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それからしばらくは、クラス展示のために美術室はおろか、図書室へも訪れることが出来ない日々が続いた。
美術部の困ったこと、という話に好奇心を掻き立てられた雪乃先輩から、いつ美術室に行けるのか、というメッセージが一日に何度か送られてくる。
忙しかったわたしは、
「一人で行っちゃってください」
とだけ送るとクラスの出し物の制作にかかりっきりになってしまう。
それきり雪乃先輩からのメッセージは送られてこなくなってしまった。
なんとなく罪悪感に苛まれながら、普段から学内の人気者と分不相応なお付き合いをさせていただいている身として、こういう場では積極的に動いて点数を稼ぐ必要があるのです。先輩に心の中で言い訳をする。
わたしのクラスは、模擬店をやる事になっていた。ちょうど実家が飲食店の子がいて、食材の調達などのノウハウがあるからだった。
しかもメイド&執事喫茶というベタなものに。
室内装飾は学生レベルではあるものの、なかなかに凝った内装を作るらしく、ホームセンターで買ってきた木材を組み立てるグループ、レースカーテンの採寸や飾り付けをするグループ、そして給仕の服装を作るグループと、それを着る人たち——わたしもその一人なのだけれど——に分かれてそれぞれ作業をしている。
どういうわけだかわたしは執事役になってしまった。
身長が少し高いからだろうか?できればメイド服を着て雪乃先輩にお給仕をしたかったのに。
今までのわたしは、こんなコスプレ喫茶のようなものは絶対に参加しなかったと確信を持って言える。
日頃、司書室でお茶をいただいていると……なんだかお返し……になるとはとても思えないけれども、それでもこうしてクラスメイトと関わっていく事ができていると、雪乃先輩のおかげで少しはわたしも変わることができているのかな、なんて思えてしまう。
そんな考え事をしながらも「それこっちとって」「採寸終わってないのだれ?」「布今日買うけど予算だれが持ってる?」色々な声の中で手を上げたり下げたり、横を向いたり正面を向いたりとなすがままに採寸をされる。
「ほら、終わったよ!」
ドンと背中をたたかれて我に返る。
「またモカはボーっとして、こんなヒョロ長いの、どこがいいんだろうね?雪乃先輩も」
「ボーッとしてるところがじゃない?お貴族様の趣味は我々とは違うからね」
好き放題、言われ放題の有様のうえ、さらに
「どうせメイドで給仕がしたかったとか思ってたんでしょ?わかりやすいんだから」
図星をつかれて、何を言おうか頭が真っ白になっていると
「あんたはどう考えても執事なの。メカクレヤンデレ執事と銀髪お嬢様よ」
「跪いて手の甲にキスする練習しておくのよ」
しっかりとトドメまで刺されてしまうのだった。
「ちゃーんと、雪乃先輩に一日に三回は来るように言っておいてね」
「あの方目当てでお客が来るんだから。その代わり専用でお給仕させてあげるから」
そんな客寄せパンダみたいなことはさせないぞ、という気持ちと一日三回……来てくれてお給仕できたらうれしい。
えっ手の甲に口付け……して良いのかな?という気持ちがないまぜになって情緒が一回転して憂鬱になってしまう。
頼んだらきっと来てくれるだろうから余計になのだ。
採寸が終わったら今日はもう何もなかったので(衣装が出来たら立ち居振る舞いのレクチャーはするらしい)
他に何かすることはないかと聞いて回ったのだけれど、邪魔だということでお役御免になってしまった。
一週間ぶりに図書室へ行けるかと思うと、ウキウキしてしまい自然と他のクラスの出し物にも目が留まる。
こういうイベントごとは不思議なもので、普段目立たない生徒が表舞台に立ったり、逆に普段華やかな人が壁の花になってしまったりすることがある。
そういう意味では、百瀬先輩はどこでも主役と言えるし、雪乃先輩は図書室のラプンツェルだった。
それは人だけじゃなくて、部活動そのものもそうなのだろう。図書室に向かうために何度も通った廊下も、いつものひんやりと埃っぽい雰囲気やその静けさを残しながらも、いくぶん熱を帯びているように感じるのだった。
わたしはいつもとはルートを変えてわざと遠回りをして一般教室棟から特別教室棟を通って図書室に向かう事にした。
姫様に外の世界をお伝えするのだ。特別教室棟の階段を登ると、そこはいつもの光景とは一変していた。
奇術部が出し物の大道具を作っているかと思うと、旅行部が大きな模造紙に部の旅行だろう、訪れた観光地の色鮮やかな写真を張り付けている。かと思えば掲示板にモノクロフィルムで撮った大量の写真を写真部らしき生徒たちが一生懸命に吟味している。猫でキャッチーに行くか、アートで攻めるかで激論を戦わせている。そういえば以前、特別棟の三階に写真暗室があると聞いたことがある。この部室に併設されているのだろうか。
ミッション系のお嬢様学校と思っていたうちの学校にも、一つの暗室があり、そこで青春を燃やしている人がいるという事実。
