先輩の髪の毛を愛おしそうな仕草でかき混ぜる。

「わからずやはそっちだよ。なんで才能があるのにそれを生かさないの?」
「私、千里ちゃんの絵が本当に好きで。昔からずっといろんなコンクールで競い合ってて、そんなすごい子が清心館に入学するって聞いて本当に楽しみにしていたんです」
「でも千里ちゃんは高校で私の絵みたいな……私の絵なんて写真みたいに描けるだけで芸術性なんてないのに、そう言ったのに、それでも写実表現を一度でいいからどうしてもやってみたいって言われて」
「それで私が色を選んであげていたんです。千里ちゃんはわがままだよ。私は私にできることを、それだけを一生懸命やってきた。少しでもそこに才能があると信じなければ続けることはできなかったよ。私が千里ちゃんのことを知った時、なんてすごい絵を描く子がいるんだろうって、しかもそれが同い年なのがすごく嬉しかった」
「千里ちゃんが私をここまで引っ張り上げてくれたのよ。なのにどうして、生まれ持ったその力を、特性を、才能を、捨てようっていうの」

その言葉を言われた百瀬先輩の目と髪が文字通り炎を放ったようだった。
「わがまま?わがままって何?みんなと違う世界が見えるって——そんなにいいものだと思う?ゴッホは本当にゴッホになりたかったのか、そう考えたことはある?ゴッホの再来なんて言われて喜んだこともあったけれど、今はそんな呼ばれ方……絶対にされたくない。私は——百瀬千里なんだから!」
 
「確かに私は、普通の人より恵まれていると思う。もしかしたら才能があると言われればそうなのかもしれない」
「でもそんな私でも手に入らないものがあるとしたら、それはみんなが当たり前に持っている『普通』……それこそが私からしたら、才能そのものなのよ」
強い怒りと悲しみが百瀬先輩を覆っていた自信とオーラを揺らがせた気がした。
「才能を持って生まれたかったわけじゃない。私は椿姫のようにただ、絵を好きで自分の表現ができれば良かった。君の絵が好きだった」
「同じように一度でいいから描いてみたかった。特別に生まれついたら、特別に生きなければいけないの?」
「椿姫と同じ色を見て、同じ景色を見たいと思うことがそんなにわがままなの?」
百瀬先輩の声は強く激しかった、けれどその声は弱々しく虚空へ消えてゆく。
黙って目を閉じていた雪乃先輩が、ゆったりと口を開く。
「椿姫さん、私の話を聞いてくれますか」
それはいつもの『おはよう』の挨拶くらい、さりげない言い方だった。
「私、千里さんの気持ちがよくわかるんです」
「私には千里さんほどの……そこまでの才能はないけれど……そう、ですね」
「椿姫さんの言うとおり千里さんは天才と言ってもいいのかもしれません」
「だから——これが贅沢を言っている、わがままを言っているというのは——」
「わかってはいるんです」
雪乃先輩は静かに言った。その声には伝えきれない悲しみがこもっていた。
誰も、一言も口を開くことができなかった。物音ひとつない室内で先輩は続ける。
「わかってはいるんです。けれどね、椿姫さん」
雪乃先輩の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。何に対して泣いているのだろうか。
不思議とわたしにはそれがわかる気がした。先輩は言葉に詰まっているようだった。なんと言えばいいかわからない。
けれど伝えたい、そんな想いが伝わってくる。
時計の針が沈黙をかき乱す中、ようやく先輩は言葉を続ける。

「私たちが、普通の年頃の女の子で、ただ一人の人であることを望むことは、そんなにいけないことですか?それは罪なのでしょうか?」

その言葉はまるで予言の神託のように不思議な響きを帯びていた。
「私は、ずっと普通でいてはいけないと思っていました」
「そして周りの人々から実際に言われ続けてきました。特別であれと。期待にこたえよと。求められた役を演じ続けろと」
「この先ずっとおばあちゃんになるまで、あるいはもっと早くに命が尽きてしまうかもしれませんけど、その日までずっと演じるのだ——と」
「その言葉を一番強く言っていたのはもしかしたら私自身だったのかもしれません……」
「それは、私にとって……私にとって……」また言葉に詰まりながら続ける。
「でも……ある人が私に言ってくれたんです」
「一人の人としてお友達になってくれるって」
「あなたはただの人でいいと、いて欲しいと」
「そう言ってくれたんです」
「それが……どれほど嬉しかったかわかりますか?」
「私は、千里さんと椿姫さんもそんな素晴らしい関係だと思っていました」
「だから尊敬もしていたし、お二人のことをとても好きだったんです」
 
