「連れてきたかった場所ってここ?」
 「そうなんだけど……」
 そこは人気(ひとけ)がなくとても静かで聞こえるのは波の音だけ。空はどんよりと曇り、今にも雨が降り出しそうだ。時折吹く海風は冬の寒さも相まって身体を芯から冷やす。とにかく寒くて薄暗くて寂しい。俺の頭の中でイメージしていた海とかけ離れていて、到着して早々に来たことを後悔した。
 「へぇ~」
 ようちゃんは辺りをぐるっと見回してから俺に向き直り「いいじゃん」と口角を上げた。そして海に向かって砂浜を歩き出す。一歩一歩踏みしめるように。
 「砂が白い」
 ところどころにゴミは落ちているものの砂は白っぽくサラサラしている。俺たちの地元の砂浜は黒っぽくてじゃりじゃりしているからそれと比べるとキレイでキラキラしている。
 「うわぁ~」
 先を歩いていたようちゃんが感嘆の声をあげた。
 「しゅん、みてみろよ! 海がグラデーションになってる!」
 手前が透明で奥にいくにつれてだんだんと水色になっていく。透明度が高く海の底までみえる。時々わずかに差し込む陽の光に反射して寄せては返す波がキラキラと輝いて、同じようにようちゃんの目もキラキラしていた。
 「海ってさ、青黒くて底が見えない怖いイメージだったけど、場所によって全然違うんだな」
 「日本海側と太平洋側の違いかな~」
 マフラーで口元を隠しているのに鼻の頭と頬が赤くなってきたようちゃん。いつもなら寒い寒いと俺にくっついて文句を言っているのに今日は寒さを忘れてはしゃいでいる。ようちゃんの意外な反応に、さっきまで頭の中にあった俺の後悔の念が吹き飛んだ。
 急に砂浜を走り出したようちゃんはくるっと振り返って「自販機まで競走!」とまた前に向き直る。「え!? ずるくない!?」俺もようちゃんに追いつこうと走り出すが砂に足を取られてうまくスピードにのれない。それでもなんとかようちゃんに追いついて手を伸ばしたところで、なにかに足を取られて前のめりにつまづいた。前を走っていたようちゃんも巻き込んでバタッと前のめりに砂浜に倒れてしまった。
 「ぐへっ……しゅんのバカ」
 「ごめん」
 よろよろと立ち上がり、ようちゃんに手を差しだして立ち上がらせる。二人とも、コートも髪も顔も砂まみれ。互いに払い合って、スニーカーの中に入った大量の砂も取り出した。
 「口の中じゃりじゃりする」
 「ははっ、貝みたいに砂抜きしてこいよ。海水に()かってくる?」
 笑っている俺を恨めし気にみながらペッペッと砂を吐き出すようちゃん。ずっと視線を突き刺してくるので俺は観念してお詫びにジュースをおごると約束した。砂浜から道路に出る階段付近にトイレがありそのすぐ横に自販機があった。小銭を入れてからざっと飲料を確認しているとめずらしいものを発見した。
 「ようちゃん! コンポタがある!」
 昔は冬になると自販機に必ず並んでいたコーンスープ、いまはめっきり見なくなり残念に思っていたが、まさかこんなところで感動の再会を果たすとは。俺は迷わずコーンスープのボタンを押した。
 「なつかし~しゅんよく飲んでたよな」
 「冬のコンポタで命をつないでたからね」
 缶を取り出してようちゃんにみせると、ようちゃんもテンションがあがりスマホで撮っていた。
 「で、ようちゃんはなににする? ココア?」
 「俺も久々にコンポタ飲みたいな~でも間違いないのはココアなんだよな~」
 自販機前でうんうん(うな)っているようちゃんの代わりにココアのボタンを押した。
 「あ、勝手に押すなよ」
 「どうせようちゃんはココアでしょ。いつまでも迷ってたら凍死するから」
 ようちゃんの頬に手を伸ばすと凍るような海風のせいで冷たくなっている。
 「やっぱしゅんの手はあったかい」
 幸せそうに俺の手に頬ずりするから、かわいすぎて爆発して死ぬかと思った。

