日本列島に梅雨シーズンが到来し始めた頃、久住が三日連続で学校を欠席するという日が続いた。

頻繁に連絡を取りあっていたはずなのに、それも途絶えてしまったことに多少の違和感を覚えつつ…彼の家を知らない俺は【なんかあった?】とメッセージを送ることしか出来ずにいた。

何度か同じような内容のメッセージを送ったのだが、既読がつくことは無く、返信もない。担任にさりげなく尋ねてみると『しばらく休む』と電話が来ただけでそれから音沙汰がないらしい。

さすがに少し心配になってきた俺は部活終わりの帰り道、意を決して久住に電話を掛けてみることにした。

しばらく鳴らし続けてもそれに応える久住の声が聞こえてこない。そろそろ切ろうかと、耳からスマホを遠ざけた時……

『……い、くんっ』

電話の向こうで微かに声が聞こえた。

「…え、久住?おい、大丈夫か?なんかあった?」

聞こえてきた声が何とも弱々しいものだったので、思わず声を荒らげてしまう。

『悪ぃ…迎え、行けなくて。』

どこか体調でも悪いのか、言葉が続かない様子で俺に謝罪する久住。その内容に呆れてため息が出る。

「俺のことはいいから。住所、教えて?具合悪いんだろ?なんか買って持っていく。」
『えー…いいよ、別に、だいじょーぶ、』
「5分以内に位置情報送って。家着いたら電話するからそれまで寝て待ってろ。」

一方的に通話を終わらせて自転車に跨り近くのドラッグストアへと向かう。経口補水液やスポーツドリンク、ゼリーやプリンやインスタントの粥などを適当にカゴに放り込み、電子決済で会計を済ませる。

ホーム画面に久住から位置情報が送られてきているのを確認して…彼の家が一駅先にあることを知る。

いい運動になる、と思いながら自転車で久住の家まで向かっていたのだが…タイミング悪く、微量の雨が降り始めた。まだ梅雨入りはしていないので油断していたが、6月の空模様は容赦ない。

急ぎ足でペダルを漕ぎ、本格的に雨が降り始める前に久住の自宅だと思われるアパート前までたどり着くことが出来た。着いたとメッセージを打とうと思ったが、通話の方が早いと思い改め、電話を繋げる。

『……唯以くん?』

ワンコールで出た久住に「着いた。部屋番教えて」と告げると、電話の向こうで久住がハッと息を飲んだのが分かった。

『え……マジで来たの?ちょっと待って、すぐ出る。』

通話が切られてから数秒後、ガチャ…と音がして、沢山部屋が並んでいるうちの一つのドアが開かれた。そこから顔を出した金髪頭を確認し、ひとまず俺は駐輪場へ自転車を停めに向かう。

しかし、駐輪場で見つけた一台のバイクを見て…雨に打たれていることも忘れ、言葉を失い立ち尽くしてしまった。

至る所にキズやへこみが見られるオートバイ。このバイクは久住が所有しているものだということを俺は知っている。洗車しただの、ミラーを変えてみただの…何かある度に写真付きのメッセージが送られてきていたので、画面越しではあるが、何度もこのバイクを見てきた。


それが…こんなにも悲惨な姿になっているということは、久住の身に何が起こったのか大体の想像がついた。と同時に乗ってきた自転車をその場に放置して、久住が顔を覗かせた部屋まで走った。

「唯以くんっ、傘は?すげぇ濡れてるけど大丈夫、」
「大丈夫って…それ、こっちのセリフだから!なんだよ、あのバイク!まさか事故った?!」

ドアの前で立っていた久住の顔は、すり傷がたくさん出来ていて…痛々しいほどに腫れている。半袖のTシャツから出ている腕も、短パンの下から出ている足も。手当すらまともにされていない生傷が無数に存在する。

「ああ…うん。4日くらい前に…車と軽く接触、」
「車と?!え…当て逃げされたとか?ちゃんと警察には連絡したのか?病院は?まさか…行ってないとか言わないよな?」
「当たり前じゃん。唯以くん、俺のこと何だと思ってんの?さすがに行ったよ、病院。警察にも連絡した。っていうか入って話そう。唯以くん、それ以上濡れたら風邪ひく。」

