それは長く続いた夏日の合間の、珍しい雨だった。
蒼唯は休憩室の窓の外についた雨粒を見つめ、それからゆっくりと伸びをした。ダンスレッスン後の疲労と少しのけだるさに拍車を掛けるような雨。すらりと背の高い紫音が隣に立ち、ぼうっと外を見た。
「雨だね」
歌うことに長けた喉からこぼれる少年の美声に、ただ頷く。
「うん、雨だ」
でも本当は少しだけ、雨が有り難かった。蒼唯の中の、乾ききった焦燥をごまかせるような気がして。
そこへ絡みついてくる長い腕。蒼唯はすかさず身体に力を込める。不意に襲いかかってくる重みは、長い合宿生活を共にしてきたアイドル候補生の一人の、おなじみの戯れだ。
「金城、重い!」
紫音が苦言を呈すると、咎められた年上の男がにやっと視界の端で笑った。
「なに青春しちゃってんのカナ? って思ってさあ」
「特に中身のある話はしてませんよ」
「若いもんどうしで何話してたんだよ~」
「若いもんって、俺と二つしか変わんないでしょ金城さん」
「ボクとは四つ違うけどね」紫音がぼそっとつぶやく。
「若いもんには違わないだろー? なあなあ、お兄ちゃんに教えてよ」
蒼唯は金城にされるがまま、紫音はその手を振り払う。金城はそれぞれの反応を楽しむように目を細めた。
「それを言われると俺はおじさんになるんだが?」
遅れて休憩室へとやってきた緋山が半ば呆れたように言う。金城は姿勢を正して緋山に向き直った。
「お疲れ様です! 緋山さん」
最年長の緋山は確か二十四歳だった気がする。このアイドルオーディション番組「I:CON」の応募上限年齢ギリギリなのだと笑っていた。でも、人一倍アイドルへの思い入れは、強い。
『これがラストチャンスだ。手は抜きません。大人げないと言われようと、俺は勝つ』
カメラの前でそう語っていた緋山の言葉に嘘はないと思う。蒼唯は緋山のそういうところを尊敬していた。
都内某所。短くて三日、長くて一ヶ月の撮影生活。次々に脱落を宣告されていく候補生たち。誰かの涙と汗の跡に立つ――その中で蒼唯たち四人は、ファイナリストとして名前を連ねることになった。
清水蒼唯、十七歳。男子高校生。
藤崎紫音、十五歳。男子中学生。
金城煌牙、十九歳。専門大学生。
緋山旭、二十四歳、アイドル志望のフリーター。
「最初は五十三人もいたのにな」と金城が言う。緋山はタオルで汗を拭いながら、ため息交じりの声でぴしゃりと言い放つ。
「最初から言われていただろう。残るのは一人だけ、デビューするのは一人だけって」
「緋山が言いたいのは」紫音が言葉を引き継いだ。「この中で三人脱落するんだから、仲良しこよししてる場合じゃないってことでしょ」
「でも、まあ、何にせよ仲良くやった方が良いだろ」と蒼唯は紫音をたしなめた。
「同じ釜のメシを食った仲だしな!」と金城が続ける。蒼唯は大きく頷いた。
「競い合う相手だけど、チームでもあるんだ。ここまで勝ち残ってきた者同士、頑張ろうよ」
「……まあ、そうだな」
緋山が頷く。蒼唯はほっとした。
休憩室の隅には小型のカメラと集音性の高いマイクが仕掛けられていて、蒼唯たちの挙動を一挙手一投足、見守っている。
♡ ♠ ♢ ♣
アイドル候補生四人がDに呼び出されたのは夕飯の直後だった。望月Dがカメラの画角の外に立ち、四人を見つめる。無機質な黒いレンズが、蒼唯や紫音や、金城、そして緋山を順繰りに映し出した。
「なんですか、話って」
金城が声を上げる。こういうとき、決まって話を主導するのは金城だ。
「重要な発表があってキミたちをここに呼んだんだ。倒れないで聞いてくれよ」
望月Dはつとめて明るい声を出しているふうだった。蒼唯はイヤな予感がした。直感と言い換えても良かった。そしてそれは、イヤだと思えば思うほど、よく当たるのだ。
「このオーディションには、『ジョーカー』がいる」
「ジョーカー?」
声を上げたのは緋山だった。「なんですかそれは」
「番組側で用意した呼称だ。ジョーカー。すでにアイドルになることを約束された存在のことだ」
ジョーカー。すでにアイドルになることを約束された存在……?
蒼唯は何度もその言葉を反芻した。瞬時に、何回も。
「それって、つまり」
答えを導き出す蒼唯の声は乾いていた。
「勝負はその、もう、決まってて……つまりこれは、今までのは全部、『やらせ』……ってことですか」
望月Dは何も言わなかった。それが答えだと、蒼唯は悟った。悟った瞬間、足下に穴が開いたかのような絶望が押し寄せてきた。
それはみんな同じだったらしい。直情的な緋山が彼につかみかかろうとするのを、紫音が身を挺して止める。
「だめだ、緋山、カメラの前だ! 落ち着きなよ!」
「どけ紫音!」
「だめだ!」
「要するに、俺たちの中にジョーカーとやらがすでにいると。そいつはもうアイドルの切符をつかんでると。なるほど」金城は普段にない冷静な口調でそうつぶやくと、口角をつり上げた。「……おもしれえ展開になったじゃん」
蒼唯の中では混乱が起きていた。やらせ? 五十三人から四人に減るまで何度も試練を乗り越えてきた。それが、やらせだった? この四人の中に、アイドルデビューを約束されたジョーカーがいる。
その「ジョーカー」とは誰だ?
