3
再び騒ぎが起こったのは、それから二十日ほどした文化祭もいよいよ今週末という追い込み期間に入った時のことだった。
慌ただしく部屋に訪れた天目先輩に請われて美術室に向かうわたしたち。
憔悴した様子ながら、いつもの態度を崩さない百瀬先輩の前にあったのは、前回訪れた時に観た写実的な作品ではなく、カラフルに彩られた——かろうじて元の絵と同じだとわかる絵だった。
でも不思議とそれは悪い絵には見えなかった。
いや、むしろ……ゴッホが絵を描いているところを見る事ができたなら、このように描き進めるのではないだろうか?と思うような作品だった。
「千里が日ノ宮さんを呼んできてほしいってどうしてもいうから……」
天目先輩は百瀬先輩の手をぎゅっと握りながらそう告げた。
「わたしに、犯人を見つけて欲しいということですか?」
真剣に絵を眺めながら雪乃先輩は問いかける。百瀬先輩は弱々しく頷いた。
「犯人探しね」
囁いたその声は、あまりにもさりげない言い方だった。
それが逆に室内に不思議な響きと、緊張感を生む。雪乃先輩はふーっと、細く長く息を吐くと聞き取りにかかった。
「絵がこうなってるのを見つけたのは?」
「後輩の子。うちの部は普段、朝活はしないんだけど、その子は完成がちょっと危なくて、今日から朝も描こうと部室に来たみたいで……」
「ちょっといい?」
そういうと天目先輩は手招きをする。わたしと同学年の一年生は雪乃先輩の前で直立不動で話し始めた。
いつもの二人とは逆になってしまったように影のように黙りこんでいる百瀬先輩。
こんなことがあったんだし、それはそうか。聞きながらぼんやりとこんなことになってしまった嫌がらせ事件のあらましを考える。
「今朝までは絵に変わったことはなかった?」
「昨日のことは覚えている?」
雪乃先輩が確認するように一つずつ聞いてゆく。
「昨日までは大丈夫……だったと思います。千里さん——副部長は途中経過を部長にしか見せませんから、はっきりとしたことは言えませんけど。今日たまたま絵にかけていた布が落ちていたのでかけ直そうと思ったらこんなふうになっていて……でも、そもそも毎日描いてるから、先輩たちが気づくと思いますし……」
先輩から急にこんなことを聞かれて緊張しているのか犯人と疑われてないよね……と心配しているのか、そのどちらとも言えそうな緊張した面持ちで部長たちを見つめる。弱々しくかぶりを振る百瀬先輩と、黙って俯いたままの天目先輩。
三人の様子を順に見比べてから
「そうだよね、ありがとう」
雪乃先輩はそういうと他の部員たちにも問いかけていく。
同じ話を辛抱強く全員に済ませる。特にこれといった情報もなく、少し疲れた様子で考え込んでいる。
部員への聞き取りをまとめるとこういう事だった。
・朝見つけた部員はすぐ天目先輩に伝えに走ったこと。
・美術室自体は施錠されてないから入ろうと思えば誰でも入れる。
・夜入るのは難しいけれど、非常階段側の鍵なら誤魔化すことが可能かも。
・百瀬先輩は完成した絵を見せるのが好きでいつも製作過程は人に見せない。
「美術部の外にもそれとなく色々聞き込みをしてこようと思うけど大丈夫かしら?」
「何かわかったら真っ先に伝えるから」
百瀬先輩は思うことがありそうに口を開こうとしたが、雪乃先輩の言葉を聞いて頷くだけだった。
天目先輩は部に対する評判を心配しているのか、見るからにやめて欲しそうにしていたが、百瀬先輩のことを考えてか黙ったままだ。二人の横顔とリボンタイを夕陽が染め上げていた。美術室からまっすぐ帰ろうとする雪乃先輩にわたしは聞いた。
「聞き取りはどうするんです?」
「必要ない、かなって」
「そう……ですか……ね」
それだけを話すと静かに歩き続ける。
