1. 大原 雄介

 渾身の勇気を振り絞った告白が、今日、実を結んだ。

 大原雄介、17歳。平凡な県立高校の、ごく平凡な2年。
 平凡なりに打ち込んでることもあって。特に才能が目立つわけでもないが、サッカー部のキャプテンだ。


 先週金曜の放課後。
 入学以来一目惚れのように恋心を抱いていたクラスメイトに、意を決して告白した。

 自分の気持ちを、どうしても抑えられなくなった。
 彼女は、学年トップクラスの優秀な頭脳と整った容姿を持ち、常に穏やかで控えめな高嶺の花。まさにダメもとの体当たりだ。

 彼女——平井 (さき)さんは、戸惑うように俯いた。

「……少し、考えてもいいかな」

 長い睫毛が、どこか困惑するように伏せられる。
 綺麗な髪が、透き通るように白い頰にさらさらとかかった。

 他に、好きな人がいるのかもしれない。
 そうは思っていた。
 自分を見る彼女の目が、単なるクラスメイト以上に何か特別な感情を湛えたことは、これまでに一度もなかった。

 目の前の彼女の反応には、それを一層確かにする気配が漂っていた。
 無意識に握った拳がますます固くなる。

「ダメだったら、はっきり断ってほしいんだ」

「ダメなんて、わかんないよ。
 だから、少し考える時間が欲しいの」

 彼女は、ふっと顔を上げると、蕾が開くように美しい微笑を見せる。

 考えたい——ということは、少しは期待を持ってもいいんだろうか?

「来週の金曜、答えるから。一週間、待ってくれる?」

「——うん。
 待ってる」

 そして、なんともざわざわと落ち着かない一週間が過ぎ。
 今日、奇跡が起こった。

 彼女は、静かに頷いてくれた。

「私、女として可愛くないと思うの。少しも。
 でも、こんな私でもよければ」

 ちょっと困ったような微笑を浮かべて、彼女はそんな言い方をした。

「…………本当に……?」

「うん」

「……すげえ……
 これ、夢じゃねーよな?
 めっちゃ嬉しい……奇跡だ、マジで……!!」

「あはは。大げさだって」

 半分呆然としてただそんな反応しかできない俺に、彼女はおかしそうに笑った。


 眩しくてたまらなかった、その眼差し。
 柔らかい笑顔。
 艶やかな長い髪と、涼しげな目元。綺麗な桜色の唇。

 そして、きっとこれから見るだろう怒り顔も、泣き顔も、全部。

 今日からは、俺のもの。

 こんな幸せが、あっていいんだろうか?


 いつもの帰り道さえ、目に映る全てのものが優しく美しく、まるで世界全体がこの幸せを祝福してくれているように見える。

 雲を踏むように覚束ない足元をなんとか真っ直ぐに歩きつつ、俺は生まれて初めて見る色鮮やかな夕暮れを仰いだ。




2.平井 咲

 先週金曜の放課後。
 クラスメイトに告白された。


 彼——大原くんは、明るくて快活な、クラスの人気者。
 彼の周りには、いつも誰かしら友達がいて、賑やかに楽しげな空気が常に満ちている。
 サッカー部のキャプテンで、いざという時にはしっかりと場の空気を読み、毅然とした態度を取れる。
 そんな頼もしさと爽やかな明るさを持ち合わせた彼は、男女を問わず周囲から慕われる存在だ。

 けれど、彼に告白された私は、困惑している。

 彼の気持ちが自分へ向いていることは、知っていた。
 その眼差しや、急にギクシャクと不器用になるその態度や、何かの拍子にぱっと染まる頰などを見れば、すぐに気づく。
 まるで、真っ直ぐで純粋な少年のようだ。

 彼のことは、嫌いじゃない。
 むしろクラスメイトとして好感を抱いている。

 でも——
「異性」としては、どうか?
 実際に告白されて、改めてそう自分に問いかけてみても、答えなどさっぱり見つからない。


 中学の頃、家庭教師に数学と理科を教わっていた。
 端正な顔に眼鏡をかけ、どこか神経質で華奢な長身の男子大学生だった。
 親の希望で、彼の授業は自宅ではなく、近くの図書館の公共スペースで受けていた。