蒼唯は順番に他の三人の様子を窺った。怒り冷めやらぬ緋山。沈黙する紫音、そしてひとり不気味に笑っている金城。カメラは回り続けており、蒼唯を含めた四人の様子を無機質に映している。
この画も、番組に使うのだろうか? 蒼唯はおそろしくなり、小さくかぶりをふった。
「わ、笑えません。今までの努力が、うそになったみたいで……!」
蒼唯は震える声をふるいたたせた。
「今まで何のために戦ってきたのか分かりません! 何のために、この四週間……!」
「だから、キミたちには話し合いをしてもらう。ジョーカーは誰なのか。そしてこの出来レースがイヤなのなら、この中からジョーカーを追放してもらう」
望月Dは静かに答えた。そこには、四人がけの円卓がすでに用意されていた。
「円卓上では良い子でいなくてもいいよ。思い切り語り合うといい。明日の朝、カメラを回す。それまでに決めておいてくれ。……自分の進退を」
それを聞いて、びくりと紫音が身体を震わせた。金城がすかさず猫なで声を出す。
「どうしたの紫音ちゃん。怖じ気づいちゃった?」
「違う」
見たことのないほど冷たい眼光が金城を睨む。
「お前には関係ない」
そして、風のように走り去ってしまう。慌ててカメラを持ったスタッフが後を追う。
「おお、こわいこわい」
金城が肩をすくめてみせる。本当にそう思っているとは思えなかった。
「……ちょっと、夜風を浴びてくる」
緋山がそう言ってふらふらと外へ出て行く。カメラ隊が当然のようにそれに続く。
一人にすらなれない。こんな状況で、蒼唯はどうしていいか分からなかった。
金城と二人きりの部屋は以前に比べて重苦しく、目に見えないプレッシャーを感じた。カメラの存在など忘れるほど、……自分の良さをカメラ越しに見ている視聴者にむけてアピールできるほど、元気がなかった。
しかし金城はそうではないらしい。
「ジョーカー、ね」
金城はやわらかく伸びをしながらこちらを見た。
「蒼唯は誰がジョーカーだと思う?」
「だれが、って」
まるで明日のトレーニングの内容を尋ねるかのような気軽さだった。金城は微笑みながら、口角を上げる。目が笑っていない。
「ま、仮に蒼唯がジョーカーだとしても――言わないよね。俺もその立場だったら? なんも言わないし?」
「……どういう意味ですか」
「そのまんまの意味だよ。なに、俺のこと疑ってんの」
疑ってる、と蒼唯は思った。誰がジョーカーなのか。少なくとも自分はジョーカーではない。順当に書類審査を通り、番組内の試練を乗り越えてここまで来た自負がある。自分は違う。何も知らされていないし、何もしていない。
でも、金城はどうだろう?
「これだけ教えといてやる。――俺はおまえを疑ってるよ、蒼唯」
「……そうですか」
カメラ写りを意識したリアクションとしては最低の返しをした直後、
「蒼唯! ちょっといいか」
部屋に飛び込んできた紫音が会話を切るように蒼唯を手招く。
「連れション、いくぞ」
紫音の優美な声からは想像もつかない言葉が飛び出てきて、この非常事態なのに蒼唯は脱力した。金城の鋭い視線がぐさりと蒼唯を刺したかと思うと、不意に遠のく。金城は蒼唯を揶揄うのをやめたらしかった。
救われた。
「連れションて……」
「行くぞ。早く」
ごく当然のようにカメラ隊がついてこようとするのを、紫音がじっと睨んで制止する。
「トイレの中まで覗いてなにする気だよ。ただの連れションだ。よくあるだろ」
カメラ隊はそれを聞いて素直に従った。流石にトイレまで録るのはやり過ぎだと思ったのだろう。誰もついてこないことを注意深く確認しながら、紫音は蒼唯を連れてトイレへ向かう。一瞬、本当についてきて良かったのかという考えが蒼唯の脳裏をかすめた。
いやちがう、自分は紫音を疑ってなどいない。あのDの言葉に揺さぶられているだけだ。
明かりのついた廊下をゆく。網戸を残して開け放たれた窓から少し雨の匂いがする。雨だ。
紫音は男子トイレに入ると注意深くその扉を閉め、そこへもたれて耳をつけた。
「つけられている気配はない」
「……連れションはうそかよ」
「当たり前でしょ。連れションなんかイヤだよ」
紫音は振り返り、蒼唯に向かってこう切り出した。
「ボクは明日、このオーディションを辞退する。お前はどうする」
「えっ」
「このまま、クソ意地の悪いショウに出るつもり。ジョーカーを探して追放するなんて、これまで築いてきた関係をぶち壊して楽しんでるだけだ。吐き気がする。こんなのは正当なオーディションじゃない」
「いや、……その」
紫音は涼しげなまなざしでこちらを窺っている。蒼唯は素直に自分の気持ちを打ち明けることにした。カメラのないここでなら、紫音になら、打ち明けてもいい気がしたからだ。
「どうして辞退なんかするんだ。ここまで一緒に頑張ってきたじゃないか。最後まで、一緒に頑張ろうよ、紫音!」
「ボクにはボクの事情がある。もうこれ以上茶番に付き合っていられない」