夕暮れの最後の光がわずかに残った校内には、まだたくさんの人が残っていて、ライトを使いながら校庭で模擬店の外装を作ったり、廊下の窓ガラスに飾り付けをする生徒たちがひしめいていた。
図書室に戻ったわたしたちは、急遽アイスティーに作り替えたお茶の残りを頂きながら
「絵の具のラベルと今回の事は同じ話……ですよね?」
「そうだね。きっとそう」
こんなことになっちゃったけど今日はスイーツもあるのよ。
先輩はそう言うと、冷蔵庫から家でシェフに作ってもらったという、アップルパイを取り出して器用に切り分けてくれる。
今日の食器は気分を変えてポーリッシュポタリーの鮮やかな色彩を選ぶことにする。
アップルパイの柔らかい印象に合いそうだったし、なんとなく百瀬先輩の絵がその色彩と重なって見えたからだ。
少しでも着想になるものを用意しないと答えに辿り着けない気がしてしまう。
食べながら少しずつ事件の検討を再開する。
もちろんわたしが答えにたどり着けるなんて思ってない。
けれど、少しでも雪乃先輩の助けになりたかった。
アップルパイは素晴らしい味で、感想を伝えようと思ったけれど、事件の話を始めないといけないなと思い直してなんとか思いつく部分から話を切り出した。
「絵の具のラベルを全部剥がすのって結構な嫌がらせですよね?」
「でも、先輩も言ってましたけど、嫌がらせしても、次の日にはラベルを作り直せばいいだけだから、労力に見合うのかなって。だから何のためか全然わからなくて」
「もちろん、結構メンタルやられそうですけれど……」
「精神的な嫌がらせ以外だと……どういう理由が考えられるかな?」
最近の先輩はわざとわたしに考えさせるような質問をしてくる。
早く先輩の考えを教えてくれないかな、と思いながらも思いつくことを口にする。
「最初は……ラベルがなければ色がわからなくなるかなって思ったんですけど……」
「チューブを開けて中身を出せばすぐわかるじゃないですか?」
「面倒なのは最初だけだよね……ラベルを手作りしていたし」
「お花柄のラベル可愛かったよね……」
「ただの嫌がらせじゃなくて、今回の件と繋がってると考えるとやっぱり何か目的があったのかな?」
先輩の問いに対してさらに考えを進めてみる。
「そうですね、絵の完成を遅らせることにはなったと思いますけど、雪乃先輩をモデルにしてデッサン会をするくらいの余裕はあったわけですし、百瀬先輩の作業途中を見るとあそこから数時間が惜しいということにはならないんじゃないかなって思います。私たちが見た時点では、これから本格的な描き込みって感じでしたけど」
「少なからず絵の完成を遅らせることにはなったけど、影響は少ないってことだよね」
「はい、そうですね、わたしの考えでは、そうです」
自分の発言を自分で振り返りながら答える。
「他にはあるかしら?」
雪乃先輩はアップルパイを小さく切りわけて口に運びながら聞いてくる。
「木を隠すなら森の中って言葉がありますよね」
「百瀬先輩の絵の具だけに細工をしたかったけれど、それを誤魔化すために全員のラベルを破いたって可能性はありますか?」
「他の部員さん達の絵は大丈夫だったものね」
「そうなんです、百瀬先輩の絵の具ラベルを破損させて、絵の完成を遅らせる以外の目的があったと思います」
正直、これ以上の考えはあまりないのだけど、一生懸命考える。
持ったままのアイスティーに手のひらの熱が奪われていることに気づきながら、なんとなく思いついたことを思いついたままに話すことにした。
「他には絵の具の中に何かが入れられてて、その影響で時間が経ってから色が変わる……なんてことはありえますか?」
我ながらそれはないだろう、と思いつつも一度ボールを返せた安心感でお茶を口にしてからコースターの上に置く。
両手はすっかり冷え切っていた。
