ようじside
台風がくるらしい。リビングのテレビに映るのはヘルメットをかぶったリポーター、風と雨の状況を中継している。どれだけ危険な状況か知らせてくれるのはありがたいけどリポーターやテレビ局のスタッフが一番危険なんじゃないのか。定点お天気カメラからの映像だけで充分だと思うけど、現場から臨場感みたいなものを伝えないと視聴率が取れないのだろうか。と、いつも思う。コーヒーを飲みながら母さんがチャンネルを変えた。パッと画面が切り替わったと思ったら農家のおじさんが台風対策をしている映像が映る。農作物の心配をしているインタビューが流れた。朝、登校するときに畑仕事をしているおじいさんやおばあさんがよく声をかけてくれる。どこのだれかはわからない。この新興住宅地の住民ではなさそうだけれど。小学生の時に田畑の用水路でしゅんと一緒にザリガニ取りや虫取りをしていた。その時から顔見知りではあるが、どこのだれかはわからない。おじいさんおばあさんの畑は大丈夫だろうか。この大雨の中、台風対策をしているのだろうか。
時々、考えてもしかたのないことをぐるぐると巡らせてしまう。情緒不安定。不意に思考回路を遮断したのはリビングに響くインターホンの音だった。「こんな時にだれ?」と母さんが億劫そうにソファーから立ち上がる。「まあ! しゅんちゃん!」インターホンのモニターをみた母さんが驚きの声を上げて急いで玄関に向かった。俺も寝ころんでいた身体を起こしモニターを確認する。そこには見覚えのあるパーカーのフードをかぶったしゅんがいた。ほどなくして、しゅんの低い声と母さんの高い声が玄関から聞こえてきた。「ようじー! タオルもってきてー!」洗面所から来客用の真っ白なタオルをもって玄関に行くと、頭からバケツの水をかぶったみたいに全身びしょ濡れのしゅんが突っ立っていた。
「びしょ濡れじゃん! なにしてんの?」
「水もしたたるいい男になろうと思って」
「はぁ?」
冗談を言うしゅんのフードを取り、髪を拭いてやる。
「お風呂沸かしてくるわね。しゅんちゃん入っていってね」
「え、おばさんいいよ。すぐ帰るから」
「ダメよ。風邪ひいちゃうでしょ」
母さんはバタバタと浴室に向かった。
「悪いから帰るわ。おばさんにごめんって言っといて」
「いーじゃん、入っていけば」
「いやいや、母さんにどやされる」
「おまえが来ると母さん機嫌いいんだよね。嬉しいみたい」
口には出さないけど、母さんは俺に兄弟がいないことを申し訳なく思っている。小さい頃俺としゅんが仲良く遊んでいると兄弟みたいねと嬉しそうにして、俺にするのと同じようにしゅんの世話も焼いていた。今はもう、兄弟みたいな関係ではなくなったことに少し罪悪感がある。
「……ようちゃんは?」
「うん?」
「俺が来て嬉しい?」
「……そりゃあ、まぁ、ね」
「なにその間は」
二人きりではない空間だと気恥ずかしくて素直になれない。かと言って二人きりでも照れてしまうけど。
「で、なにしにきたの?」
しゅんは無言でシューズボックスの上を指差した。そこには回覧板が置いてある。
「こんなの明日でもよかったのに」
「昨日持っていけって言われてたの忘れててさ」
「だからって台風の日にわざわざ来なくても」
「放置してると母さんキレて回覧板係を夏海にやらせようとするから、そこはやっぱ死守しないと」
「どんだけやりたいんだよ回覧板係」
「……そりゃあ、まぁ、ねぇ」
ザーッとシャワーの流れる音がする。自分の家の浴室なのにこのすりガラスの向こうにしゅんがいると思うとドキドキする。
って、なんでしゅんにドキドキするんだよ。何度も泊まりに来てるしお風呂だって一緒に入ったことあるし……小学生の時だけど。
「しゅん、着替え置いておくから」
「おー、ありがとう」