紫音は早口で言い切った。そこに立ち入れないものを感じた蒼唯は、そのまま口をつぐんだ。
「……そうか」
「で。お前はどうするんだ。今なら選べる。こんな茶番、やめてしまったって構わないんだぞ」
蒼唯はしばらく考えた。自分がこの状況で何をしたいか。
「ここまで来たら、夢を見たくなったんだ。俺にもやれる。できることがある。……そう思いたい、から」
この「I:CON」で、沢山の人に出会った。沢山の夢をもらえた。てっぺんで見る景色はどれほど美しいだろう。蒼唯は、すぐそこまで来ている頂上を見ずに下りることはできなかった。
「俺はやっぱり、アイドルになりたいよ。なりたい」
紫音は沈黙の後、ゆるくため息をついた。十五歳らしからぬ、大人びたため息だった。
「なら、無理には止めない。でも、覚えておけ。この世界、『きれいごと』だけじゃ、生きていけないぞ」
紫音は何か知っている風だったけれど、蒼唯は敢えて聞かずにおいた。年下の優秀な候補生との「連れション」はこれで最初で最後になるだろうと自覚しながら、蒼唯は紫音の背中をぼんやりと見送る。
おのおのに与えられた個室へ戻る間際、紫音は振り返り、蒼唯の目を見据えた。
「本当にお前は、ジョーカーじゃないのか?」
「え?」
「いや、何でもない。悪い。……おやすみ」
目の前で扉が閉まる。紫音はもう寝るんだろう。
だが、蒼唯の夜はまだまだ長そうだった。
♡ ♠ ♢ ♣
全てを明るみに晒すような八月の陽光。無機質なブラインドがそれを次から次へと遮っていく。スタッフの手によって次々整えられていく断罪の準備を、蒼唯はじっと見つめていた。
換気は行われなかった。どこかよどんだその部屋の、昨晩の名残そのままの空気が蒼唯の肺腑へと染み渡った。部屋には撮影機材と円卓が置かれ、四つの席は変わらず鎮座していた。そこだけ異質な空間だった。
昨日と違うのは、椅子に四人のイメージカラーである青、黄、赤、紫の掛け布がしてある点だ。その方がわかりやすくなるとでも思ったのだろうか。青の向かいには赤い布がかかっている。緋山の真向かいか。
席まで決められて。まるで配役でもされているみたいな──。
準備を終えたスタッフが退室していく。蒼唯を映すカメラマンは控えたままだ。蒼唯は寝不足の頭のおくに痛みを覚えながら、ゆっくりと一歩、また一歩と円卓に近づいた。無機質さを演出する円卓は冷たいプラスチック製だ。遮光した部屋は一つの箱に似て、これから蒼唯たちを閉じ込めるために口を開けている。
「準備は出来たかな、蒼唯くん」
蒼唯は身をすくめた。スタッフはブラインドを閉めて退室したから、もう自分と撮影陣以外誰もいないと思っていた。知らず誰かがいたことに、瞬間的ながら恐怖を覚えたからだった。
いつの間に?
Pが蒼唯のすぐ後ろに立ち、顔をのぞき込んでくる。白髪交じりの髪に、紫色のメッシュを差したロマンスグレイのPは、どこか食えない雰囲気を漂わせている。若作りだが、よくよく見ると肌に年齢が刻まれているのが分かる、蒼唯たちのPはそういう人だった。
「準備……なんか、できません。ジョーカーを断罪しろだなんて。だって、誰がジョーカーだったとしても、一ヶ月近く一緒に過ごした仲間ですよ」
「……選ばれるのは一人だけだよ、蒼唯くん」
Pの体躯はひょろりと縦に長い。蒼唯は彼を見るたびに小さい頃読んだ「あしながおじさん」を思い出すものだったが――こうしてみると、平均身長的にはさほど小さくもない蒼唯が、顎を上げて見上げないと視線が遇わなかった。
Pは蒼唯の肩をつかみ、言い聞かせるようにゆっくり首を傾けた。
「ジョーカーがいようがいまいが、たった一人だけがアイドルの輝きを手にできる。それは変わらない」
「あの、プロデューサー?」
冷淡な声が響いたかと思うと、入り口に紫音が立っている。腕組みをして、剣呑な雰囲気を宿した瞳がきっとPを見上げた。
「見ましたよ。セクシャルハラスメントでは?」
「これはひとつのスキンシップだよ。ここにいたのが蒼唯くんでなくても、例えばキミでも、同じことをしたさ」
「気ッ持ち悪い」
紫音はそう言い捨てて目を伏せた。
年若い紫音は誰に対しても、それがたとえPに対してであっても、歯に衣着せぬ発言を繰り返すことが多かった。ここまでの番組の放映ぶんの反応を見ても、この紫音の年上に対する態度は感想を半分に分けていた。「クールだ」と賞賛する声と、「生意気だ」と咎める声に。
「し、紫音、カメラカメラ」
「別に聞かれても構うものか」
フォローを入れたつもりがはねのけられて、蒼唯はひそかにひやひやした。紫音は昨日辞退を宣言していた。まだこの場にいるということは、円卓には参加するということなのだろう。
「――紫音は眠れた? 俺は眠れなかった」
「そりゃ、ぐっすり寝たよ」
皮肉っぽくいい、チラリとPを見やる。「プロデューサーともあろう人が、収録前のスタジオに何の用で?」
「ちょっと紫音」
「候補生たちに会いに来たんだよ。キミも含めてね、紫音」
「……きしょ」
