【2話】

梅雨が明けた頃、学期末試験のシーズンがやって来て部活動の時間に制限がかけられるようになった。

俺が久住の家を訪れた翌日には久住が学校に出てくるようになり、顔を合わせてすぐに……

『唯以くん、なんで黙って帰ったんだよ!起きたら帰ってるとか寂しいだろ。せめて連絡して?』

なんて教室内で大声で叫ぶもんだから、これまで俺と久住の噂話を半信半疑で聞いていた生徒たちも"あの話はガチだったのか"と信じ込んだ様子だった。

それでも、俺の友人たちは俺のことを避けたり嫌な視線を向けてくるようなことはなく。むしろ、『久住と昼飯食べなくていいの?』『いつも何して遊ぶんだ?久住ってゲームとかすんの?』と、普通に察してくれるような良い奴ばかりだった。

多様性が重視されつつあるの今の現代社会で、彼らはきっとうまくやっていける側の人間だろう。良き友を持った自分を誇らしく思った。

「時に諸君、想い人に愛を伝える時…君たちならなんと伝える?」

昼休み明けの5時間目。現代文の授業中に突然そんな質問を投げかけてきた先生に、皆が内心"また始まった"とため息をつく。

この先生はすぐに話が脱線するので、授業に関係のない話をして1時間が終わることもザラにある。特に夏目漱石や芥川龍之介の話になると、もう誰にも止められない。

「かの有名な夏目漱石の逸話のひとつに、こんな素敵なエピソードがある。」

今日は漱石ネタか、と思ったと同時にこの後先生が何を言いたいのかは聞くまでもなく知っている。

「月が綺麗ですね…と聞いて、君たちはなにを思う?」

この有名なフレーズは今や夏目漱石とは関係なく知っている人間も世の中には大勢いるだろう。それ以前にこの話はすでに何度も先生の口から語られている。

耳タコ状態の案件に、うんざりした様子の生徒達。そんな中…机に突っ伏して寝ている久住に先生の視線が刺さった。

「どうですか…久住くん。」

と、名指しで指定された久住に周囲から同情の目が向けられる。そんな中、身体を起こした久住は、先生の話など微塵も聞いていなかった様子で…何を尋ねられたのか分かっていないみたいだった。

「月が綺麗ですね、と言われたら…君ならどう返します?」

ボーッと現代文の男性教諭の顔を三秒ほど見つめたあと、久住は不意に窓の外に視線を向けた。そして、、

「まだ昼間なので俺には月は見えません。」

そう言って再び机に突っ伏した久住に、クラスメイト達が手を叩いて爆笑する。なんとも久住らしい回答に、俺も笑いが止まらなかった。

「ロマンの欠片もない男だなぁ、まったく。」

と先生がため息をついたところで授業の終了を告げるチャイムが鳴り響く。今日の部活帰りはこの話をして久住をいじり倒してやろうと心に決めた。


放課後になり、テストが近いのでいつもより部活を早く切り上げて練習着から制服に着替えて体育館を出ると…駐輪場で俺の自転車に跨ってスマホを操作している久住を見つけた。

以前部活帰りに先輩に絡まれたあの一件以来、事故で数日休んでいた日を除いて、ほぼ毎日のように久住は俺と帰りを共にしてくれている。

「おー、唯以くんお疲れ。なんか今日早くない?サボり…なわけねぇか。顧問の気まぐれ?大変だな。」
「……テストが近いからね。」

自転車の鍵を渡すと、それを受け取った久住が俺の自転車を手で押して歩き始める。クロスバイクなので二人乗りなんて出来ないし、もちろんするつもりもない。

家まで自転車で15分、徒歩で30分の俺の住むマンションまで久住はいつも俺の自転車を押して歩いてくれる。帰りは友人がバイクで迎えに来るから気にするなと言っているが、それが本当なのかどうかは不明である。

「時に久住、月が綺麗ですねと言われたら…君ならなんて答える?」

昼間のネタを引っ張ってくると、顔を歪めてため息をついた久住。その反応が面白くてつい笑ってしまう。

「いや、なんでクラスの奴らに笑われたのか…俺未だに分かってないんだけど。あれ、何だったの?ただの世間話じゃねぇーの?」

やはり意味が分かっていなかったらしい。単純に月の話をされたと思っていたのだろう。……馬鹿だな。

「月が綺麗ですね…って言葉の裏には"愛してる"って意味が込められてるんだって。」
「……は?なにそれ、誰が言い出したんだよ。」
「夏目漱石じゃない?色々諸説があるみたいだし、真相は不明だけど。」
「ただでさえ難しい日本語をこれ以上難しくしないでくれ。訳すのは英語だけで手一杯だって。」