 私はいつしか、彼に強く惹かれた。
 先生として、そして異性として。

 ある日、授業内容から宇宙の話になった。

「僕もね、宇宙や星が大好きなんだ。
 星の本、よかったら貸そうか」

 先生の微笑みとその言葉に、私は迷わず頷いた。

 図書館の帰り、親に「友達の家に寄って帰る」と嘘のメッセージを送り、先生と一緒に彼の部屋まで行った。
 本を借りるために。

 言われるままに上がった彼の部屋で、強く彼に抱きしめられた。

 そのまま、ベッドに倒された。

 怖いとは、全く思わなかった。
 それは、私が毎晩毎晩脳内に思い描いていたことだった。
 こうして願いが叶ったことに、私は寧ろ酔いしれた。

 止めようのない勢いに、すべての行為は嵐のように過ぎていった。
 その熱に浮かされるように、私は彼に囁いた。
 ずっと、こうしていたいと。

 私の囁きを聞いた途端、彼は何か我に返ったように青ざめ——
 上擦るような声で、小さく「だめだ」と呟いた。

「このことは、僕たちだけの秘密だ。……な、わかるよな?」

 突然逃げ腰になったその態度と、怯えたような表情。
 たった今までの甘く溶けるような感覚は、嘘のように消え去った。
 それと入れ替わるように、彼の心の奥底の汚れた沼が私の目の前に曝け出された。

 ただ衝動的にヤりたくなっただけで、お前を好きなはずなどないだろう、と。 
 喋られると都合が悪いから黙っておけ、そう言われたのと何も変わらなかった。


 その男とは、それきり会うことはなかった。
 先生急に都合が合わなくなったらしくて、と、それだけ母親から聞いた。


 3年前の出来事だが、別にどうでもいい。
 初めて好きになった男がたまたまクズだった、ただそれだけのことだ。

 そして。
 私には今、気になってならない人がいる。——大原くんではなく。
 その人がこちらを向く可能性は、ほぼないけれど。

 大人びて、いつも静かに穏やかで。
 時々さりげなく投げられる艶のある視線に、ゾクゾクとする。
 それが私の方を向いていないから、なお一層。

「長澤、次理科室一緒行こーぜ」
「ああ」

 長澤 海斗(かいと)
 品の良い仕草で、彼はすらりと席を立つ。

「ねえ、長澤くんってさ、彼女とかいないのかなー? イケメンだよね、なんか冷たくて怖そうだけど……」
 私の横で、友人が彼をじっと見つめながらわかりやすく頰を染める。

「——彼、中学校の頃、初恋の子が事故で亡くなったんだって。
 その子のことが、今も忘れられないらしいよ」

「……え? なにそれ!? ほんと!?」
「うん。男子たちがそういう話してるの、たまたま聞いちゃっただけだけどね。
 この世にいない相手と戦ったって、きっと無駄じゃない?」
「え〜……嘘お〜……超ショック〜〜……」

 そう。
 この世にいない相手になど、勝てるはずもない。

 私のこんな想いなど、彼には届かない。

 ……寧ろ、届かなくていい。
 変に冷めて、既にどこかが汚れている、私みたいな女の想いなど。

 ——汚してしまう気がするのだ。
 真っ直ぐに私を求めてくれる大原くんの想いを、受け止めてもいいのだろうか。こんな私は。
 金曜までに、答えを出すことになっているのに。


「理科室そろそろ行こうよ、咲」
「……うん」

 友にそう誘われ、重いため息をつきながら席を立った。




3.御園(みその) (あおい)

 大原が、平井さんと付き合うことを知った。
 その幸せを黙っていられないかのように、彼が友達にそう話しているのを、聞いてしまった。

 顔が思わず歪みそうになるのを、必死に堪える。


 僕は、彼が好きだった。
 心が壊れてしまうかと思うほどに。


 周囲に気づかれないように注意しながら、いつも彼を見ていた。

 休み時間の楽しげな彼、弁当を美味しそうにがっつく彼。
 数学の授業で、頭をグラグラ揺らして居眠りする彼。
 サッカーグラウンドで、研ぎ澄まされた表情でボールを追う彼。

 少年のように無邪気な笑顔。
 怒った時の凛々しい眉間。
 ぐっと力を込めた時の、逞しい筋肉の浮き上がった腕。
 骨ばった手の甲と、長い指。
 形良く引き締まった、ワイシャツの背中——

 その全てが、仕草の一つ一つが、たまらなく苦しく胸を締め付けた。


 あの眼差しと笑顔を、自分だけに向けて欲しい。
 あの腕に、強く抱きしめられたい。
 あの背に腕を回し、力一杯抱き返したい。

 決して叶わないのだ。

 ——僕が、「男」を辞めでもしない限り。

 改めて、そんな思いがキリキリと身体中を占領する。

 勝手に湧き出してしまうこんな恋心は、一生胸の奥深くへ葬り続ければならない。
 想いを告げるどころか、そんな想いを胸に抱いたことさえ、その相手に知られてはいけないのだ。