「紫音! それは言い過ぎ……!」
Pが笑い、大ぶりに手を叩く。
「良い子のフリはやめたのかい、紫音?」
「もうやめると決めたのに、偽る必要があるとお思いで?」
紫音は冷たい目でPを見上げた。
「プロデューサー。あなたが円卓につけというからここにいるまでですよ、ボクは」
「ふふ」
意味深な会話を交わして、Pはそのままきびすを返した。
「緋山くんと金城くんはまだ準備が出来ていないのかな。個別に伺おうか」
のっぽの痩躯が扉を開けて出て行くのを見て、紫音が小さく言い捨てる。
「やっと行った」
「プロデューサー相手にあんな言葉遣い、ヤバいよ」
「媚びる必要なんかないだろ。今更だ」
紫音は紫色の布を掛けられた椅子を目の当たりにして顔をしかめた。
「うわ。金城の向かいかよ。イヤすぎる」
「どこに座っても同じだよ――」
蒼唯は青の布を掛けられた椅子にふれた。布にはびろうどのような光沢があるけれど、安物だ。蒼唯にはこの布が自分自身のように思えた。「アイドル候補生」という肩書きでそれらしくきらめかせたただの人間。
「――これから俺たち、言葉でやりあうんだから」
「ボクはともかく、蒼唯たちはそうかもね」
紫音はどっかりと椅子に腰を下ろした。しかし蒼唯は、紫音のように円卓につくことが出来なかった。
仕立て上げられた舞台。後は役者が揃うのを待つだけの舞台。だけどそれは誰も望んでない、断罪のためのステージだ。アイドルになるためにここまで走ってきた。けれど、こんな形で他の候補者と戦うことになるなんて思ってもみなかった。戦うとしたら正々堂々、実力で。思い描いていたトップへの道筋が儚く崩れ落ちていく。
『ジョーカー』。
誰がジョーカーなのだろう。誰がジョーカーであってもおかしくない。蒼唯はちらりと紫音を見た。紫音とPの、先ほどの意味深な会話を思い返しながら、蒼唯はぐっと奥歯を噛んだ。鈍い痛みが明確に瞼の裏を突き抜けていった。一瞬でも――紫音がジョーカーだったら、こんな話し合いをもうけなくてもいいんじゃないかと考えた自分が憎たらしい。ジョーカーが自ら辞退すれば、これ以上イヤな探り合いをしなくてもいいと、緋山や金城と上手く関係を築き直せるんじゃないかと、一瞬でも考えた自分がひどく醜く思えた。
その時、ようやく扉が開いた。先に顔を出したのはいかめしいオーラを纏った緋山だ。今までの合宿で、苦しい場面は何度もあった。けれどこの緋山がこんな険しい顔をしたのは一度も見たことがない。爽やかな好青年の外側が、すっかりそげ落ちて、そこに残っているのは闘争心のみだ。
そして、不気味に微笑む金城。こちらは緋山とは逆で、全く何一つ変わっていないのが不気味だった。蒼唯ですら眠れずに一晩考え抜いたのに、金城の顔つきにも身振りにも、そうした葛藤のようなものはいっさい見られなかった。まるで昨日の続きをそのまま続けるとでもいうかのように、金城は軽やかに登場した。
「おはようございます!」
蒼唯はその挨拶に返事できなかった。しかし金城は気にした風もなく、ゆっくりと歩みを進めると、蒼唯と紫音に雪崩れるようにその肩を抱いた。
「昨日ぶりだな若いの! 調子はどうだ! ん?」
蒼唯は言葉を選びかねて、金城の目を見つめ返した。くしゃっと笑みの形にゆがめられた瞳が、どこまでも冷酷に蒼唯を見つめ返していた。
「いや、……ちょっと寝不足ですね」
「うっとうしい、金城」
紫音が良くも悪くも普段通りなのが、かろうじて蒼唯の心をつなぎ止めていた。
金城はぱっと蒼唯から手を引くと、紫音に顔を向けた。
「紫音ちゃん、もう席に着いてんの。早いね――」
揶揄いの響きを見せた金城の言葉を遮るように、緋山が赤の椅子に腰掛ける。すっと席に着いた緋山は、トランプのキングのように険しい顔をしていた。
「おっと、緋山さん、やる気だなぁ。俺も負けてられないって言うか……」
上滑りする金城の言葉を跳ね返し、緋山は肘をついて向かいの青い椅子を睨んだ。
「……生きるか死ぬかだ」
蒼唯は瞬きをした。緋山は空中を睨んだまま、言い放った。
「俺にとっては生きるか死ぬかだ。俺を断罪するなら殺すつもりで来い」
蒼唯の指先から、ぞわりと駆け上がってくるものがあった。その時は、この鳥肌の意味が分からなかった。
「……そっか」
金城が伸ばしていた背筋を丸めた。
「エンターテインメントってのは、こうじゃなくっちゃねぇ! ふふっ」
勢いよく黄色い椅子に腰掛ける金城。手足を組み、背もたれにどっかりと身体を預ける。紫音がそれを見て、横座りだった姿勢を向かい合うように直した。
蒼唯だけが、そこに残された。三人のそれぞれの視線が蒼唯を射貫く。そして、カメラのそれぞれが、あちこちから蒼唯を映す。
逃げられない。
もう逃げられない。
蒼唯は意を決して、円卓へと足をむけた。
蒼唯は休憩室の窓の外についた雨粒を見つめ、それからゆっくりと伸びをした。ダンスレッスン後の疲労と少しのけだるさに拍車を掛けるような雨。すらりと背の高い紫音が隣に立ち、ぼうっと外を見た。
