いい天気だなぁ。散歩日和だ。そう、散歩日和だ。
学校へ向かう道から少し逸れて、街並みが良く見える場所を探す。うん、あの歩道橋が良さそうだ。
歩道橋から見る景色はどこか他人事のようで、僕と僕以外の世界を切り離し僕に不自由と孤独を突き付けた。
助けてくれませんか? 時間が欲しいんです
僕は自分のための時間が欲しいんです
助けてください 助けてください
あなたの人生の中の ほんの少しの間でいいんです
これ以上歩道橋から下を眺めていると、そのまま吸い込まれそうになるから思わず目を背ける。
ふいに誰かの気配と、何処かで嗅いだことがあるような爽やかな香りが鼻にまとわりついた。
振り向くと
「おっはよ! 迎えに来た!」
弾けるような笑顔の茜が突然アップになり、当たり前のように僕の左手を奪う。
「遅刻するよ! 急げー!」
僕の左手を引っ張り、茜が走り出す。
「どうしてここがわかったの?」
「歩道橋を見上げたら、泣きそうな空がいた」
「ねぇ、僕は走ると爆発しちゃうんだよ?」
「そぅ? 私は走らないと膨らんじゃうの」
思わず笑いがこみ上げる。
さっきまであんなに寒くて辛かった心が、あっという間に温められ溶かされていく。
こんな風に走ったのは初めてかもしれないな。
そして、僕だけが息を切らして無事学校にたどり着いた。
「じゃ、またね!」
そういって去っていこうとする茜の左手を今度は僕が奪う。
「待って」
「どうしたの?」
「茜、爽やかな良い香りがするね。香水?」
なんだ、そんなこと。と、茜は笑った。
「これはハーブの香りよ。部屋でハーブを育ててるから制服とかに香りが移っちゃうのよね」
そうだったのか。爽やかでいて、なんとなく頭がすっきりするような、心が軽くなるような。
「いい香りだね。とても」
「ありふれた香りなんだけれど、空が好きなら毎日服にこすりつけて来るよ」
いたずらっぽく笑うと、茜は北校舎に消えていった。
僕は両手と唇と、そして鼻に残った茜の余韻と共に教室へ向かった。
北校舎に教室がある学年は三年生だけ。そうか、茜は三年生だったのか。自分の教室に向かいながら考える。
そういえば、茜はどこに住んでいるんだ? 家族構成は? 友達は?
なぜ僕と付き合ったんだろう。
僕は、茜をもっと知りたい。
放課後、僕は北校舎に向かった。茜が僕を見つけてくれたように、今度は僕が見つけるつもりで。
茜はどこだろう。
なるべく目立たないように歩く。
なのにすぐに見つかる。
「どうしたの? 空?」
「あ……茜を捜しに……」
一瞬戸惑った顔をした茜はすぐにはじけるような笑顔になって
「ありがと! 一緒に帰ろ!」
朝と同じように僕の左手は奪われ、今来た廊下を引き返す。茜の右手の温かさと柔らかさが、少し緊張していた僕の心身をほぐしていく。
校舎を出てゆっくりと歩いていると
「もし私を見つけられなかったらどうするつもりだったの?」
茜が僕を覗き込む。
「茜が見つけてくれると思った」
少し俯いて答えた。
そして茜の方を見ると、茜は目を丸くして僕を見ていたけどすぐにクスッと笑い、青空を見上げ
「見つけちゃったよ」
と、珍しく静かに呟いた。
しばらく無言で歩いていたけど、僕は茜に言わなければいけないことがある。
「茜」
「うん?」
僕は茜に父の介護のこと、今日から父を散歩に連れて行かなければならなくなったこと、自分の時間が取れずなかなか茜と会うことができないだろうということを伝えた。
長い沈黙の後、
「空のお父さんは、どうして車椅子になったの?」
僕の予想していなかった言葉が返ってきて、僕は言葉に詰まる。
「あの……僕もよくわからないんだ」
僕は僕がわかることを全て茜に話すことにした。
「僕が小学校1年生の時だったかな……父さんが突然いなくなったことがあったんだ。それから五年後……僕が小学校六年生の時に突然帰ってきた。帰ってきてすぐまたいなくなって、そしたら母さんが『父さん入院したよ』って。退院してきたときには、もう父さんの足は動かなくなってた」
「……そう……なんだ」
「小六からずっと、お父さんの介護をしてきたの?」
「母さんと二人で、だけどね」
「……そっか」
それからまた沈黙が続き、一歩踏み出すごとに気持ちは沈んでいく。僕は自分をごまかすための言い訳を考えていた。
そうだよ、茜とは昨日会ったばかりじゃないか。強引に付き合うことになって、今日もたまたま朝会って。
それだけじゃないか。
もしもここで別れることになっても、入学式前の状態に戻るだけのことだ。
それだけじゃないか。
この手の温かさはきっと入学祝だったんだ。
だから、もう。
「わかった! じゃあ、一緒に散歩すればいいよね! 急いで帰って準備して迎えに行くから部屋の番号教えて?」
北校舎で僕を見つけた時と同じ笑顔で茜が笑う。
ねぇ、君はどうしてそんなに前向きでいられるの?
