はじめまして
私の名前は 加藤茜
旧姓は 吉田茜
あなたが殺した 吉田正は
私の父ですよ

今まで見たこともないような
憎悪に満ちた表情で
茜は自己紹介をした
青ざめた父の顔がハッキリと見えた。
多分僕の顔も青ざめているんだろう。
茜は父から目を離さずに続けた。

ぼんやりとした思い出……でも一か所だけ強烈な記憶があるわ。
お父さんが、街灯に反射して金色に光るバットで殴られる瞬間、私は叫んだ。
誰かに目を塞がれ、お店の中に入れられた私が次にお父さんに会ったのは病院だった。
お父さんはね、何度呼んでも、一度も目を開けることのないまま、骨と灰と煙になった。
私はその時、お父さんは誰かに殺されたんだろうということは分かったけど、それが誰かまではわからなかった。お母さんにも聞くことができなかった。
でも、この気持ちを、この悔しさを絶対に忘れたくない。
そんな時、ローズマリーに出会ったの。
ローズマリーの花言葉は『記憶』『思い出』。
私の身体に沁みついたこの香りはお父さん。忘れないように。お父さんの無念を絶対に忘れないようにってね!
お父さんと暮らした家を出て、私達一家は引っ越しを繰り返したわ。日々の生活に追われてお父さんとの思い出が薄れてしまっても、あの瞬間が頭から離れたことはなかった。
中学の時、引っ越しの荷造り中にお母さんの部屋から出てきたのが、あんたに送った記事よ。記事を読んだ私は、記事に書いてある土地を調べ、居酒屋を調べ、事件を調べ、凶器を調べた。
ずっと! ずっとずっと憎んできたわ。
あんたの居場所はどうしてもわからなかったけれど、あの瞬間を、あの記事を! 一日たりとも忘れたことはなかった!
だから一年前の四月、すれ違いざまでも聞き取れたのよ。
『ヒガシカタ』って名前を呼ぶ人の声が。
『ソラ』でいいと答える人の声が。

茜が父から目を離し、今度は僕に憎悪の目を向ける。

 そうそう、落としたローズマリーは、残念ながら私が育てたものではないわ。
 あんた達の家を突き止められなくて困っていたら、偶然散歩中のお二人を見つけたの。だから、とっさに買ったばかりのローズマリーの鉢植えを投げたのよ。当たらなくて残念だったわ。
 私とお父さんの恨みを込めて育てた鉢植えなら当たったかもしれないわね。本当に残念だったわ。
 でも、偶然はもう一度訪れた。
 そうそう、あの日、倒れている人のおかげで近付くチャンスができたのよね。恋人になれば、人殺しの父親「東方修」に会えると思った。
ねえ、ヒガシカタ ソラ君。さりげなく家を突き止められるよう、一生懸命恋人をやったけど、どうだった?私、名演技だったでしょ?好きでもない男と付き合うのも、手をつなぐのも、キスするのも……どれだけ苦痛だったかわかる?
吐きそうだったわ!
心臓を握りつぶされたような気がして上手く息ができない。
でも、なぜだろう。
僕を見ている茜のほうが、僕より辛そうに見えた。

おかげで家も、こいつの部屋までわかったわ。そして仲の良い親子だということもね。
まるで、お父さんのことなんか、私達遺族のことなんか忘れてしまったかのように!
思い出させてやろうと思ったわ。だから事件の記事をプレゼントしたの。
絶対に忘れさせてなんかやらない。お父さんが殴り殺されたのと同じソフトボール用の金属バットに、事件のコピーを巻きつけて窓から放り込んであげたのよ。
読むのなんて……誰でも良かった。
でも、せっかく投げ込んだのに当たらなかったのよね。当たれば少しは気も晴れたけど。本当、残念だわ。

憎悪に満ちていた茜の顔が辛そうになり、今度は何故か苦痛に歪んでいるように見える。まるで自分の言葉に自分自身が傷つけられているかのように。
心配している僕の視線に気付いた茜は、少し視線を外し、続けた。

ああ、そうだ。
ソフトボール、警察に渡さずあの場所に置いてくれてありがとう。証拠として取っておかないなんてとんだ間抜けだけど、私は助かったわ。だってあれは、お父さんが最期に自分の力で掴んだ物だったから。
ねえ? ヒガシカタ オサムさん?

 父は俯いたまま動かない。
 茜はポケットからナイフを取り出し、ゆっくりと鞘を掃った。
「あなたが殺した人間の娘が、今こうしてあなたを殺そうとしている。愛する息子の目の前で殺される気分はどうですか?」

 茜の口から出る言葉は冷たく憎悪に満ちたものなのに、何故か泣いているように見えた。いつから泣いていたんだろう。父が茜のお父さんを殺した時からだろうか。ずっと一人で泣いていたんだろうか。
 でも、父を殺させるわけにはいかない。
 僕が二人に近付こうとした時、父が顔を上げ、茜に話しかけた。
「茜さん、私は逃げるつもりはない。ただ、少しだけ話を聞いてくれないだろうか」
茜の返事を待たずに父は話し出した。
「私は、君のお父さんの命を奪った人殺しだ。
本当に申し訳ないと思っているよ。すまない。
すみません。本当に申し訳ございません。ずっと謝りたかった。ご遺族にずっと。私の事は、何度殺しても殺し足りないだろう。憎んでも憎んでも、憎み足りないだろう。ただ……空に対してはどうなんだろうか。私には、君が空に対して、最初は憎しみや利用の対象だったとしても、その」
「うるさい! うるさいうるさい!」
茜は激しく首を振って、父の鼻先にナイフを突きつける。
ナイフが震えている。
いや、茜が震えているんだ。

 僕は、小さな湖を背にして車椅子に座っている父と、父の向かい合わせに立っている茜のそばにゆっくりと近づきながら、ハッキリと、茜の目を見て、ちゃんと伝えた。
「茜、僕は、僕はね、君が好きだよ。茜のことが大好きだ。これまでも、これからも、大好きだよ」
 茜の身体が大きく跳ねた後、両方の腕が下がっていく。
「たとえ君に許されることがなくても、ずっと好きだよ。茜のことが大好きだよ」
「私、私は」
 茜は少し後ずさりして、かたく握りしめたナイフを見つめている。
 父が茜の顔を見上げた。そして
「茜さん、私は逃げるつもりはない。しかし、あなたが殺人を犯してはいけないよ。あなたに関わるたくさんの人が悲しむからね。……ここに連れてきてくれてありがとう」
 父は車椅子のタイヤに手をかけ、一気にバックさせた。後ろは湖!
「父さん!」
 慌てて駆け出したけれど、くそっ、遠すぎる!
 その時
「ガシャン!」
 大きな音と共に車椅子が倒れ、父が湖手前の芝生に投げ出された。倒れた車椅子に茜がしがみついている。車椅子のキャスターにナイフを絡ませ車椅子を倒したようだ。
 僕は父を起こし湖から遠い場所まで運び座らせた。
茜の方を見ると、すでに立ち上がっていて、水辺の入り口からこちらを見ていた。僕が持ってきたローズマリーの鉢植えを持って。