「雨だね」
歌うことに長けた喉からこぼれる少年の美声に、ただ頷く。
「うん、雨だ」
でも本当は少しだけ、雨が有り難かった。蒼唯の中の、乾ききった焦燥をごまかせるような気がして。
そこへ絡みついてくる長い腕。蒼唯はすかさず身体に力を込める。不意に襲いかかってくる重みは、長い合宿生活を共にしてきたアイドル候補生の一人の、おなじみの戯れだ。
「金城、重い!」
紫音が苦言を呈すると、咎められた年上の男がにやっと視界の端で笑った。
「なに青春しちゃってんのカナ? って思ってさあ」
「特に中身のある話はしてませんよ」
「若いもんどうしで何話してたんだよ~」
「若いもんって、俺と二つしか変わんないでしょ金城さん」
「ボクとは四つ違うけどね」紫音がぼそっとつぶやく。
「若いもんには違わないだろー? なあなあ、お兄ちゃんに教えてよ」
蒼唯は金城にされるがまま、紫音はその手を振り払う。金城はそれぞれの反応を楽しむように目を細めた。
「それを言われると俺はおじさんになるんだが?」
遅れて休憩室へとやってきた緋山が半ば呆れたように言う。金城は姿勢を正して緋山に向き直った。
「お疲れ様です! 緋山さん」
最年長の緋山は確か二十四歳だった気がする。このアイドルオーディション番組「I:CON」の応募上限年齢ギリギリなのだと笑っていた。でも、人一倍アイドルへの思い入れは、強い。
『これがラストチャンスだ。手は抜きません。大人げないと言われようと、俺は勝つ』
カメラの前でそう語っていた緋山の言葉に嘘はないと思う。蒼唯は緋山のそういうところを尊敬していた。
都内某所。短くて三日、長くて一ヶ月の撮影生活。次々に脱落を宣告されていく候補生たち。誰かの涙と汗の跡に立つ――その中で蒼唯たち四人は、ファイナリストとして名前を連ねることになった。
清水蒼唯、十七歳。男子高校生。
藤崎紫音、十五歳。男子中学生。
金城煌牙、十九歳。専門大学生。
緋山旭、二十四歳、アイドル志望のフリーター。
「最初は五十三人もいたのにな」と金城が言う。緋山はタオルで汗を拭いながら、ため息交じりの声でぴしゃりと言い放つ。
「最初から言われていただろう。残るのは一人だけ、デビューするのは一人だけって」
「緋山が言いたいのは」紫音が言葉を引き継いだ。「この中で三人脱落するんだから、仲良しこよししてる場合じゃないってことでしょ」
「でも、まあ、何にせよ仲良くやった方が良いだろ」と蒼唯は紫音をたしなめた。
「同じ釜のメシを食った仲だしな!」と金城が続ける。蒼唯は大きく頷いた。
「競い合う相手だけど、チームでもあるんだ。ここまで勝ち残ってきた者同士、頑張ろうよ」
「……まあ、そうだな」
緋山が頷く。蒼唯はほっとした。
休憩室の隅には小型のカメラと集音性の高いマイクが仕掛けられていて、蒼唯たちの挙動を一挙手一投足、見守っている。
♡ ♠ ♢ ♣
アイドル候補生四人がDに呼び出されたのは夕飯の直後だった。望月Dがカメラの画角の外に立ち、四人を見つめる。無機質な黒いレンズが、蒼唯や紫音や、金城、そして緋山を順繰りに映し出した。
「なんですか、話って」
金城が声を上げる。こういうとき、決まって話を主導するのは金城だ。
「重要な発表があってキミたちをここに呼んだんだ。倒れないで聞いてくれよ」
望月Dはつとめて明るい声を出しているふうだった。蒼唯はイヤな予感がした。直感と言い換えても良かった。そしてそれは、イヤだと思えば思うほど、よく当たるのだ。
「このオーディションには、『ジョーカー』がいる」
「ジョーカー?」
声を上げたのは緋山だった。「なんですかそれは」
「番組側で用意した呼称だ。ジョーカー。すでにアイドルになることを約束された存在のことだ」
ジョーカー。すでにアイドルになることを約束された存在……?
蒼唯は何度もその言葉を反芻した。瞬時に、何回も。
「それって、つまり」
答えを導き出す蒼唯の声は乾いていた。
「勝負はその、もう、決まってて……つまりこれは、今までのは全部、『やらせ』……ってことですか」
望月Dは何も言わなかった。それが答えだと、蒼唯は悟った。悟った瞬間、足下に穴が開いたかのような絶望が押し寄せてきた。
それはみんな同じだったらしい。直情的な緋山が彼につかみかかろうとするのを、紫音が身を挺して止める。
「だめだ、緋山、カメラの前だ! 落ち着きなよ!」
「どけ紫音!」
「だめだ!」
「要するに、俺たちの中にジョーカーとやらがすでにいると。そいつはもうアイドルの切符をつかんでると。なるほど」金城は普段にない冷静な口調でそうつぶやくと、口角をつり上げた。「……おもしれえ展開になったじゃん」
蒼唯の中では混乱が起きていた。やらせ? 五十三人から四人に減るまで何度も試練を乗り越えてきた。それが、やらせだった? この四人の中に、アイドルデビューを約束されたジョーカーがいる。
その「ジョーカー」とは誰だ?
