「紫音?」
 蒼唯は愕然とした。かろうじて繋がっていたはずの糸の先が切れていたかのような絶望が、蒼唯を襲った。
「な、なんで、紫音」
「……それは、プロデューサーが、蒼唯を特別扱いしているからだ」
 紫音は静かに言った。蒼唯の方は全く見ていなかった。紫音は、緋山と金城に話しかけていた。蒼唯は思わず立ち上がった。
「待てよ、そんな話聞いたことないぞ!」
「ボクはジョーカーじゃない。蒼唯がジョーカーだ」
 今度は断言だ。蒼唯はテーブルに手をついて紫音をのぞき込んだ。
「どういうことだよ!」

『お前はどうするんだ。今なら選べる。こんな茶番、やめてしまったって構わないんだぞ』
『この世界、きれいごとだけじゃ生きていけないぞ』
 それとも、あんな言葉を掛けて「もらえた」と思ったのは、蒼唯の気のせいだったのだろうか?
「紫音!」
 感情のままに叫ぶと、カメラの視線がこちらを向いた気配がした。頬にゆるりと汗が伝うのは、スポットライトの光が熱いからだけではないだろう。

 紫音。あの夜言っていたこととまるで違うじゃないか。あれは嘘だったのか。それとも、あのときから「円卓」の心理戦は始まっていたのか?
 蒼唯は迷う口をぱくぱくさせると、ようやく、やっとのことで言葉を絞り出した。
「紫音は、……じ、辞退するって言ったじゃないか! なんでいきなり俺にそんなこと――!」
 せっかく助けてやったのに、という言葉が喉元まで出てきたが、すんでの所で飲み込む。そんなこと、思ってても口に出しちゃいけない。代わりに蒼唯は何度も机を叩いた。悔しかったし、裏切られた気持ちだった。
 そんな蒼唯を、冷ややかな目で見つめる一対の目がある。
 金城だ。金城が、試すような目で見ている。蒼唯はこわくてそちらを見ることが出来なかった。
 飛んでくる視線を迎え撃つ勇気がない。頬に突き刺さってくる二人分の視線を跳ね返す勇気が、蒼唯にはない。だから叫ぶしかなかった。
「違う、俺はジョーカーじゃない! 何も知らない! プロデューサーとだってなんにもないから!」
「ボクもジョーカーじゃない」
 紫音はうつむいて、静かに拳を握り、それを円卓の上に上げた。
「プロデューサーが――父さんが、実の息子だからってボクを認めるような人間だったら」
 カメラがじっと紫音を見つめる。
「とっくの昔にボクはジョーカーだったはずだ。違う? 身内のコネでいくらでもいいように出来たはずだ」
 紫音の目には静かな涙が光っていた。
「もしボクがジョーカーだったらどんなによかったか。どんなに」
「し、紫音……」
「ただ存在するだけで愛される存在であればよかったのにね。兄貴みたいに。兄貴みたいに、……ボクが兄貴だったらよかった」

 紫音の整った目から次々と透明な涙が流れる。カメラはそれを見逃すまいと、一瞬でも取り逃すまいと、紫音を凝視した。
「は、お涙ちょうだいかよ」と金城がため息をつく。「これだからお子ちゃまは――」
 言いつつ、金城は遠くを見るような目をした。蒼唯は意外に思った。
 もっと盛大に揶揄うと思ったのに。
「こういうの苦手なんだよなぁ~」
 頭の後ろで手を組んだ金城はそれっきり静かになった。

「ボクはジョーカーじゃない」
 何度も紫音は繰り返した。すべてわかりきっていて、自傷を繰り返すかのように。
「ボクは、ジョーカーじゃない」
 涙を拭う手つきが幼く見える。そういえば、紫音は十五歳だった。大人びた振る舞いや落ち着いた声音からあまり感じなかったけれど、彼はまだ中学生だ。
「紫音」
 緋山が口を開く。「わかった。もういい」
「緋山さん」
 蒼唯はことの成り行きを見守るしかなかった。
 緋山は腕を伸ばして、紫音の高い位置にある頭をゆっくり撫でた。
「もういい、紫音」

「……兄貴」
 途端に、紫音が泣き崩れた。
「兄貴……ッ」



 兄は父さんの自慢の息子で、ボクの自慢の兄だった。ボクは兄のことが大好きだった。兄は生きていたら、もし事故にさえ遭わなければ、今二十四歳のはずだった。

「実はさ、俺、今二十四歳なんだ。応募年齢ギリギリ。笑えるだろ?」
 緋山がそう明かしたとき、ボクの中で封印していた何かが動いた。それは失ってしまった兄への気持ちだったかもしれないし、兄がもし生きていたらこんなふうなんだろうか、といった思考実験でもあった。
「紫音ちゃんはかわいげがねえな~。もっと笑えよ、ほーらニコニコ~」
「ふるはい」
 金城に頬をつままれてちょっかいを掛けられている時も。
「紫音、歌のコツを教えてほしいんだけど」
 蒼唯にレッスンを乞われる時も。
 緋山は隅々に目を配っていた。そして決まってこう言った。
「お前は若くて才能があっていいな。俺と違って華もある」

 緋山がアイドルになりたがっていたのは、よく分かっていた。ボクはアイドルになんかなりたくなかったから、余計よく分かった。
 ボクがここにいるのは、父さんに見てほしいから。ただそれだけ。アイドルなんか興味ない。本当は、ただ、父さんに。
 父さんに、「紫音」として見てほしかった。

 緋山に頭を撫でられて、ボクは三年ぶりに大声で泣いた。金城の奴はドン引きしてたし、蒼唯はどうしていいか分からなかったみたいだけど。ボクは兄が死んだあの日からずっと泣けずにいたんだ。

 だから緋山。すごく身勝手な気持ちだけど、お前がジョーカーだったら良いなと思ってる。お前が勝ち残れば良いなと思ってる。ボクは、お前のこと応援するから。