替えの下着とスウェットを脱衣所に置くと、すぐに階段を上がり自室に戻った。ボスッっとベッドにうつぶせに寝転がる。落ち着かない。しんと静まり返った部屋では、雨と風が雨戸をガタガタ揺らす音が聞こえる。充電ケーブルを差してベッドサイドに置きっぱなしにしていたスマホに手を伸ばす。クラスのライングループで何人かがやりとりしていた。風やばい、警報出てる、土曜なのに外でれない、台風空気よめ、という内容。俺も一応台風っぽいスタンプを探し、風に飛ばされそうなネコを一つ送っておいた。すぐにポコッとまぬけな通知音が鳴って『台風すごいね』と個人ラインにメッセージがきた。送り主は笹原華凛、吹奏楽部でサックスを吹いている。リーダー気質で明るくて元気、そんな印象だ。1年の時から同じクラスで時々音楽の話をする。
『風すごいね 雨戸ガタガタいってる 家飛ばされるかも』
『やば 飛ばされたらウチきなよ』
『行く途中で俺が飛ばされるよ』
『そのまま風にのっておいで』
『着地できないでずっと漂ってそう』
『なにそれ なんか楽しそう』
ドスドスと階段を上がってくる音が聞こえる。この遠慮のない足音はしゅんだ。慌てて身体を起こしスマホをベッドサイドに伏せる。ノックもせずにガチャとドアが開いて、髪をタオルで拭きながらしゅんが部屋に入ってきた。チラと俺を一瞥してからベッドに腰かける。ふわりとシャンプーのシトラスの匂いが香る。自分が使ってるシャンプーの匂いなんて嗅ぎなれているのにしゅんからその匂いがするとドキドキする。
「ようちゃんのスウェット、ちょっと短い」
俺のMサイズのスウェットにはしゅんの長い手足がおさまらず、手首と足首がみえてつんつるてん状態になっていた。おかしい、たいして身長は変わらないはずなのに(5センチ差)。露わになっているしゅんの手首をそっと掴む。
「身長伸びた? しゅん用にLサイズも置いとくか」
そのまましゅんの手を取り、手の平や関節を指先でふにふにと押してマッサージする。
「なにこのサービス」
「気持ちいい? この前クラスの女子にやってもらってーー」
「はぁ? 絶対その女子ようちゃんに気がある」
「べつに、普通のクラスメイトだけど?」
「向こうはそう思ってないだろ」
「そうかな……」
しゅんの機嫌が悪くなり眉間にシワを寄せてむすっとしてしまった。こんなことで拗ねるのか、かわいいな……じゃなくて、まずい、話題変えよう。
「シャンプー俺の使った?」
「白いデカいボトルのやつ」
「うん、それ俺の」
「3つあって、どれ使えばいいかわかんないからようちゃんの匂いがするやつにした」
「ワンプッシュ500円ね」
「へ?」
「美容室のやつだから高いんだよ」
「マジか、今月金ないのに」
「……ふふっ、ウソだよ。金なんかとるわけないだろ」
話している間、手のひらに視線を落としてずっとマッサージしていたのだけどしゅんが黙ってしまったので顔をあげる。
「しゅん?」
ガシッと肩をつかまれてそのままベッドに押し倒される。
「え?」
驚いてしゅんを見上げたら、脇腹に手が伸びてくすぐり攻撃が始まった。
「わっ、ちょっ、やめろって……ははっ、」
身体を左右に捩って逃れようとするけどしゅんが覆い被さっていて逃げられない。
「ひゃっ、ばか、やめろってば……ぁっ」
口から変な声が飛び出て、慌てて手の甲で口元を隠す。しゅんも驚いて固まってしまった。
恥ずい、恥ずすぎる、消えたい。
熱のこもった目でじっと見つめられて顔が熱くなる。
「……みるな」
両手で顔を隠したのにゆっくりと剥がされていく。静かにギラつくしゅんの瞳の奥に、小さく固まっている俺の姿が映る。しゅんの大きな手が俺の頬に触れ、背筋がゾクっと震える。部屋の中では雨戸がガタガタ鳴る音が相変わらず響いている。ごくりと嚥下するしゅんの喉仏をみていると不意にポコッと頭上で間抜けな通知音が鳴った。その後、連続でポコポコポコと通知音が鳴り止まず、しゅんも俺も力が抜けてぶふっとふきだしてしまった。
「……っ、も~~~ようちゃん~~~」