「一〇二号室だよ」
「わかった!」
「茜……ごめん」
「なに?」
二人の時間が取れなくてごめん。
付き合わせてごめん。
弱い自分でごめん。
ごめん。ごめん。
色々なごめんを言おうと思うけれど、心から口に伝わる間に音が消えてしまう。
でも、全ての『ごめん』が聞こえているかのように茜の顔が近づく。
「私が行くまで待っててね!」
弾けるような笑顔をひとつ置いて、茜は勢いよく走っていった。
僕も急いで家に帰り、父に今日の散歩は茜と三人で行きたいという話をした。父は多くを聞こうとはせず、柔らかい声で
「そうか、すまないな。ありがとう」
それだけ言って帽子をかぶった。
「茜のこと、聞かないの?」
「お前が『車椅子の父親』を見せても良いと思った相手なんだろう?」
僕は今まであまり父を人に紹介してこなかった。どうせすぐに引っ越すし、それに……恥ずかしかったから。父と話したことのある僕の友達は玄くらいだった。
全部見透かされていたんだな。
その時チャイムが鳴った。茜だ。慌ててドアを開ける。
「準備できた?」
「うん」
車椅子に乗った父と家を出る。
茜が父の前に立ち、父と目線を合わせるように中腰になって
「初めまして。加藤茜です」
茜が自己紹介すると、父は柔らかな声で穏やかに
「初めまして、空の父です。今日は付き合ってもらって申し訳ないね」
「いえ、ご一緒できて嬉しいです!」
笑顔で茜が答える。
そうして僕達は、ゆっくりと歩き出した。
僕が車椅子を押す。茜が車椅子の横を歩く。時には父に視線を落として、時には僕と見つめ合って、茜は楽しそうに話してくれている。父も楽しそうに話している。
「茜さんはここで生まれたのかな?」
「いえ、中学生の時に引っ越してきたんです」
「ほう、そうなのか。うちと一緒だなぁ。ご兄弟は?」
「弟がいます」
父と茜の会話から、茜のことを知ることができた。
中学生の時引っ越してきたこと、母子家庭であること、お母さんは単身赴任で県外にいること、ハーブが好きなこと……
茜はたくさん話してくれた。
はじめは少し恨みに思った父との散歩だったけど、父が上手に会話してくれたおかげで茜のことをたくさん知ることができた。
「少し風が冷たくなってきたな。そろそろ帰ろうか」
父の言葉で三人は来た道を引き返す。
明日、来月、来年もずっとずっと
モノクロでコピーした感情を
貼りつけていくんだと思っていた
でも
茜が温かな色をつけてくれた
こんなふうに
少しずつ変わっていくんだろうか
変わっていけると
期待していいんだろうか
「茜さん、今日はありがとう。これからも空をよろしく」
「はい!」
父を車椅子から降ろそうと家に入ると
「手伝う! お邪魔します!」
そう言って茜がするりと部屋に入る。
「どうすればいい?」
「あ、じゃあそこのタオルを下に敷いてくれる?」
一人でもできることだけど、誰かと一緒だと身体も心も楽になる気がした。
「ありがとう」
「どういたしまして。今日は帰るね!」
玄関ドアを押さえている僕の手に茜は自分の手を乗せ、少し力を込めてからすぐに離す。
「また明日!」
そう言うと茜はくるりと背を向け、そのまま走っていった。
母が帰宅し、今日の話になった。父は茜のことを、「とても優しくて良いお嬢さんだよ」と褒めてくれた。そして
「空もあんな可愛い子と付き合っているならもっと早く言ってくれたら良かったのになあ」
と、目を細めながら僕に言った。早くも何も付き合ったの昨日だし……と言うのを躊躇していると
「父さんは毎日散歩に行かなくても大丈夫だし、一度帰ってきてくれれば夜までは出かけてもいいんだよ」
景色が変わっていく
止まっていた僕を
僕の周りを
温かい手が
前へ前へと引っ張っていってくれる
茜の手が
温かい手が
両親が寝室に行き、僕も部屋へ戻りベッドに寝そべる。明日の予習は夕食前に軽く済ませたし、今日はもうやることはないな。
今日のことをボンヤリと考える。明日を楽しみに生きる日なんてとっくに諦めていた。
明日も茜を迎えに行こうかな。そんなことを考えながら、僕は眠りに落ちていった。
学校へ向かう道から少し逸れて、街並みが良く見える場所を探す。うん、あの歩道橋が良さそうだ。
歩道橋から見る景色はどこか他人事のようで、僕と僕以外の世界を切り離し僕に不自由と孤独を突き付けた。
助けてくれませんか? 時間が欲しいんです
僕は自分のための時間が欲しいんです
助けてください 助けてください