最もな意見に頷きつつも、頭を抱える久住を見ていると自然と頬が緩む。

「……なんで月なんだろーな。」

ふと、そんなことを口走った久住。まだこの話題を続けるとは思わなかったので拍子抜けする。

「わざわざそんな難しい言い回しされるより、普通に告られた方が嬉しい気がするけど。」

ストレートな愛の言葉の方がグッとくる…なんて、そんなことを俺に言われても知らない。

「まぁ…桜が綺麗ですね、って言われたらちょっと揺らぐかもなぁ。」
「……なんでまた桜?」
「ん?なんでって、俺…桜二だし?」
「あぁ…そういうこと。」

名前に桜が入っているからという単純な理由に呆れる。そんな久住にしか分からない言い回しをして告白するような人間がいるなら、会ってみたいとさえ思った。

「あー…テスト、ヤバそうなフラグしか立ってないんだけど。俺、進級できるかな。」
「週末、一緒に勉強する?テスト期間で部活ないし。」
「……マジで?いいの?じゃあ遠慮なく、お願いします。」

俺と久住が同じ時間を共にするのは基本的に部活帰りのこの時間だけ。学校内では各々これまで通りの友人と過ごしているので、たまには週末を久住と過ごすのもいいかな…と思ったのだ。

なんだかんだ言って、久住の隣は居心地がいい。


***


そして迎えた週末。

両親が出かけて留守の俺の家に久住が来ることになり、昨夜は部屋の掃除に追われた。基本、自分の部屋に人をあげるのが嫌で…いつも自分が出向くタイプだった俺。実は友人を招くのは久住が初めてだったりする。

「お邪魔しまーす。」

部屋に入るなり色々物色し始めた久住。早速、家に招き入れたことを後悔し始める。

「唯以くんの部屋、唯以くんの匂いが充満してる。」
「ふざけたこと言ってると追い出すぞ。」
「ごめんごめん!もう言わねぇーから、機嫌直して?」

慌てて謝罪する久住に、紙パックのミルクティーを手渡して座るように諭す。嬉しそうにそれを受け取って座った久住は鞄の中から教材を取り出して勉強体制に入った。

一緒にワークを広げて、テスト範囲内の課題をやっていると…ふと一点を見つめて動かなくなった久住。何があったのかと顔を覗き込むと、ジッと目を見つめられて…そのあまりに真剣な眼差しに耐えきれず、思わず視線を逸らしてしまった。

「……なんだよ。」
「唯以くん、ってさ……」
「だから…なんだって、」
「字、めちゃくちゃ綺麗だよな〜」
「……は…?え、字?」
「ん?うん、すげぇ綺麗な文字書くなぁと思って。え?なに、なんか別のこと言われると思った?」

全く予想していなかった発言に拍子抜けする。と同時に一瞬でも変な勘違いをしそうになった自分を恥ずかしく思った。

「……へぇ、唯以くんもそんな顔するんだ。」

何だか嬉しそうな声色に聞こえて、再び視線を久住に向けると…ニヤッと笑みを浮かべて俺を見ている。

「そんな顔って…どんな顔だよ。別に、フツーだろ。」
「いや?かわいーなぁと思って。」
「からかうなよっ…」
「からかってねぇーよ。俺だけじゃなくて良かったなぁと思ってさ…」
「……なにが?」
「緊張、してるの。俺だけかと思ってたから。」

ほらまた、不意にくる久住の素直モード。これにはペースを乱されるので困ってしまう。

ポン…と頭のてっぺんに乗っかった久住の手。それが雑にガシガシと俺の髪を乱す。

「唯以くんのそんな可愛い顔をみていいのも、唯以くんの匂いが充満するこの部屋に入っていいのも…俺だけ。友達以上恋人未満の俺の特権だから…他のやつに同じことしたら許さねぇー。分かった?」
「え…なんで、」
「分かった?ってこれ、返事は一択しか受け付けねぇけど。」
「……分かったよ。」
「ん。なら良し。」
「てか、自分の部屋に誰かを招いたのは…久住が初めてだし。多分この先も他を入れることはないと思う。」
「……唯以くん、相変わらずツンデレ無自覚で俺のことを殺しにかかってくるね。」
「え…?どういうこと?」
「ほんと、この鈍感ボーイは…手がかかる。」

呆れたような顔をしながら再び俺の髪を雑に撫で回す久住。その手を払いのけようと思わないのは…それが少しだけ心地いいと感じたから。

たまには学校の外で久住と一緒に過ごすのも、悪くないなぁと思った穏やかな週末だった。