さて、今日から実習だ。三年生は、五月から研修が始まる。提携先の病院で半年程実際の現場で勉強させてもらうのだ。ユニフォームに着替え、ペンや体温計など必要なものをポケットに入れる。
「頑張るよ、茜」
 ローズマリーの栞を胸のポケットに入れて更衣室を後にした。
 学校が提携している病院はかなり大きな総合病院で、特に精神・神経系、整形外科、そして介護系に強い。僕は心療内科の大部屋担当の補佐になった。
 先輩看護師が言った。
「ここは心療内科。一般的に『心の病』と呼ばれる患者様の治療や、発達に特性をもつ方のケアもしています。私達はこうして普通に仕事をして、楽しいことも悲しいこともなんとなく乗り切っているけれど、実は紙一重です。ここに居る人達とユニフォームを着ている私達の差なんて紙一重。今、どこに立っているか。ただそれだけなのです」
 それを聞いたとき、ふと重なった。
 父を恨むことで自分を苦しめ続けた僕と、僕達を憎むことで自分を苦しめ続けた茜。
(どこに立っているか、それだけ)

未来を憂いて下を向いていた僕と
過去を抱きしめて上を向いていた君
歩道橋で僕を見つけられたのは
君がいつも上を向いていたから
たった一人で復讐を決め
自分を奮い立たせるために
上を向いて 空を見て
泣かないように しおれないように

「地域包括ケア病棟に入りました」
 車椅子を押すスタッフの後ろ姿が見える。
「少し急ぎますよ」
 先輩看護師が少し足を速める。僕は置いていかれないように真っすぐ前を向き、後をついて行く。車椅子に乗る人とスタッフの笑い声が段々と近くなり、僕達は彼女達を追い越した。
その瞬間、車椅子を押すスタッフの笑い声が消えた。
僕は、足を止めた。
すると、もう何年も前から知っている、爽やかで懐かしい香りが身体を包む。

下を向いていた僕は
君を捜して前を見た
あの日からずっと
君に伝えたい言葉を抱きしめて

「知ってた? ローズマリーのもう一つの花言葉は『変わらぬ愛』だよ』
 僕はゆっくり振り返り、愛しい君にそう告げた。