あなたの人生の中の ほんの少しの間でいいんです
これ以上歩道橋から下を眺めていると、そのまま吸い込まれそうになるから思わず目を背ける。
ふいに誰かの気配と、何処かで嗅いだことがあるような爽やかな香りが鼻にまとわりついた。
振り向くと
「おっはよ! 迎えに来た!」
弾けるような笑顔の茜が突然アップになり、当たり前のように僕の左手を奪う。
「遅刻するよ! 急げー!」
僕の左手を引っ張り、茜が走り出す。
「どうしてここがわかったの?」
「歩道橋を見上げたら、泣きそうな空がいた」
「ねぇ、僕は走ると爆発しちゃうんだよ?」
「そぅ? 私は走らないと膨らんじゃうの」
思わず笑いがこみ上げる。
さっきまであんなに寒くて辛かった心が、あっという間に温められ溶かされていく。
こんな風に走ったのは初めてかもしれないな。
そして、僕だけが息を切らして無事学校にたどり着いた。
「じゃ、またね!」
そういって去っていこうとする茜の左手を今度は僕が奪う。
「待って」
「どうしたの?」
「茜、爽やかな良い香りがするね。香水?」
なんだ、そんなこと。と、茜は笑った。
「これはハーブの香りよ。部屋でハーブを育ててるから制服とかに香りが移っちゃうのよね」
そうだったのか。爽やかでいて、なんとなく頭がすっきりするような、心が軽くなるような。
「いい香りだね。とても」
「ありふれた香りなんだけれど、空が好きなら毎日服にこすりつけて来るよ」
いたずらっぽく笑うと、茜は北校舎に消えていった。
僕は両手と唇と、そして鼻に残った茜の余韻と共に教室へ向かった。
北校舎に教室がある学年は三年生だけ。そうか、茜は三年生だったのか。自分の教室に向かいながら考える。
そういえば、茜はどこに住んでいるんだ? 家族構成は? 友達は?
なぜ僕と付き合ったんだろう。
僕は、茜をもっと知りたい。
放課後、僕は北校舎に向かった。茜が僕を見つけてくれたように、今度は僕が見つけるつもりで。
茜はどこだろう。
なるべく目立たないように歩く。
なのにすぐに見つかる。
「どうしたの? 空?」
「あ……茜を捜しに……」
一瞬戸惑った顔をした茜はすぐにはじけるような笑顔になって
「ありがと! 一緒に帰ろ!」
朝と同じように僕の左手は奪われ、今来た廊下を引き返す。茜の右手の温かさと柔らかさが、少し緊張していた僕の心身をほぐしていく。
校舎を出てゆっくりと歩いていると
「もし私を見つけられなかったらどうするつもりだったの?」
茜が僕を覗き込む。
「茜が見つけてくれると思った」
少し俯いて答えた。
そして茜の方を見ると、茜は目を丸くして僕を見ていたけどすぐにクスッと笑い、青空を見上げ
「見つけちゃったよ」
と、珍しく静かに呟いた。
しばらく無言で歩いていたけど、僕は茜に言わなければいけないことがある。
「茜」
「うん?」
僕は茜に父の介護のこと、今日から父を散歩に連れて行かなければならなくなったこと、自分の時間が取れずなかなか茜と会うことができないだろうということを伝えた。
長い沈黙の後、
「空のお父さんは、どうして車椅子になったの?」
僕の予想していなかった言葉が返ってきて、僕は言葉に詰まる。
「あの……僕もよくわからないんだ」
僕は僕がわかることを全て茜に話すことにした。
「僕が小学校1年生の時だったかな……父さんが突然いなくなったことがあったんだ。それから五年後……僕が小学校六年生の時に突然帰ってきた。帰ってきてすぐまたいなくなって、そしたら母さんが『父さん入院したよ』って。退院してきたときには、もう父さんの足は動かなくなってた」
「……そう……なんだ」
「小六からずっと、お父さんの介護をしてきたの?」
「母さんと二人で、だけどね」
「……そっか」
それからまた沈黙が続き、一歩踏み出すごとに気持ちは沈んでいく。僕は自分をごまかすための言い訳を考えていた。
そうだよ、茜とは昨日会ったばかりじゃないか。強引に付き合うことになって、今日もたまたま朝会って。
それだけじゃないか。
もしもここで別れることになっても、入学式前の状態に戻るだけのことだ。
それだけじゃないか。
この手の温かさはきっと入学祝だったんだ。
だから、もう。
「わかった! じゃあ、一緒に散歩すればいいよね! 急いで帰って準備して迎えに行くから部屋の番号教えて?」
北校舎で僕を見つけた時と同じ笑顔で茜が笑う。
ねぇ、君はどうしてそんなに前向きでいられるの?
