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 父さんと姉ちゃんがいなくなったのは、盆休みを過ぎた頃だった。父さんは転勤先の九州からしばらく戻らない。姉さんも、次は冬休みまで帰ってこないと思う。
 エアコンの利いたリビングには、テレビの電源も入っておらず、ただ時計の針が静かに進む音だけが聞こえている。昼間の熱気をまだ少しだけ残した家の空気に、夏の終わりの湿気がゆるく漂っていた。
 この家には今、俺と小夜さんの二人しかいない。

 リビングのソファの上には、見慣れない薄ピンクのワンピースと、淡いベージュのカーディガンが丁寧にたたまれていた。その横に、小夜さんの持ってきた小さなメイクポーチ。中から覗くのはリップやチーク、コンシーラーの細い瓶。まるで準備されていたみたいに、それはそこにあった。

「ねえ、今日はこれ着てみて?」

 言葉よりも先に、フリルの付いた服が俺の胸元に押し当てられる。小夜さんは楽しそうに目を細めて、俺の髪を軽く指ですくった。
 俺はその動作に、少しだけ息を詰める。

「似合うと思って選んだんだよ」

 小夜さんはそう言って、俺の手から服を取り上げると、躊躇いもなく俺の部屋の方へと歩き出す。
 俺は渋々その後をついていった。

 俺の部屋は和洋折衷の六畳間。薄いレースのカーテン越しに、外の街灯の明かりが柔らかく差し込んでいた。片隅に置かれた折りたたみ鏡の前に、小夜さんがちょこんと座る。
 俺は、着替えを終えると鏡の前にしゃがまされた。
 ワンピースの裾が脚をすべって落ち着かず、腕まわりがなんだかスースーする。慣れない感触に落ち着かないままじっとしていると、小夜さんは俺の顎をそっと指先で持ち上げると、軽く頷いて「うん、今日の肌、調子いいね」と言った。
 鏡越しに目が合う。俺はその視線を避けるように、わずかに目を伏せた。

「ちゃんとわたしが渡した化粧水、使ってる?」
「……一応」
「ふふ、えらい」

 小夜さんはメイク道具の入ったポーチを開けると、手慣れた動きで下地を指に取り、俺の頬に伸ばしていった。指先は柔らかくて、丁寧に俺の輪郭をなぞる。

 小夜さんは男にメイクをさせるのが好きらしい。
 だけど、こんな趣味に付き合ってくれるのは俺しかいないから、俺だけにしかしていないらしい。

「リップも塗るから、口、ちょっと開けて」

 言われた通りに口を薄く開くと、グロスの冷たい感触が唇に触れた。距離が近い。香水の匂いじゃない、小夜さん自身の香りがふわりと鼻をかすめる。

「はい、できた。……やっぱり、かわいいね」

 鏡に映る自分は、いつのまにか〝女の子〟になっていた。長めのウィッグが肩にかかり、口元には控えめなピンクの色味。
 自分じゃない誰かみたいなその姿に、思わず目を背けたくなる。

「……もう、これやめない?」

 ぽつりと零した声に、小夜さんは手を止めた。

「どうして?」
「いや……俺、こういうの、あんまり……」
「でも、私、陣くんがこうしてくれるの、嬉しいよ」

 小夜さんの目は、笑っているようで、笑っていなかった。
 俺は何も言えず、ただ頷くしかなかった。
 拒めば、折角結び直した糸がまた切れてしまう気がして。

「……うん。分かった」
「ありがと」

 小夜さんは満足そうに頷いて、ブラウスの襟元をそっと整えてくれた。
 俺のことを〝女の子〟として撫でるその手は、どこまでも優しくて、どこまでも残酷だった。

 だけどこれでいい。
 小夜さんのこんな趣味に付き合ってあげられるのは俺くらいしかいない。
 小夜さんにとって有用でありたい。そうすればきっと、小夜さんもいつか俺を欲してくれる。

 追う恋より追われる恋。
 好きになってくれる男を、こうやって尽くしてくれる男を好いた方が幸せだって、小夜さんもきっといつか気付いてくれるはずなのだ。