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 小夜さんと連絡がつかなくなってから、俺は万里沙と付き合い始めた。
 付き合い始めると、万里沙は遠慮なく俺の部屋に来るようになった。家に上がって、スウェット姿でベッドに寝転がって、「課題だる~い」とか言いながら漫画を読んだり、俺の隣で寝落ちしたりする。

 小夜さんと会えなくなっても、俺の日常は不思議なくらい何事もなく続いていった。
 授業に出て、サークルに顔を出して、学食で昼飯を食って、誰かと予定を合わせて街に出る。万里沙と付き合うようになってからは、週末も独りじゃなくなった。誰かの隣にいるという安心感だけは確かにあった。

 けれど何かが欠けていた。
 ふとした瞬間に小夜さんにされたことを思い出す。

 小夜さんへの気持ちは、だんだん悲しみから恨みへと変貌した。

 最初のうちは、どうしてだろう、って思っていた。
 どうして終わってしまったのか。
 俺が何か間違えたんだろうか。
 あの時手を伸ばしたことを、小夜さんは裏切りだとでも思っているんだろうか。
 それなら、そう言ってくれればよかった。
 逃げるようにいなくなるくらいなら、正面からぶつかってきてくれればよかった。

 ホテルの部屋まで付いていってセックスして、後から同意じゃなかったって言う女と何が違うんだ。
 あれだけ清楚に見えていたはずの小夜さんのことが、急激に下品で頭の悪い女のように感じた。

 ――クソ女、って思った。
 あんな風に俺の尊厳を踏みにじって、恥かかせておいて。
 まるでそれが当然のように愛される側にいて、最後は何も言わずに去っていった。

 俺はずっと我慢していた。あれだけ自己を犠牲にしたのに、あの女はその感謝も忘れてのうのうと生きている。

 たまに、街中で似た後ろ姿を見かける。心臓が跳ねる。でもすぐに違うと気付く。
 そのたびに何かが擦れて、削れていく。



 万里沙とは付き合う前から付き合ってるみたいな関係だった。だから付き合うまでは長かったけど、交際期間自体は、結構短く終わった。

 きっかけは、ふとした拍子に俺のスマホを覗き込んだ万里沙の指が、あるフォルダに触れたことだった。
 画面に表示されたのは、鏡越しの自撮り。ウィッグ、メイク、スカート。小夜さんといた頃の、女装した俺。

 万里沙は数秒、画面をじっと見つめた。
 それから表情の筋肉をぎこちなく動かして、声を出した。

「……これ、何?」

 笑ってるような声だった。でも、手の力が少しだけ強くなっているのがわかった。

「……ああ、それ、ちょっとした、遊びというか」

 俺は早口で言い訳をする。遊びにしては写真の量が多いと分かっていながら、それしか言い訳を思い付かなかった。

「ネタみたいなもん。高校の時、友達とふざけてさ……」
「へぇ、そうなんだ」

 万里沙はスマホを俺に返しながら、薄く笑った。

「ちょっとびっくりしただけ。うん、大丈夫」

 「大丈夫」の声は遠くて、上辺だけで、その後も会話はぎこちなく続いたけれど、ちょっと引いているのが伝わってきた。


 数日後、大学図書館で調べ物をしていたら、万里沙が友達と小声で話し合っているのが偶然聞こえてきた。

「え、何それ、女装趣味ってこと?」
「まじ? 陣くんが? 見えな~い」

 万里沙の女友達たちの笑い声が、からからと、薄く開かれた窓から入る風に乗って流れてくる。

「いやもうほんと、蛙化って感じ」
「え、じゃあ万里沙、それ見てからもう無理って思ったの?」
「うん、てかその前からちょっと冷めてたし。今は先輩の方に気持ち偏ってるかも」

 一瞬、呼吸が止まった。

「もしかしてぇ、先輩とはもうそういう関係ってこと~?」
「んー、まぁ、そういうことかな?」

 笑い声がまた響いた。耳鳴りのように、俺の中では声が遠ざかっていった。

 顔が熱いのに手足は冷たい。
 喉が渇いて水を飲もうとしたが、ボトルを落とし、転がったペットボトルの水音だけが周囲の静けさに溶けていった。



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 夏が終わり、また冬が来た。
 姉ちゃんが久しぶりに帰ってきたのは、彼氏と同棲を始める前だった。

 姉ちゃんは荷物をまとめるために帰ってきたくせに、すぐに疲れたのか、ベランダの引き戸がガラガラと音を立てて開いた。
 俺はリビングのソファでスマホをいじりながら、その音に顔を上げる。

 カーテン越しに夜の外気がふわりと入り込む。
 カチ、カチ、とライターを擦る音がする。
 ふわりと煙草の匂いが流れてきた。懐かしくて、ちょっとだけ鼻につく匂いだ。

「吸ってんの、父さんにばれたら怒られるよ」

 そう言うと、姉ちゃんはベランダから振り返って、少し目を細めて笑った。

「あんたは言わないでしょ?」

 返事をしない俺に構わず、姉ちゃんはもう一度夜空の方へ顔を向け、ゆっくりと煙を吐き出す。
 煙は白く長く伸びて、外の空気に紛れていった。
 姉ちゃんの黒いタンクトップの肩が少しだけ痩せて見えた。

 その煙草の吸い方が、ネイルの色が、髪の明るさが、口紅の艶が、仕草が、表情が――同じだ。まったく。吐き気がするほどに。

「……姉ちゃん、その煙草、いつから吸いだしたんだっけ?」
「高校の時じゃない? あ、これほんとパパには言っちゃだめだから。まじで怒られる」

 昔少しやんちゃだった姉ちゃんがけらけらと笑う。
 煙草の煙が薄く部屋の中に流れ込んできて、俺は――強烈に、小夜さんに会いたくなった。


 インスタを開いて、姉ちゃんのアカウントから、姉ちゃんの中学時代の同級生を漁って、そこから小夜さんを探した。俺は小夜さんとインスタは繋がってない。だからこんなのキモいけど、LINEは多分ブロックされてるから、こっちから連絡を送るしかない。

 sayoと書かれた名前のアカウントを見つけた。タップして表示されたのは、多分小夜さんだった。

 プロフィール写真は花畑を撮ったもので、顔は映っていない。けど、投稿を遡ればわかる。

 心臓が一瞬、変な音を立てた気がした。
 手が止まり、でも画面は閉じられなかった。

 ──なにか、ひとことだけ。

 何をどう送ればいいのか、何が正しいのか分からないままだったけれど、俺はDMの画面を開いた。

《小夜さん、ひさしぶり。
 たまたま見かけて、つい送ってしまいました。
 元気にしてますか?》

 送信ボタンを押した指先がじわりと熱くなる。

 通知が来ることを期待しているわけじゃない──
 そう自分に言い聞かせながらも、既読の表示がつくかどうか、やっぱり気になって何度もスマホを見返してしまう。

 姉ちゃんが風呂に入っている間ソワソワしながら、俺キモくないか、と気付いて後悔した。
 ブロックされているのに、未練がましく教えられてもないアカウントを探し当ててDMを送る。ああ、本当にキモい。

 後悔していた時、ブブッとスマホが震えた。


《元気だよ。久しぶりに会う?》