「一〇二号室だよ」
「わかった!」
「茜……ごめん」
「なに?」
二人の時間が取れなくてごめん。
付き合わせてごめん。
弱い自分でごめん。
ごめん。ごめん。
色々なごめんを言おうと思うけれど、心から口に伝わる間に音が消えてしまう。
でも、全ての『ごめん』が聞こえているかのように茜の顔が近づく。
「私が行くまで待っててね!」
弾けるような笑顔をひとつ置いて、茜は勢いよく走っていった。
僕も急いで家に帰り、父に今日の散歩は茜と三人で行きたいという話をした。父は多くを聞こうとはせず、柔らかい声で
「そうか、すまないな。ありがとう」
それだけ言って帽子をかぶった。
「茜のこと、聞かないの?」
「お前が『車椅子の父親』を見せても良いと思った相手なんだろう?」
僕は今まであまり父を人に紹介してこなかった。どうせすぐに引っ越すし、それに……恥ずかしかったから。父と話したことのある僕の友達は玄くらいだった。
全部見透かされていたんだな。
その時チャイムが鳴った。茜だ。慌ててドアを開ける。
「準備できた?」
「うん」
車椅子に乗った父と家を出る。
茜が父の前に立ち、父と目線を合わせるように中腰になって
「初めまして。加藤茜です」
茜が自己紹介すると、父は柔らかな声で穏やかに
「初めまして、空の父です。今日は付き合ってもらって申し訳ないね」
「いえ、ご一緒できて嬉しいです!」
笑顔で茜が答える。
そうして僕達は、ゆっくりと歩き出した。
僕が車椅子を押す。茜が車椅子の横を歩く。時には父に視線を落として、時には僕と見つめ合って、茜は楽しそうに話してくれている。父も楽しそうに話している。
「茜さんはここで生まれたのかな?」
「いえ、中学生の時に引っ越してきたんです」
「ほう、そうなのか。うちと一緒だなぁ。ご兄弟は?」
「弟がいます」
父と茜の会話から、茜のことを知ることができた。
中学生の時引っ越してきたこと、母子家庭であること、お母さんは単身赴任で県外にいること、ハーブが好きなこと……
茜はたくさん話してくれた。
はじめは少し恨みに思った父との散歩だったけど、父が上手に会話してくれたおかげで茜のことをたくさん知ることができた。
「少し風が冷たくなってきたな。そろそろ帰ろうか」
父の言葉で三人は来た道を引き返す。
明日、来月、来年もずっとずっと
モノクロでコピーした感情を
貼りつけていくんだと思っていた
でも
茜が温かな色をつけてくれた
こんなふうに
少しずつ変わっていくんだろうか
変わっていけると
期待していいんだろうか
「茜さん、今日はありがとう。これからも空をよろしく」
「はい!」
父を車椅子から降ろそうと家に入ると
「手伝う! お邪魔します!」
そう言って茜がするりと部屋に入る。
「どうすればいい?」
「あ、じゃあそこのタオルを下に敷いてくれる?」
一人でもできることだけど、誰かと一緒だと身体も心も楽になる気がした。
「ありがとう」
「どういたしまして。今日は帰るね!」
玄関ドアを押さえている僕の手に茜は自分の手を乗せ、少し力を込めてからすぐに離す。
「また明日!」
そう言うと茜はくるりと背を向け、そのまま走っていった。
母が帰宅し、今日の話になった。父は茜のことを、「とても優しくて良いお嬢さんだよ」と褒めてくれた。そして
「空もあんな可愛い子と付き合っているならもっと早く言ってくれたら良かったのになあ」
と、目を細めながら僕に言った。早くも何も付き合ったの昨日だし……と言うのを躊躇していると
「父さんは毎日散歩に行かなくても大丈夫だし、一度帰ってきてくれれば夜までは出かけてもいいんだよ」
景色が変わっていく
止まっていた僕を
僕の周りを
温かい手が
前へ前へと引っ張っていってくれる
茜の手が
温かい手が
両親が寝室に行き、僕も部屋へ戻りベッドに寝そべる。明日の予習は夕食前に軽く済ませたし、今日はもうやることはないな。
今日のことをボンヤリと考える。明日を楽しみに生きる日なんてとっくに諦めていた。
明日も茜を迎えに行こうかな。そんなことを考えながら、僕は眠りに落ちていった。
