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「なんて酸っぱいりんごなんだ、皆はこんなものを食べるのかい?」
低く伸びのあるアルトの声が、歌劇のように放課後の学食に響き渡る。
文化祭の準備期間を控え、八割ほどの席が埋まっていた食堂は一様にその声の方向を振り返る。
打ち合わせをしていたわたしと雪乃先輩も揃ってそちらに目を向ける。
わたしは急に振り返ったものだから、入れてきたばかりのお茶をこぼしてしまう。
雫が手首にはねて熱さに顔をしかめてしまう。
そんなわたしとは対照的に雪乃先輩は少し気だるげにも見えるゆったりとした仕草で振り返るとハンカチを差し出してくれた。
わたしが受け取ったのを見るでもなく、顔にかかった髪を整える。わずかに波紋を描く澄んだ琥珀色の液面がその淡い銀色を映す。
雪乃先輩はいつも通りのどこか遠くを見つめるような瞳で、それでいて少しの事も見のがさない持ち前の観察眼で声の主の方を見つめている。
そうかと思ってみていると、秋の午後の眠気にあてられたのか、ほんの少しあくびをする。
わたしの視線に気づいた先輩は、照れ隠しのように髪の毛に手櫛を入れながら目を伏せた。
あまり見つめないで、というの言外の主張を感じ取って、わたしは慌てて先輩と同じ方向に目を向けた。
食堂は一瞬の静けさの後、少し声のトーンが下がりながらも、あちらでは企画の打ち合わせ、こちらではあのクラスの展示が人気でと言ったような、元の話題と賑わいを取り戻してゆく。
それでも一部の生徒の話題はその生徒の事で持ちきりのようだった。それも無理のない話だった。
先ほどの声の主、百瀬千里先輩は眉をひそめながら、手に持った青りんご——綺麗な歯形に彩られた——を手の中で弄びながら
「美味しそうな色なのになんでこんなに酸っぱいのか……」
などとしつこく不平をもらし続けている。
しかしその程度では持ち前の、あるいは磨き上げた美貌は陰る事がない。
そう言わんばかりの目鼻のくっきりとした顔立ちを飾る長いまつ毛が隠すのは
やや深みのある紫の瞳。
むかし、何かで見たことのある紫水晶がこんな色だっただろうか。
確か南米産だったような記憶がある。
そしてその瞳に勝る艶やかな赤髪は午後の光が透き通ってルビーのように真紅に輝いている。
百瀬先輩はそのスタイルも日本人離れしていた。
女子としては少し背の高い、美術部員というよりは、芸術家が描きたくなるようなその体型はギリシャ彫刻のようで、売り出し中の若手女優と言われても信じてしまうだろう。
服の上からでもわかる豊かなバストトップは弓形に引き絞られたウエストからヒップラインへと抑揚のある稜線を作っている。
そこからハリのある太ももの流れるような曲線はわたしのような一般人と同じ種族とは思えないほどだった。
制服はスカートだけは少し短くしているものの、校則通りの着こなしにリボンタイを首元できっちりと結んでいて、それがかえって艶やかな印象を引き立てている。
どこか外国の香りを感じさせるその容貌にわたしはそんな事を考えるのだった。その自信にあふれた姿をさまざまな視線
うっとりとした憧憬のものや——何か言いたげな盗み見るような——を
意にも介さない様子で周囲へと見せつけている。
「千里ちゃん、ちょっと声大きいよ」
たまたま近くに座っていたわたしたちでなければ気づけないような、か細い声で語りかける連れ添った一人。
そわそわと落ち着きのない様子で空いた席を探している。
声を発しなければ、隣にいることに気づかないくらいで百瀬先輩の影のようだ。
おずおずと遠慮がちに袖を引っ張るその人は百瀬先輩より頭ひとつほど低い、濡れるような黒髪に髪色よりはやや澄んだ黒い瞳の持ち主の天目椿姫先輩。
ほっそりとした手足で指先には色鮮やかな絵の具の染みが僅かに見てとれる。