 階段に腰を下ろすと、缶を軽く振ってタブを開ける。ひとくち、コーンスープを口に含むと、コーンの甘みが広がってあたたかくて幸せになる。隣でようちゃんもココアを飲んでホッと頬を緩めていた。
 「飲む?」
 コーンスープを差しだすとうれしそうに頷いてそれを飲む。なぜか眉間にシワを寄せて微妙な反応をしているので「まずかった?」と聞くと「味が混ざった」と目を細めていた。いちいちかわいい。
 「めっちゃ寒いけど波の音聞いてると落ち着くな」
 「でしょ? 中三の夏休みに父さんに連れてきてもらって、すごくよかったから今度は絶対ようちゃん連れてこようと思って」
 「くる季節間違えてるけどな」
 「それは、ごめん……夏だったら、海の家もあるし釣り体験もできるから、次は夏にこよう」
 「おう、釣り楽しみ」
 ようちゃんは口角を少し上げてココアの缶をコーンスープの缶にコンッと当てた。
 中三の夏、受験勉強にストレスを感じてイライラモヤモヤしていた俺を父さんが海に連れてきてくれた。父さんは何を話すでもなく黙って釣りをしていて、俺はその隣でボーッと海を眺めていた。時間がゆったりと流れて次第にイライラモヤモヤが消えた。なにをそんなに焦っていたのか、それすらも忘れてのんびり過ごした。その時の俺にはなにもしない時間が必要だったらしい。今回ここに来たのも、胸の中のモヤモヤがいつまでも晴れてくれないからだ。たけるにいちゃんの件でようちゃんとケンカした。いつもなら、仲直りした後はケンカの内容なんてすぐに忘れてしまうのに今回ばかりは違った。ようちゃんはモテる。誰かがようちゃんに告白する度に、俺はいつ別れ話を切り出されるのか気が気じゃない。相手がたけるにいちゃんだったらその可能性がぐんと高まる。たけるにいちゃんをよく知っているからこそ、つき合ってる二人を勝手に想像してそれがどんどん膨らんでいくのだ。そんな風に考えてしまう自分も嫌だし、それをようちゃんに悟られるのも嫌だ。
 「腹へった~なんか食いに行こ」
 ようちゃんは立ち上がると俺の手にあったコーンスープの缶をひょいっと奪い、ココアの缶と一緒にゴミ箱に捨てた。
 「駅の近くにラーメン屋あったけど」
 「よっしゃ! そこいこ! ラーメン、ラーメン」
 ようちゃんは俺の様子がおかしいことにたぶん気づいてる。いつもより大げさにはしゃいで楽しませようとしてくれてる。そういうとこもかわいくてすきだ。
 「はやくいかないとラーメンのびるぞー!」
 ぐんぐんと先にいってしまう後姿をボーッと眺めていたら、振り返って手招きしてくれる。
 「まだ注文してないですけど」
 ようちゃんの元まで駆け寄り隣に並んで歩く。はらはらと雪が降り始めた。

 海岸から徒歩10分ほど、駅の近くに黄色い看板がみえた。赤い字で『中華飯店』と書かれてある。こじんまりとした店で、所謂(いわゆる)町中華というやつだろうか。ワクワクしながら店に入ると、店主のおじさんが暇そうに新聞を読んでいて客はいなかった。俺たちが入ってきたことに店主のおじさんはなぜかびっくりしていて、テーブルに着くと水をもってきてくれた。俺はしょうゆラーメンと半ちゃんセット、ようちゃんはみそラーメンと塩ラーメンを迷って今日はあっさりにする!と塩ラーメンと餃子を注文した。店の一角にあるテレビをみていると、天気予報が流れていて日本海側は風が強く大雪になるらしい。
 「天気やばくね?」
 「え? 今日は晴れのはず……」
 スマホをみると晴れマークが並んでいる。ようちゃんに画面をみせると、
 「これ、俺らの地元のじゃん。ここの天気予報をみないと意味ないだろ」
 「え? あ、マジか」
 盲点だった! 慌ててこの地方の天気予報を調べてみると強風注意報が発令されていてこれから大雪が降る予報だった。
 「兄ちゃんたち、この辺のモンじゃねぇだろ? もうすぐ風がひどくなって電車止まるんじゃねぇか? タクシー呼ぶか?」
 店主のおじさんがラーメンを持ってきてくれて、心配そうに声を掛けてくれる。