「昔の品質が安定していない絵の具ならありそうだけれどね。一定期間で絵の具を変質させて色を変えることって可能なのかな?これはちょっと調べてみないとね」
「そうなんですよね、自分で言ってて自信なくなってきました」
「でも可能性としてゼロではないよね」
「そうなると化学部とかが犯人になっちゃうのかな?」
その言葉を聞いてわたしはハッとして、言った。
「わ、わたしは美術部の中での事だと……思ってます」
「それはどうして?」
「本当に嫌がらせをしたかったら、絵の方に何かすると思うんです」
「でも、絵の具の方だけだったから……あ、もちろん最終的には絵がああなっていたんですけど……」
「雪乃先輩も……犯人は美術部内にいると思ってますよね?」
「そうじゃなかったらちゃんと聞き取りをしに行ったんじゃないですか?」
図書室への道すがらの会話を思い出しながら答える。
「千里さんの絵がああなってた事をどう考えてる?」
期待通りの答えを返せたようで、雪乃先輩のくるくるとした大きな瞳が覗き込んでくる。
わたしの推理を聞きながらどうしても面白がっているようだ。
「絵の具のラベルが剥がされると、どうして千里さんの絵がああなっちゃうのか、その因果関係さえわかれば、このお話は結末に向かいそうね」
そっとわたしに手助けをしてくれる先輩の期待に少しずつ応えたくなってくる。
「あの絵って色は全然違ってましたけど、技術的には……すごかったですよね」
「筆致も百瀬先輩そっくりにしていたし……どう考えても、素人には無理ですよね?」
「だから犯行が可能なのは、美術部員——しかも百瀬先輩に負けない実力の——」
「ひょっとしたらですけど……いえ、何でもないです」
犯人について言及したかったけれど、まだ時期尚早に思えてしまう、けれど、百瀬先輩と同じレベルで絵を描ける部員が美術部にいるのだろうか?
あの二人はきっと……わたしと雪乃先輩みたいな関係だよね……それなのに……口に出せなかった言葉がわたしの気持ちを重くする。
そんな様子に気づいてか
「ちょっといじめちゃったかな?ごめんね」
窓の外を眺めながら先輩はそう呟いた。
「百瀬先輩の絵、元々のもすごかったんですけど、今日あの絵を観て、こんなこと言ったら怒られるかもですけど、すごくいい絵だなって思ったんですよね」
「あの人が絵を描くならこういう絵を描くだろうなって感じっていうか……しっくりくるっていうか……小さい頃からゴッホの再来って言われるくらいの有名人だったって聞いたことありますし……」
「千里さんらしさ……ね……」
それだけ言うと雪乃先輩は黙り込んでしまった。
その空気に耐えかねてわたしは無言でパイを食べ、お茶を一口飲んでから
「アップルパイすごく美味しいです!」
「フィリングがこんなに複雑で甘さと酸味のバランスが見事なのは初めて食べました」
口をもぐもぐさせながらつい関係ないことを口走ってしまう。
でもちゃんとお礼と感想を言っておきたかったのだ。
「そうなの、青いりんごの方が、お菓子にはいいんだって。日本ではあまりない品種なんだけれど……今回はうちのシェフが二つのりんごを混ぜてうまくバランスを取ってくれたみたい……」
そこまで言ってから先輩は急に立ち上がった。
「もう一度美術室に行きましょう」
「さ、お茶だけ飲んでしまって」
「謎は完全に解けたわ。でも事件が解決するか——それはまだわからない」
「残ったアップルパイは事件が無事に解決したら、お祝いに食べましょう」
雪乃先輩はサッと食べかけのアップルパイのお皿を取り上げて冷蔵庫にしまってしまう。
謎は解けたのに事件が解決するかはわからないってどういうことだろう?とわたしは食べかけのアップルパイの事を名残惜しく思いながら、急いで先輩の後を追うのだった。
