次の日の放課後。
目の前には響・奏・詩の三人。
三者三様に紅茶を飲んだり、来客用焼き菓子を(つま)んだりしている。
その表情だけは三人共に険しく外の雨模様のようだ。
ああ、このクッキー高くて美味しいのに……
そんな不機嫌なおいしくなさそうな顔で食べないで。
わたしもまだ何枚かしか食べたことがない、真ん中に甘いジャム——正確にはコンフィチュールって言うんだっけ——の乗ったクッキーが次々と消えていくのを眺める。
食い意地が張ったような顔になっているんじゃないかと心配になりながら、一枚だけと決めてそっと手を伸ばす。
雪乃先輩も味を楽しまずにお茶とお菓子に手をつける三人に、(わず)かに眉根を寄せたように見えたが、それも一瞬のことでお茶を心から楽しんでいた。それが急に真顔になり
「失敗してしまいました……」
そう呟く。

わたしと三人は事件に関係していることかとじっと見つめる。
「せっかく三つ子さんなのですから、三種のブレンドティーをご用意すればよかった」
「本当にごめんなさい」
雪乃先輩は天然なのかわざとやっているのか、わたしにもわからない。三人も困惑顔だ。
ため息をつきながら気の利かない自分を責めていたが、すぐに今回のお茶の淹れ具合が会心の出来だったとみえて、その味に浸ることに戻る。
しっかりとお茶を一杯楽しんでから名残惜しそうにカップを置くと先輩はようやく話をはじめた。
「では、早速ですがこのお話の要点——」
「嘘つきは誰か?」
「という部分のお話をしましょうか」
それはわたしがこっそりと五枚目のクッキーを食べ終えた頃だった。
「これはほとんどが私の想像ですので、間違いがあったら訂正をお願いします」
「人の心の中を見てくることはできませんから」
少し寂しそうにそう言うと

「まずは響さん」
「あなたは三人のお付き合いの中で貴方自身が楽しければいいと言っていた」
「けれど貴女のお話の中では貴女自身の事よりも奏さんの話題が多かった事に気づいてらっしゃいますか?」
「あなたはあなた自身よりも奏さんの事を考えているように思います」
「それは、響さん自身のためではなくて、奏さんの心のためなのでしょうか……」
「人を思いやる気持ちがあることを嘘つきと言うのも、酷な話ではありますけれどね」

「まずこれが一つ目……と言えるでしょうか」
「嘘つきは誰かって話ですよね?」
「一つ目ってどういう事ですか?」 
困惑しながら尋ねるわたしの口にそっと手を当てて遮る仕草をすると何事もなかったように話を続ける。

「さて、二つ目ですね」
「奏さん、貴女は同じ顔なのに響さんばかりに人気が集まることがずっと不満だった」
「響に人気があるのは別に嫌でも不満でもないよ」
雨音一つのような奏さんの呟き。
「そうですね……少し正確ではない言い方でした。ごめんなさい」
雪乃先輩は素直に頭を下げる。揺れる前髪がその表情を覆い隠す。
「貴女は……奏さんはお姉さんと同じ顔なのに自分がいつも二番手な事に——」
「ずっと——傷つき続けていたんですよね」
顔をあげた雪乃先輩は感情を込めない淡々とした口調でそう言った。

「誰か一人でも自分を一番として扱ってくれれば、必要としてくれたらそれだけで……」
奏さんの痛切な声が雨音だけの室内を静かに染めあげる。
「二人を等しく好きと言ってくれていた詩さんを本当は独占したかったけれど」
「それが受け入れられないのが怖かったんですよね」
「それどころか、詩さんが本当は響さんの事が好きだとわかってしまった」
「三人でのお付き合いを最初に提案したのは奏さんですよね」
「詩さんがそうおっしゃっていました」
「これが……二つ目でしょうか」
 
「そして詩さん、あなたは響さん奏さんに触れる中で響さんに惹かれていった、けれど双子の片方だけ、とは言えない優しさが——残酷さとは私は言いたくはありません——貴女にはあった」
「詩さんは二人を等しく好きでいたいと言っていました」
「奏さんにはそれが嬉しかったのではないでしょうか」」
「これが三つ目」
「なんだか……どれも……嘘と言うには悲しいですよね」

三人とも何も言わなかった。それは雪乃先輩の言葉が本当のことだからだろうか?
それは彼女たち自身にもよくわかっていなかったのかもしれない。
「奏さんが言っていました、同じ顔なのにみんな響さんを好きになると」
「響さんに振られた人が、奏さんに告白しに来ることが何度もあったそうです」
「顔が同じならなんでもいいでしょうか?それって失礼なことじゃないでしょうか?」
「萌花さんがそう言っていました。私もそう思います」
「人にはそれぞれ想いがあってそれぞれが一人一人生きている人なのに」