それを目の当たりにすると、改めて、一人一人の人間的な面が見えてくるんだな、そう思う。
入学式後の部活紹介では、高校入学組のわたしは肩身が狭く、話もろくに聞かずに帰宅部同然の文芸部へと落ち着いてしまっていたし、それすらも今は幽霊部員なのだけれど。
でも、そのおかげで雪乃先輩と出会えて、こうして会いに行ける関係になったのだから、なかなか人生もわからないものだ。
早く先輩とおしゃべりをしたくて、気もそぞろで足早に向かったはずなのに、柄にもなく文化祭の熱に浮かされて遠回りをしたせいで、思わぬ時間を取られてしまった。まだ日が落ちるには早いけれど、忍び寄ってくる夕刻の空気を感じながら司書室に入る。
部屋に入ると、鼻歌混じりの雪乃先輩はお気に入りのカップにお湯を張り温めているところだった。
「遅かったわね。でも私も少し遅れてしまったからちょうどいいか。今日は新しい茶葉にしたから、飲みながら聞いてほしいの」
それだけ言うと、またフンフンとわたしにはわからない曲の鼻歌を歌いながら手早く準備を進めてくれる。
喧騒を離れ、普段よりも一層静かな二人きりの空間に安らぎを覚える。
図書室特有の紙の匂いに、こうして気を利かせて季節のお茶を淹れてくれる先輩。
いつかこの場所も思い出になってしまうのかと思うと、不意にセンチメンタルな気持ちになってしまう。
せっかく久しぶりに会えた先輩に気づかれないようにしなければ。
「お話って、美術部での嫌がらせの件ですよね?クラスにいる美術部員がぼやいていたんです。なので、その話なら少しだけ聞いてます」
わたしは雪乃先輩が聞いて欲しい話、というのを想像してそう言った。
「なら話が早いかな。美術部員全員の絵の具のラベルが剥がされちゃったらしいのよ」
茶葉を蒸らしながら不思議なこともあるものね、と言葉には出さないけれど、小首をかしげながら、先輩の視線は砂時計を見据えていた。
「美術部員って何人くらい居るんでしょうか?」
「二十人くらいだって。一人何色くらいの絵の具を使うのかな?十二色ってことはないよね?剥がすだけでもすごく大変そう」
先輩はどっちに感情移入しているのかわからない口ぶりで両手で一生懸命ラベルを剥がす仕草をし始める。律儀に二十四色くらいのセットらしいチューブを一つ剥がしては箱に戻すという、
「剥がされた物の代わりにみんなでラベルを作って貼ったらしいですよ」
妙に細かい演技の様子を眺めながらわたしは、なぜかちょっと照れながらそう言った。
「やっぱり少し面白そうな話よね。椿姫さんには悪いけれど」
「このあと時間あるかな?ちょっと行ってみましょうか。美術室にお邪魔していいと言う話だったでしょう」
どうしても好奇心が抑えらない様子の雪乃先輩。
「学食の時もそうでしたけど、あまり面白がらないでくださいよ」
そう言いながらも部員が二十人だとして、何十色もある絵の具のラベルを剥がして回るとはどういう意図があってのことなんだろう?私も興味をそそられているのは事実だった。
美術室の後に時間があったらもう一度ここで話を整理することにして、せっかくの新しい茶葉なのに、いつもの半分の時間でお茶を済ませると美術室に向かうことにした。
「お邪魔します、私、二年F組、日ノ宮雪乃と申します」
「天目椿姫部長と百瀬千里副部長はいらっしゃいますか?」
少し立て付けの悪くなった年代物の扉の軋む音に邪魔されながら、雪乃先輩は美術室の入り口で告げた。
すぐに気づいた百瀬先輩が
「やあ、本当に来てくれるなんて! モデルになってくれるのかな?」
スカートを翻しながら駆け寄ってくる。
ひと足先に室内に入った雪乃先輩の微笑みを肯定と判断した百瀬先輩は、周囲にモデルデッサンの用意をするように伝えながら雪乃先輩を部屋の中央へと招き入れた。
雪乃先輩も美術室を興味深げに見回してから
「お誘いありがとうございます。皆さんに描いていただけるなんて光栄です」
初対面の相手に向ける、いつもの遠くを見るような笑顔でそういった。
その言葉に部員達はきゃあきゃあと喜びの声をあげる。わたしも目だたないように美術室に滑り込む。
そこは嗅ぎ慣れない油絵の匂いが充満していた。わたしの選択科目は音楽なので、美術室に入るのは学校案内の時以来だろうか。
室内は角度がつけられる大型の机が三十ほどあるが、今は畳まれて部屋の隅に寄せられている。空いたスペースに文化祭用の絵なのだろう、キャンバスが置かれたイーゼル二十台ほどに占有されている。
市松の板張りの床は丁寧に掃除されてはいるが、絵の具の染みが残っており、室内の奥に並べられた緑の掲示板にはどうやったらこういう絵が描けるのか、精密な鉛筆デッサンが名前入りで飾られている。
百瀬先輩と天目先輩の名前を探してみる。展示されているすべての絵のレベルが高く、二人の名前を見つけることができなかった。
実力派の部活というのは本当なのだろう。掲示板の奥はモチーフ置き場のようで、デッサンに描かれた石膏像や鳥の剥製、空のワインボトルなどが所狭しと並んでいる。
美術部員は各々描き進めていた作品を美術室の隅に片付けながら、イーゼルを円形に並べていく。