こちらは美術部員以外ありえない、と言った外見だ。
二人のこれまでの印象は美術部に所属するクラスメイトから聞いた情報の通りだった。なるほど確かに二人が揃うと貴族のお嬢様に付き従う従者のようにも見える。
百瀬先輩がドン・キホーテ・ド・ラ・マンチャなら天目先輩はサンチョ・パンサと言えるだろうか?いやそれはあまりにも……いや、でも昔読んだドストエフスキーのドンキホーテ評によれば……
そんな事を考えていると
「赤いりんごの方はとても甘いと理恵さんが言ってましたよ」
「彼女のご実家からのお裾分けなんですって」
雪乃先輩はいつの間にか百瀬先輩の隣に立って親しげに語りかけていた。
「私、製菓は専門外なんだけれど、頑張って作ってみようかなって」
「青い方はアップルパイ向きだそうです」
その手には赤いりんご。
「それにしても、これはなんという種類なんでしょうね」
「すごく深い赤で、とても美味しそう。まるであなたの髪色のようね」
「僕の髪色のようだとすると」
「色はカーマインレッドだね」
少し考え込んでから、百瀬先輩はりんごに目線を落としながらそう言った。
美術部の生徒は赤一色をいうにも、しっかりと考えた上で、色の名前を正確にいうんだ。
しかもこの美人で僕っ子か……そんなことを考えつつも、会話に入れるわけもなく少し離れた距離から二人を眺め続けるのが精一杯。
「あいにく品種には詳しくないけれど。皆に配っているようなら、部のデッサン用に少し貰っていこうかな?」
「もちろん描いた後は美味しく頂くつもりだよ」
雪乃先輩から赤いりんごを受け取った百瀬先輩は両手に持った赤りんごと青りんごを指先でつまみながらくるくると回して眺めながらそう言った。その仕草や会話の間のとり方も女優のようだった。
一旦はそれぞれの会話に戻ったはずの学食中の興味関心は、いつの間にか二人の会話に注がれている。
学内トップクラスの美女たちの邂逅に出会えた僥倖を噛み締めるように二人の会話に耳をそば立てている。さざなみのように広がる囁き声は段々と「やっぱり雪乃先輩は素敵ね」「千里さまが学年で一番よ」というような、どちらがより素敵かという投票の様相を呈し始めていた。
投票は拮抗していたけれど、わずかだが雪乃先輩の方が優勢のようでわたしも嬉しい。
「立ち話も何ですから私たちの席で少しお話ししましょうよ」
涼しげなしぐさを崩さないが、内心は周囲からの視線にくすぐったさを感じているようにみえる雪乃先輩はそう言ってからわたしたちの隣の席を薦める。
最近の雪乃先輩は、見る人が見ればわかる恥じらいや戸惑いの感情を少しずつ表に出し始めていた。
人目を集める事に慣れるということと、そのことをどう感じるかは別問題なのだとわたしも思う。そのことはとても素晴らしいことだと思うけれど、そのせいで、最近の雪乃先輩は、超然とした魅力の中に、繊細な可愛らしさ、人間らしさが加わって、さらに人気が増しているのがわたしの悩みの種のひとつだった。
ふと見ると、天目先輩が座る場所を求めて手を握り合わせて待っている。
雪乃先輩はというと鞄を手早く片付けて空き席を作り終えて百瀬先輩を招き入れている。その様子を見たわたしも慌てて荷物をまとめて、ソファ席の隅に押し込んだ。
この時期の清心館の食堂はとても日差しが気持ちよくて、頑張って確保したソファ席での二人の時間を邪魔されてしまうことに多少のモヤモヤを抱えてしまう。
そんなわたしの様子に気づいているのか気付いてないのか雪乃先輩は、左手でごめんなさいのポーズを取った。
天目先輩はその小さな体を小動物のようにソファ席に沈めると、やっと落ち着ける場所に安心したのかホッとした表情を浮かべている。わたしと目が合うとお互いになんとなく通じ合うものを感じながら軽く会釈をしてくれる。慌ててわたしも会釈を返す。