蒼唯は順番に他の三人の様子を窺った。怒り冷めやらぬ緋山。沈黙する紫音、そしてひとり不気味に笑っている金城。カメラは回り続けており、蒼唯を含めた四人の様子を無機質に映している。
この画も、番組に使うのだろうか? 蒼唯はおそろしくなり、小さくかぶりをふった。
「わ、笑えません。今までの努力が、うそになったみたいで……!」
蒼唯は震える声をふるいたたせた。
「今まで何のために戦ってきたのか分かりません! 何のために、この四週間……!」
「だから、キミたちには話し合いをしてもらう。ジョーカーは誰なのか。そしてこの出来レースがイヤなのなら、この中からジョーカーを追放してもらう」
望月Dは静かに答えた。そこには、四人がけの円卓がすでに用意されていた。
「円卓上では良い子でいなくてもいいよ。思い切り語り合うといい。明日の朝、カメラを回す。それまでに決めておいてくれ。……自分の進退を」
それを聞いて、びくりと紫音が身体を震わせた。金城がすかさず猫なで声を出す。
「どうしたの紫音ちゃん。怖じ気づいちゃった?」
「違う」
見たことのないほど冷たい眼光が金城を睨む。
「お前には関係ない」
そして、風のように走り去ってしまう。慌ててカメラを持ったスタッフが後を追う。
「おお、こわいこわい」
金城が肩をすくめてみせる。本当にそう思っているとは思えなかった。
「……ちょっと、夜風を浴びてくる」
緋山がそう言ってふらふらと外へ出て行く。カメラ隊が当然のようにそれに続く。
一人にすらなれない。こんな状況で、蒼唯はどうしていいか分からなかった。
金城と二人きりの部屋は以前に比べて重苦しく、目に見えないプレッシャーを感じた。カメラの存在など忘れるほど、……自分の良さをカメラ越しに見ている視聴者にむけてアピールできるほど、元気がなかった。
しかし金城はそうではないらしい。
「ジョーカー、ね」
金城はやわらかく伸びをしながらこちらを見た。
「蒼唯は誰がジョーカーだと思う?」
「だれが、って」
まるで明日のトレーニングの内容を尋ねるかのような気軽さだった。金城は微笑みながら、口角を上げる。目が笑っていない。
「ま、仮に蒼唯がジョーカーだとしても――言わないよね。俺もその立場だったら? なんも言わないし?」
「……どういう意味ですか」
「そのまんまの意味だよ。なに、俺のこと疑ってんの」
疑ってる、と蒼唯は思った。誰がジョーカーなのか。少なくとも自分はジョーカーではない。順当に書類審査を通り、番組内の試練を乗り越えてここまで来た自負がある。自分は違う。何も知らされていないし、何もしていない。
でも、金城はどうだろう?
「これだけ教えといてやる。――俺はおまえを疑ってるよ、蒼唯」
「……そうですか」
カメラ写りを意識したリアクションとしては最低の返しをした直後、
「蒼唯! ちょっといいか」
部屋に飛び込んできた紫音が会話を切るように蒼唯を手招く。
「連れション、いくぞ」
紫音の優美な声からは想像もつかない言葉が飛び出てきて、この非常事態なのに蒼唯は脱力した。金城の鋭い視線がぐさりと蒼唯を刺したかと思うと、不意に遠のく。金城は蒼唯を揶揄うのをやめたらしかった。
救われた。
「連れションて……」
「行くぞ。早く」
ごく当然のようにカメラ隊がついてこようとするのを、紫音がじっと睨んで制止する。
「トイレの中まで覗いてなにする気だよ。ただの連れションだ。よくあるだろ」
カメラ隊はそれを聞いて素直に従った。流石にトイレまで録るのはやり過ぎだと思ったのだろう。誰もついてこないことを注意深く確認しながら、紫音は蒼唯を連れてトイレへ向かう。一瞬、本当についてきて良かったのかという考えが蒼唯の脳裏をかすめた。
いやちがう、自分は紫音を疑ってなどいない。あのDの言葉に揺さぶられているだけだ。
明かりのついた廊下をゆく。網戸を残して開け放たれた窓から少し雨の匂いがする。雨だ。
紫音は男子トイレに入ると注意深くその扉を閉め、そこへもたれて耳をつけた。
「つけられている気配はない」
「……連れションはうそかよ」
「当たり前でしょ。連れションなんかイヤだよ」
紫音は振り返り、蒼唯に向かってこう切り出した。
「ボクは明日、このオーディションを辞退する。お前はどうする」
「えっ」
「このまま、クソ意地の悪いショウに出るつもり。ジョーカーを探して追放するなんて、これまで築いてきた関係をぶち壊して楽しんでるだけだ。吐き気がする。こんなのは正当なオーディションじゃない」
「いや、……その」
紫音は涼しげなまなざしでこちらを窺っている。蒼唯は素直に自分の気持ちを打ち明けることにした。カメラのないここでなら、紫音になら、打ち明けてもいい気がしたからだ。
「どうして辞退なんかするんだ。ここまで一緒に頑張ってきたじゃないか。最後まで、一緒に頑張ろうよ、紫音!」
「ボクにはボクの事情がある。もうこれ以上茶番に付き合っていられない」