「私にはわかりません。お二人の意見がいつか交わる日が来るのか。あるいはそんな日は来ないのか、慈しみといたわりの心がこれからも続くのか、今日で終わってしまうのか」
「私にはわかりません……」
 
再び静寂が支配した。雪乃先輩の悲しみを止めてあげたい。
場違いなのはわかっているけれど、先輩が言ってくれた言葉を、勇気に変えるんだと、その一心で必死に言葉を絞り出した。ポケットの中、お揃いのロザリオを握りしめる。
「あの……わたしはただの素人で絵のことは何もわからないんですけど、百瀬先輩の絵、繊細な中に色が踊るようで、本当に素敵だと思うんです……下絵の時もよかったですし、あの絵の完成も見たかったんですけど、ううん、あの下絵があったからこそ、いい作品になってると思います」
「だから……だから」
必死に考えをまとめたいのに言いたいことがうまくまとまらない。

「アップルパイがすごく美味しかったんです」
「そう、アップルパイも二種類のりんごですごく深い味になるんです……だから……」
「だから、お二人が親友で……ぶつかり合いながら、尊敬し合いながら競ってたから、今の絵ができたんだと思います」

「君みたいな素人に——」そこまでいいかけてハッと口をつぐむ百瀬先輩。
「ダメだよ、千里ちゃん、それだけはダメ。それを言ってしまったら千里ちゃんの理想がなくなっちゃう。千里ちゃん言ってたでしょ」
「みんなが美を感じる心を持ってるって。子供の頃からずっと持ち続けている理想——」
「なんてすごい子なんだって。今も覚えてる。私みたいな凡人も、素人でも絵を描こう、描いていいんだって勇気をもらったの。だからそれはダメだよ。千里ちゃんが描きたい絵、私、今からでも手伝うから。だから理想だけは捨てないで。私が千里ちゃんにそんな事を言わせたんだとしたら、謝るから、ね?お願いだから」
百瀬先輩は天目先輩にはにかみながら笑いを返した。なんだかそれは、柔らかくて、暖かくて、強くて、そして儚さを持った笑いだった。本当の千里先輩の微笑み。わたしにはそう感じられた。
「萌花さん、私が悪かった。今の言葉は撤回する。本当にごめんなさい」
百瀬先輩は弱々しく、しかし、しっかりとした口調で謝罪を口にした。柔らかい微笑みは先ほど見たものと同じだった。
今はその髪にもルビーの輝きはなく、紫の瞳も朝靄の中のような色あいに見えるけれど、不思議と今の百瀬先輩の方が魅力的に見えた。

「初めて私の絵を見てくれた人にここまで褒めてもらえて、とっても嬉しいよ」
「椿姫、君にもね。君のような子が私の絵を見て、芸術を志してくれたなんて」
「どうしてもっと早く言ってくれなかったの?もっと早く知りたかったよ」
 
「椿姫、君のいうこともわかってるんだよ、本当はね」
百瀬先輩は諦めたような、吹っ切れたような笑顔で天目先輩に優しい目を向けながらそう言った。
 
文化祭当日の朝、わたしと雪乃先輩は美術室に呼び出されていた。
そこでは除幕式のように布をかけられた二枚の絵。
「さあ、本番前の関係者だけの展覧会さ」
先日のことなど、どこ吹く風と言わんばかりの芝居がかった様子の百瀬先輩。
素直な方がかわいいのに、とは言えずにわたしと雪乃先輩は顔を見合わせて笑う。
雪乃先輩の目がうっすらと涙で(にじ)んで見えたのはわたしの見間違いだろうか。
 
開け放たれた窓から吹き込んでくる風が油絵の具の匂いと混じり合う。
朝の白く透明な光がわたしたちと美術室を包み込んでいる。
わたしはその景色を、その時間をとても美しいと思った。
もういちど、吹いた風が二人の絵をあらわにする。
二人にとってもそれは新しい一歩だったのだと思う。

二枚の絵は、全く似ていないけれど、まるで双子のようだった。
一枚は、踊るような色彩に精緻な筆致。でもそこには怯えからくる神経質さはどこにもない。
世界がこんなに鮮やかならどんなにいいだろうと思うような、心にあたたかな火が灯るような一枚。
 
もう一枚は優しく淡いグレーがかった、それでいて力強く踊るような筆致。写実的でありながら決して写真では表せないような一枚。

わたしたちの文化祭が始まろうとしていた。