先ほどのデッサンのレベルからも分かるとおり、普段からしっかり活動しているのだろう、慣れた動きだった。
雪乃先輩はその中心に用意された椅子になめらかな仕草で腰をかけると
「ポーズはこんな感じ?」
周囲に向けて語りかけた。語りかけるたびに、ワッと黄色い声があがる。
「その姿勢だと長時間は少し辛いから、もう少し楽に座ってくれ」
モチーフの観察を怠らない様子で目線はすでに雪乃先輩に向けたまま、鉛筆の先端をカッターで軽くなぞりながら答える百瀬先輩。
素早く数本を削り、チラリと目を向けてから指先でそっと触れて鉛筆の尖り具合を確認すると満足そうにくるくると回してからペンケースに戻す。その手慣れた所作が不思議な色気を醸し出している。
全員の準備が整ったのを確認すると
「せっかくだからじっくり時間をかけてやろう。五分後開始で、三十分一ポーズ。椿姫、それでどうかな?」
「ありがとう、千里ちゃん、それでいいよ」
「クロッキーとデッサンの中間くらいになるから、しっかり形をとることを意識してね」
普段の様子とは違うキッパリとした口調で天目先輩が告げる。
部員達にとっては普段のやりとりなのだろう、タイマー係の生徒がピッと電源を入れる。
それまでの女学生特有のざわめきは影を潜め、一心不乱に鉛筆を走らせるシャッシャというリズミカルで心地のいい音が室内を満たす。その視線は、憧憬や好奇心ではなく、純粋にモチーフの美しさをとらえようとするそれだった。
真剣な眼差しと絶え間なく繰り返される鉛筆が紙があたる音にわたしは、美しさと心地良さを感じて、みんなの様子が見やすい入り口近く、丁度いい具合に陽当たりのいい椅子を見つけて、音を立てないように腰かけるのだった。
「もう少し、色味を感じさせるように鉛筆を持ち替えて。ヴァルールが何より大切なんだから。わたしは2Bは赤、Fは黄色というように色に合わせるように鉛筆を持ち替えるよ。雪乃の髪はそんな色なのかい?もっと明るくてトーンの変化も微細だろう?」
百瀬先輩の具体的な指導に熱心に耳を傾ける部員達はわたしと同じ一年生なのに、美大の受験資格がありそうだなと思うような実力だ。天目先輩も百瀬先輩に負けじと
「しっかり形を見て。石膏を書くときも、よくモチーフに触ってから面の変化を感じ取るでしょう?指先で感じるような変化をとらえられると、もっともっとよくなるよ」
さすが部長と副部長らしい、どちらも絵を描くことに重要な要素なのだろう。二人の指導だけでグッと良くなるのがわかる。
それだけではなく、積極的に他の部員たちも意見を交わしあって制作に取り組み続ける。
「モデルさんも結構大変だね」
んー!と伸びをしながら、少し疲れた様子で雪乃先輩はリボンを整える。
結局一時間まで伸びたデッサンの後、部員たちは相互に描いた作品に講評を行う。
雪乃先輩はすべてのデッサンを褒めて回っていた。純粋なモチーフとして見られることはいつもの好奇のまなざしとは違うのだろう。描かれた自分の姿をうっとりと見つめている。ヌードモデルを描くときの気持ちを聞かれることを絵描きは本当に嫌がるというから、雪乃先輩の気持ちもそれと同じなのかもしれない。
二十人に描かれた、一つのモチーフとしての雪乃先輩は生き生きとした輝きを放っている。
それぞれの描き手のそれぞれの美的感覚が先輩の良さをとらえているからだろうか。
講評が終わると、部員たちは遅い時間にもかかわらず、誰も帰ろうとはせずに文化祭の個人制作に戻る。
雪乃先輩は引き続き興味深そうに軽い足取りで、部員たちが製作している絵を一通り眺めて回る。わたしもその後ろに付き従って分からないなりに絵を眺めるのだった。
「雪乃、それと……萌花君、せっかくだから軽く解説をしようか?」
「よく白い紙に白いもの——例えば石膏像——を描くのは無理みたいなことを言う人がいるだろう?確かに雪乃の髪なんかはとても難しいよね。でもね、それは違うんだよ。色にはそれぞれ明るさがあって、それがその環境の光によってさらに変化するんだ。さっきの僕の話を聞いていてくれたと思うけれど、キャンバスの中に赤はこのくらいの明るさ、黄色はこのくらいの明るさというものを決めてあげるのさ」
「ほら、僕の描いた君の姿を見てごらん」
それは、本当に鉛筆で描いた白と黒だけの絵とは思えない豊かな色彩を感じさせるものだった。微細に計算されたトーンの変化が柔らかい光の中の雪乃先輩を鮮やかに描き出している。
「これが『色価』をしっかりと考えて描くということなんだ」
先輩もわたしも感激して声も出ない。その様子に気をよくしたのか百瀬先輩は
「もう少し説明させてもらおうかな?萌花君、美しいとはどういうことだと思う?」
「たしかに雪乃は美しいよ。でもね、この市松模様に組まれた床に当たる秋の夕日、飲みかけのカップに照り返される空の青、世界のあらゆるものに美を見出せるか、そういうものすべてが美しいと思えるかなんだよ」
「萌花君やこの学校のみんなにとっては、雪乃は美の極致かもしれないけれど、僕にとっては椿姫のこの濡れ烏の黒髪より上かと言われると何ともいえないところだな」