 「止まるんですか!? そんなやばいんっすか!?」
 「この辺りは雪はそんな積もんねぇけど風が強いとすぐ電車止まるからな。早く食って帰ったほうがいいぞ」
 ようちゃんと顔を見合わせてウンと頷き、急いでラーメンをすする。熱い、けどうまい! もっとゆっくり堪能したかった。
 食事と会計をおえて店から出ると、外は別世界になっていた。台風の時みたいにごうごうと風が吹きすさび、雨ではなく雪が降っているため視界が悪く、数メートル先もよくみえない。出入り口が二重になっている意味がよくわかった。
 「駅はあっちだよな?」
 「うん。ようちゃん行くの?」
 「……いくぞ」
 意を決したようちゃんが引き戸を開ける。途端に風がびゅうびゅう吹き込んできて、寒い寒いと言っている間にようちゃんに手を引かれて店を出た。吹き飛ばされそうな吹雪の中、一歩ずつ踏みしめて駅へと向かう。吹雪が身体に突き刺さる。寒いというより痛い。風圧で口を開けられない。とにかく駅を目指して歩き、構内に入ったころには、二人ともくたくたになっていた。雪を払ってベンチに座り込む。構内には誰もおらず、『吹雪のため一部運転を見合わせております』という看板が立てかけられていた。ようちゃんは立ち上がり窓口へ行き、駅員さんと話をしてこちらに戻ってきた。
 「三つ先の駅までは行けるって。そこなら近くにホテルもあるから、ここにいるよりはいいだろうって」
 「え、ホテル? じゃあ今日は帰れないってこと?」
 「……かもしれないって、駅員さんは言ってた」
 「うわぁーマジか……ようちゃんごめん」
 「しかたないって。ホテルって予約とかすんのかな?」
 ようちゃんは冷静に三つ先の駅にあるホテルを調べ始めた。どうしよう、俺のせいだ。俺がようちゃんを連れ回したせいでこんなことに……家に帰れなかったらどうしよう。おばさんんも心配してるだろうな。
 「あ、俺おばさんに連絡するわ」
 隣でホテルを調べているようちゃんにそう声をかけると、「え……うん、お願い」と一瞬間があったが了承してくれた。おばさんに連絡すると驚いてすごく心配していた。今すぐ迎えに行くと言うので、危険だからと(なだ)めた。途中、ようちゃんに代わると、ようちゃんは冷静にホテルの宿泊予約を頼んでいた。次に母さんに連絡すると案の定めちゃくちゃ怒られた。そしてまた途中ようちゃんに代わると、母さんはようちゃんに謝り倒していた。ようちゃんは母さんを安心させるよう大丈夫だと優しく伝えてくれた。それからすぐに、折り返しおばさんからホテルの宿泊予約が取れたと連絡があった。高校生二人でも宿泊できるよう事情を説明してくれたらしい。ひとまず安心していると、駅員さんから声を掛けられて慌てて切符を買って電車に乗った。
 『この電車は吹雪のため○○駅で停車いたします。お客様にはご不便をおかけしますが、安全運行のためご協力をお願いいたします』
 二両編成の電車、後ろの車両に乗った。乗客は俺たち以外いない。海に向かっているときは車窓からの風景にワクワクしていたのに、今は真っ白で何も見えない。時折、ガタガタ電車が揺れる。いつもの揺れなのか、風に煽られているからかはわからない。本当に二人だけの世界になったみたいでなんだか怖くなって、隣で疲れて放心しているようちゃんの手をぎゅっと握った。ようちゃんはゆっくり俺の方を見て、力なく笑った。
 おばさんが予約を取ってくれたビジネスホテルは、駅からほど近いところにあった。少し緊張しながら中に入り、フロントに行くとホテルの方があたたかく迎えてくれた。大浴場や朝食の案内(夕食はついてないが朝食はつくらしい)、チェックアウトの時間などの説明を聞いてカードキーを受け取った。
 「部屋、四階だって」
 「うん」