「今度は演劇部の助っ人?」
先輩は急に脈絡のない話を始めた。
「あら、雪乃、相変わらず勘がいい子ね」
一瞬訝しむような表情を浮かべてから、すぐにいつもの余裕のある微笑を浮かべて百瀬先輩はそう言った。
「白雪姫から着想を得た創作演劇なんてやるらしくて、ね」
「人が足りないからお声がけいただいたのさ」
「もう日もないのに急に言われて困ってしまったよ」
「でも頼まれたからには少しでも役柄に入っておきたくて。うるさくしてすまなかった」
「あなたは普段から芝居がかった人だけれど——ごめんなさい、悪口じゃないのよ」
「いつもよりさらにそう見えたものだから」
「なんとなく舞台にでも出るのかなって思っただけ」
「考えてみたら……文化祭があなたを放っておくはずがないわね」
どちらかというと赤いりんごをしげしげと眺めながら話す雪乃先輩の方が白雪姫のようだった。
そうしたなら百瀬先輩はさしずめ、王妃様だろうか?そんな失礼なことを考えてから、それを気取られないようにすまし顔で曖昧な相槌を打つ。
天目先輩がチラリとわたしを覗き見る。大丈夫、バレてないバレてない。
「千里さん、あなたが出るならとても見応えがありそう」
雪乃先輩は百瀬先輩に負けず劣らずの女優ぶりで顎に手を当てながら、口ぶりとは裏腹に何かを考え込みながら、立板に水とばかりに話を続ける。
その薄紅色の唇は艶やかに舞う桜の花びらのよう。
「千里さんと椿姫さんは今、大作に取り掛かってるんでしょ?油絵?」
「P100くらいだから、いうほどではないけどね。P100はわかるかな?1600の1100くらいなんだ、ああ、ミリ換算ね。1・6メートルくらいなんだけれど」
「力を入れて描きたくって。でも文化祭も難儀なものだね、毎年あちこちから声がかかるから少し大変だよ」
「でも制作は楽しいよ。椿姫と一緒に競い合えるからね」
口ぶりはそれほど大変そうでもない余裕ある態度の百瀬先輩は絵の制作サイズを言いながらその長い両手をぐっと伸ばす。強調された豊かな胸にどうしても目がいってしまい、同性なのにドキドキしてしまう。
手も女性としては大きく、絵筆を華麗に操る様が想像できるようだった。
「わ、私も同じサイズで描いてます……」
天目先輩が座ってから初めて口を開いた言葉は意外にも百瀬先輩に対抗するものだった。
自己主張が強いタイプには見えないけれど美術に関しては負けない、あるいは部長としての自負があるのだろうか。
思っているほどには気弱ではないのかもしれない。いや、わたしがそう思っているだけで、ただ事実を言っただけかもしれないけれど。
「そう、椿姫は部長だし部で一番大きいサイズ、僕と同じだけれどね。なのに進行も一番いいんだよ」
「あ、そういう意味じゃないけど……一番好きなサイズなの、描写がちょうど良くなるっていうか」
「お二人は我が校が誇る優れたアーティストと聞きますからね。競い合える相手がいるのは幸せでしょう」
「まあね。僕は椿姫がいるからわざわざ高校から清心館に来たんだからね」
「千里ちゃん恥ずかしいよ……」
二人だけの世界に入りそうな所にわざとなのか無意識なのか雪乃先輩は割り込んでから
「製作中の作品って……見てもいいものなのかしら?私、とても興味があって」
そう言いながら、頭の中では絵のサイズを考えているのだろうか、両手を広げるのも変に思われると考えているのだろうか、手をモゾモゾと動かしながら
百瀬先輩越しに食堂の柱の二メートルくらいの位置を眺めている。
「普段、椿姫以外の部員には見せないんだけれどね、雪乃なら歓迎だよ」
「私のはまだこれから、ってところなのでちょっと恥ずかしいけれどね」
「せっかく来てくれるなら、モデルになって欲しいくらいさ。部員たちも喜ぶよ」
一拍置いてから
「もちろん君も。一緒に来てくれ」
わたしの方を見ると百瀬先輩はお付きの従者に申し付けるような口調で告げた。
