ガチャリ、と重い音がして、屋上の鍵があいた。
 扉が開いたとたん、風が私の髪をなぎ払った。


「…屋上、初めて来ました」
「でしょ」


 彼は笑いながら、慣れた様子で屋上の一角に座る。
 私は初めて来る屋上に、ついキョロキョロと辺りを見渡しつつ、隣に腰を下ろす。


「食べていい?」


 そう言って、早速彼は弁当の蓋を開けた。


「えっ、すご…」


 想像以上の出来栄えだったからか、彼が一瞬固まる。
 今日のメインは、レンコンの挟み焼き。甘辛いたれのついたレンコンが食欲をそそる色味をしていた。
それに、トマトとチーズを串に刺したやつ。昨日と同じ玉子焼きと、きゅうりのあえ物。豆と昆布のご飯。デザートに、ドライフルーツとナッツの入った個包装のおやつ。


「この出来栄えなのに気に入らなかったの…?」


 目を疑うようにまじまじと弁当を見つめる彼。
 咄嗟についた嘘だったし、まさかあの時はこうしてお昼ご飯を交換することになろうとは微塵も思っていなかった。今思えば、もう少しましな取り繕い方をすればよかった。


「…まあいいや、いただきます」


 彼はまず玉子焼きをつまみ、口に入れた。
 そして、咀嚼しながら弁当をまた見つめる。


「…待って、めっちゃおいしいんだけど」


 そりゃそうだ。
 うちの父の料理スキルは、飛びぬけているんだもの。毎日食べている私は、よく知っている。


「君、すごいね。俺絶対こんなの作れないよ」

「あ、えっと…ありがとうございます…」


 手放しで褒める彼に、つい居たたまれなくなって私はおにぎりを口いっぱいに含んだ。
 コンビニのおにぎりなんて久々だ。

 海苔の香りと鮭の塩気が口中を満たした。


「そうだ、名前聞いてもいい?」


 彼はそう言いながら、二つ目の玉子焼きを口にする。ずいぶん玉子焼きがお気に召したらしい。


「えと…上谷咲良です」

「上谷さんね。俺は嶋田孝之」

「えっ」


 その名前、つい最近聞いた。そう、ちょうど先週。


「し、嶋田先輩って言うと…、次の生徒会長の…?」

「いやまだ選挙してないから」


 そう言って笑う彼。
 言われてみると、彼の心地よい低い声は、あの放送の声と重なって聞こえた。


「ていうか先輩ってことは、上谷さんは一年生なのか」

「あ、はい。一年三組です」


 なんとなく一目見たときから落ち着いた雰囲気があってつい敬語を使っていたけど、やはり先輩だったらしい。


「先輩、確かになんか生徒会長やってそうな感じします」

「そう?」

「たぶん、落ち着いてるから」


 先輩はまた笑って、レンコンの挟み焼きを一口。
 そしてまた美味しさに少しびっくりしたような顔をして、咀嚼を続ける。


「上谷さんは普段から弁当作ってるの?」

「……えと」


 一瞬、どうこたえるか迷いながらも、私は努めて平静を装った。


「いつもは父が作ってくれているんです。父はすごく料理がうまいので、その、それと比べてしまうと自分で作ったやつが見劣りするっていうか」

「へー、お父さんが」


 苦し紛れの言い訳だったけど、先輩は疑っていないようだった。
 事実を織り交ぜると、嘘だとバレにくいとは聞いたことがある。咄嗟に巧妙な嘘をつく自分に、なんだか嫌悪感を感じた。


「お父さんが弁当って、珍しいんじゃない?」

「よく言われます。父は忙しくて私となかなか関われないから、せめて弁当だけでもって」

「いいお父さんだね」


 いいお父さん、確かに。
 私は咀嚼しながら神妙な表情でうなずきを返す。


「お母さんの分も、お父さんが作ってるの?」

「…はい」

「さすがだね。俺も卒業したら一人暮らしだし、料理練習しないとかなー…」


 一人暮らし。
 確定したようなその言い方は、地元を離れて進学するということなのだろうか。

 先輩の言葉で、ポケットに入った進路調査の存在を思い出す。


「先輩、進路決めてるんですか?」

「一応ね。第一希望で行けるかはまだわからないけど…でもなんにせよ県外には出るかな」

「ちなみに進路、聞いてもいいですか?」


 私は当たり障りのない返答を返しつつ、弁当から話題が逸れたことにほっとした。

 先輩は国立でも有数の難関大学の名前をいくつか挙げた。優秀だと言うのはウワサ通りらしい。


「せっかく行くなら、よりレベルが高い学びがしたくて。偏差値でレベルの高さが決まるわけではもちろんないけど、一つの指標としてね」


 学びたい学問も、学びたい理由もないのに進学を希望している私にとって、先輩は少しまぶしかった。
 自分のやりたいことが明確で、そのために勉強をして、生徒会に入って、という先輩を見るとなんだか自分が情けない。今の先輩と同じころ、私は果たして先輩のようになれているのだろうか。

 私は思わず、進路調査の入ったポケットをおさえた。

 そんな私に気づいたのか、先輩は話題を変えた。


「そうだ、この前の俺の放送演説、聞いた?」

「あ、聞きましたよ」


 やけに印象深かったあの校内放送。
 まさかあの時は、こうして嶋田先輩とご飯を食べるなんてこれっぽっちも想像していなかったけど。


「あれ、どうだった…?」


 そう問う先輩は、少し緊張しているようで。
 あんないい演説をする人も、不安を覚えるものなのか。


「すっごく、よかったです。一票投じたくなりました」

「ほんと?じゃあ成功だ」


 冗談交じりの私の言葉で、先輩がほっとしたように微笑んだ。よく考えると生徒会選挙は今月末だから、今は準備も佳境に入っているのかもしれない。

 そんなことを考えていると、先輩がお弁当の蓋を閉じた。
 どうやら、食べ終わったらしい。


「ごちそうさまでした。すごくおいしかったです」


 丁寧に、お弁当の包みを結ぶ先輩。
 私も慌てて残っていた野菜スティックを口に詰める。


「あ、ゆっくりでいいよ、まだ時間はあるし。10分前に鍵返せれば充分だから」


 腕時計を見ながら先輩が言った。いつものこと、という感じで。


「先輩、いつもここでお昼食べてるんですか?」

「ん、冬とか雨の日はさすがに無理だけど…まあ基本は」


 屋上を吹き抜ける風を受けて、先輩が心地よさそうに伸びをした。

 確かに、ここはすごく居心地が良かった。
 屋上も、先輩の隣も。

 先輩の低い声や、穏やかな相槌は、教室にはない不思議な心地よさをくれる気がする。
 今日初めて会ったはずなのに。


「…あの」


 思わず、口から言葉が出ていた。


「明日も、お弁当食べる気になれなかったら…先輩、食べてもらえませんか」


 私の言葉に、先輩が少しだけ目を見開いた。
 そして、柔らかく笑った。


「もしそうなら…捨てずにここにもっておいで」


 こうして、私と先輩の、奇妙な昼ご飯交換が始まった。