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ぬるい風がエアコンから送り出されている。すこしべたつくくらいの湿度が、部屋に満ち満ちていた。紫音はまだ腫れの残る瞼で、全てを見届けた。
金城が殴り倒され動かなくなるのも。
緋山が崩れ落ちて慟哭するのも。
蒼唯が、青ざめながら勝者として立つ姿も。
「悪趣味」
紫音はそれらを無表情に見届け――そして吐き捨てるように言い、「I:CON」のプロデューサーである藤崎Pをにらみあげた。
「最高に悪趣味。最悪の気分だ」
「褒めてくれてありがとう」
「褒めてないよ、父さん。一体何考えてんの?」
ひょろりとした体躯の藤崎Pは、息子を見下ろして戯けるように眉を下げた。
「真に輝くアイドルというものは、どのような素質を備えているだろうね?」
「は?」
「カリスマ性かな? それとも社交性? ああ、演技力もそうだけど、ダンスや歌といった魅力も捨てがたい。何よりその美しい見た目だ。光るものがなくてはならないね」
紫音は眉根を寄せた。
「何が言いたいんだよ」
「何が言いたいって? ……合格だったとは思わないかい、紫音。キミも含めて、ファイナリストはみんな、合格だった。高い適性があった」
紫音はわずかに、目を見開いた。それは、あまりに予想だにしなかった言葉だったからだ。
全員合格だった?
「金城くん。高いパフォーマンス能力とあのエンタメ根性は見上げたものだった。緋山くん。数々の修羅場をくぐり抜けてきたんだろうね。こなれている。平均能力も高い。何よりチームを引っ張る力がある。リーダーにぴったりだ。そして紫音。ヴォーカルとしての能力はキミが一番高かった」
眉間の皺を深くして、紫音は父親から顔を背けた。
「……今更そんなこと言われても」
「――でも、足りないんだよね」
紫音は振り向いた。うっそりと笑うPの瞳に、こわばった笑顔の蒼唯の姿が映り込む。
「アイドルにはやっぱり『清廉さ』がないといけない。その点では頭一つ抜けて清水蒼唯が『よかった』。それが、この円卓戦で証明されたじゃないか」
「ジョーカーは、やっぱり蒼唯だったのか」
紫音は目を伏せた。
「……やっぱり」
「ちがうよ?」
藤崎は握っていた拳を広げた。そして、指を一本立てて見せ、微笑む。優雅に。
「ジョーカーなんて最初からいなかったのさ」
紫音は息を呑んだ。氷を呑まされたかのようだった。憎悪に満ちた冷たい塊が、唇から何かの形を成して出てきそうだった。
「……外道」
ようやく口に出来たのはそれだけで、紫音はぎゅっと目を閉じた。じゃああの円卓での言い争いはまったくの無意味だったんじゃないか。緋山も金城も紫音も、そして蒼唯も、こんな思いしなくて済んだんじゃないか。
しかしプロデューサーはやはりどこか道化のように軽やかに告げた。
「でもね、紫音。誤解しないで欲しいな。僕らはジョーカー、勝者がこの中にひとりいるとは言ったよ。確かに言った。だけど、やらせだなんて一言も言ってない。……最初にやらせだって言ったのは誰だったか思い出してよ」
「……え」
紫音は記憶をたぐり、そして、口を覆った。
「蒼唯……」
『それってつまり……勝負はその、もう、決まってて……つまりこれは、今までのは全部、『やらせ』……ってことですか』
プロデューサーは頷いた。
「そう。彼が始めた。彼の愚かさがこの円卓に火を付けた。僕らはね、四人でちゃんと話し合って、ちゃんと『ここにジョーカーなんかいなかった』って結論づけたなら、全員デビューさせる気でいたよ。本当さ」
「うそだ……」
紫音は頭を抱えた。
「うそだ、そんな……」
「まぁ、結果は結果として受け止めるさ。清水蒼唯は、結果として選ばれた」
プロデューサーは静かに言った。ぬるい風はいつの間にか止んでいた。
「僕は清水蒼唯のプロデュースに全力で当たるし、これからをずっと支えていく。見いだした以上、花を付けるまで世話するよ。彼は最高のアイドルになる。いや、ならねばならない」
「……」
何も言えなくなった紫音へ――息子へ、藤崎は語りかけた。
「紫音。認めて欲しいなら、追いかけてきなさい。門戸はまだ君の前にある」
「……」
「清水蒼唯を超えてみなさい。それが僕がキミに課す、最初で最後の宿題だ」
藤崎Pを呼びに来たスタッフが、こわごわと親子の会話の間に入ってきた。スタッフの声がけに鷹揚に応えたプロデューサーは、笑みを作って息子を見下ろした。
「じゃ、行ってくるよ。先に帰っててくれて構わないからね、紫音」
藤崎が去って、静かになった部屋に、雨音が響いてくる。
雨だ。ガラスの外側には雨粒がついている。
しばらくして、紫音はゆっくりと立ち上がった。まだ幼さを残す丸い頬に、彼は自ら喝を入れた。
「……やるか」
静かな声が、がらんどうの部屋に響く。雨音だけが、それを聞いていた。
了