「俺のせいじゃないって」
「ポコッていうのやめろ。腹立つから」
「通知音変えるわ」
俺に覆いかぶさっていたしゅんは体勢を変えてゴロンとベッドに横になる。俺は身体を起こしてスマホに手を伸ばし、早速ラインの通知音を変えた。クラスのグループラインに数件、笹原さんからのラインが一件。笹原さんには手を振る猫のスタンプを添えて『ごめん、今おさななじみが来てるから』とおくり、ライン通知をオフにした。
「ようちゃん、あのさ……」
神妙な面持ちでこちらに顔を向けるしゅん。俺はスマホをベッドサイドに置いて、身体ごとしゅんに向き直る。しゅんがなにかを言いかけた時、それを遮るように、下から俺を呼ぶ母さんの声が届いた。
「おばさん呼んでるよ?」
「いいよ、後で。どうした?」
「えっと……やっぱいいや」
「なんだよ。気になるじゃん」
「あー……とりあえず先におばさんのとこいってきたら」
絶対に白状させようと思ったのに母さんがしつこく俺を呼ぶ。
「後で話せよ?」
素直に頷いたしゅんの頭を撫でて、しかたなく部屋を出て階段をおりた。
晩ごはん食べていきなさい、ついでだから泊まっていきなさい、朝美さん(しゅんの母)に連絡しておくわね。あれよあれよという間に、しゅんは我が家に泊まることになり母さんが俺の部屋に来客用の布団を敷いた。晩ごはんはしゅんの大好きなからあげ。1キロは揚げたんじゃないかと思うくらい大皿にもりもりだった。またしゅんがそれをうれしそうにたいらげるから、母さんも父さんも大喜びで、食後に手作りのプリンまで用意されていた。実の息子の俺よりも大事にされているんじゃないかと思うくらい両親はしゅんに甘々で、なんだか複雑な心境だった。
「はぁ~」
小さなため息がシャワーの音にかき消される。浴室の鏡に映る自分はひどく硬い顔つきをしている。つき合い始めてから、しゅんがウチに泊まるのは初めてだ。念のため、髪は二度洗いして身体も隅々まで丁寧に洗った。緊張で胸がドキドキする。
って、なんでしゅん相手にドキドキしなきゃいけないんだよ。一晩一緒の部屋に寝るだけで、べつになにかするわけじゃないし……
頭の隅でなにかを期待して浮き立つ自分となにもないから落ち着けと平静を装う自分が戦っている。
「はぁ~~」
盛大なため息をついてシャワーを止めた。
「おそかったな」
髪を乾かして部屋に戻ると、しゅんはテレビゲームをしていた。俺は何食わぬ顔でベッドサイドに置きっぱなしにしていたスマホを手に取る。通知をオフにしていたラインは50個以上未読がたまっていた。ほぼクラスのグループラインで、それに一通り目を通してから元の場所に戻す。
「なぁ、これ操作難しくない?」
最近新しく発売したサッカーゲームに四苦八苦しているしゅん。
「貸してみ?」
コントローラーを受け取り選手を操作して難なくゴールを決めるとしゅんは悔しそうに目を細めた。
「最初はむずいけどすぐ慣れるよ。このポジションにこの選手をもってきたらチームが強くなるから」
「くっそー絶対極めてやる。ようちゃんに勝ってやるからな」
コントローラーを手渡すとブツブツ言いながらプレイを再開した。しゅんは小さい頃から負けず嫌いで、勉強以外のことで俺に負けるといつも悔しそうにしていた。しゅんのすごいところは『悔しい』で終わらないところだ。ゲームで負けると、それを一週間ほどやりこんで再び勝負を挑んでくる。勝つまでそれをやり続ける。最終的にはしゅんが勝って勝負はおわり。俺が再戦を申し込んでも受け付けてくれない。俺に勝って気持ちよくおわりたいらしい。自分勝手だな。今じゃしゅんに勝てる要素なんて一つも思い浮かばない。身長も抜かれたし力もしゅんの方が強い。しゅんは俺の何がよくてつき合ってるんだろう。
文句を言いながら根気よくゲームに向き合っているしゅんをよそに、俺はごろんとベッドに仰向けに寝転がる。見慣れた天井をぼんやりとみつめているうちに眠くなってきた。ギシとベッドのスプリングが軋む。しゅんがベッドに上がってきた。