急に水を向けられて
「あっ、うっ」
と言葉にならない音が口から洩れる。
まっすぐ射貫くような瞳に見据えられると、誰だってしどろもどろになってしまうに違いない。
決してわたしが美人に弱いからではないはずだ。
わたしの口から出た異音に笑いをこぼしながら
「ぜひ二人で伺いますね」
雪乃先輩がそう応えた。
「美術室ならこの子もたくさん話ができるからね。ホームグラウンドなんだ」
天目先輩は人が多い場所が苦手なのか、こういう他愛もない世間話が苦手なのか、あいまいな微笑を崩さない。
百瀬先輩はさらにからかうように指を差す仕草で、すっと指を下ろして愛おしそうに天目先輩の髪をひと撫でするとにこりと笑った。
それからほんの少し表情を曇らせると
「ちょっと雪乃嬢の力を借りたいところもあってね。最近美術部への嫌がらせが続いていて困っているんだ」
「千里ちゃん、それは人には言わない約束でしょ……!」
か細い声ながらもきっぱりと嗜める天目先輩。
「ごめんよ椿姫、部長の君の顔もあるのにね」
「そんなんじゃないけど……」
「なになに、嫌がらせ?それは何か事件なのかしら?」
雪乃先輩が目を輝かせるのを天目先輩が睨むでも牽制するでもない視線でじっと見つめる。
「それは、部に来た時にさせてくれ、ここでは耳目を集めすぎてしまうからね」
「それなら良いだろう?椿姫、どうかな?」
天目先輩は渋々同意した。
「つまんない……なんて言ったら椿姫さんに怒られちゃうか」
ふくれっ面を二人に見せながら雪乃先輩が文句を言った。
少しだけ話の勢いが削がれてしまい、そのあとは午後の日差しの中でお茶を飲み終わるまで、文化祭や部活の出し物に関するよもやま話にひとしきり花を咲かせる。わたしと天目先輩は相槌に終始するだけだった。
「さて、私たちも戻らないとな」
結局、百瀬先輩は三十分近く話しこんでから、ようやく立ち上がった。
天目先輩とわたしは、後の予定のことでやきもきしていたのだけれど、美人は話し好きなのだろうか?いや、天目先輩もよくよく見ればかなりの美人なので個人の性質なのだろう。
ひらひらと手を振りながら、立ち去る百瀬先輩の後ろを小走りに付き添う天目先輩を見送る。
学食の席は気付けば満席に近くなっていた。文化祭の出し物を広げる生徒、メモを取る生徒達で賑わいを見せている。
そんな中、立ち去った二人の余韻——籠に積まれた赤と青のりんご——をなんとなく眺めていると
「ほら、何してるの?今日は事件のまとめをするって話でしょう?せっかく学食まで来たんだから早く早く」
「先輩がさっきまでおしゃべりに夢中だったんじゃないですか」
そんな不満を口にする。蛇に睨まれたカエルみたいな応対になってしまった百瀬先輩とのやりとりを思い出してしまう。
その事への腹いせというわけではないけれど、口ごたえをしてしまう。
同じ美人でも話しやすい人がやっぱりいいな、そんなことを考える。
「バレちゃった?」
悪びれもせずにソファに深く腰掛けなおす雪乃先輩。
「図書室より、この季節は学食のこの席がいいですよね。西陽がポカポカで」
「お茶がティーバッグなのはちょっとって思いますけど」
そう言いながらわたしは、カバンからノートと資料を取り出す。どの話からまとめましょうか。
『三つの手紙』からにしますか、それとも『桃の種六つ』にします?そういえば『気象クラブの謎』は見ていただけるくらいにまとめましたけどまずそっちをみます?」
お気に入りのペンを握り直すと、まだ日が当たっている部分に少しずれる。
雪乃先輩は体が触れ合う距離に身を寄せて横から覗き込んでくる。どの事件から読むか考えているようだった。
ふわりと頬に触れる銀髪が陽に照らされてわたしの目にキラキラとした輝きが飛び込んでくる。
