深夜一時を回る頃。
俺は近所のファミレスの、ちょっとだけクーラーが効きすぎている席で小夜さんを待っていた。
小夜さんはいつも、自分から俺を呼び出しておいて俺より遅れてやってくる。俺は既にぬるくなったコーヒーに突き刺したストローを、くるりと意味もなく一周回した。
ふと窓の外を見ると、道路を挟んだ向こう側に小夜さんがいた。夜風にさらされて揺れる髪。その色は、俺が小夜さんと初めて出会った頃より随分と明るくなっている。
信号が青に変わる。スマホを見て今更急ぎだしたらしい小夜さんが、小走りで俺のいる店へ入ってくる。店内に数組ほどしかいない客の中から小夜さんはすぐに俺を見つけ、ふわりと上品な笑顔を見せて手を振った。
「ごめんね、いつもこんな時間に」
「別にいいよ。バイトだったんでしょ」
俺がそう答えると小夜さんは少しほっとしたような顔をして、やる気なさげな店員を呼び出し軽食を注文した。そして喫煙席であることを確認してから、赤と黒の二色で統一されたパッケージの煙草の箱を取り出して、中から一本抜いた。俺はそのパッケージを何年も前から知っているけれど、未成年の俺にはそれがどんな味かなんてわからない。
俺はテーブルの隅にあった灰皿を彼女の前に移動させ、長い足を組み替えて再び暗い窓の外を見つめた。控えめに言っても美女に分類される小夜さんの、形の良い唇から細く長く吐かれた煙が、俺たちの頭上で薄まって消えていった。
「最近どう?」
目を合わせない俺に、小夜さんが問うてきた。
聞かれてようやく小夜さんに視線を戻し、素っ気なく答える。
「別に」
「別にって。そればっかり。可愛くないなあ」
くすくすと笑う小夜さんの煙草の吸い方が、ネイルの色が、髪の明るさが、口紅の艶が、仕草が、表情が、見覚えのある誰かと一致していることに、俺は気付いている。
「彼女とかできてないの?」
「居たら小夜さんに呼び出されてほいほい来ないから」
「それもそっか」
小夜さんは人並みに恋バナが好きで、俺の初恋の話も、中学の時初めて俺が付き合った彼女の話も楽しそうに根掘り葉掘り聞いてきた。俺が高校生になった今、こうして時に二人で会うようになった今も、「好きな女の子できたら教えてね」と言ってくる。そうしたらこの関係を終わらせるつもりなのだろう。
俺は多分、小夜さんの都合のいい男ランキング第三位くらい。付き合いの長さで言うと第二位くらいだ。去年の初夏から一年以上は続いているから多分長い方なのだと思うけど、一位と断定できるほどの自信はない。
ファミレスの店内は、どこか無菌室のような清潔さを装っているくせに、テーブルの隅には拭き残したケチャップの跡がうっすらと乾いていた。
BGMは色気のないポップス。大人になったらこんなところじゃなくて、もっといいところで小夜さんを食事させてあげたい。俺がガキだから、小夜さんも甘えることができないのだろう。
向かいに座る小夜さんは、白い皿の上にのったオムライスを、スプーンで少しずつすくい上げて口に運び、首を傾げていた。
「このデミグラスソース、なんか前より味濃くなってない?」
俺の方はハンバーグ定食を食べていたけれど、味は正直よくわからなかった。小夜さんと話している時、味覚はいつもどこか遠くに行ってしまう。
とりあえず「そうかも」とだけ答えて、ご飯を一口、口に入れた。
「ここ来る時、ちゃんと服選んでる?」
そんな話題を急に振られる。
小夜さんはオムライスを食べる手を止めて、俺のTシャツをじっと見つめていた。
「え?……まあ、そんな気にしてないけど」
「だよね。すぐ分かる。そういう飾らないところ、楽で好き」
そう言って小夜さんはふふっと笑って、自分の耳の後ろの髪をかきあげた。
ラフな格好の俺と違って、小夜さんはどこへ行くにも場違いなくらいに完璧だ。どこかへ行っていた帰りというのもあるだろうし、それに加えて多分、外見がキマっていないと落ち着かない人なんだと思う。
深夜一時のファミレスで一人だけ、まるでファッション誌の紙面から切り抜かれてきたみたいだ。鎖骨のラインがほんの少しだけ見える、小夜さんらしい綺麗にアイロンのかかった薄い服。爪にはグレーがかったピンクのネイルが控えめに光り、アクセサリーは、光を反射しないマットな質感のピアスが一つずつ、耳たぶに沈んでいる。
来る時肩にかけていた薄茶のレザーバッグは、明らかにこのファミレスに似つかわしくない値段の香りがしていて、大人だな、と遠く感じた。
彼女のグラスの中では、氷がすでに半分以上溶けていた。
彼女はそれをストローでかき混ぜ、まだ少し残っている炭酸をすすりながら、「この時間のファミレスって、死んだ人が集まりそうだよね」と、冗談っぽく、怖がりだった俺を怖がらせたがっているかのように言った。
俺は「うん」と曖昧に頷き、味の薄れたハンバーグをもうひと切れ、口の中へと押し込んだ。
小夜さんがまた黙ってオムライスをすくう。ケチャップが彼女の口元に薄っすら付いたのを本人は気づいていない。
多分俺が教えるべきなんだろうけど、何となくそのままにしておきたかった。いつも遠い小夜さんの存在が少しだけ身近に感じられたから。
遅すぎる夜食を済ませた後はいつものパターンだ。
白み始めた空の下、まだ車通りの少ない道を俺たちは歩く。俺は一言も喋らずに小夜さんの手を引く。何度か来たことのあるラブホテルは、赤いネオンが壊れかけていて、一部の文字が常に点滅している。
入り口をくぐってカードキーを取り、淡々と部屋に入る。
中では何もしない。ただ眠るだけだ。
俺の父親は全国転勤のある会社員で、家にいない時間の方が長い。中学の間はそういう時、一時的に祖父母の家に預けられていたけれど、高校生になったらもう大人扱いで、姉が進学して家を出た後、俺はずっと一人だった。
でも今日は家に父親がいるから泊められない。
だからホテルに来た。ただ一緒に眠るだけなのに。
小夜さんは、こうして誰かに隣で眠ることは珍しくないらしい。
その相手に俺が選ばれる時もあれば、他の男が選ばれる時もある。
俺が目を覚ますと小夜さんは窓際の椅子に座っている。曇り空をぼんやり見上げながら、やはりあの煙草を吸っている。いつも、俺が声を掛けるまでそうしている。
「小夜さん、今日大学は?」
「あれ? もう起きたんだ」
小夜さんは呼びかけるとようやく気付き、にこりと笑って小首を傾げる。何度も見ているはずのそのお決まりの動作を、何度見ても可愛いと思ってしまう。
「でも寝ぼけてるでしょ。今日土曜だよ」
クスクスと笑って、煙草を灰皿に押し付けた小夜さんは、「先に出るね」と言って精算を済ませる。休みならもうちょっといてよ、と言いたい気持ちを呑み込んで、代わりに「俺が払うよ」と言うと軽く睨まれた。
「バイト禁止の高校生が、生意気なこと言うんじゃないの」
俺は小夜さんにとってガキなのだ。昔からずっと。
でも小夜さんが他の男を蹴って、金を払ってまで俺と寝てくれることが、ちょっと嬉しかった。
「小夜さん。この服、どうすればいい?」
「また次も着てもらうから、持って帰っといてほしいな」
次があることに内心はしゃいでいる俺は、多分初恋を拗らせている。