俺を家に招き入れた久住は、フラフラとした足取りで廊下を歩いていき…バスタオルを手にして戻ってきたかと思えば、俺の頭にそれを被せてガシガシと雑に手を動かし始める。

「いや、俺のことはいいからっ!」

久住の手を払い除け、タオルで身体を軽く拭いた後「お邪魔します」と一応声をかけてから、靴を脱いで上がらせてもらった。

扉のついた部屋が二部屋あるみたいだったが、その先のリビングへと久住は真っ直ぐに向かっていくので後に続いてお邪魔させてもらう。

「適当に…座って。」

身体が辛いのか、久住はそれだけ言うとリビングのソファーに仰向けになって倒れた。すぐ近くに腰を下ろし、一体何があったのかと聞けば…信号待ちをしていた久住の元へ、反対車線からノーブレーキで車が突っ込んできたという。

「向こうの運転手の居眠りと信号無視が原因だから。俺は何も悪くないってことで、バイクも修理に出すしそのうち元通りになるから…そんな怖い顔しないでよ、唯以くん。」

ヘラヘラと笑いながら語る久住。その顔色はとんでもなく悪い。

近くにあるローテーブルの上には、無造作に置かれたままになっている処方箋の袋。おそらく中に入っているであろう薬を彼は飲んでいないのだろう。

「……親は?」
「んー?仕事じゃねぇーの?」
「…お前が事故ったこと、知らないのか?」
「さすがに知ってるよ。病院にも来たし。」
「それで…この状態のお前を置いて、仕事に行ったって?」
「忙しいんだよ、あの人。うち…父親しかいねぇからさ。甘えたこと言ってられないし。」
「親に頼ることは甘えとは言わない。むしろ、親なら面倒を見る義務があると俺は思う。」
「……唯以くんには分かんねぇーよ。説教しに来ただけならもう帰って。頭痛い。」

腕を顔に乗せて視界をシャットアウトした久住。全く、世話のやけるやつだ。放っておけるわけがない。

「…食欲は?どうせまともに飯も食べてないだろ。適当に買ってきたから用意するけどいい?キッチン借りるぞ。」
「………それ、唯以くんも食べて帰る?」
「…何で俺が食べるんだよ。作ったら帰る。」
「ふーん…なら食べない。」
「…お前なぁ、」
「唯以くんが一緒に食べてくれるなら、食べる。」

結局、久住を放っておけない俺は流されるようにインスタントの粥を二人分用意し、一緒に夕飯を共にすることになってしまった。

「あー…沁みる。唯以くんが作ってくれた粥、マジで美味い。今まで生きてきた中で一番のご馳走。」
「それ、単に腹減ってただけだろ。インスタントだし。俺、温めて皿に移しただけだし。」
「生きてるって実感湧いてきた。明日から学校行けそうだわ、これ。」
「……マジで骨折とかないの?」
「ん?うん、一応ギリギリのところでバイクから飛び降りて避けたからね。打撲と捻挫とすり傷多数。」
「…発熱してんだろ。ちゃんと薬飲めよ?」
「うん。唯以くんに言われたから、飲む。」

食事をして少し顔色が良くなった久住を見て、安心した。食べ終わってすぐに久住が薬を飲み始めたのを横目に、俺は食器を洗い始める。

「置いといていいのに…」
「いや、俺が使わせてもらったから。片付けまでやってから帰るよ。」
「……唯以くん、泊まっていけば?」
「帰るよ。明日も朝練あるし、着替えたいし。」

とはいえ、このまま帰るつもりは無い。ウロウロと俺の周りを歩いている久住に救急箱を持ってこいと指示を出し、ソファーで待機させておく。

洗い物を終わらせて久住の元へ向かうと、寝息を立てて眠っているようだったので…そのまま傷の手当をさせてもらうことにした。

初日に処置を受けたまま放置していたと思われる傷に、絆創膏を貼っていると…目を覚ました久住が俺の手を掴んだ。

「……なにやってんの?」
「なにって…生傷、放置してたら菌が入るだろ。だから、」
「唯以くん…俺、そこまで頼んだ覚えないんだけど。」
「頼まれた記憶もないよ。これは俺が勝手にしてることだから、久住も黙って受け入れて。」

よし…っと、最後の絆創膏を貼り終えたところで…掴まれていた手をグッと引かれ、不覚にも体勢を崩し、横になっている久住の胸元に額をぶつけるようにして倒れ込んでしまった。