「そういう風に自分だけにある美を見つけられるかだと僕は考えているんだ。ゴッホのアルルの跳ね橋という絵を知っているかい?昨年ヨーロッパに行ったときに見たんだけれど、何の変哲もない農道の橋だったよ。でも逆にそれが感動だったな」
「ゴッホはアルルに来た喜びでこの橋をあんなに美しく描くことが出来たんだってね」
天目先輩へのストレートな愛情表現とも美への信仰とも取れる百瀬先輩の話に圧倒されて何も返事を返せないわたしたち。
「少し恥ずかしいね。じゃあ僕たちの制作中の絵をみてもらおうかな」
「前も言ったけど、僕は椿姫以外には製作中の絵は見せないから特別だよ」
照れ隠しのように百瀬先輩は言うと二人の絵の前に案内してくれた。
百瀬先輩の情熱の源泉が見えるようで、この人への好感度が上がるのをわたしは感じるのだった。
先輩の絵はフォトリアルという言葉が相応しい、やや神経質とも取れる丁寧な筆致で描かれた写実的な風景画。
まだ描き始めなのに色の選択が適切なのだろう。既に完成度の高さを感じ取れる。
天目先輩のものは荒々しい、とまでは行かないけれど、走るような筆運びの印象派とも抽象画ともつかない絵だった。
「千里さんと椿姫さんはデッサンの時とは作風が真逆なのね」
少し不思議そうな表情の雪乃先輩。
「さすがだね、雪乃は。今はこういう感じに取り組んでいるんだ」
「先のことを考えて、少し技術的なこともやっておきたくてね」
わたしたちの相手をしながら百瀬先輩も制作を再開し始める。ふと目をやると、どんな色にするか悩んでいるのか、丁寧な所作で出した色と睨めっこしている。二人とも道具の扱いがとても丁寧だ。
チューブには一本づつ少し厚みのある可愛らしい花柄のステッカーが貼られていた。
「ああ、これか」
わたしの視線に気付いたのか百瀬先輩はため息をつきながら絵の具の一本を手にとると
「先日あった美術部への嫌がらせは君も知っているだろう?」
「あの件でね、椿姫が僕のもこんなふうにしちゃったんだよ。しかも色の名前じゃなくて花柄のステッカーだよ?さすがに分かりずらいじゃないか?全く最初から色の名前を書いておいてくれたらいいのに。この子はちょっといたずら心があるんだよ」
百瀬先輩はこういう可愛らしいものは自分には似合わない、そんな表情で天目先輩に視線を送るのだった。
この人なら、いかにもこういう細かい作業をしそうだ。
わたしもチラリと視線を送ると、ひと足先に制作に戻った天目先輩は、会話には気づく様子もなく一心不乱に筆を動かしている。
「嫌がらせの件、犯人はわかった?」
「ふふ、やっぱりそれがいちばんの目的かな?名探偵くん」
「ところが、全然わからなくてね。特に情報がなくてすまないね」
「一つだけ変わった事があるとすると、全員分のラベルが剥がされていたのに、全て綺麗にゴミ箱に捨てられていたんだよ」
「丁寧な嫌がらせ犯もいたものだ。そう思わないかい?」
百瀬先輩は一言を添えて絵に向き直ると、再びどの色を使うかしきりに考え込んでいる。邪魔してはいけないと思ったのだろうか、そっと二人のそばを離れると雪乃先輩は部屋の隅、わたしの隣に腰掛ける。
「私も選択科目は美術にすればよかったな」
片手をパレットに見立てて絵の具を混ぜる仕草をし始める。何をやっても絵になる人ではあるけれど、特に絵画は似合いそうだ。
「雪乃先輩、絵はどうでしたっけ?」
何もない空間に頭の中の名画を描き始める雪乃先輩に聞くと
「全然ダメ」
急に現実に戻されたような少し困った笑い顔をして、首を振る。少し日の落ちた教室に鉛筆や絵筆の音だけがこだまする。
油絵の匂いも嗅ぎ慣れてくると意外と嫌いではないかもしれない。雪乃先輩と隣同士でお互いをモデルに絵を描き合う。
そんな妄想をぼんやり思う。百瀬先輩は今日は考えがまとまらないのか、どちらの色がいいとおもう?と天目先輩に小声でやり取りをする様子だけが聞こえる。
真剣な様子でそれを眺めていた雪乃先輩は唐突に立ち上がると
「今日は帰ります。ありがとう」
邪魔にならない声で告げると一礼した。
「モデル本当にありがとう。みんなもお礼を」
百瀬先輩に促され部員たちは立ち上がると、お嬢様学校らしい仕草でお礼の言葉と共に頭を深々と下げる。
「そうだ、せっかくの記念だしみんなで写真を撮りましょう」
雪乃先輩はそういうと、部員たちに声をかける。百瀬先輩と雪乃先輩、二人と写真を撮れるとのことで、先ほどとはうって変わって年頃の女子らしくさんざめく室内で、なんだかよくわからない集合写真を撮ることになってしまった。
雪乃先輩と百瀬先輩を中心に、わたしは目立たないように隅っこの方にそっと入っておいた。天目先輩も逆の隅っこにいる。
隅っこ同盟ね。なんて謎のシンパシーを勝手に覚えてしまう。
「後で写真送るわ」
百瀬先輩は手を振りながらそういった。
「また是非お邪魔させてくださいね」
そう言いながら美術室を後にする先輩。わたしも深く一礼をしてから慌てて追いかける。
図書室に戻るつもりだったけれど、美術室からの帰り道、急な買い出しに出る事になったクラスメイトに捕まってしまい、わたしはとうとう、次の事件まで雪乃先輩としっかり話し合う機会を持つ事ができなかった。そう、次の事件まで。