眩しさを感じるけれどもちろん不快ではなかった。わたしは姿勢を正してから二人だけの時間を楽しむのだった。
「なんて酸っぱいりんごなんだ、皆はこんなものを食べるのかい?」
低く伸びのあるアルトの声が、歌劇のように放課後の学食に響き渡る。
文化祭の準備期間を控え、八割ほどの席が埋まっていた食堂は一様にその声の方向を振り返る。
打ち合わせをしていたわたしと雪乃先輩も揃ってそちらに目を向ける。
わたしは急に振り返ったものだから、入れてきたばかりのお茶をこぼしてしまう。
雫が手首にはねて熱さに顔をしかめてしまう。
そんなわたしとは対照的に雪乃先輩は少し気だるげにも見えるゆったりとした仕草で振り返るとハンカチを差し出してくれた。
わたしが受け取ったのを見るでもなく、顔にかかった髪を整える。わずかに波紋を描く澄んだ琥珀色の液面がその淡い銀色を映す。
雪乃先輩はいつも通りのどこか遠くを見つめるような瞳で、それでいて少しの事も見のがさない持ち前の観察眼で声の主の方を見つめている。
そうかと思ってみていると、秋の午後の眠気にあてられたのか、ほんの少しあくびをする。
わたしの視線に気づいた先輩は、照れ隠しのように髪の毛に手櫛を入れながら目を伏せた。
あまり見つめないで、というの言外の主張を感じ取って、わたしは慌てて先輩と同じ方向に目を向けた。
食堂は一瞬の静けさの後、少し声のトーンが下がりながらも、あちらでは企画の打ち合わせ、こちらではあのクラスの展示が人気でと言ったような、元の話題と賑わいを取り戻してゆく。
それでも一部の生徒の話題はその生徒の事で持ちきりのようだった。それも無理のない話だった。
先ほどの声の主、百瀬千里先輩は眉をひそめながら、手に持った青りんご——綺麗な歯形に彩られた——を手の中で弄びながら
「美味しそうな色なのになんでこんなに酸っぱいのか……」
などとしつこく不平をもらし続けている。
しかしその程度では持ち前の、あるいは磨き上げた美貌は陰る事がない。
そう言わんばかりの目鼻のくっきりとした顔立ちを飾る長いまつ毛が隠すのは
やや深みのある紫の瞳。
むかし、何かで見たことのある紫水晶がこんな色だっただろうか。
確か南米産だったような記憶がある。
そしてその瞳に勝る艶やかな赤髪は午後の光が透き通ってルビーのように真紅に輝いている。
百瀬先輩はそのスタイルも日本人離れしていた。
女子としては少し背の高い、美術部員というよりは、芸術家が描きたくなるようなその体型はギリシャ彫刻のようで、売り出し中の若手女優と言われても信じてしまうだろう。
服の上からでもわかる豊かなバストトップは弓形に引き絞られたウエストからヒップラインへと抑揚のある稜線を作っている。
そこからハリのある太ももの流れるような曲線はわたしのような一般人と同じ種族とは思えないほどだった。
制服はスカートだけは少し短くしているものの、校則通りの着こなしにリボンタイを首元できっちりと結んでいて、それがかえって艶やかな印象を引き立てている。
どこか外国の香りを感じさせるその容貌にわたしはそんな事を考えるのだった。その自信にあふれた姿をさまざまな視線
うっとりとした憧憬のものや——何か言いたげな盗み見るような——を
意にも介さない様子で周囲へと見せつけている。
「千里ちゃん、ちょっと声大きいよ」
たまたま近くに座っていたわたしたちでなければ気づけないような、か細い声で語りかける連れ添った一人。
そわそわと落ち着きのない様子で空いた席を探している。
声を発しなければ、隣にいることに気づかないくらいで百瀬先輩の影のようだ。
おずおずと遠慮がちに袖を引っ張るその人は百瀬先輩より頭ひとつほど低い、濡れるような黒髪に髪色よりはやや澄んだ黒い瞳の持ち主の天目椿姫先輩。
ほっそりとした手足で指先には色鮮やかな絵の具の染みが僅かに見てとれる。
こちらは美術部員以外ありえない、と言った外見だ。