「もうおわり?」
「うん、ゲームなんていつでもできるし」
ゲームの音がしなくなった部屋は異様に静かで、やっぱり雨戸が揺れる音しか聞こえない。
「寝よっかな」
俺は身体を起こし、ベッドに上がってきたしゅんをどんと押しのけた。しゅんはベッドの隣に敷いてある布団に落下し、不満げに俺を睨んでいる。
「ベッドはお客さんに譲るべきだと思いますけど」
「ここは俺の部屋でこれは俺のベッド。それにおまえは客じゃない」
「ジャンケン!」
「一発勝負な」
「おう」
しゅんがグーを出して、俺がパーを出した。またもや悔しそうにしている。
「しかたないなぁ」
ベッドの上から手招きすると嬉々としてベッドに上がってきた。かわいい。
「譲ってやるよ」
ベッドから降りようとしたその瞬間、パチっと電気が消えた。
「え? なに?!」
「停電かな?」
いつもなら電気が消えても窓からの月明かりで多少はみえるが、今日は雨戸が閉まっているため光が完全に遮断されている。真っ暗でなにもみえない。手探りでベッドサイドにあるスマホに手を伸ばす。
「ようちゃんどこ〜?」
しゅんの手らしきものに手首をつかまれた。
「これ、ようちゃんの手?」
「うん、俺の」
「へへっ、マジで真っ暗」
「なんも見えない」
目がみえないぶん他の感覚器が敏感になっているのか、いつもよりしゅんの低い声がよく聞こえる。手首をつかんでいたしゅんの手が、俺の腕を確かめるようになぞっていく。そして肩に手を置かれたと思ったら、顔の上をぺたぺたと触り始めた。
「なんだよ、くすぐったいんだけど」
抵抗しようと、しゅんがいるであろう方向に手を伸ばす。なにかが唇に触れた。
え……??
混乱している間にパッと電気が点いた。目の前にはしゅんがいて、俺の顎に手を添えて親指の腹で下唇をなぞっていた。
キス、される……?
ドキドキと心臓が早鳴る。ふいに、あの時の記憶が頭を過ぎる。小学五年生の時、急にクラスの女子からキスをされて驚いて身体が動かなかった。その後、気持ち悪くなって泣いてしまった。苦い記憶が、頭の中にひろがっていく。
今、しゅんとキスできるのか? 元カノの時みたいに、拒否して嫌われたらどうしよう……
不安でたまらない。しゅんと目を合わせていられなくて下を向いたら、そっとしゅんが離れていった。
「電気、ついてよかったな」
「……そうだな」
しゅんの言葉に俺は小さく頷いた。
「……なぁ、ようちゃん」
「うん?」
「一緒に寝てもいい?」
遠慮がちなしゅんの声にゆっくりと顔を上げた。懇願するようなその目にきゅっと胸が痛くなる。
「えー……」
「神に誓ってなにもしません」
「この状況でそんなこと言われても全然説得力ないから」
「俺がようちゃんにウソついたことある?」
「めちゃくちゃあるね」
「ですよねー」
諦めてベッドから下りようとするしゅんの腕を引き寄せる。
「……一緒に寝るだけならいいけど」
振り返ったしゅんは目を瞬かせてから嬉しそうに破顔した。
「だからそう言ってんじゃん」
「電気消すね」
パチッと電気を消してからベッドに潜り込む。しゅんの腕の中に閉じ込められて身体が熱い。さっきからずっと心臓がドキドキと大きな音を立て続ける。
「おやすみ」
しゅんがそう言って額に口づけた。しばらくして、頭上から規則的な寝息が聞こえてきた。しゅんの腕からモゾモゾと這い出し、スマホのライトを当てて確認すると本当に寝ていた。
「マジか……」
俺はこんなに緊張してるのにお前は寝れちゃうのかよ。
がっかりしたような安心したような複雑な心境だけど、しゅんの幸せそうな寝顔をみているとまぁいっかと許せてしまう。
「おやすみ」
しゅんの頬を撫でて、もう一度あたたかい腕の中におさまった。
あ、しゅんの話を聞いてやるつもりだったのに忘れてた……明日には聞いてやらなくちゃ……