紫音は早口で言い切った。そこに立ち入れないものを感じた蒼唯は、そのまま口をつぐんだ。
「……そうか」
「で。お前はどうするんだ。今なら選べる。こんな茶番、やめてしまったって構わないんだぞ」
蒼唯はしばらく考えた。自分がこの状況で何をしたいか。
「ここまで来たら、夢を見たくなったんだ。俺にもやれる。できることがある。……そう思いたい、から」
この「I:CON」で、沢山の人に出会った。沢山の夢をもらえた。てっぺんで見る景色はどれほど美しいだろう。蒼唯は、すぐそこまで来ている頂上を見ずに下りることはできなかった。
「俺はやっぱり、アイドルになりたいよ。なりたい」
紫音は沈黙の後、ゆるくため息をついた。十五歳らしからぬ、大人びたため息だった。
「なら、無理には止めない。でも、覚えておけ。この世界、『きれいごと』だけじゃ、生きていけないぞ」
紫音は何か知っている風だったけれど、蒼唯は敢えて聞かずにおいた。年下の優秀な候補生との「連れション」はこれで最初で最後になるだろうと自覚しながら、蒼唯は紫音の背中をぼんやりと見送る。
おのおのに与えられた個室へ戻る間際、紫音は振り返り、蒼唯の目を見据えた。
「本当にお前は、ジョーカーじゃないのか?」
「え?」
「いや、何でもない。悪い。……おやすみ」
目の前で扉が閉まる。紫音はもう寝るんだろう。
だが、蒼唯の夜はまだまだ長そうだった。
♡ ♠ ♢ ♣
全てを明るみに晒すような八月の陽光。無機質なブラインドがそれを次から次へと遮っていく。スタッフの手によって次々整えられていく断罪の準備を、蒼唯はじっと見つめていた。
換気は行われなかった。どこかよどんだその部屋の、昨晩の名残そのままの空気が蒼唯の肺腑へと染み渡った。部屋には撮影機材と円卓が置かれ、四つの席は変わらず鎮座していた。そこだけ異質な空間だった。
昨日と違うのは、椅子に四人のイメージカラーである青、黄、赤、紫の掛け布がしてある点だ。その方がわかりやすくなるとでも思ったのだろうか。青の向かいには赤い布がかかっている。緋山の真向かいか。
席まで決められて。まるで配役でもされているみたいな──。
準備を終えたスタッフが退室していく。蒼唯を映すカメラマンは控えたままだ。蒼唯は寝不足の頭のおくに痛みを覚えながら、ゆっくりと一歩、また一歩と円卓に近づいた。無機質さを演出する円卓は冷たいプラスチック製だ。遮光した部屋は一つの箱に似て、これから蒼唯たちを閉じ込めるために口を開けている。
「準備は出来たかな、蒼唯くん」
蒼唯は身をすくめた。スタッフはブラインドを閉めて退室したから、もう自分と撮影陣以外誰もいないと思っていた。知らず誰かがいたことに、瞬間的ながら恐怖を覚えたからだった。
いつの間に?
Pが蒼唯のすぐ後ろに立ち、顔をのぞき込んでくる。白髪交じりの髪に、紫色のメッシュを差したロマンスグレイのPは、どこか食えない雰囲気を漂わせている。若作りだが、よくよく見ると肌に年齢が刻まれているのが分かる、蒼唯たちのPはそういう人だった。
「準備……なんか、できません。ジョーカーを断罪しろだなんて。だって、誰がジョーカーだったとしても、一ヶ月近く一緒に過ごした仲間ですよ」
「……選ばれるのは一人だけだよ、蒼唯くん」
Pの体躯はひょろりと縦に長い。蒼唯は彼を見るたびに小さい頃読んだ「あしながおじさん」を思い出すものだったが――こうしてみると、平均身長的にはさほど小さくもない蒼唯が、顎を上げて見上げないと視線が遇わなかった。
Pは蒼唯の肩をつかみ、言い聞かせるようにゆっくり首を傾けた。
「ジョーカーがいようがいまいが、たった一人だけがアイドルの輝きを手にできる。それは変わらない」
「あの、プロデューサー?」
冷淡な声が響いたかと思うと、入り口に紫音が立っている。腕組みをして、剣呑な雰囲気を宿した瞳がきっとPを見上げた。
「見ましたよ。セクシャルハラスメントでは?」
「これはひとつのスキンシップだよ。ここにいたのが蒼唯くんでなくても、例えばキミでも、同じことをしたさ」
「気ッ持ち悪い」
紫音はそう言い捨てて目を伏せた。
年若い紫音は誰に対しても、それがたとえPに対してであっても、歯に衣着せぬ発言を繰り返すことが多かった。ここまでの番組の放映ぶんの反応を見ても、この紫音の年上に対する態度は感想を半分に分けていた。「クールだ」と賞賛する声と、「生意気だ」と咎める声に。
「し、紫音、カメラカメラ」
「別に聞かれても構うものか」
フォローを入れたつもりがはねのけられて、蒼唯はひそかにひやひやした。紫音は昨日辞退を宣言していた。まだこの場にいるということは、円卓には参加するということなのだろう。
「――紫音は眠れた? 俺は眠れなかった」
「そりゃ、ぐっすり寝たよ」
皮肉っぽくいい、チラリとPを見やる。「プロデューサーともあろう人が、収録前のスタジオに何の用で?」