二人のこれまでの印象は美術部に所属するクラスメイトから聞いた情報の通りだった。なるほど確かに二人が揃うと貴族のお嬢様に付き従う従者のようにも見える。
百瀬先輩がドン・キホーテ・ド・ラ・マンチャなら天目先輩はサンチョ・パンサと言えるだろうか?いやそれはあまりにも……いや、でも昔読んだドストエフスキーのドンキホーテ評によれば……
そんな事を考えていると
「赤いりんごの方はとても甘いと理恵さんが言ってましたよ」
「彼女のご実家からのお裾分けなんですって」
雪乃先輩はいつの間にか百瀬先輩の隣に立って親しげに語りかけていた。
「私、製菓は専門外なんだけれど、頑張って作ってみようかなって」
「青い方はアップルパイ向きだそうです」
その手には赤いりんご。
「それにしても、これはなんという種類なんでしょうね」
「すごく深い赤で、とても美味しそう。まるであなたの髪色のようね」
「僕の髪色のようだとすると」
「色はカーマインレッドだね」
少し考え込んでから、百瀬先輩はりんごに目線を落としながらそう言った。
美術部の生徒は赤一色をいうにも、しっかりと考えた上で、色の名前を正確にいうんだ。
しかもこの美人で僕っ子か……そんなことを考えつつも、会話に入れるわけもなく少し離れた距離から二人を眺め続けるのが精一杯。
「あいにく品種には詳しくないけれど。皆に配っているようなら、部のデッサン用に少し貰っていこうかな?」
「もちろん描いた後は美味しく頂くつもりだよ」
雪乃先輩から赤いりんごを受け取った百瀬先輩は両手に持った赤りんごと青りんごを指先でつまみながらくるくると回して眺めながらそう言った。その仕草や会話の間のとり方も女優のようだった。
一旦はそれぞれの会話に戻ったはずの学食中の興味関心は、いつの間にか二人の会話に注がれている。
学内トップクラスの美女たちの邂逅に出会えた僥倖を噛み締めるように二人の会話に耳をそば立てている。さざなみのように広がる囁き声は段々と「やっぱり雪乃先輩は素敵ね」「千里さまが学年で一番よ」というような、どちらがより素敵かという投票の様相を呈し始めていた。
投票は拮抗していたけれど、わずかだが雪乃先輩の方が優勢のようでわたしも嬉しい。
「立ち話も何ですから私たちの席で少しお話ししましょうよ」
涼しげなしぐさを崩さないが、内心は周囲からの視線にくすぐったさを感じているようにみえる雪乃先輩はそう言ってからわたしたちの隣の席を薦める。
最近の雪乃先輩は、見る人が見ればわかる恥じらいや戸惑いの感情を少しずつ表に出し始めていた。
人目を集める事に慣れるということと、そのことをどう感じるかは別問題なのだとわたしも思う。そのことはとても素晴らしいことだと思うけれど、そのせいで、最近の雪乃先輩は、超然とした魅力の中に、繊細な可愛らしさ、人間らしさが加わって、さらに人気が増しているのがわたしの悩みの種のひとつだった。
ふと見ると、天目先輩が座る場所を求めて手を握り合わせて待っている。
雪乃先輩はというと鞄を手早く片付けて空き席を作り終えて百瀬先輩を招き入れている。その様子を見たわたしも慌てて荷物をまとめて、ソファ席の隅に押し込んだ。
この時期の清心館の食堂はとても日差しが気持ちよくて、頑張って確保したソファ席での二人の時間を邪魔されてしまうことに多少のモヤモヤを抱えてしまう。
そんなわたしの様子に気づいているのか気付いてないのか雪乃先輩は、左手でごめんなさいのポーズを取った。
天目先輩はその小さな体を小動物のようにソファ席に沈めると、やっと落ち着ける場所に安心したのかホッとした表情を浮かべている。わたしと目が合うとお互いになんとなく通じ合うものを感じながら軽く会釈をしてくれる。慌ててわたしも会釈を返す。
「今度は演劇部の助っ人?」
先輩は急に脈絡のない話を始めた。