台風がくるらしい。リビングのテレビに映るのはヘルメットをかぶったリポーター、風と雨の状況を中継している。どれだけ危険な状況か知らせてくれるのはありがたいけどリポーターやテレビ局のスタッフが一番危険なんじゃないのか。定点お天気カメラからの映像だけで充分だと思うけど、現場から臨場感みたいなものを伝えないと視聴率が取れないのだろうか。と、いつも思う。コーヒーを飲みながら母さんがチャンネルを変えた。パッと画面が切り替わったと思ったら農家のおじさんが台風対策をしている映像が映る。農作物の心配をしているインタビューが流れた。朝、登校するときに畑仕事をしているおじいさんやおばあさんがよく声をかけてくれる。どこのだれかはわからない。この新興住宅地の住民ではなさそうだけれど。小学生の時に田畑の用水路でしゅんと一緒にザリガニ取りや虫取りをしていた。その時から顔見知りではあるが、どこのだれかはわからない。おじいさんおばあさんの畑は大丈夫だろうか。この大雨の中、台風対策をしているのだろうか。
時々、考えてもしかたのないことをぐるぐると巡らせてしまう。情緒不安定。不意に思考回路を遮断したのはリビングに響くインターホンの音だった。「こんな時にだれ?」と母さんが億劫そうにソファーから立ち上がる。「まあ! しゅんちゃん!」インターホンのモニターをみた母さんが驚きの声を上げて急いで玄関に向かった。俺も寝ころんでいた身体を起こしモニターを確認する。そこには見覚えのあるパーカーのフードをかぶったしゅんがいた。ほどなくして、しゅんの低い声と母さんの高い声が玄関から聞こえてきた。「ようじー! タオルもってきてー!」洗面所から来客用の真っ白なタオルをもって玄関に行くと、頭からバケツの水をかぶったみたいに全身びしょ濡れのしゅんが突っ立っていた。
「びしょ濡れじゃん! なにしてんの?」
「水もしたたるいい男になろうと思って」
「はぁ?」
冗談を言うしゅんのフードを取り、髪を拭いてやる。
「お風呂沸かしてくるわね。しゅんちゃん入っていってね」
「え、おばさんいいよ。すぐ帰るから」
「ダメよ。風邪ひいちゃうでしょ」
母さんはバタバタと浴室に向かった。
「悪いから帰るわ。おばさんにごめんって言っといて」
「いーじゃん、入っていけば」
「いやいや、母さんにどやされる」
「おまえが来ると母さん機嫌いいんだよね。嬉しいみたい」
口には出さないけど、母さんは俺に兄弟がいないことを申し訳なく思っている。小さい頃俺としゅんが仲良く遊んでいると兄弟みたいねと嬉しそうにして、俺にするのと同じようにしゅんの世話も焼いていた。今はもう、兄弟みたいな関係ではなくなったことに少し罪悪感がある。
「……ようちゃんは?」
「うん?」
「俺が来て嬉しい?」
「……そりゃあ、まぁ、ね」
「なにその間は」
二人きりではない空間だと気恥ずかしくて素直になれない。かと言って二人きりでも照れてしまうけど。
「で、なにしにきたの?」
しゅんは無言でシューズボックスの上を指差した。そこには回覧板が置いてある。
「こんなの明日でもよかったのに」
「昨日持っていけって言われてたの忘れててさ」
「だからって台風の日にわざわざ来なくても」
「放置してると母さんキレて回覧板係を夏海にやらせようとするから、そこはやっぱ死守しないと」
「どんだけやりたいんだよ回覧板係」
「……そりゃあ、まぁ、ねぇ」
ザーッとシャワーの流れる音がする。自分の家の浴室なのにこのすりガラスの向こうにしゅんがいると思うとドキドキする。
って、なんでしゅんにドキドキするんだよ。何度も泊まりに来てるしお風呂だって一緒に入ったことあるし……小学生の時だけど。
「しゅん、着替え置いておくから」
「おー、ありがとう」