 四階に向かうエレベーターの中、俺たちは疲れ切って無言だった。こういう状況じゃなかったら、この瞬間ーーエレベーターに運ばれていく間も楽しめたのかもしれない。だって、ようちゃんと一緒にホテルに泊まるなんてそんなこと……
 「しゅん?」
 いつの間にか四階に到着してエレベーターの扉が開いていた。先にエレベーターを降りたようちゃんがボタンを押しながら俺を待ってくれている。
 「ごめん」
 慌ててエレベーターを降りて、部屋を探す。俺たちが宿泊する四〇三号室はフロアーの端の方にあった。ドアに設置してあるカードリーダーにカードキーをかざすとカシャンと音がしてロックが解除された。ドアを開けると中は真っ暗だった。
 「電気……」
 照明のスイッチを探していると、ようちゃんが俺の手にあったカードキーを取って入口の差し込み口に差した。パッと部屋が明るくなる。ベッドが二つ、その間にサイドボード、小さなテレビに小さな冷蔵庫。部屋は狭いが、思ったよりキレイだしタバコの匂いもしない。寝るだけなら充分くつろげそうだ。寝るだけ、寝るだけ……頭に浮かびそうになったけしからん妄想を、ぶんぶん首を振って振り払う。ようちゃんはそんな俺をよそに風呂をチェックしながら「ユニットバスじゃん。トイレと別がよかったのに」とブツブツ文句を言っている。
 「しゅん、ウンコすんなよ。風呂がくさくなる」
 「理不尽」
 「ベッドどっち?」
 「どっちでもいいけど」
 「じゃあ俺こっち」
 窓際のベッドを選んだようちゃんはボスッとそこに倒れこんだ。俺も同じように自分のベッドに倒れこむ。
 「そっちだとトイレの流れる音とかで目ぇ覚めそうだし」
 「ようちゃんそういうの敏感だもんな」
 「枕変わると寝れない」
 「俺んち泊まった時(クリスマス)はぐっすり寝てたけど」
 「それは、しゅんが湯たんぽになってくれたから」
 「……今日も湯たんぽになってやろうか?」
 「……いいよ。今日は手足伸ばして寝たい」
 早速フラれた。うん、いいよ。今日は俺もようちゃんも疲れてるし。べつに、一緒に寝たかったわけじゃ……すみません、ウソです。めっちゃ期待してました。今日こそキスできるかもって……でも嫌われたくないんで無理やりはしません……しかもおれのせいでこんなことになってるんで、さすがにそれはナシでしょ……
 俺は身体を起こし、ようちゃんが寝てるベッドの脇に座った。
 「ようちゃん、ごめん。こんなことになっちゃって……おばさんにも迷惑かけたな。会ったらちゃんと謝らないと」
 ようちゃんは寝ころんだまま俺に視線をやる。
 「しゅんがさ、小学生の時に言ってたじゃん? 台風がくるとワクワクするって。その気持ち全然理解できなかったけど、今ならなんとなくわかる」
 「は? ようちゃんこの状況でワクワクしてんの?」
 「だってめったに体験できないことだし」
 「そりゃそうだけど、こんな予想外のことばっか起きたら不安になるだろ、普通」
 「一人だったらめっちゃ不安だったと思うけど、しゅんと一緒ならなんか安心すんだよね」
 「今のところ特になにも活躍してませんが」
 「いいんだよ。一緒にいてくれるだけで」
 「うっ、ようちゃん……」
 胸が痛い。いちいちときめかせんじゃねぇよ、バカ。かわいいくせにかっこいいなんて、反則だ。
 さっきのようちゃんのセリフを頭の中で反芻していると、ヴーヴーとスマホが震える音がした。ようちゃんは身体を起こして電話に出る。電話口から、心配そうなおばさんの声が漏れ聞こえてくる。「おばさんに謝るよ」とようちゃんに小声で伝えたけれど、「大丈夫」と言われ、ほどなくして通話が終了した。
 「明日、迎えに来るって。おばさんも一緒に」
 「え!? 母さんもくんの!? 絶対めっちゃ怒られるじゃん~~」
 「しばらくこづかいなし、だな」
 「はぁ~~~」
 うなだれる俺に、ようちゃんは元気づけるようバシバシ背中を叩いて(地味に痛い)コンビニに行こうと立ち上がった。
 そういえば腹がへったな。今、何時?