「あら、雪乃、相変わらず勘がいい子ね」
一瞬訝しむような表情を浮かべてから、すぐにいつもの余裕のある微笑を浮かべて百瀬先輩はそう言った。
「白雪姫から着想を得た創作演劇なんてやるらしくて、ね」
「人が足りないからお声がけいただいたのさ」
「もう日もないのに急に言われて困ってしまったよ」
「でも頼まれたからには少しでも役柄に入っておきたくて。うるさくしてすまなかった」
「あなたは普段から芝居がかった人だけれど——ごめんなさい、悪口じゃないのよ」
「いつもよりさらにそう見えたものだから」
「なんとなく舞台にでも出るのかなって思っただけ」
「考えてみたら……文化祭があなたを放っておくはずがないわね」
どちらかというと赤いりんごをしげしげと眺めながら話す雪乃先輩の方が白雪姫のようだった。
そうしたなら百瀬先輩はさしずめ、王妃様だろうか?そんな失礼なことを考えてから、それを気取られないようにすまし顔で曖昧な相槌を打つ。
天目先輩がチラリとわたしを覗き見る。大丈夫、バレてないバレてない。
「千里さん、あなたが出るならとても見応えがありそう」
雪乃先輩は百瀬先輩に負けず劣らずの女優ぶりで顎に手を当てながら、口ぶりとは裏腹に何かを考え込みながら、立板に水とばかりに話を続ける。
その薄紅色の唇は艶やかに舞う桜の花びらのよう。
「千里さんと椿姫さんは今、大作に取り掛かってるんでしょ?油絵?」
「P100くらいだから、いうほどではないけどね。P100はわかるかな?1600の1100くらいなんだ、ああ、ミリ換算ね。1・6メートルくらいなんだけれど」
「力を入れて描きたくって。でも文化祭も難儀なものだね、毎年あちこちから声がかかるから少し大変だよ」
「でも制作は楽しいよ。椿姫と一緒に競い合えるからね」
口ぶりはそれほど大変そうでもない余裕ある態度の百瀬先輩は絵の制作サイズを言いながらその長い両手をぐっと伸ばす。強調された豊かな胸にどうしても目がいってしまい、同性なのにドキドキしてしまう。
手も女性としては大きく、絵筆を華麗に操る様が想像できるようだった。
「わ、私も同じサイズで描いてます……」
天目先輩が座ってから初めて口を開いた言葉は意外にも百瀬先輩に対抗するものだった。
自己主張が強いタイプには見えないけれど美術に関しては負けない、あるいは部長としての自負があるのだろうか。
思っているほどには気弱ではないのかもしれない。いや、わたしがそう思っているだけで、ただ事実を言っただけかもしれないけれど。
「そう、椿姫は部長だし部で一番大きいサイズ、僕と同じだけれどね。なのに進行も一番いいんだよ」
「あ、そういう意味じゃないけど……一番好きなサイズなの、描写がちょうど良くなるっていうか」
「お二人は我が校が誇る優れたアーティストと聞きますからね。競い合える相手がいるのは幸せでしょう」
「まあね。僕は椿姫がいるからわざわざ高校から清心館に来たんだからね」
「千里ちゃん恥ずかしいよ……」
二人だけの世界に入りそうな所にわざとなのか無意識なのか雪乃先輩は割り込んでから
「製作中の作品って……見てもいいものなのかしら?私、とても興味があって」
そう言いながら、頭の中では絵のサイズを考えているのだろうか、両手を広げるのも変に思われると考えているのだろうか、手をモゾモゾと動かしながら
百瀬先輩越しに食堂の柱の二メートルくらいの位置を眺めている。
「普段、椿姫以外の部員には見せないんだけれどね、雪乃なら歓迎だよ」
「私のはまだこれから、ってところなのでちょっと恥ずかしいけれどね」
「せっかく来てくれるなら、モデルになって欲しいくらいさ。部員たちも喜ぶよ」
一拍置いてから
「もちろん君も。一緒に来てくれ」
わたしの方を見ると百瀬先輩はお付きの従者に申し付けるような口調で告げた。
急に水を向けられて
