そろそろクリーニングに出さなきゃな。母にクリーニングを頼むため、カーディガンをとる。ポケットに何もないか確かめていると、テープのついた紙が出てきた。
これは……すぐに思い当たる。あの日、玄とベッドを移動させているときに足に貼りついていた紙だ。そうか、ポケットに入れたままだったんだ。何気なく紙を開いてみる。
それは、新聞のコピーだった。
ある記事を中心にA6ほどの小さな紙。

九月二十七日、大川市に住む会社員、吉田正(よしだただし)さん(三十六歳)に暴行を加えたとして現行犯逮捕された同市に住む会社員、東方修(ひがしかたおさむ)容疑者(三十六歳)を、吉田さんが十月四日死亡したため、傷害致死罪で再逮捕した。

視点が一点に集中する
身体の震えが止まらない
そうか……そうか!
警察や行政の世話になりたくなかったのも
引っ越しが多かったのも
全部

東方修容疑者
父さん!!

しばらく放心していた僕は、フラフラとリビングへ向かう。リビングには両親が談笑しながらテレビを観ていた。
なんで笑っていられるんだ。
「なんで笑っていられるんだよ」
両親が振り向く。
「あんた、人殺しなんだろ?」
ギョッとして両親が顔を見合わせた。
「空、あなたなぜそんなこと……」
母が僕に訊くけど僕はそれには答えず続けた。
「なんで人を殺したのに笑っていられるんだよ。僕は人殺しのために自分を犠牲にして今まで生きてきたのかよ……あんたの都合で自分の時間もなくなって! あんたのせいでやりたいことも行きたい道にも進めなかった!」
止まらない。もう感情が止められない。
「なんで人を殺したあんたが生きてるんだ!」
「空! いい加減にしなさい!」
母の声が遠くで聞こえる。
「なんで人を殺したあんたが生きてるんだよ! 人殺しのあんたの世話をこれからも続けていけっていうのかよ!」
本当はこんなこと……こんなこと……
「友達ができなかったのも、好きな人と離れたのも! 部屋に物がないのだって、行きたくもない進学校だって! 全部あんたのせいなんだよ!」
 母の悲鳴らしきものが聞こえた。
「あんたが人を殺したからじゃないか!」
 悲鳴が泣き声に変わった気がした。
「あんたは 人殺しだ!人殺しだ!」
 父を傷つけ、母を傷つけ、そして自分の言葉に自分自身も傷つけられていく気がして、心と言葉から逃げるように僕は家を飛び出した。

誰か! 誰か! 誰か!
お願いします
誰か
もう……頑張れないよ……

走って、走って、走り疲れて。
茜色に染まった街をフラフラと彷徨い、見慣れた場所から見慣れぬ場所へ。そしてまた見慣れた場所へと僕は歩き続けた。
ポケットに突っ込んだ紙を取り出して何度読み直しても、父の名を見間違うことはなかった。
飛び出してきた僕にはお金もなくほぼ部屋着。ただただ徒歩で行ける場所を歩き続けることしかできなかった。
歩いて、歩いて、歩き続けて。そして、
「よお! 不審者」
なぜか笑いながら玄が近づいてくる。
「なんで?」
「おばさんからお前が飛び出していったって連絡があったからさ」
よく見ると、玄はスニーカーで、まるでランニングでもするかのような恰好だった。
いや、ランニングをしてくれていたのかな。僕を捜して。
玄は僕と肩を組み
「帰るぞ」
と強引に歩き出す。
「玄。僕、家にはまだ……」
「俺ん家だよ」
そう言って玄は僕の肩、いや、もう首を掴む感じで自分の家に僕を連れて行った。