 スマホを確認すると夕方の4時を回っていた。
 え、もうこんな時間!?
 急にパッと部屋の中が暗くなり何事かと思ったら、ようちゃんがドアを開けてカードキーをひらひらさせながら行くぞ~と待っていた。

 「ようちゃん、またラーメンかよ」
 「ラーメン屋では塩だったから今度はみそ」
 「ラーメンにおにぎりって、炭水化物ばっか」
 「しゅんは揚げ物ばっかじゃん」
 「揚げ物は正義だからな」
 ホテル一階にあるコンビニで適当に食料を調達した。ようちゃんはラーメンにお湯を注いで待っている間、俺のからあげやポテトを勝手につまむ。お返しにようちゃんの食料をつまもうとしたら、つまめるものがグミしかなかった。
 「なにこれ? うまいの?」
 「この前、直樹にもらった。すっぱいけどうまいよ」
 グミを1個わけてくれたので試しに口の中に入れてみると、レモンの酸っぱさが一瞬で口内にひろがり顔をしかめる。
 「うげ……」
 「すげー顔」
 BGM変わりにテレビをつけて、他愛ないことを話しながらご飯を食べる。腹が満たされて幸せな気分になるとうとうとしてきて、ちょっとベッドに横たわったらすぐに意識を手放してしまった。
 「しゅん? しゅん、風呂」
 ゆさゆさと肩を揺すられる。目を開けるとようちゃんがタオルで髪を拭いていた。
 「あー今何時?」
 「9時過ぎ」
 「え? 俺けっこう寝てた?」
 「2時間くらいかな」
 「……ようちゃん、なんでワンピース着てんの?」
 「バカ、パジャマだよ。ホテルの。ガウンっていうの」
 「でかくね?」
 「そうか? こんなもんだろ」
 ダボッとしていて丈が足首くらいまである。彼シャツを着てるみたいでかわいい。ようちゃんのガウン姿をスマホにおさめようとしたらスマホを取り上げられて早く風呂に入れと怒られた。素早くシャワーを済ませて浴室から出ると、ようちゃんはベッドに寝転んでスマホをいじっていた。つけっぱなしだったテレビは消えている。俺は自分のベッドに座り、究極の二択を頭に浮かべていた。ようちゃんとイチャイチャするorこのまま寝る。ようちゃんと二人でホテルに泊まるんだぞ! イチャイチャする絶好のチャンスだろ! という欲望まみれの俺と、俺のせいでこんなことになったんだぞ! 反省して今日はおとなしくしてろ! というわずかな良心を奮い立たせている俺が脳内で戦っている。
 よし、とりあえずようちゃんの様子を探ってみよう。
 「明日さ、大浴場いかね? 朝6時から入れるらしいよ」
 「えー俺はいいや」
 「せっかくだし、デカい風呂入ろうぜ」
 「起きれないから、おまえ一人でいってこいよ」
 「起こすからさ、いこ?」
 「……起きれたらね」
 「やったー! そうと決まれば明日のために早く寝なきゃ」
 「え、もう寝んの?」
 「……え、ようちゃんは寝ないの? なんかしたいことでもあるんですか?」
 「……いや、べつに。俺も寝る。おやすみ〜」
 ようちゃんはスマホをベッドサイドに置くとベッドに潜り込んでしまった。
 あっ……俺のバカ。早く寝るよう急かしてどうすんだよ。まぁ今日はようちゃんも疲れてるだろうし、そんな気分じゃないか。話している間、ずっとスマホをいじって一度も俺をみなかったし。めちゃくちゃ残念だけど、大人しく寝るか。
 俺もベッドに潜り込んでものの数分で意識を手放してしまった。

 (かすみ)がかった意識の中で物音が聞こえる。近くでなにかが動いてるのか、気配を感じてゆっくりと瞼を開けた。ぼんやりとした視界に広がっていくのは橙色の間接照明の光とようちゃんの顔。それはだんだんと俺に近づいてくる。
 え? どういうこと?? 夢? これは夢の中? ようちゃんとキスしたいっていう願望が夢になってるってこと??