「ちょっと紫音」
「候補生たちに会いに来たんだよ。キミも含めてね、紫音」
「……きしょ」
「紫音! それは言い過ぎ……!」
Pが笑い、大ぶりに手を叩く。
「良い子のフリはやめたのかい、紫音?」
「もうやめると決めたのに、偽る必要があるとお思いで?」
紫音は冷たい目でPを見上げた。
「プロデューサー。あなたが円卓につけというからここにいるまでですよ、ボクは」
「ふふ」
意味深な会話を交わして、Pはそのままきびすを返した。
「緋山くんと金城くんはまだ準備が出来ていないのかな。個別に伺おうか」
のっぽの痩躯が扉を開けて出て行くのを見て、紫音が小さく言い捨てる。
「やっと行った」
「プロデューサー相手にあんな言葉遣い、ヤバいよ」
「媚びる必要なんかないだろ。今更だ」
紫音は紫色の布を掛けられた椅子を目の当たりにして顔をしかめた。
「うわ。金城の向かいかよ。イヤすぎる」
「どこに座っても同じだよ――」
蒼唯は青の布を掛けられた椅子にふれた。布にはびろうどのような光沢があるけれど、安物だ。蒼唯にはこの布が自分自身のように思えた。「アイドル候補生」という肩書きでそれらしくきらめかせたただの人間。
「――これから俺たち、言葉でやりあうんだから」
「ボクはともかく、蒼唯たちはそうかもね」
紫音はどっかりと椅子に腰を下ろした。しかし蒼唯は、紫音のように円卓につくことが出来なかった。
仕立て上げられた舞台。後は役者が揃うのを待つだけの舞台。だけどそれは誰も望んでない、断罪のためのステージだ。アイドルになるためにここまで走ってきた。けれど、こんな形で他の候補者と戦うことになるなんて思ってもみなかった。戦うとしたら正々堂々、実力で。思い描いていたトップへの道筋が儚く崩れ落ちていく。
『ジョーカー』。
誰がジョーカーなのだろう。誰がジョーカーであってもおかしくない。蒼唯はちらりと紫音を見た。紫音とPの、先ほどの意味深な会話を思い返しながら、蒼唯はぐっと奥歯を噛んだ。鈍い痛みが明確に瞼の裏を突き抜けていった。一瞬でも――紫音がジョーカーだったら、こんな話し合いをもうけなくてもいいんじゃないかと考えた自分が憎たらしい。ジョーカーが自ら辞退すれば、これ以上イヤな探り合いをしなくてもいいと、緋山や金城と上手く関係を築き直せるんじゃないかと、一瞬でも考えた自分がひどく醜く思えた。
その時、ようやく扉が開いた。先に顔を出したのはいかめしいオーラを纏った緋山だ。今までの合宿で、苦しい場面は何度もあった。けれどこの緋山がこんな険しい顔をしたのは一度も見たことがない。爽やかな好青年の外側が、すっかりそげ落ちて、そこに残っているのは闘争心のみだ。
そして、不気味に微笑む金城。こちらは緋山とは逆で、全く何一つ変わっていないのが不気味だった。蒼唯ですら眠れずに一晩考え抜いたのに、金城の顔つきにも身振りにも、そうした葛藤のようなものはいっさい見られなかった。まるで昨日の続きをそのまま続けるとでもいうかのように、金城は軽やかに登場した。
「おはようございます!」
蒼唯はその挨拶に返事できなかった。しかし金城は気にした風もなく、ゆっくりと歩みを進めると、蒼唯と紫音に雪崩れるようにその肩を抱いた。
「昨日ぶりだな若いの! 調子はどうだ! ん?」
蒼唯は言葉を選びかねて、金城の目を見つめ返した。くしゃっと笑みの形にゆがめられた瞳が、どこまでも冷酷に蒼唯を見つめ返していた。
「いや、……ちょっと寝不足ですね」
「うっとうしい、金城」
紫音が良くも悪くも普段通りなのが、かろうじて蒼唯の心をつなぎ止めていた。
金城はぱっと蒼唯から手を引くと、紫音に顔を向けた。
「紫音ちゃん、もう席に着いてんの。早いね――」
揶揄いの響きを見せた金城の言葉を遮るように、緋山が赤の椅子に腰掛ける。すっと席に着いた緋山は、トランプのキングのように険しい顔をしていた。
「おっと、緋山さん、やる気だなぁ。俺も負けてられないって言うか……」
上滑りする金城の言葉を跳ね返し、緋山は肘をついて向かいの青い椅子を睨んだ。
「……生きるか死ぬかだ」
蒼唯は瞬きをした。緋山は空中を睨んだまま、言い放った。
「俺にとっては生きるか死ぬかだ。俺を断罪するなら殺すつもりで来い」
蒼唯の指先から、ぞわりと駆け上がってくるものがあった。その時は、この鳥肌の意味が分からなかった。
「……そっか」
金城が伸ばしていた背筋を丸めた。
「エンターテインメントってのは、こうじゃなくっちゃねぇ! ふふっ」
勢いよく黄色い椅子に腰掛ける金城。手足を組み、背もたれにどっかりと身体を預ける。紫音がそれを見て、横座りだった姿勢を向かい合うように直した。
蒼唯だけが、そこに残された。三人のそれぞれの視線が蒼唯を射貫く。そして、カメラのそれぞれが、あちこちから蒼唯を映す。
逃げられない。
もう逃げられない。
蒼唯は意を決して、円卓へと足をむけた。