「あっ、うっ」
と言葉にならない音が口から洩れる。
まっすぐ射貫くような瞳に見据えられると、誰だってしどろもどろになってしまうに違いない。
決してわたしが美人に弱いからではないはずだ。
わたしの口から出た異音に笑いをこぼしながら
「ぜひ二人で伺いますね」
雪乃先輩がそう応えた。
「美術室ならこの子もたくさん話ができるからね。ホームグラウンドなんだ」
天目先輩は人が多い場所が苦手なのか、こういう他愛もない世間話が苦手なのか、あいまいな微笑を崩さない。
百瀬先輩はさらにからかうように指を差す仕草で、すっと指を下ろして愛おしそうに天目先輩の髪をひと撫でするとにこりと笑った。
それからほんの少し表情を曇らせると
「ちょっと雪乃嬢の力を借りたいところもあってね。最近美術部への嫌がらせが続いていて困っているんだ」
「千里ちゃん、それは人には言わない約束でしょ……!」
か細い声ながらもきっぱりと嗜める天目先輩。
「ごめんよ椿姫、部長の君の顔もあるのにね」
「そんなんじゃないけど……」
「なになに、嫌がらせ?それは何か事件なのかしら?」
雪乃先輩が目を輝かせるのを天目先輩が睨むでも牽制するでもない視線でじっと見つめる。
「それは、部に来た時にさせてくれ、ここでは耳目を集めすぎてしまうからね」
「それなら良いだろう?椿姫、どうかな?」
天目先輩は渋々同意した。
「つまんない……なんて言ったら椿姫さんに怒られちゃうか」
ふくれっ面を二人に見せながら雪乃先輩が文句を言った。
少しだけ話の勢いが削がれてしまい、そのあとは午後の日差しの中でお茶を飲み終わるまで、文化祭や部活の出し物に関するよもやま話にひとしきり花を咲かせる。わたしと天目先輩は相槌に終始するだけだった。
「さて、私たちも戻らないとな」
結局、百瀬先輩は三十分近く話しこんでから、ようやく立ち上がった。
天目先輩とわたしは、後の予定のことでやきもきしていたのだけれど、美人は話し好きなのだろうか?いや、天目先輩もよくよく見ればかなりの美人なので個人の性質なのだろう。
ひらひらと手を振りながら、立ち去る百瀬先輩の後ろを小走りに付き添う天目先輩を見送る。
学食の席は気付けば満席に近くなっていた。文化祭の出し物を広げる生徒、メモを取る生徒達で賑わいを見せている。
そんな中、立ち去った二人の余韻——籠に積まれた赤と青のりんご——をなんとなく眺めていると
「ほら、何してるの?今日は事件のまとめをするって話でしょう?せっかく学食まで来たんだから早く早く」
「先輩がさっきまでおしゃべりに夢中だったんじゃないですか」
そんな不満を口にする。蛇に睨まれたカエルみたいな応対になってしまった百瀬先輩とのやりとりを思い出してしまう。
その事への腹いせというわけではないけれど、口ごたえをしてしまう。
同じ美人でも話しやすい人がやっぱりいいな、そんなことを考える。
「バレちゃった?」
悪びれもせずにソファに深く腰掛けなおす雪乃先輩。
「図書室より、この季節は学食のこの席がいいですよね。西陽がポカポカで」
「お茶がティーバッグなのはちょっとって思いますけど」
そう言いながらわたしは、カバンからノートと資料を取り出す。どの話からまとめましょうか。
『三つの手紙』からにしますか、それとも『桃の種六つ』にします?そういえば『気象クラブの謎』は見ていただけるくらいにまとめましたけどまずそっちをみます?」
お気に入りのペンを握り直すと、まだ日が当たっている部分に少しずれる。
雪乃先輩は体が触れ合う距離に身を寄せて横から覗き込んでくる。どの事件から読むか考えているようだった。
ふわりと頬に触れる銀髪が陽に照らされてわたしの目にキラキラとした輝きが飛び込んでくる。
眩しさを感じるけれどもちろん不快ではなかった。わたしは姿勢を正してから二人だけの時間を楽しむのだった。