替えの下着とスウェットを脱衣所に置くと、すぐに階段を上がり自室に戻った。ボスッっとベッドにうつぶせに寝転がる。落ち着かない。しんと静まり返った部屋では、雨と風が雨戸をガタガタ揺らす音が聞こえる。充電ケーブルを差してベッドサイドに置きっぱなしにしていたスマホに手を伸ばす。クラスのライングループで何人かがやりとりしていた。風やばい、警報出てる、土曜なのに外でれない、台風空気よめ、という内容。俺も一応台風っぽいスタンプを探し、風に飛ばされそうなネコを一つ送っておいた。すぐにポコッとまぬけな通知音が鳴って『台風すごいね』と個人ラインにメッセージがきた。送り主は笹原華凛、吹奏楽部でサックスを吹いている。リーダー気質で明るくて元気、そんな印象だ。1年の時から同じクラスで時々音楽の話をする。
『風すごいね 雨戸ガタガタいってる 家飛ばされるかも』
『やば 飛ばされたらウチきなよ』
『行く途中で俺が飛ばされるよ』
『そのまま風にのっておいで』
『着地できないでずっと漂ってそう』
『なにそれ なんか楽しそう』
ドスドスと階段を上がってくる音が聞こえる。この遠慮のない足音はしゅんだ。慌てて身体を起こしスマホをベッドサイドに伏せる。ノックもせずにガチャとドアが開いて、髪をタオルで拭きながらしゅんが部屋に入ってきた。チラと俺を一瞥してからベッドに腰かける。ふわりとシャンプーのシトラスの匂いが香る。自分が使ってるシャンプーの匂いなんて嗅ぎなれているのにしゅんからその匂いがするとドキドキする。
「ようちゃんのスウェット、ちょっと短い」
俺のMサイズのスウェットにはしゅんの長い手足がおさまらず、手首と足首がみえてつんつるてん状態になっていた。おかしい、たいして身長は変わらないはずなのに(5センチ差)。露わになっているしゅんの手首をそっと掴む。
「身長伸びた? しゅん用にLサイズも置いとくか」
そのまましゅんの手を取り、手の平や関節を指先でふにふにと押してマッサージする。
「なにこのサービス」
「気持ちいい? この前クラスの女子にやってもらってーー」
「はぁ? 絶対その女子ようちゃんに気がある」
「べつに、普通のクラスメイトだけど?」
「向こうはそう思ってないだろ」
「そうかな……」
しゅんの機嫌が悪くなり眉間にシワを寄せてむすっとしてしまった。こんなことで拗ねるのか、かわいいな……じゃなくて、まずい、話題変えよう。
「シャンプー俺の使った?」
「白いデカいボトルのやつ」
「うん、それ俺の」
「3つあって、どれ使えばいいかわかんないからようちゃんの匂いがするやつにした」
「ワンプッシュ500円ね」
「へ?」
「美容室のやつだから高いんだよ」
「マジか、今月金ないのに」
「……ふふっ、ウソだよ。金なんかとるわけないだろ」
話している間、手のひらに視線を落としてずっとマッサージしていたのだけどしゅんが黙ってしまったので顔をあげる。
「しゅん?」
ガシッと肩をつかまれてそのままベッドに押し倒される。
「え?」
驚いてしゅんを見上げたら、脇腹に手が伸びてくすぐり攻撃が始まった。
「わっ、ちょっ、やめろって……ははっ、」
身体を左右に捩って逃れようとするけどしゅんが覆い被さっていて逃げられない。
「ひゃっ、ばか、やめろってば……ぁっ」
口から変な声が飛び出て、慌てて手の甲で口元を隠す。しゅんも驚いて固まってしまった。
恥ずい、恥ずすぎる、消えたい。
熱のこもった目でじっと見つめられて顔が熱くなる。
「……みるな」
両手で顔を隠したのにゆっくりと剥がされていく。静かにギラつくしゅんの瞳の奥に、小さく固まっている俺の姿が映る。しゅんの大きな手が俺の頬に触れ、背筋がゾクっと震える。部屋の中では雨戸がガタガタ鳴る音が相変わらず響いている。ごくりと嚥下するしゅんの喉仏をみていると不意にポコッと頭上で間抜けな通知音が鳴った。その後、連続でポコポコポコと通知音が鳴り止まず、しゅんも俺も力が抜けてぶふっとふきだしてしまった。
「……っ、も~~~ようちゃん~~~」
「俺のせいじゃないって」