それからしばらくは、クラス展示のために美術室はおろか、図書室へも訪れることが出来ない日々が続いた。
美術部の困ったこと、という話に好奇心を掻き立てられた雪乃先輩から、いつ美術室に行けるのか、というメッセージが一日に何度か送られてくる。
忙しかったわたしは、
「一人で行っちゃってください」
とだけ送るとクラスの出し物の制作にかかりっきりになってしまう。
それきり雪乃先輩からのメッセージは送られてこなくなってしまった。
なんとなく罪悪感に苛まれながら、普段から学内の人気者と分不相応なお付き合いをさせていただいている身として、こういう場では積極的に動いて点数を稼ぐ必要があるのです。先輩に心の中で言い訳をする。
わたしのクラスは、模擬店をやる事になっていた。ちょうど実家が飲食店の子がいて、食材の調達などのノウハウがあるからだった。
しかもメイド&執事喫茶というベタなものに。
室内装飾は学生レベルではあるものの、なかなかに凝った内装を作るらしく、ホームセンターで買ってきた木材を組み立てるグループ、レースカーテンの採寸や飾り付けをするグループ、そして給仕の服装を作るグループと、それを着る人たち——わたしもその一人なのだけれど——に分かれてそれぞれ作業をしている。
どういうわけだかわたしは執事役になってしまった。
身長が少し高いからだろうか?できればメイド服を着て雪乃先輩にお給仕をしたかったのに。
今までのわたしは、こんなコスプレ喫茶のようなものは絶対に参加しなかったと確信を持って言える。
日頃、司書室でお茶をいただいていると……なんだかお返し……になるとはとても思えないけれども、それでもこうしてクラスメイトと関わっていく事ができていると、雪乃先輩のおかげで少しはわたしも変わることができているのかな、なんて思えてしまう。
そんな考え事をしながらも「それこっちとって」「採寸終わってないのだれ?」「布今日買うけど予算だれが持ってる?」色々な声の中で手を上げたり下げたり、横を向いたり正面を向いたりとなすがままに採寸をされる。
「ほら、終わったよ!」
ドンと背中をたたかれて我に返る。
「またモカはボーっとして、こんなヒョロ長いの、どこがいいんだろうね?雪乃先輩も」
「ボーッとしてるところがじゃない?お貴族様の趣味は我々とは違うからね」
好き放題、言われ放題の有様のうえ、さらに
「どうせメイドで給仕がしたかったとか思ってたんでしょ?わかりやすいんだから」
図星をつかれて、何を言おうか頭が真っ白になっていると
「あんたはどう考えても執事なの。メカクレヤンデレ執事と銀髪お嬢様よ」
「跪いて手の甲にキスする練習しておくのよ」
しっかりとトドメまで刺されてしまうのだった。
「ちゃーんと、雪乃先輩に一日に三回は来るように言っておいてね」
「あの方目当てでお客が来るんだから。その代わり専用でお給仕させてあげるから」
そんな客寄せパンダみたいなことはさせないぞ、という気持ちと一日三回……来てくれてお給仕できたらうれしい。
えっ手の甲に口付け……して良いのかな?という気持ちがないまぜになって情緒が一回転して憂鬱になってしまう。
頼んだらきっと来てくれるだろうから余計になのだ。
採寸が終わったら今日はもう何もなかったので(衣装が出来たら立ち居振る舞いのレクチャーはするらしい)
他に何かすることはないかと聞いて回ったのだけれど、邪魔だということでお役御免になってしまった。
一週間ぶりに図書室へ行けるかと思うと、ウキウキしてしまい自然と他のクラスの出し物にも目が留まる。
こういうイベントごとは不思議なもので、普段目立たない生徒が表舞台に立ったり、逆に普段華やかな人が壁の花になってしまったりすることがある。
そういう意味では、百瀬先輩はどこでも主役と言えるし、雪乃先輩は図書室のラプンツェルだった。
それは人だけじゃなくて、部活動そのものもそうなのだろう。図書室に向かうために何度も通った廊下も、いつものひんやりと埃っぽい雰囲気やその静けさを残しながらも、いくぶん熱を帯びているように感じるのだった。
わたしはいつもとはルートを変えてわざと遠回りをして一般教室棟から特別教室棟を通って図書室に向かう事にした。
姫様に外の世界をお伝えするのだ。特別教室棟の階段を登ると、そこはいつもの光景とは一変していた。
奇術部が出し物の大道具を作っているかと思うと、旅行部が大きな模造紙に部の旅行だろう、訪れた観光地の色鮮やかな写真を張り付けている。かと思えば掲示板にモノクロフィルムで撮った大量の写真を写真部らしき生徒たちが一生懸命に吟味している。猫でキャッチーに行くか、アートで攻めるかで激論を戦わせている。そういえば以前、特別棟の三階に写真暗室があると聞いたことがある。この部室に併設されているのだろうか。
ミッション系のお嬢様学校と思っていたうちの学校にも、一つの暗室があり、そこで青春を燃やしている人がいるという事実。
それを目の当たりにすると、改めて、一人一人の人間的な面が見えてくるんだな、そう思う。