そんな雪乃先輩に奏さんが問いかける。
「恋なんかしたこともないって顔だけどさ。あなたはどうなの?雪乃さん」
「いつも自分だけが蚊帳の外って気持ちわかる?」
「あなたずっと主人公だったんでしょ……私はずっと響の……お姉ちゃんの影だった」 

奏さんの独白と雪乃先輩への言葉にわたしは自分の事じゃないのに、カッと頭に血が登ってしまい、三年の先輩という事も忘れて立ち上がって三人の事を睨みつけてしまう。

「あのですね、雪乃先輩がどんな思いで皆さんのお話を聞いていたか」
「真剣に考えていたか、わかりますか?」
奏さんも立ち上がってわたしを睨みつけてくる。他の二人は袖を引いて抑えようとしてくれる。
ものすごく怖いけれど、雪乃先輩の心をどうしても知ってほしい。そう思って勇気を振り絞る。

「か、奏先輩は雪乃先輩のこと、何も知らないですよね。奏さんが双子じゃなくて、一人の人として見られたいみたいに、雪乃先輩だって普通に学校に来て普通に授業に出て、普通に学校生活を送って……普通に恋愛したいだけなんです」
「あなたなら先輩のこと、一番わかるかもしれないのに、なんでそれが……」

わたしが最後まで言い終わる前に、奏さんの手が振り下ろされる。それは彼女自身に向けられたような衝動的な動きだった。わたしに当てるつもりはなかったのだろうけれど、指先が頬に触れて鮮やかなネイルチップが梅雨空の後の虹のようにキラキラと跳ねた。わたしはそれを人ごとのように眺めがなら、一瞬遅れてやってきた痛みに柄にもなく女の子らしい悲鳴をあげてしまった。
 
「おやめなさい!」
ぴんと室内に響く声に全員が身をすくめた。
一喝の後はまたいつもの先輩に戻って、わたしの傷を指先で優しく撫でてくれた。
備え付けの薬箱から取り出した絆創膏を丁寧に、慎重に貼ってくれる。
優しい目は安心した様子で傷は残らないからね。そう言っているようだった。

そのまま無言で戸棚に向かうと何事もなかったように新しいお茶を淹れ始める。
誰も何も言えなかった。わたしも絆創膏に触れるのが精一杯だった。

雪乃先輩は砂時計を返すと
「さあ。皆さん、おかけになって」
いつもの声だけれど、それは有無を言わせない力を秘めていた。
淡い夕暮れの瞳に日没の光が燃えているようだった。
沈黙の中、先輩はゆっくりと話し始めた。
 
「奏さんがおっしゃったとおりです。恋なんかした事もないのと言われたらその通りなのかもしれません」
「でも、私には今、もしかしたら、好きな人がいるのかもしれません」
「ここだけの話ですよ、その人は——年下で——可愛い女の子で」
「私と初めて友達になってくれた人なんです」
「でも私は、その人のことが本当に好きかどうかもわからないんです」
「笑われても仕方ないと思います。随分と遅れてますよね。わかっています」
「だからあなたたち三人のことを本当に尊敬していたんです。今も尊敬しています」

声の調子が変わらないのですぐには気づかなったけれど、真っ赤な顔で伏目がちに話す雪乃先輩の顔はまさしく恋する乙女のそれだった。

わたしは先輩の突然の告白に嫉妬とも困惑とも言えない、言葉にできない、言葉にしたくない感情が渦巻いていた。
暗く立ち込めた雲が夕刻にもかかわらず、夜のような暗さで、室内の明かりはその暗さに負けまいと、頼りなく辺りを照らしている。
雨は霧となって世界を覆い続けている。
それはあるいはわたしの心象風景だったのだろうか?先輩はその薄暗い部屋の中で、一人だけ輝いて見えた。

「私は、誰かと恋仲になった経験はないですけれど」
「もし——もしもですよ、私のありのままを愛してくれる誰かと」
「そうなれたとしても——」
世界にただ一人取り残されたような不安げな声で先輩は話し続ける。

「私は、時よ止まれ、君は美しい」

「そんな言葉を言いたくないんです」
先輩はさっきまでとは別の意味で顔を真っ赤にしながら続けた。
ファウストの引用は誰に向けた言葉だろうか?
「その瞬間はずっと覚えていたいけれど、それでも私は」
「変わっていく時間。その瞬間を、一瞬一瞬を永遠として」

「心に刻んで大切にしたいんです」

「綺麗事なのかもしれません、皆さんから言わせたら子供じみた——」
「そう、きっと子供じみた幻想なのでしょうね」
「でも。だからこそ——」
ここで先輩は言い淀んだ。
 
いつの間にか雨が上がっていた。
雲の合間から差し込む夕暮れの光が世界を明るく照らしている。
それは、どんな時間とも違う、今この瞬間だけの色に思えた。
 
その色彩に勇気をもらったように雪乃先輩は最後に願いを言った。
 
「私がその人と相思相愛になれるように祈っていてほしいのです」