無言で立ち尽くす俺を、何を考えているのかよく分からない目でじっと見つめた小夜さんは、「……もう帰るね」と小さく言って立ち上がった。
俺は咄嗟にその手首を掴んだ。
「帰るなよ。まだいて。これで最後にするから」
必死だった。とにかく目の前の憎たらしい女を止めたくて、一矢報いたくて。
小夜さんはしばらく黙った後、ゆっくりとした動きでポケットから煙草の箱を取り出して、そのうちの一本に火をつけた。その煙草はやっぱりあの、赤と黒の二色で統一されたパッケージのものだった。
「小夜さんはすぐ、人のことブロックして人間関係リセットしようとするよね。そのくせ自分がまた欲しくなったら気まぐれに会おうとする。そうやって、姉ちゃんからも逃げたんだろ」
俺は俯いたまま言葉を投げつける。小夜さんの顔が見られなかった。
「姉ちゃん、来年、今の彼氏と結婚するって言ってるよ」
小夜さんの大好きな姉ちゃんは、小夜さんの大嫌いな、〝男〟のものになるんだよ。
小夜さんは知らなかっただろう。俺が小夜さんと姉ちゃんの関係に気付いていたことも、小夜さんが俺を姉ちゃんの代わりにしていることに気付いていることも。
俺を見てほしいという気持ちがあった。いい加減な姉ちゃんなんか諦めて俺を見てほしいと思ってしまった。俺はこれほど貴女を見ていたんだって気付いてほしかった。だからわざと、傷付けるようなことを伝えた。
「……そう」
見上げた先にいる小夜さんは少し悲しげな横顔をしていた。
小夜さんがもう一度煙草を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。ゆらゆらと揺れる煙。
本当は煙草なんて吸う人じゃなかったのに、それも姉ちゃんの真似っ子? そう思うと、自嘲的な笑いが漏れる。
「そっか。陣くん、気づいてたんだ」
小夜さんが笑った。無理やり作った笑顔だった。
いいぞ、と思った。姉ちゃんの話は小夜さんに効いてる。もっと傷付け、と思って早口で告げた。
「言っとくけど、姉ちゃん、別に女が好きなわけじゃねーから。小夜さんのことなんて元々……」
「知ってるよ。わたしは不幸を武器にしたの。〝人と違う可哀想なわたし〟を演出して、同情を買って言いくるめた。でも不幸を武器にしたってね、大抵の人間が話を聞いてくれるのは最初だけだよ。いずれ面倒になって抱えきれなくなって投げ出すの。それを教えてくれたのは陣くんのおねえちゃん」
小夜さんは立ったまま語る。俺の隣には戻ってこない。
「わたしもね、たぶん、同性が好きってわけじゃない。男性嫌悪が激しくて、女の子の方がましってだけ」
「……じゃあ、姉ちゃんは何なの」
「あの人だから好きになったの」
完全に負けた気がした。小夜さんが俺を好きにならないのは、俺が異性だからってわけじゃないらしい。
きっと時を戻ってやり直しても、小夜さんは俺を好きにならない。
小夜さんの目がようやくこちらに向けられた。泣きそうなその顔を見て、胸がずきりと痛んだ。
大成功だった。俺は小夜さんを傷付けることに成功した。――だけど、全然いい気持ちはしない。むしろ俺は後悔した。また。また後悔だ。
「男の人に女装をさせるとね、この人は自分よりか弱くて守るべき愛おしい存在だって安心するの。女装させた時だけ、いつも嫌いな男って生き物が可愛く見える。だからわたしは、これがやめられなかった。……付き合わせちゃってごめんね」
明らかにさっきまでよりも声が小さくなった小夜さんが、俺の腕を振り解いた。
「今までありがとう」
去り際掛けられたそんな言葉に心臓が押し潰されるかと思った。もう会うことはない、そんな予感がして。そして俺の小夜さんに関する嫌な予感は大抵当たるのだ。
小夜さんが出ていった後のホテルの一室で、一人残された俺は少しだけ泣いた。あの時みたいに「送るよ」と言って追い掛けることができなかった後悔にも苛まれた。そうしたらまた、「男の子になったね」と言ってあの時みたいに笑いかけてくれただろうか。
泣きながら、小夜さんがいつもの椅子の前のローテーブルに置いていった、赤と黒の二色で統一されたパッケージの煙草の箱をゴミ箱に捨てた。
付き合わせちゃってごめんねって何? 良かったのに、いつまでも振り回してくれても。
目を閉じれば小夜さんがそこで煙草をふかしているようで、俺はしばらく、そこから抜け出すことができずに居た。
俺は昔から、小夜さんのことに関しては、人一倍敏感だった。だから変化なんてすぐ気付いてしまう。小夜さんの私物に姉ちゃんとお揃いの物が増えたとか、一時期は減っていた小夜さんの家に来る回数が増えたとか、家で俺に挨拶する時、気まずそうに目をそらすことが増えたとか。