入学式後の部活紹介では、高校入学組のわたしは肩身が狭く、話もろくに聞かずに帰宅部同然の文芸部へと落ち着いてしまっていたし、それすらも今は幽霊部員なのだけれど。
でも、そのおかげで雪乃先輩と出会えて、こうして会いに行ける関係になったのだから、なかなか人生もわからないものだ。
早く先輩とおしゃべりをしたくて、気もそぞろで足早に向かったはずなのに、柄にもなく文化祭の熱に浮かされて遠回りをしたせいで、思わぬ時間を取られてしまった。まだ日が落ちるには早いけれど、忍び寄ってくる夕刻の空気を感じながら司書室に入る。
部屋に入ると、鼻歌混じりの雪乃先輩はお気に入りのカップにお湯を張り温めているところだった。
「遅かったわね。でも私も少し遅れてしまったからちょうどいいか。今日は新しい茶葉にしたから、飲みながら聞いてほしいの」
それだけ言うと、またフンフンとわたしにはわからない曲の鼻歌を歌いながら手早く準備を進めてくれる。
喧騒を離れ、普段よりも一層静かな二人きりの空間に安らぎを覚える。
図書室特有の紙の匂いに、こうして気を利かせて季節のお茶を淹れてくれる先輩。
いつかこの場所も思い出になってしまうのかと思うと、不意にセンチメンタルな気持ちになってしまう。
せっかく久しぶりに会えた先輩に気づかれないようにしなければ。
「お話って、美術部での嫌がらせの件ですよね?クラスにいる美術部員がぼやいていたんです。なので、その話なら少しだけ聞いてます」
わたしは雪乃先輩が聞いて欲しい話、というのを想像してそう言った。
「なら話が早いかな。美術部員全員の絵の具のラベルが剥がされちゃったらしいのよ」
茶葉を蒸らしながら不思議なこともあるものね、と言葉には出さないけれど、小首をかしげながら、先輩の視線は砂時計を見据えていた。
「美術部員って何人くらい居るんでしょうか?」
「二十人くらいだって。一人何色くらいの絵の具を使うのかな?十二色ってことはないよね?剥がすだけでもすごく大変そう」
先輩はどっちに感情移入しているのかわからない口ぶりで両手で一生懸命ラベルを剥がす仕草をし始める。律儀に二十四色くらいのセットらしいチューブを一つ剥がしては箱に戻すという、
「剥がされた物の代わりにみんなでラベルを作って貼ったらしいですよ」
妙に細かい演技の様子を眺めながらわたしは、なぜかちょっと照れながらそう言った。
「やっぱり少し面白そうな話よね。椿姫さんには悪いけれど」
「このあと時間あるかな?ちょっと行ってみましょうか。美術室にお邪魔していいと言う話だったでしょう」
どうしても好奇心が抑えらない様子の雪乃先輩。
「学食の時もそうでしたけど、あまり面白がらないでくださいよ」
そう言いながらも部員が二十人だとして、何十色もある絵の具のラベルを剥がして回るとはどういう意図があってのことなんだろう?私も興味をそそられているのは事実だった。
美術室の後に時間があったらもう一度ここで話を整理することにして、せっかくの新しい茶葉なのに、いつもの半分の時間でお茶を済ませると美術室に向かうことにした。
「お邪魔します、私、二年F組、日ノ宮雪乃と申します」
「天目椿姫部長と百瀬千里副部長はいらっしゃいますか?」
少し立て付けの悪くなった年代物の扉の軋む音に邪魔されながら、雪乃先輩は美術室の入り口で告げた。
すぐに気づいた百瀬先輩が
「やあ、本当に来てくれるなんて! モデルになってくれるのかな?」
スカートを翻しながら駆け寄ってくる。
ひと足先に室内に入った雪乃先輩の微笑みを肯定と判断した百瀬先輩は、周囲にモデルデッサンの用意をするように伝えながら雪乃先輩を部屋の中央へと招き入れた。
雪乃先輩も美術室を興味深げに見回してから
「お誘いありがとうございます。皆さんに描いていただけるなんて光栄です」
初対面の相手に向ける、いつもの遠くを見るような笑顔でそういった。
その言葉に部員達はきゃあきゃあと喜びの声をあげる。わたしも目だたないように美術室に滑り込む。
そこは嗅ぎ慣れない油絵の匂いが充満していた。わたしの選択科目は音楽なので、美術室に入るのは学校案内の時以来だろうか。
室内は角度がつけられる大型の机が三十ほどあるが、今は畳まれて部屋の隅に寄せられている。空いたスペースに文化祭用の絵なのだろう、キャンバスが置かれたイーゼル二十台ほどに占有されている。
市松の板張りの床は丁寧に掃除されてはいるが、絵の具の染みが残っており、室内の奥に並べられた緑の掲示板にはどうやったらこういう絵が描けるのか、精密な鉛筆デッサンが名前入りで飾られている。
百瀬先輩と天目先輩の名前を探してみる。展示されているすべての絵のレベルが高く、二人の名前を見つけることができなかった。
実力派の部活というのは本当なのだろう。掲示板の奥はモチーフ置き場のようで、デッサンに描かれた石膏像や鳥の剥製、空のワインボトルなどが所狭しと並んでいる。
美術部員は各々描き進めていた作品を美術室の隅に片付けながら、イーゼルを円形に並べていく。
先ほどのデッサンのレベルからも分かるとおり、普段からしっかり活動しているのだろう、慣れた動きだった。