再び騒ぎが起こったのは、それから二十日ほどした文化祭もいよいよ今週末という追い込み期間に入った時のことだった。
慌ただしく部屋に訪れた天目先輩に請われて美術室に向かうわたしたち。
憔悴した様子ながら、いつもの態度を崩さない百瀬先輩の前にあったのは、前回訪れた時に観た写実的な作品ではなく、カラフルに彩られた——かろうじて元の絵と同じだとわかる絵だった。
でも不思議とそれは悪い絵には見えなかった。
いや、むしろ……ゴッホが絵を描いているところを見る事ができたなら、このように描き進めるのではないだろうか?と思うような作品だった。
「千里が日ノ宮さんを呼んできてほしいってどうしてもいうから……」
天目先輩は百瀬先輩の手をぎゅっと握りながらそう告げた。
「わたしに、犯人を見つけて欲しいということですか?」
真剣に絵を眺めながら雪乃先輩は問いかける。百瀬先輩は弱々しく頷いた。
「犯人探しね」
囁いたその声は、あまりにもさりげない言い方だった。
それが逆に室内に不思議な響きと、緊張感を生む。雪乃先輩はふーっと、細く長く息を吐くと聞き取りにかかった。
「絵がこうなってるのを見つけたのは?」
「後輩の子。うちの部は普段、朝活はしないんだけど、その子は完成がちょっと危なくて、今日から朝も描こうと部室に来たみたいで……」
「ちょっといい?」
そういうと天目先輩は手招きをする。わたしと同学年の一年生は雪乃先輩の前で直立不動で話し始めた。
いつもの二人とは逆になってしまったように影のように黙りこんでいる百瀬先輩。
こんなことがあったんだし、それはそうか。聞きながらぼんやりとこんなことになってしまった嫌がらせ事件のあらましを考える。
「今朝までは絵に変わったことはなかった?」
「昨日のことは覚えている?」
雪乃先輩が確認するように一つずつ聞いてゆく。
「昨日までは大丈夫……だったと思います。千里さん——副部長は途中経過を部長にしか見せませんから、はっきりとしたことは言えませんけど。今日たまたま絵にかけていた布が落ちていたのでかけ直そうと思ったらこんなふうになっていて……でも、そもそも毎日描いてるから、先輩たちが気づくと思いますし……」
先輩から急にこんなことを聞かれて緊張しているのか犯人と疑われてないよね……と心配しているのか、そのどちらとも言えそうな緊張した面持ちで部長たちを見つめる。弱々しくかぶりを振る百瀬先輩と、黙って俯いたままの天目先輩。
三人の様子を順に見比べてから
「そうだよね、ありがとう」
雪乃先輩はそういうと他の部員たちにも問いかけていく。
同じ話を辛抱強く全員に済ませる。特にこれといった情報もなく、少し疲れた様子で考え込んでいる。
部員への聞き取りをまとめるとこういう事だった。
・朝見つけた部員はすぐ天目先輩に伝えに走ったこと。
・美術室自体は施錠されてないから入ろうと思えば誰でも入れる。
・夜入るのは難しいけれど、非常階段側の鍵なら誤魔化すことが可能かも。
・百瀬先輩は完成した絵を見せるのが好きでいつも製作過程は人に見せない。
「美術部の外にもそれとなく色々聞き込みをしてこようと思うけど大丈夫かしら?」
「何かわかったら真っ先に伝えるから」
百瀬先輩は思うことがありそうに口を開こうとしたが、雪乃先輩の言葉を聞いて頷くだけだった。
天目先輩は部に対する評判を心配しているのか、見るからにやめて欲しそうにしていたが、百瀬先輩のことを考えてか黙ったままだ。二人の横顔とリボンタイを夕陽が染め上げていた。美術室からまっすぐ帰ろうとする雪乃先輩にわたしは聞いた。
「聞き取りはどうするんです?」
「必要ない、かなって」
「そう……ですか……ね」
それだけを話すと静かに歩き続ける。