 せっかくキスするんだから夢の中でもちゃんとしたい。俺は夢の中にも関わらず、気合でくわっと目を見開いた。
 「うわあぁぁ!?!?」
 夢の中のようちゃんは驚いて大声を上げ、俺から離れてベッドの上でしりもちをついた。
 「……ん~??」
 ゆっくりと上半身を起こす。ようちゃんは慌てて自分のベッドに戻り、頭から布団をかぶって隠れてしまった。夢にしてはやけにはっきりしている。手の感覚とか、ようちゃんの香水の匂いとか、空調の音とか、そういうものをリアルに感じる。
 「……ようちゃん?」
 呼びかけてもぴくりとも動かない。
 やっぱり夢だよな。俺も疲れてるし寝よう……って、ちょっと待てよ。夢の中なら俺のすきなように行動していいんじゃね……?
 布団にもぐろうとしたけれどむくりと起き上がり、ベッドから出てようちゃんのベッドに近づく。
 「ようちゃーん」
 ゆっくりとかけ布団をめくると、ようちゃんが横になって膝を抱えて丸まっていた。背中を軽くトントン叩くとびくっと身体を震わせる。
 ん~、怖がってるよな……
 いくら夢の中だからって怖がってるようちゃんに無理やりあんなことやこんなことはしたくない。
 「ようちゃん、ごめんな? おやすみ」
 そう声をかけて布団をかける。自分のベッドに戻ろうとしたら、ぬっと手が出てきて手首をつかまれた。
 「え!?」
 そのまま手を引っ張られてベッドに引きずり込まれる。
 「いや、ちょっと! ようちゃん!?」
 夢の中だからって、ようちゃんってば大胆だな……
 布団の中は薄暗くてよくみえないけど、ようちゃんの大きな目が何度も瞬いているのはわかる。
 「しゅん?……引いた?」
 「へ?」
 「俺が、しゅんに……キスしようとしたから」
 「は?」
 俺は驚いて、かけ布団から顔を出す。ようちゃんもおずおずと顔を出した。照明がうす暗くてよくわからないけど、ほんのりと顔が赤い気がする。
 「どういうこと?」
 ようちゃんは目を伏せて言いにくそうに口をモゴモゴさせ、「いや、やっぱいい」と布団の中にもぐってしまった。
 「ようちゃん!?」
 俺はかけ布団を蹴っ飛ばして起き上がり、横になっているようちゃんの前に正座する。その様子をみていたようちゃんも、のろのろと起き上がって正座した。
 「ちゃんと聞かせて」
 まっすぐにみつめると観念したように小さく息を吐いた。
 「寝てるしゅんに、キス……しようとした」
 「……キス?」
 「ほら、俺キスにトラウマあるから、しゅんとちゃんとキスできるか不安で……確認のつもりで……」
 「え? あー……マジか……」
 なななななんだよそれ!? あのまま寝てたらようちゃんとキスできたってこと!? 