雪乃先輩はその中心に用意された椅子になめらかな仕草で腰をかけると
「ポーズはこんな感じ?」
周囲に向けて語りかけた。語りかけるたびに、ワッと黄色い声があがる。
「その姿勢だと長時間は少し辛いから、もう少し楽に座ってくれ」
モチーフの観察を怠らない様子で目線はすでに雪乃先輩に向けたまま、鉛筆の先端をカッターで軽くなぞりながら答える百瀬先輩。
素早く数本を削り、チラリと目を向けてから指先でそっと触れて鉛筆の尖り具合を確認すると満足そうにくるくると回してからペンケースに戻す。その手慣れた所作が不思議な色気を醸し出している。
全員の準備が整ったのを確認すると
「せっかくだからじっくり時間をかけてやろう。五分後開始で、三十分一ポーズ。椿姫、それでどうかな?」
「ありがとう、千里ちゃん、それでいいよ」
「クロッキーとデッサンの中間くらいになるから、しっかり形をとることを意識してね」
普段の様子とは違うキッパリとした口調で天目先輩が告げる。
部員達にとっては普段のやりとりなのだろう、タイマー係の生徒がピッと電源を入れる。
それまでの女学生特有のざわめきは影を潜め、一心不乱に鉛筆を走らせるシャッシャというリズミカルで心地のいい音が室内を満たす。その視線は、憧憬や好奇心ではなく、純粋にモチーフの美しさをとらえようとするそれだった。
真剣な眼差しと絶え間なく繰り返される鉛筆が紙があたる音にわたしは、美しさと心地良さを感じて、みんなの様子が見やすい入り口近く、丁度いい具合に陽当たりのいい椅子を見つけて、音を立てないように腰かけるのだった。
「もう少し、色味を感じさせるように鉛筆を持ち替えて。ヴァルールが何より大切なんだから。わたしは2Bは赤、Fは黄色というように色に合わせるように鉛筆を持ち替えるよ。雪乃の髪はそんな色なのかい?もっと明るくてトーンの変化も微細だろう?」
百瀬先輩の具体的な指導に熱心に耳を傾ける部員達はわたしと同じ一年生なのに、美大の受験資格がありそうだなと思うような実力だ。天目先輩も百瀬先輩に負けじと
「しっかり形を見て。石膏を書くときも、よくモチーフに触ってから面の変化を感じ取るでしょう?指先で感じるような変化をとらえられると、もっともっとよくなるよ」
さすが部長と副部長らしい、どちらも絵を描くことに重要な要素なのだろう。二人の指導だけでグッと良くなるのがわかる。
それだけではなく、積極的に他の部員たちも意見を交わしあって制作に取り組み続ける。
「モデルさんも結構大変だね」
んー!と伸びをしながら、少し疲れた様子で雪乃先輩はリボンを整える。
結局一時間まで伸びたデッサンの後、部員たちは相互に描いた作品に講評を行う。
雪乃先輩はすべてのデッサンを褒めて回っていた。純粋なモチーフとして見られることはいつもの好奇のまなざしとは違うのだろう。描かれた自分の姿をうっとりと見つめている。ヌードモデルを描くときの気持ちを聞かれることを絵描きは本当に嫌がるというから、雪乃先輩の気持ちもそれと同じなのかもしれない。
二十人に描かれた、一つのモチーフとしての雪乃先輩は生き生きとした輝きを放っている。
それぞれの描き手のそれぞれの美的感覚が先輩の良さをとらえているからだろうか。
講評が終わると、部員たちは遅い時間にもかかわらず、誰も帰ろうとはせずに文化祭の個人制作に戻る。
雪乃先輩は引き続き興味深そうに軽い足取りで、部員たちが製作している絵を一通り眺めて回る。わたしもその後ろに付き従って分からないなりに絵を眺めるのだった。
「雪乃、それと……萌花君、せっかくだから軽く解説をしようか?」
「よく白い紙に白いもの——例えば石膏像——を描くのは無理みたいなことを言う人がいるだろう?確かに雪乃の髪なんかはとても難しいよね。でもね、それは違うんだよ。色にはそれぞれ明るさがあって、それがその環境の光によってさらに変化するんだ。さっきの僕の話を聞いていてくれたと思うけれど、キャンバスの中に赤はこのくらいの明るさ、黄色はこのくらいの明るさというものを決めてあげるのさ」
「ほら、僕の描いた君の姿を見てごらん」
それは、本当に鉛筆で描いた白と黒だけの絵とは思えない豊かな色彩を感じさせるものだった。微細に計算されたトーンの変化が柔らかい光の中の雪乃先輩を鮮やかに描き出している。
「これが『色価』をしっかりと考えて描くということなんだ」
先輩もわたしも感激して声も出ない。その様子に気をよくしたのか百瀬先輩は
「もう少し説明させてもらおうかな?萌花君、美しいとはどういうことだと思う?」
「たしかに雪乃は美しいよ。でもね、この市松模様に組まれた床に当たる秋の夕日、飲みかけのカップに照り返される空の青、世界のあらゆるものに美を見出せるか、そういうものすべてが美しいと思えるかなんだよ」
「萌花君やこの学校のみんなにとっては、雪乃は美の極致かもしれないけれど、僕にとっては椿姫のこの濡れ烏の黒髪より上かと言われると何ともいえないところだな」