「お互いが向き合えるか」を、確認してから——それからでなければ、恋をしてはいけない。
 そして、叶わない恋など最初から大事にしちゃいけない。
 どうせ、その人が他の女性のものになっていく瞬間を、ただ黙って見ているしかないのだから。
 これからも、きっと、ずっと。

 こんなバカみたいな決まりごとを——なぜ僕が。
 なぜ僕だけが、守らなければならない?
 心がじりじりと火に炙られるような苦しみに耐えながら。

 何とか自宅へ辿り着き、部屋へ駆け込んだ瞬間、どっと涙が溢れた。
 親にさえ話せない、果てしなく重い秘密。

 両親とも仕事で帰りは遅い。
 ひとりきりの空間で、誰にも見せられずに抑え込んだ感情が堰を切って激しく胸を叩く。

 神様。
 なぜ、僕は————

 頭を掻き毟りながら、気づけば僕は声を上げて泣いていた。

 どのくらい、そうしていただろう。
 ベッドに突っ伏し、つい眠り込んだ枕元で、スマホの着信音が響いた。
 アドレスに登録していない番号からの着信に、微かに警戒しながら通話ボタンを押す。

「……はい」

『御園?』

「…………」

『俺。長澤。
 友達から、お前の番号きいた』

「え、長澤? 
 ……えっと……何で……」

『お前、今日午後からずっと様子変だったろ。
 ちょっと気になってさ』

「——……」

 恋人ができたという大原の話を聞いてから激しく凹んだその様子を、気づかれていた。
 長澤に。

 この悲しみの原因は、絶対に知られちゃいけない。

「……い、いや、別に大したことじゃ……」

『あのさ。
 もし間違ってたら、ごめん……怒らないでほしい。
 ……御園って、もしかして大原のこと好きだった?』

「————」

『お前の様子見てれば——
 というか、俺が勝手に気づいただけだけどな。
 なんか、変なとこ鋭いっていうか』

 長澤は頭が良く、カンもいい。
 今更、みっともなく誤魔化すなんて無理だ。
 きっと、ますます惨めになるだけだ。

「…………
 長澤、頼む。
 このこと、誰にも——」

『言うわけないだろ。
 言わないよ、絶対』

 電話の奥で、穏やかに温かい声が響く。

『お前も知ってるかもだけど……
 俺、好きだった子が昔事故で死んじゃってさ。
 なんか、女子ネタで盛り上がるあいつらの中に入る気になんないんだよな。
 ……なあ。お前の気持ちとかお前の話、俺に聞かせてよ。もちろん、人には聞かれない場所でさ。
 代わりに、俺の話いろいろ聞いてくれたら嬉しいんだけどな』

「…………長澤……
 それ、マジで言ってる?」

『ははっ、お前面白いな。冗談でこんな話するかよ』

「……」

 普段冷たくてとっつきづらい印象の、あの長澤が……こんなふうに、僕を気にかけてくれるなんて。
 思ってなかった。これっぽっちも。

 けれど今は、悲しみでぐちゃぐちゃになった心に、何だかたまらなく温かいものが湧き出している。

「ありがとう……長澤」

 新たな涙が溢れそうになり、慌ててぐっと押さえ込んだ。

『ならさ、明日は二人で昼メシ食おうぜ。誰も来ない……屋上とかで』
「え、あそこ立ち入り禁止だよ。先生に怒られるって」

 思わず、自分の口から小さな笑みが漏れる。
 さっきまで、あれほどの絶望感に押し潰されそうだったのに。


 恋を失った痛みは、多分簡単には消えない。
 それでも——そんな苦しさを受け止めてくれる温かい友人が、側にいてくれる。

 重く垂れ込めていた雲から不意に青空が覗き、風が吹き込んだような。
 これまでに感じたことのない明るい喜びが、僕の心に広がり始めていた。




4.長澤 海斗

 御園との電話を終えた俺は、家の自室で思わず大きくガッツポーズを作っていた。


 中学時代、初恋の子が事故で命を落とし、今も彼女のことが忘れられない——というのは、嘘だ。

 なぜそんな嘘を?