 「ごめん、引くよな……」
 「引くわけない。ってか、せっかくようちゃんがキスしようとしたのになんで起きちゃうんだよ俺のバカ! って自分で自分を殴りたい気分」
 「それはやめて」
 またため息をつくと足を崩して胡坐(あぐら)をかくようちゃん。俺も同じように胡坐(あぐら)をかいた。
 「俺のトラウマのせいで、ずっと我慢させてるんだろうなって思ってたから心苦しくて……俺の方からキスしたらいろいろとスムーズにいくんじゃないかと」
 そこまで言うとようちゃんの顔は少しずつ赤くなって下を向いてしまった。
 ようちゃんの方からキスしてくれるなんて、そりゃ願ったり叶ったりだけど、大事なのはようちゃんの気持ちだ。
 「そうなったら俺はもちろんうれしいけど、ようちゃんは大丈夫?」
 「え?」
 「ようちゃんが俺とキスしたいって思ってくれてるんだったらいつでもウェルカムだけど、まだ怖いとか無理してるんだったら急がなくていいから」
 ようちゃんはゆっくりと顔を上げて、俺と目が合うと少し安心したように胸を撫でおろす。
 「……俺も、したいよ。まだ少し不安だけど……しゅんとなら大丈夫だって思えるから」
 小さな声で言葉に詰まりながら気持ちを伝えてくれる。愛おしくてたまらない。じっとみつめていると、また下を向いてしまった。
 「……じゃあ、する?」
 ドキドキしながら様子をうかがっていると、おずおずと顔を上げて恥ずかしそうに小さく頷いた。心臓がますます早鳴る。頬に手を添えると、長いまつ毛がゆっくりと上がる。うるんだ瞳が俺を捉えて離さない。うるさすぎる心臓が体温を上げていく。ようちゃんの半開きの唇に、誘われるようにそっと口を寄せた。一瞬だけ触れたような気がする。ドキドキしすぎてよくわからない。
 「……大丈夫だった? 俺とキスして」
 ようちゃんは少し恥ずかしそうに口をモゴモゴさせながら小さく頷く。
 「……ぎゅって胸が痛くなって、ドキドキして死にそうだったけど、全然嫌な気持ちにはならなかった」
 ホッと胸を撫でおろす。安心したと同時にようちゃんへの愛おしさが胸の奥からこみ上げて、そっと腕の中に閉じ込めた。
 「……もう一回……キス、していい?」
 耳元で尋ねると、くすぐったそうに身を(よじ)るようちゃん。
 「……聞くなバカ」
 そっと腕を解くと、恥ずかしそうに目を伏せてしまった。顔をのぞきこむと、真っ赤な顔を手の平で隠してしまう。ようちゃんの髪に指を通して撫でていると、落ち着いたのか顔を上げてくれた。ようちゃんの後頭部にそっと手を回す。ゆっくりゆっくり唇を重ねた。今度ははっきりとわかった。柔らかくてあたたかいものが唇に当たっている。胸を押しつぶされるような痛みを感じ、苦しくなってそっと唇を離した。ゆっくりと呼吸をする。ようちゃんと目が合って、照れくさくて苦笑する。
 「……キスってさ、苦しいんだな」
 「この辺がすげー痛い」
 胸のあたりをおさえるようちゃん。額をコツンとくっつけた。
 「なぁ、もっかいしていい?」
 「だから、聞くなってーー」
 角度を変えて、食べるように唇を合わせる。リップ音が鼓膜に響いてドキドキが増す。何度も啄むようなキスを続けていると、頭の中がふわふわしてきて身体が熱く溶けてしまいそう。
 「……っ、しゅん」
 キスの合間に苦し気に名前を呼ばれて、慌ててようちゃんの顔を覗き込んだ。
 「っ、ごめん。苦しい?」
 とろんとした目で俺を見つめ、小さく二回頷いた。
 「……これ以上はちょっと」
 「うん、俺も……そろそろやばいかも」
 もう一度、そっと胸の中にようちゃんを包み込んで深く深く息を吐いた。
 ようちゃん、すきだ。だいすき。ようちゃんも俺と同じように、キスしたかったんだな。今までずっと我慢してきたのは、今日たくさんキスするためだって思うことにするよ。これからはたくさん遠慮なくキスするから、飽きたって嫌がられてもするから。
 「ようちゃん、これ、夢じゃないよな?」
 「夢じゃないよ」
 ようちゃんに頬をつねられて幸せな痛みを感じた。うん、これは夢じゃない。
 二人でクスクス笑い合って、どちらからともなくキスをして抱き合って眠りについた。