「ポコッていうのやめろ。腹立つから」
「通知音変えるわ」
俺に覆いかぶさっていたしゅんは体勢を変えてゴロンとベッドに横になる。俺は身体を起こしてスマホに手を伸ばし、早速ラインの通知音を変えた。クラスのグループラインに数件、笹原さんからのラインが一件。笹原さんには手を振る猫のスタンプを添えて『ごめん、今おさななじみが来てるから』とおくり、ライン通知をオフにした。
「ようちゃん、あのさ……」
神妙な面持ちでこちらに顔を向けるしゅん。俺はスマホをベッドサイドに置いて、身体ごとしゅんに向き直る。しゅんがなにかを言いかけた時、それを遮るように、下から俺を呼ぶ母さんの声が届いた。
「おばさん呼んでるよ?」
「いいよ、後で。どうした?」
「えっと……やっぱいいや」
「なんだよ。気になるじゃん」
「あー……とりあえず先におばさんのとこいってきたら」
絶対に白状させようと思ったのに母さんがしつこく俺を呼ぶ。
「後で話せよ?」
素直に頷いたしゅんの頭を撫でて、しかたなく部屋を出て階段をおりた。
晩ごはん食べていきなさい、ついでだから泊まっていきなさい、朝美さん(しゅんの母)に連絡しておくわね。あれよあれよという間に、しゅんは我が家に泊まることになり母さんが俺の部屋に来客用の布団を敷いた。晩ごはんはしゅんの大好きなからあげ。1キロは揚げたんじゃないかと思うくらい大皿にもりもりだった。またしゅんがそれをうれしそうにたいらげるから、母さんも父さんも大喜びで、食後に手作りのプリンまで用意されていた。実の息子の俺よりも大事にされているんじゃないかと思うくらい両親はしゅんに甘々で、なんだか複雑な心境だった。
「はぁ~」
小さなため息がシャワーの音にかき消される。浴室の鏡に映る自分はひどく硬い顔つきをしている。つき合い始めてから、しゅんがウチに泊まるのは初めてだ。念のため、髪は二度洗いして身体も隅々まで丁寧に洗った。緊張で胸がドキドキする。
って、なんでしゅん相手にドキドキしなきゃいけないんだよ。一晩一緒の部屋に寝るだけで、べつになにかするわけじゃないし……
頭の隅でなにかを期待して浮き立つ自分となにもないから落ち着けと平静を装う自分が戦っている。
「はぁ~~」
盛大なため息をついてシャワーを止めた。
「おそかったな」
髪を乾かして部屋に戻ると、しゅんはテレビゲームをしていた。俺は何食わぬ顔でベッドサイドに置きっぱなしにしていたスマホを手に取る。通知をオフにしていたラインは50個以上未読がたまっていた。ほぼクラスのグループラインで、それに一通り目を通してから元の場所に戻す。
「なぁ、これ操作難しくない?」
最近新しく発売したサッカーゲームに四苦八苦しているしゅん。
「貸してみ?」
コントローラーを受け取り選手を操作して難なくゴールを決めるとしゅんは悔しそうに目を細めた。
「最初はむずいけどすぐ慣れるよ。このポジションにこの選手をもってきたらチームが強くなるから」
「くっそー絶対極めてやる。ようちゃんに勝ってやるからな」
コントローラーを手渡すとブツブツ言いながらプレイを再開した。しゅんは小さい頃から負けず嫌いで、勉強以外のことで俺に負けるといつも悔しそうにしていた。しゅんのすごいところは『悔しい』で終わらないところだ。ゲームで負けると、それを一週間ほどやりこんで再び勝負を挑んでくる。勝つまでそれをやり続ける。最終的にはしゅんが勝って勝負はおわり。俺が再戦を申し込んでも受け付けてくれない。俺に勝って気持ちよくおわりたいらしい。自分勝手だな。今じゃしゅんに勝てる要素なんて一つも思い浮かばない。身長も抜かれたし力もしゅんの方が強い。しゅんは俺の何がよくてつき合ってるんだろう。
文句を言いながら根気よくゲームに向き合っているしゅんをよそに、俺はごろんとベッドに仰向けに寝転がる。見慣れた天井をぼんやりとみつめているうちに眠くなってきた。ギシとベッドのスプリングが軋む。しゅんがベッドに上がってきた。