 どこか感傷的なそういう理由を持っていれば、「お前彼女いねえの?」、「彼女作んねーの? なんで?」という無神経かつ鬱陶しい質問を浴びせられることもなく、アイドルネタや下ネタから遠ざかっていても不自然がられないからだ。

 つまり、この作り話は、自分が「ゲイである」ことを誰にも怪しまれることなく過ごせる、最高の隠れ蓑なのだ。


 なぜ、御園の性的指向に気づいたのか。
 それは当然、俺が常に彼を観察していたからだ。

 御園のことは、1年の頃から内心気になっていた。

 どことなく華奢な身体つきに、温かみのある白い肌。
 栗色の柔らかそうな髪と、同じ色のくっきりした二重の瞳。薄く綺麗な形の唇。
 穏やかで真っ直ぐな性格。
 女子から見たらあまり目立たない印象なのかもしれないが、彼は俺の中ではどストライクだった。脳内で思うだけならば誰にも文句は言われない。

 そんな御園を密かに目で追ううちに、彼の視線の先にはいつも同じ人間がいることに気づいた。

 女子じゃない。
 同性だ。

 大原雄介。
 明るく爽やかで、時に凛々しく男らしい、クラスの人気者だ。

 ——マジか?
 御園の気持ちが向いているのは……本当に?

 周囲に怪しまれない範囲で、俺はさらにじっくりと、気長に御園を観察し続けた。

 大原を見つめる、その柔らかな眼差し。
 大原が笑う時は、同時に御園の口元も嬉しそうに小さく綻ぶ。
 彼が怒れば、御園の眉間も微かに歪む。

 これは、多分——いや、間違いない。


 俄かには信じがたいそれが、だんだんと確信に変わるに連れ、俺の心は激しく波立った。

 彼の性的指向は、恐らく同性に向いている。

 自分が密かに想いを向けているその相手が、たまたま同類の性的指向を持っているなんて——まさに奇跡に近い幸運だ。
 と言っても、LGBTは日本では人口の約8%ほど存在する。約13人に1人。40人クラスに2〜3人はいてもおかしくないのだ。

 とにかく、この幸運を逃す手はない。絶対に。
 何とか、御園にこちらを向いてもらう方法はないだろうか……?

 ずっと、そう思い続けてきたのだ。


 どうやら、ここにきて恋の女神は俺に微笑んだ。

 御園が深い想いを寄せるその男に、とうとう恋人ができた。
 彼の今日の落ち込んだ様子は、ほぼ間違いなく失恋の痛みによるものだ。

 それでも、今の電話はまさに一か八かだった。
 彼の気持ちが、本当に大原に向いていたのか。彼の性的指向が本当に同性に向いているのか——そして、彼自身がそのことを認め、俺を信頼してくれるかどうか。
 肝心なそこをクリアしなければ、この話は前に進まない。

 その全てが、俺の願った通りに進んだのだ。

「うわ、スマホが手汗ですげー」
 緊張の証を、苦笑しつつごしごしと拭き取った。

 そわそわと騒ぐ気持ちをなんとか鎮めたくて、キッチンに向かいスティックコーヒーの口を切り、カップに湯を注いだ。
 立ち上るその香りに、胸の達成感と幸福感が一層大きく膨らむ。

「恋は戦い、ってのは本当だな……本気になってみて初めてわかる……いやいやまだ第一ラウンドだけどな」

 そう。
 本番は、ここからだ。

 これからは、彼と二人きりの時間をたっぷり持てるようになるはずだ。

 大切にしたい。彼を。
 今までそういう特別な感情を誰にも見せられなかった分、思い切り。


 そして、もし、彼の心が俺の方を向いてくれる時が来るならば。
「初恋の子が死んだ」という嘘は、その時白状しよう。——彼だけに。

 芳ばしく香るカップを口に運びながら、俺は身体の奥から湧き上がる喜びを強く噛み締めていた。




5.小山田(おやまだ) 瑠夏(るか)

 その日、学校から帰宅した私は、自室で唇をギリギリと噛み締めた。
 その強さで、唇から血が滲むほど。


 平井 咲。
 いつもいつも、私の目の前をうるさくちらつく、限りなく憎らしい女。

「瑠夏、瑠夏」

 私の名を呼ぶ柔らかな声が、耳の奥に蘇る。
 追い払おうとすればするほど、その甘い響きはしつこく耳から離れない。

 どんなに努力しても、彼女に勝てない。
 死に物狂いで校内順位を抜いたと思っても、その次の回には必ず彼女の名が私より上にある。
 苦しむような表情など、微塵も見せず。
 美しい微笑でふわりと舞うように、やすやすと私を越えていくそんな様子が、次第に憎くてたまらなくなった。


