「ヒガシ!」
 大きな声でそう呼ばれたから、近くにいた女子高校生が振り向いた。僕は周りを気にしながら声の相手に小声で返事をした。
「僕、ヒガシじゃないし」
 しかし更に大きな声で
「だってお前、ヒガシカタだろ? 長いからヒガシな!」
 さっきの女子高校生が『うるさいなあ』とでも言うようにジッとこちらを睨んでいる。
「……空でいいよ」
「ソラだな! OK!」
 こうして引っ越し先の中学で出来た初めての友人『玄志(げんし)』とは、お互いに『空』『玄』と呼び合う仲になった。
 それから数か月
 最後の進路指導が終わり、次の生徒と交代して自分の教室に戻る。この面談で志望校を決定するため、クラスメイトも少し緊張気味だ。玄が僕の前の席に座り、後ろを向いて話しかけてきた。
「なあ、お前ってどこ受験するんだっけ?」
「旭高」
「は? 超進学校じゃん! お前、そんなに頭いいの?」
「そんなに頭がいいの」
 僕は軽く笑った。
 実際、超進学校を狙えるだけの学力はある。けれど、旭高受験を決めたのは超進学校だからじゃない。家から近かったからだ。通学に交通機関を使うとお金がかかるし、何より帰宅後は父の介護が待っている。
 お前とは違うんだよ……
「ん?」
 ニコニコしながら玄がこちらを見ている。そうだな。玄が悪いんじゃない。それに、僕はこの能天気な友人のことを決して嫌いではない。
「玄も受ける? 旭高」
「俺は全力でお前を応援する! そして俺は受けない!」
「だよな」
 笑いながら教室を出る。いつもの放課後。いつもの帰り道。

そして帰宅したら
いつもの地獄が待っている

 僕の一日はだいたい決まっている。朝食の支度、父の介護、学校、帰宅後父と散歩、夕食の支度そして母が帰宅するまではずっと父の介護だ。訪問介護やデイサービスなどの福祉があるのは知っているけど、父と母はそれを利用しようとはしない。なるべく人との関わりを持たない姿勢に疑問を抱き、何度も問いただしてみたが、いつも答えは同じだった。
「なるべく家族で頑張りたいの」

ねぇ母さん 知ってる?
僕が旭高を受験したのは 父さんの介護をするためだということを
母さんの帰宅後 僕が何時間勉強しているかを
引っ越しをする度 気の合う友達や好きな人と離れる辛さを
ねぇ、母さん?

喉から出かかっている言葉を、それでも僕は言わない。きっと母もたくさんのものを抱え、苦しんでいるのだろうから。
だから僕はもう聞かない。ただ…… 

「空、どうした?」
車椅子から柔らかな声が聞こえた。
「ごめん、父さん」
いけない。考え事をしていて、つい車椅子を押す手が止まっていたみたいだ。
「いや、俺はいいんだが。空、疲れたか?」
「そんなことはないよ。でも夕方は一段と寒いね。もう帰ろうか」
「ああ、そうだな。帰ろうか」
 川沿いの散歩道はとても短く、すぐにビル街へと続いている。ビル街にさしかかってすぐ、突風が吹いた。車いすが風に持っていかれないよう、僕はしっかりとハンドルを持って、車いすを停めた。すると、
『ガシャン!』
 近くで大きな音がした。
 父の目の前に、ぐしゃぐしゃになった土と、薄い紫の小さな花、そして割れた、おそらく植木鉢が落ちていた。
「どこからこんな物が? 風?」
 僕は周りを見渡したけれど、植木鉢が出ているような建物は見当たらなかった。
「父さん、大丈夫? 怪我はない?」
 慌てて父の顔を覗き込んだ。
「ああ、大丈夫だ。しかし驚いたよ…… 空、とりあえず帰ろう」
 母が帰宅した後、今日の出来事を伝えた。
ショックを受けていた父の様子が心配だったことから、しばらくは散歩はやめようということになり、結果的に僕の生活は少し楽になった。
でも。
植木鉢は一体どこから落ちてきたんだろう……