夕暮れの最後の光がわずかに残った校内には、まだたくさんの人が残っていて、ライトを使いながら校庭で模擬店の外装を作ったり、廊下の窓ガラスに飾り付けをする生徒たちがひしめいていた。
図書室に戻ったわたしたちは、急遽アイスティーに作り替えたお茶の残りを頂きながら
「絵の具のラベルと今回の事は同じ話……ですよね?」
「そうだね。きっとそう」
こんなことになっちゃったけど今日はスイーツもあるのよ。
先輩はそう言うと、冷蔵庫から家でシェフに作ってもらったという、アップルパイを取り出して器用に切り分けてくれる。
今日の食器は気分を変えてポーリッシュポタリーの鮮やかな色彩を選ぶことにする。
アップルパイの柔らかい印象に合いそうだったし、なんとなく百瀬先輩の絵がその色彩と重なって見えたからだ。
少しでも着想になるものを用意しないと答えに辿り着けない気がしてしまう。
食べながら少しずつ事件の検討を再開する。
もちろんわたしが答えにたどり着けるなんて思ってない。
けれど、少しでも雪乃先輩の助けになりたかった。
アップルパイは素晴らしい味で、感想を伝えようと思ったけれど、事件の話を始めないといけないなと思い直してなんとか思いつく部分から話を切り出した。
「絵の具のラベルを全部剥がすのって結構な嫌がらせですよね?」
「でも、先輩も言ってましたけど、嫌がらせしても、次の日にはラベルを作り直せばいいだけだから、労力に見合うのかなって。だから何のためか全然わからなくて」
「もちろん、結構メンタルやられそうですけれど……」
「精神的な嫌がらせ以外だと……どういう理由が考えられるかな?」
最近の先輩はわざとわたしに考えさせるような質問をしてくる。
早く先輩の考えを教えてくれないかな、と思いながらも思いつくことを口にする。
「最初は……ラベルがなければ色がわからなくなるかなって思ったんですけど……」
「チューブを開けて中身を出せばすぐわかるじゃないですか?」
「面倒なのは最初だけだよね……ラベルを手作りしていたし」
「お花柄のラベル可愛かったよね……」
「ただの嫌がらせじゃなくて、今回の件と繋がってると考えるとやっぱり何か目的があったのかな?」
先輩の問いに対してさらに考えを進めてみる。
「そうですね、絵の完成を遅らせることにはなったと思いますけど、雪乃先輩をモデルにしてデッサン会をするくらいの余裕はあったわけですし、百瀬先輩の作業途中を見るとあそこから数時間が惜しいということにはならないんじゃないかなって思います。私たちが見た時点では、これから本格的な描き込みって感じでしたけど」
「少なからず絵の完成を遅らせることにはなったけど、影響は少ないってことだよね」
「はい、そうですね、わたしの考えでは、そうです」
自分の発言を自分で振り返りながら答える。
「他にはあるかしら?」
雪乃先輩はアップルパイを小さく切りわけて口に運びながら聞いてくる。
「木を隠すなら森の中って言葉がありますよね」
「百瀬先輩の絵の具だけに細工をしたかったけれど、それを誤魔化すために全員のラベルを破いたって可能性はありますか?」
「他の部員さん達の絵は大丈夫だったものね」
「そうなんです、百瀬先輩の絵の具ラベルを破損させて、絵の完成を遅らせる以外の目的があったと思います」
正直、これ以上の考えはあまりないのだけど、一生懸命考える。
持ったままのアイスティーに手のひらの熱が奪われていることに気づきながら、なんとなく思いついたことを思いついたままに話すことにした。
「他には絵の具の中に何かが入れられてて、その影響で時間が経ってから色が変わる……なんてことはありえますか?」
我ながらそれはないだろう、と思いつつも一度ボールを返せた安心感でお茶を口にしてからコースターの上に置く。
両手はすっかり冷え切っていた。