 私だって、自分の頭脳にも容姿にも、それなりの自信がある。
 中学までは、絶対的な頂上に立っていたのだ。

 けれど、県内トップクラスのこの高校へ来て、世界はあまりにも変わった。
 誰もが彼女を讃え、慕わしげに見つめる。
 彼女の前では、私は全てにおいて「二番手」だ。
 
「二番手」なんて……あまりに屈辱的で、身体が震える。

 もしかしたらあの女は、何食わぬ顔をしながら実は、常に私を踏みつける事で優越感を味わっているのではないだろうか?
 あんな綺麗な顔をして、甘い声で私を呼んでおいて——裏では、私を鼻で嘲笑ってるんじゃないか。

 自分でも訳のわからない負の感情が、ある日生まれた。
 根拠もないその感情は、見る間に膨張し、暴走し、自分の心と脳を支配していく。
 このままでは何か危険だと感じているのに、それを止めることができない。

 そうやって私は、風にさらさらとなびく彼女の髪を、いつも背後からじっと見つめていた。
 美しく艶やかなそれを指に巻きつけ、思い切り引きちぎりたいと思いながら。


 そんな私の耳に、今日、最悪のニュースが入った。
 彼女が、クラスメイトからの告白を受け入れた、というのだ。

 相手は、大原雄介。
 明るく爽やかに男らしい、クラスの人気者。

 彼が、咲に気があるようだというのは、薄々気づいていた。
 けれど、まさか彼女が、彼からの告白に頷くなんて。
 高嶺の花気取りの、あの女が。

 許せない。

 なぜ?
 大原雄介のことが好きだから?

 いや、そうじゃない。
 私は、彼には興味がない。

 ならば、何がこんなに腹立たしいのか?


 ——彼女が、全て持っていくことが。
 私が手にしていない輝くものを、また一つ手に入れた、そのことが。

 奪いたい。
 全て持っているあの女から、何かを——全てを。


 とりあえず一番実現しやすいのは、たった今できたばかりのあの恋人を、奪うことだ。
 または……何らかの方法で、恋そのものを破壊すること。

 あの女が苦しみ、打ち拉がれる顔を見たい。
 髪を振り乱し、憎しみに震える目で私を睨みつけるところを見たい。

 私の存在を、彼女に刻みたい。
 決して消えないほどに。


 机の上のスマホが、着信を知らせる。

「もしもし——さっきの件?
 うん、今一人だから大丈夫。
 え……平井さんの中学時代の噂、知ってる人がいるの?
 ぜひその話聞きたいな。できるだけ早く。
 ——うん。いつ会えるか、調整してくれる?」


「瑠夏」

 スマホを置いた耳元で、あの甘い声がまた私を呼んだ気がした。




6.大原 雄介

「雄介! ほらお弁当!」
「あー悪いサンキュ! 母さん行ってきますっ」


 昨夜、平井さんからの『おやすみ』のメッセージが嬉しすぎてなかなか眠れず、すっかり寝坊してしまった。
 電車数本分の遅れだ。駅への道を自転車で必死に突っ走る。

 高校の最寄駅を飛び出し、学校へ向けてダッシュする。
 体力には自信がある。この時間なら、なんとか間に合うだろう。

 強い黄味を帯びた朝の日差しが、額に眩しく当たる。
 太陽の光は、強烈なパワーを全身に注ぎ込んでくれるから好きだ。

 吸って、吐く。
 リズミカルに繰り返す自分の息が、ただ大きく脳内に響く。

 無心で走るうちに、生物の授業で習った内容がふと脳に戻ってきた。


「『走光性』は、生物が光刺激に反応して移動する性質のことである。
 光のある方向へ近づく行動を『正の走光性』、逆に光から離れるような行動を『負の走光性』という——」


 走光性。

 人間も、そういう習性がある。
 不意に、そんな気がした。

 光に向かって手を伸ばし、ひたすら何かを追いかけたいという欲求。
 闇を見つめ、ともすれば吸い込まれそうになりながらも、そこから離れられない執着。

 自分自身の理性ではコントロールすることができない、強烈な何か。
 俺たちは結局、その訳のわからない何かにどうしようもなく突き動かされ、運命を激しく揺さぶられながら、生きていく。——力尽きるまで。

 その先に何があるのかなど、一切わからないまま。


 それでも。
 今、俺の中に漲るのは、「正の走光性」だ。
 間違いなく。

 大切なものが——守りたいものができた。
 自分の全てと引き換えにしてでも。


 身体の底から不思議なほどに湧き上がるこの力は、何があっても決して抑え込むことなどできないだろう。
 そして、光に向かって伸びるこの道を、何者にも阻ませたりはしない。
 絶対に。


 俺の心は、いつしか校舎ではないどこかに向かって疾走していた。




〈了〉