「あ…ごめん、、ってか急に引っ張るなよ。」

と謝りながらも文句を言って離れようとしたのだが、後頭部に久住の手が乗っかってきて離れることを阻止される。

「え……なに。息苦しいんですけど。」
「……唯以くんが悪い。」
「なんで…」
「来てくれて、ありがとう。」

こんな風に。急に素直になったりするから…扱いに困る。

「まぁ…いつも助けてもらってるのは俺の方だから。」
「……そーでもないよ。」
「…え?」
「なんでもない。唯以くん、俺が寝るまで……もう少しだけでいいから…まだ、帰らないで。」

親に頼ることを知らない久住が俺にみせた精一杯の"甘え"を無視できるほど、俺は冷徹な人間では無い。

「仕方ないな。子守唄でも歌う?」
「いいね。お願いしよーかな。」
「嘘に決まってるだろ。ここに居るから…早く寝てさっさと元気になれ。」
「ブレねぇーな、ツンデレ唯以くん。」

その後すぐに眠りについた久住。ほっとしたのも束の間。家の鍵をどうするとかそういう話をしていなかったことを思い出し…頭を抱えた。

結果、親に連絡を入れて…久住の家にそのまま泊まることにした。リビングの床で寝転がって寝ていたのだが…ガタン、と物音がしたのでハッと目が覚めた。

ポケットの中からスマホを取り出し、時刻を確認すると、明け方の5時を過ぎたところだった。ゆっくりと身体を起こして周囲を確認すると、人の気配を感じ…視線をリビングの入口へと向ける。そこにはスーツ姿の男性が一人、帰宅した様子で俺を見て驚いたように目を見開いてドアの前で立ち尽くしていた。

「あ…えっと…桜二くん…のお父さんですか?勝手にお邪魔してすみませんっ、、」
「いや…いいんだ。桜二の友達だろ?世話をしてくれたみたいで、悪かったね。ありがとう。」

テーブルの上に置いたままの救急箱や、ダイニングに放置したままのスポーツドリンクやインスタント食品の数々を見て"世話をした"と悟ったのだろう。

なんとなく、勝手に…久住の父親は冷たい感じの人だと思っていた。しかし目の前にいるのは、息子の様子が気になって仕方がないといった様子の心配性な父親の姿。

きっとお互いに不器用なのだろうと、この親子のことを詳しく知るわけではない俺は客観的にみてそんな風に感じた。

「あの……では、そろそろ失礼します。」

父親が帰ってきたならもう大丈夫だろうと、帰り支度を始めた。

「まだ外は暗いし、もう少し寝てなさい。家まで車で送り届けるよ。親御さんにもご挨拶を、」
「いえ。自転車で来てるんで大丈夫です。親にも連絡してあるのでご心配なく。それに、部活の朝練があるのでこの時間に出て問題ありません。留守の間にお邪魔して、すみませんでした。」

頭を下げてから立ち上がる。未だ眠っている久住は、薬が効いているのか顔色が随分良くなっているように思えた。とりあえず……来てよかった。

「でも、少し雨も降ってるみたいだし、」
「僕のことはいいので、久住が目を覚ました時…近くに居てあげてください。寂しい…みたいなこと言ってたんで。お父さんが居ると安心すると思います。」

と言ってから父親の前で"久住"呼びをしてしまったことを申し訳なく思う。ここは下の名前で呼ぶべきだったな。

呼び方について反省していた俺のことなど、久住の父親は全く気にしていなかったようで。

「桜二にも、こんな優しい友達が居たんだな。これからも息子と仲良くしてやってください。」
「こちらこそ…よろしくお願いします。」

俺が久住の父親とそんな言葉を交わしているなんて、目の前で熟睡している男はきっと夢にも思っていないだろう。

「お邪魔しました。」
「ああ、本当に…気をつけて。」

まだ薄暗い明け方、久住の家を出て駐輪場へと向かう。持ち主と同様に傷だらけになったバイクにそっと触れ、そのボディを撫でてやる。

「……久住を守ってくれて、ありがとう。」

なんて…無意識に口から飛び出した独り言を聞いて、俺自身とても驚いた。バカなことを言ったな、と急に恥ずかしくなり倒れていた自分の自転車を起こしてそれに跨る。

モヤついた空模様とは裏腹に、俺の心は晴れやかで…雨に濡れて肌に張り付く制服のブラウスを気にかけることもなく、穏やかな気持ちのまま、早朝の街並みを自転車で駆け抜けた。