玄の部屋に通された僕は、何時間かぶりに座り温かいコーヒーを飲んだ。食事を勧められたけど喉を通りそうになかったから、玄が持ってきてくれたクッキーを一枚だけ口にした。甘さがゆっくり口に広がって、張り詰めていた心を少しずつ溶かしていく。
僕はポツポツと、今日の出来事を全て話した。
ずっと黙って聞いていた玄が、ふと思いついたように僕に訊く。
「なぁ、その記事って、なんで親父さん達の部屋に落ちてたんだろうな」
そういえば何故だろう?
「その記事持ってるか?」
僕はポケットに突っ込んでいた記事を玄に見せた。
「これがこんな風にくるくると巻いてあってテープがついていて」
ハッと気づく。玄も同じことに気付いたんだろう。
「バットか!」
二人の声が揃う。
両親がこんな記事を家に置いておくわけがない。だとすると、外部から持ち込まれたもの。
くるくると巻かれた形状でテープが付いている状態からすると、恐らくバットのグリップに巻き付けてテープで留めてあったのだろう。
「だとすると、あのバットはイタズラなんかじゃなく、間違いなく親父さんを狙ったものってことか」
玄の言葉で背中に冷たい汗がつたう。
「帰るか?」
決心のつかない僕は縦にも横にも首を振ることができない。
どんな顔して帰ったらいいんだろう。
どんな顔で父に会う?
人を殺した父に。
あんなにも酷い言葉で責めてしまった父に。

「よし、今日は泊って明日帰れよ。送っていくからさ。そんでさ、事件のことを親父さんに訊いてみようぜ。どうせ事件の話は知ったんだから、この際全部訊いちまえよ。憎むのはその後でも良いじゃん?」
僕の心が聞こえたかのように玄が提案する。
「ありがとう」

シャワーを貸してもらっている間に、玄が自分のベッドの横に布団を敷いてくれていた。
「なぁ、電話鳴ってたぞ」
着信を見ると、履歴が茜で埋まっている。
僕は電源を切った。
「いいのか?」
「あぁ」
電気を消して真っ暗な中、玄が話しかけてきた。
「なぁ、将来の夢ってあるか?」
唐突に訊かれ戸惑ったけど、僕は少し考えて答えた。
「今はよくわからない」
「今?」
「小さい頃は医者になりたかったんだ。でも、お金がないからさ、現実が見えたときに諦めたんだ」
「そうか。どうして医者になりたいと?」
僕は昔を思い出す。
ああ、そうだ。
「父さんの足を治したかったんだ」
そう、父の足を治したくて医者になろうと思った時期があった。しかし、医大はお金がかかる。だから。
「看護師はどうだ? 医者のように治すことはできないけどさ、親父さんや親父さんのように苦しむたくさんの人の助けになったり支えになったりできる尊い仕事だと思うぞ?」
「ごめん、今は考えられないよ」
「……そうか、そうだよな」
ごめん、と玄も謝って、おやすみと背中を向ける。僕も玄に背を向けると、ふと自分の電話が目に入った。
茜、心配しているだろうか。
会いたい。声が聴きたいよ。
でも僕は。
僕は人殺しの息子だから。

結局ほとんど眠れないまま朝を迎えた僕は、あまり人に会いたくないだろうと、僕を気遣った玄が部屋へ運んできてくれたトーストをかじりコーヒーを飲む。出会った時から馴れ馴れしくてガサツで豪快な印象の彼は、その実とても繊細で丁寧で正確な優しさを持っている。
全てを見透かされているような感覚が、不思議と『心地よい』と思える唯一の友達だった。
「早く食えよ!」
自分の分をあっという間に平らげた玄が着替えながら僕に言う。
急いでトーストをほおばった僕はそこで気付く。
玄は普段着だった。
「玄、今日学校だろ?」
玄は不敵に笑い
「お前、学校行きたくないだろ? 制服も持ってきてないし。今日はお前のために本当は行きたいけどお前に付き合って学校を休むことにした!」
ああ。そういうことか。
「親父さんにちゃんと全てを聞くんだぞ」
先ほどとは全く変わって諭すような優しい玄の声に、僕は少し間を置いてから強く頷いた。

ソファに父と母。
ダイニングの椅子に僕、そして僕の後ろに玄が立っている。
父がゆっくりと話し出した。