疑念が確信に変わったのは、まだ小学生の時。俺がいつもより早く帰宅した日の、姉ちゃんの部屋のドアが少しだけ開いていた時。静かなくせに服が擦れるような音はするから、何をしているのだろうと思って覗き見た。いつものようにドカドカ音を立てて廊下を歩かなかった辺り、俺はこの時点で少しだけ、そうなんじゃないかと予感していたのだろう。
小夜さんと姉ちゃんが、ベッドの上でキスをしていた。
モテるのに長年彼氏を作らなかった小夜さん。合点がいった。俺の恋敵は、俺の姉ちゃんだった。
変化なんてすぐ気付いてしまう。高等部の卒業式が訪れる頃には、小夜さんは長く伸ばしていた綺麗な黒髪をバッサリと肩までの短さに切っていた。姉ちゃんには新しい彼氏ができていて、小夜さんはうちの家に来なくなった。俺と小夜さんの接点はなくなってしまった。
「卒業おめでとう」
それだけは伝えたくて、友達と群がっていた小夜さんにこっそり話しかけにいった。小夜さんは俺の顔を見て、ちょっとだけ切なそうに微笑んだ。きっと俺を見ると姉ちゃんを思い出すからだろうと思った。
「ありがとう。また将棋でもして遊ぼうね、陣くん」
口先だけの社交辞令。〝また〟なんておそらくもう来ない気がした。
だから俺は後悔した。もっと小夜さんと仲良くなっておけばよかった、姉ちゃん抜きでも話せるくらい親密になっておけば、こちらから連絡しづらいこともなかったのにって。
小夜さんの噂はいつまでも耳にした。久しぶりに見かけた小夜さんは、髪を茶色く染めて、女子大生のような顔をしていた。俺の知らない男と一緒に歩いていた。
次に小夜さんを見たのは、付属大学の進学説明会の時。うちの高等部の卒業生代表としてやってきた小夜さんは、自分の進学体験談などを語り、帰りは前見た時とは違う男と並んで帰っていた。小夜さんのネイルの色は、姉ちゃんが好んだ赤だった。
小夜さんと久しぶりに喋ったのは、その年に遊びにいった大学祭の帰りだった。小夜さんの卒業式以来俺は小夜さんに連絡の一つすらしていなかったので、忘れられているかもと怖かった。でも小夜さんは俺を見るなりふわりと華のように笑い、「久しぶり、陣くん」と俺の名を呼んだ。手が震えるほど嬉しかった。
「片付けるの待っててくれたら一緒にキャンプファイヤー見に行けるけど、どうする?」
大学祭最終日の夜。それぞれのクラスが後片付けをしている時間帯だった。
「い、行く」
どもってしまった俺に、小夜さんがあははっと声を出した。
「……でもいいの。いないの? 他に一緒に行く友達とか、」
男とか。
気を遣おうとした俺に、小夜さんは笑いかける。
「やだなあ、そんな相手いないよ」
嘘つきだなって思った。
その日は小夜さんと一緒に大学のグラウンドでキャンプファイヤーを見て、お互いの近況報告をして、ファミレスで遅めの夜食を取って、家が同じ方向なので一緒に帰った。久しぶりだったということや、進路の相談に乗ってもらったこともあり、帰る頃には真夜中になっていた。
「こうやって陣くんに送ってもらうの、あの夜以来だよね」
小夜さんが泣いていた夜のことだろう。覚えてくれていることが嬉しかった。あの時何で泣いてたの、と聞こうとしたが、聞いても答えてもらえない気がしてやめた。今の小夜さんは掴みどころがなく、まるで造り物のような笑顔を浮かべる。自分の本音を心の奥底に隠すような仮面の微笑みだ。
小夜さんが俺の手を握る。びっくりして見下ろすと、小夜さんも俺を見上げていた。
小夜さんはもう俺の知ってる小夜さんじゃなくて、人を取り込むような怪しい色気を放っていた。
子供の頃の、屈託なく笑う小夜さんが好きだった。でもきっとそんな小夜さんを俺はもう見られない気がした。
小夜さんと夜を共にするようになったのはその次の夏。
その年の夏は異常だった。テレビが口を揃えて記録的猛暑と騒ぎ立て、外に出ればアスファルトが人間の体温よりも熱かった。夜になっても空気はぬるかった。
連絡を取り合うようになっていた小夜さんはある夜、何の前触れもなく俺の家に現れた。「この部屋、懐かしいね」なんて言いながら俺の部屋のベッドに入り込んできて、それきり、何もなかった。
何もなかったのに毎晩一緒に眠った。冷房の効いた部屋で息を殺すように。小夜さんの体温は思っていたよりも低くて、少しだけ安心する匂いがした。
それから小夜さんとは定期的に会うようになった。小夜さんが遅くまでバイトをしているためその後になることが多く、会うのは決まって真夜中だった。特別デートをするわけでもなく、ファミレスに集合してご飯を食べて、そのままホテルへ行くだけの、恋人でも何でもない関係だった。
小夜さんは、俺に女装をさせるたび、愛しそうに俺の目元を見る。それがいつも辛かった。小夜さんが誰を好きなのか、俺を誰の代わりにしているのか思い知らされるようで。
俺はどれだけ苦しくても小夜さんの傍にいられるならそれでよかった。
でもそんなこと、小夜さんは求めてないってやっと分かった。