「もうおわり?」
「うん、ゲームなんていつでもできるし」
ゲームの音がしなくなった部屋は異様に静かで、やっぱり雨戸が揺れる音しか聞こえない。
「寝よっかな」
俺は身体を起こし、ベッドに上がってきたしゅんをどんと押しのけた。しゅんはベッドの隣に敷いてある布団に落下し、不満げに俺を睨んでいる。
「ベッドはお客さんに譲るべきだと思いますけど」
「ここは俺の部屋でこれは俺のベッド。それにおまえは客じゃない」
「ジャンケン!」
「一発勝負な」
「おう」
しゅんがグーを出して、俺がパーを出した。またもや悔しそうにしている。
「しかたないなぁ」
ベッドの上から手招きすると嬉々としてベッドに上がってきた。かわいい。
「譲ってやるよ」
ベッドから降りようとしたその瞬間、パチっと電気が消えた。
「え? なに?!」
「停電かな?」
いつもなら電気が消えても窓からの月明かりで多少はみえるが、今日は雨戸が閉まっているため光が完全に遮断されている。真っ暗でなにもみえない。手探りでベッドサイドにあるスマホに手を伸ばす。
「ようちゃんどこ〜?」
しゅんの手らしきものに手首をつかまれた。
「これ、ようちゃんの手?」
「うん、俺の」
「へへっ、マジで真っ暗」
「なんも見えない」
目がみえないぶん他の感覚器が敏感になっているのか、いつもよりしゅんの低い声がよく聞こえる。手首をつかんでいたしゅんの手が、俺の腕を確かめるようになぞっていく。そして肩に手を置かれたと思ったら、顔の上をぺたぺたと触り始めた。
「なんだよ、くすぐったいんだけど」
抵抗しようと、しゅんがいるであろう方向に手を伸ばす。なにかが唇に触れた。
え……??
混乱している間にパッと電気が点いた。目の前にはしゅんがいて、俺の顎に手を添えて親指の腹で下唇をなぞっていた。
キス、される……?
ドキドキと心臓が早鳴る。ふいに、あの時の記憶が頭を過ぎる。小学五年生の時、急にクラスの女子からキスをされて驚いて身体が動かなかった。その後、気持ち悪くなって泣いてしまった。苦い記憶が、頭の中にひろがっていく。
今、しゅんとキスできるのか? 元カノの時みたいに、拒否して嫌われたらどうしよう……
不安でたまらない。しゅんと目を合わせていられなくて下を向いたら、そっとしゅんが離れていった。
「電気、ついてよかったな」
「……そうだな」
しゅんの言葉に俺は小さく頷いた。
「……なぁ、ようちゃん」
「うん?」
「一緒に寝てもいい?」
遠慮がちなしゅんの声にゆっくりと顔を上げた。懇願するようなその目にきゅっと胸が痛くなる。
「えー……」
「神に誓ってなにもしません」
「この状況でそんなこと言われても全然説得力ないから」
「俺がようちゃんにウソついたことある?」
「めちゃくちゃあるね」
「ですよねー」
諦めてベッドから下りようとするしゅんの腕を引き寄せる。
「……一緒に寝るだけならいいけど」
振り返ったしゅんは目を瞬かせてから嬉しそうに破顔した。
「だからそう言ってんじゃん」
「電気消すね」
パチッと電気を消してからベッドに潜り込む。しゅんの腕の中に閉じ込められて身体が熱い。さっきからずっと心臓がドキドキと大きな音を立て続ける。
「おやすみ」
しゅんがそう言って額に口づけた。しばらくして、頭上から規則的な寝息が聞こえてきた。しゅんの腕からモゾモゾと這い出し、スマホのライトを当てて確認すると本当に寝ていた。
「マジか……」
俺はこんなに緊張してるのにお前は寝れちゃうのかよ。
がっかりしたような安心したような複雑な心境だけど、しゅんの幸せそうな寝顔をみているとまぁいっかと許せてしまう。
「おやすみ」
しゅんの頬を撫でて、もう一度あたたかい腕の中におさまった。
あ、しゅんの話を聞いてやるつもりだったのに忘れてた……明日には聞いてやらなくちゃ……