「昔の品質が安定していない絵の具ならありそうだけれどね。一定期間で絵の具を変質させて色を変えることって可能なのかな?これはちょっと調べてみないとね」
「そうなんですよね、自分で言ってて自信なくなってきました」
「でも可能性としてゼロではないよね」
「そうなると化学部とかが犯人になっちゃうのかな?」
その言葉を聞いてわたしはハッとして、言った。
「わ、わたしは美術部の中での事だと……思ってます」
「それはどうして?」
「本当に嫌がらせをしたかったら、絵の方に何かすると思うんです」
「でも、絵の具の方だけだったから……あ、もちろん最終的には絵がああなっていたんですけど……」
「雪乃先輩も……犯人は美術部内にいると思ってますよね?」
「そうじゃなかったらちゃんと聞き取りをしに行ったんじゃないですか?」
図書室への道すがらの会話を思い出しながら答える。
「千里さんの絵がああなってた事をどう考えてる?」
期待通りの答えを返せたようで、雪乃先輩のくるくるとした大きな瞳が覗き込んでくる。
わたしの推理を聞きながらどうしても面白がっているようだ。
「絵の具のラベルが剥がされると、どうして千里さんの絵がああなっちゃうのか、その因果関係さえわかれば、このお話は結末に向かいそうね」
そっとわたしに手助けをしてくれる先輩の期待に少しずつ応えたくなってくる。
「あの絵って色は全然違ってましたけど、技術的には……すごかったですよね」
「筆致も百瀬先輩そっくりにしていたし……どう考えても、素人には無理ですよね?」
「だから犯行が可能なのは、美術部員——しかも百瀬先輩に負けない実力の——」
「ひょっとしたらですけど……いえ、何でもないです」
犯人について言及したかったけれど、まだ時期尚早に思えてしまう、けれど、百瀬先輩と同じレベルで絵を描ける部員が美術部にいるのだろうか?
あの二人はきっと……わたしと雪乃先輩みたいな関係だよね……それなのに……口に出せなかった言葉がわたしの気持ちを重くする。
そんな様子に気づいてか
「ちょっといじめちゃったかな?ごめんね」
窓の外を眺めながら先輩はそう呟いた。
「百瀬先輩の絵、元々のもすごかったんですけど、今日あの絵を観て、こんなこと言ったら怒られるかもですけど、すごくいい絵だなって思ったんですよね」
「あの人が絵を描くならこういう絵を描くだろうなって感じっていうか……しっくりくるっていうか……小さい頃からゴッホの再来って言われるくらいの有名人だったって聞いたことありますし……」
「千里さんらしさ……ね……」
それだけ言うと雪乃先輩は黙り込んでしまった。
その空気に耐えかねてわたしは無言でパイを食べ、お茶を一口飲んでから
「アップルパイすごく美味しいです!」
「フィリングがこんなに複雑で甘さと酸味のバランスが見事なのは初めて食べました」
口をもぐもぐさせながらつい関係ないことを口走ってしまう。
でもちゃんとお礼と感想を言っておきたかったのだ。
「そうなの、青いりんごの方が、お菓子にはいいんだって。日本ではあまりない品種なんだけれど……今回はうちのシェフが二つのりんごを混ぜてうまくバランスを取ってくれたみたい……」
そこまで言ってから先輩は急に立ち上がった。
「もう一度美術室に行きましょう」
「さ、お茶だけ飲んでしまって」
「謎は完全に解けたわ。でも事件が解決するか——それはまだわからない」
「残ったアップルパイは事件が無事に解決したら、お祝いに食べましょう」
雪乃先輩はサッと食べかけのアップルパイのお皿を取り上げて冷蔵庫にしまってしまう。
謎は解けたのに事件が解決するかはわからないってどういうことだろう?とわたしは食べかけのアップルパイの事を名残惜しく思いながら、急いで先輩の後を追うのだった。