「そういう風に自分だけにある美を見つけられるかだと僕は考えているんだ。ゴッホのアルルの跳ね橋という絵を知っているかい?昨年ヨーロッパに行ったときに見たんだけれど、何の変哲もない農道の橋だったよ。でも逆にそれが感動だったな」
「ゴッホはアルルに来た喜びでこの橋をあんなに美しく描くことが出来たんだってね」
天目先輩へのストレートな愛情表現とも美への信仰とも取れる百瀬先輩の話に圧倒されて何も返事を返せないわたしたち。
「少し恥ずかしいね。じゃあ僕たちの制作中の絵をみてもらおうかな」
「前も言ったけど、僕は椿姫以外には製作中の絵は見せないから特別だよ」
照れ隠しのように百瀬先輩は言うと二人の絵の前に案内してくれた。
百瀬先輩の情熱の源泉が見えるようで、この人への好感度が上がるのをわたしは感じるのだった。
先輩の絵はフォトリアルという言葉が相応しい、やや神経質とも取れる丁寧な筆致で描かれた写実的な風景画。
まだ描き始めなのに色の選択が適切なのだろう。既に完成度の高さを感じ取れる。
天目先輩のものは荒々しい、とまでは行かないけれど、走るような筆運びの印象派とも抽象画ともつかない絵だった。
「千里さんと椿姫さんはデッサンの時とは作風が真逆なのね」
少し不思議そうな表情の雪乃先輩。
「さすがだね、雪乃は。今はこういう感じに取り組んでいるんだ」
「先のことを考えて、少し技術的なこともやっておきたくてね」
わたしたちの相手をしながら百瀬先輩も制作を再開し始める。ふと目をやると、どんな色にするか悩んでいるのか、丁寧な所作で出した色と睨めっこしている。二人とも道具の扱いがとても丁寧だ。
チューブには一本づつ少し厚みのある可愛らしい花柄のステッカーが貼られていた。
「ああ、これか」
わたしの視線に気付いたのか百瀬先輩はため息をつきながら絵の具の一本を手にとると
「先日あった美術部への嫌がらせは君も知っているだろう?」
「あの件でね、椿姫が僕のもこんなふうにしちゃったんだよ。しかも色の名前じゃなくて花柄のステッカーだよ?さすがに分かりずらいじゃないか?全く最初から色の名前を書いておいてくれたらいいのに。この子はちょっといたずら心があるんだよ」
百瀬先輩はこういう可愛らしいものは自分には似合わない、そんな表情で天目先輩に視線を送るのだった。
この人なら、いかにもこういう細かい作業をしそうだ。
わたしもチラリと視線を送ると、ひと足先に制作に戻った天目先輩は、会話には気づく様子もなく一心不乱に筆を動かしている。
「嫌がらせの件、犯人はわかった?」
「ふふ、やっぱりそれがいちばんの目的かな?名探偵くん」
「ところが、全然わからなくてね。特に情報がなくてすまないね」
「一つだけ変わった事があるとすると、全員分のラベルが剥がされていたのに、全て綺麗にゴミ箱に捨てられていたんだよ」
「丁寧な嫌がらせ犯もいたものだ。そう思わないかい?」
百瀬先輩は一言を添えて絵に向き直ると、再びどの色を使うかしきりに考え込んでいる。邪魔してはいけないと思ったのだろうか、そっと二人のそばを離れると雪乃先輩は部屋の隅、わたしの隣に腰掛ける。
「私も選択科目は美術にすればよかったな」
片手をパレットに見立てて絵の具を混ぜる仕草をし始める。何をやっても絵になる人ではあるけれど、特に絵画は似合いそうだ。
「雪乃先輩、絵はどうでしたっけ?」
何もない空間に頭の中の名画を描き始める雪乃先輩に聞くと
「全然ダメ」
急に現実に戻されたような少し困った笑い顔をして、首を振る。少し日の落ちた教室に鉛筆や絵筆の音だけがこだまする。
油絵の匂いも嗅ぎ慣れてくると意外と嫌いではないかもしれない。雪乃先輩と隣同士でお互いをモデルに絵を描き合う。
そんな妄想をぼんやり思う。百瀬先輩は今日は考えがまとまらないのか、どちらの色がいいとおもう?と天目先輩に小声でやり取りをする様子だけが聞こえる。
真剣な様子でそれを眺めていた雪乃先輩は唐突に立ち上がると
「今日は帰ります。ありがとう」
邪魔にならない声で告げると一礼した。
「モデル本当にありがとう。みんなもお礼を」
百瀬先輩に促され部員たちは立ち上がると、お嬢様学校らしい仕草でお礼の言葉と共に頭を深々と下げる。
「そうだ、せっかくの記念だしみんなで写真を撮りましょう」
雪乃先輩はそういうと、部員たちに声をかける。百瀬先輩と雪乃先輩、二人と写真を撮れるとのことで、先ほどとはうって変わって年頃の女子らしくさんざめく室内で、なんだかよくわからない集合写真を撮ることになってしまった。
雪乃先輩と百瀬先輩を中心に、わたしは目立たないように隅っこの方にそっと入っておいた。天目先輩も逆の隅っこにいる。
隅っこ同盟ね。なんて謎のシンパシーを勝手に覚えてしまう。
「後で写真送るわ」
百瀬先輩は手を振りながらそういった。
「また是非お邪魔させてくださいね」
そう言いながら美術室を後にする先輩。わたしも深く一礼をしてから慌てて追いかける。
図書室に戻るつもりだったけれど、美術室からの帰り道、急な買い出しに出る事になったクラスメイトに捕まってしまい、わたしはとうとう、次の事件まで雪乃先輩としっかり話し合う機会を持つ事ができなかった。そう、次の事件まで。
