アイスのゴミをコンビニで捨て、私たちは店を出た。
 季節柄、夜の外気は肌寒くて、私はつい身震いした。


「アイス失敗でしたねー…これは……」


 もともとは家の中で食べる予定だったから想定外。

 先輩は苦笑いしてうなずきながら、私の隣に並ぶ。


「送っていくよ」

「……ありがとうございます」


私たちはゆっくりと歩を進める。
もう外は真っ暗で、ちらちらと星が瞬いていた。


「すごい、めっちゃ星でてる」


 私が思わずそう言ったら、先輩もつられて顔をあげた。
 先輩はじっと星を見つめたまま立ち止まった。

 私はそんな先輩を見つめていた。

 冷たくて暗い夜の中、手を伸ばせば触れられる距離に先輩がいる。
 そんな今が不思議で、綺麗で、目が離せなかった。


「……ずっとこうしてたいなぁ」


 先輩の口から、つぶやきがもれた。
 たぶん、無意識にこぼれたんだと思う。

 このまま、ここで、先輩と二人きり。
 そんな時間が永遠に続けばいいのに。

 進路とか、家族とか、心のひっかかりを全部捨てて……ただ星を見つめていられたらいいのに。


「……先輩」


 私の呼びかけで、先輩がこっちを見た。

 私と先輩の視線が交錯する。


「前に……何かあったら相談してって、言ってくれたじゃないですか」

「うん」

「あの権利、今つかってもいいですか?」


 私の言い方に、先輩が笑う。


「別に権利とかじゃないから、何回でも相談してよ」


 そう言った後、うながすように私を見つめた。


「……私の家族、仲が悪くて」

「うん」


 なんでこのタイミングなのか。

 自分でもよくわからない。
 ただ、親友にも、親しい先生にも話せなかったことを、先輩になら話せる気がした。

 それは先輩が私と似た境遇にある気がしたからかもしれないし、先輩なら何を話しても変わらず微笑んでくれる気がしたからかもしれない。

 なんにせよ……私は唇を震わせながらも、言葉を継いだ。


「私の父親、私が小学生3年生の時に不倫したんです」


 先輩は、そうなんだ、とうなずいた。
 突然の話しだったけど引かれなかったことに安心した。


「それ以来……私の両親はだんだん会話しなくなっていって。今ではもう数年、口をきいてないと思います」

「……離婚はしなかったんだね」

「しなかったっていうか……できなかったんだと思います。私がいたから」


 離婚してシングルとして私を育てるだけの覚悟が両親にはなかった。でも別にそれが間違っているわけじゃない。
 おかげで今の私は、元気に学校に通う普通の高校生になれているわけだし。


「まあ……いわゆる、家庭内別居ってやつですね」


 先輩が何かを思うように軽く視線を下げた。
 それに気づいて、私は声を明るくした。


「でも父も母も、私に対しては普通に接するんですよ。ただ、父と母が話さないだけで」

「……だけじゃないよ」


 先輩が小さく首を振った。
 その瞳はまっすぐで、私はなんだか吸い込まれるような気さえして目をそらした。


「……別に、衣食住に困ってるわけでも、暴力振るわれてるわけでも、家に私の居場所がないわけでもないんです。もっと辛い人もいるし、もっと恵まれない人もいる。両親が不仲なんてまあまあ聞く話だし……。悲劇のヒロインになりたいわけじゃないけど、友達とか先生に話すほど不遇でもなくて」

「……」

「しかもこの家で育ってきた私からしたら、これが普通なんですよ。仲がいい家族とか、憧れはあるけど……だからってどうしてそうなれないのって嘆き悲しむこともないし」


 私は先輩に向かってほほえんで見せた。
 別に無理してほほえんでるわけではない……と思う。涙をこらえるほど不遇じゃないから。

 相談なんて言っておきながら、取り繕う私。
 自分でも矛盾していると思う。

先輩になにを言ってほしいのかもわからない。


「だから別に……いいんです。いいわけじゃなくても、最悪じゃないから」

「でもさ」


 先輩が私の目をのぞき込んだ。
 ほんの少し近づいただけなのに、先輩との距離がやけに近く感じてむず痒い。


「それは相対的な話でしょ」

「……相対的?」

「もっと辛い人と比べたら恵まれてるし、嘆き悲しむほどじゃないから最悪とは言えない……確かにそうなんだけどね……、それでも嫌なものは嫌だよ」


 私は悲劇のヒロインじゃないの。
 悲劇にも、喜劇にもならないような人生。
 苦しいことも、楽しいことも偏りなくある普通の人生。

 それでも……だからって私の苦しみが消えるわけじゃない。


「一番辛い人じゃないと弱音を吐いちゃいけないわけじゃないよ」

「……っ」


 ふいに目頭が熱くなった。
 嘆き悲しむほど辛くないはずなのに。

 一番辛いわけじゃない私も、涙がでそうになることだってある。

 涙ぐんだ私の頭に、そっと先輩の手が乗せられた。
 あたたかくて、大きい手だった。


「……先輩っ、わたし……」


 私の口から、言葉が出たがっている。

 そうだ、私は取り繕うために先輩に相談したんじゃない。
 私の……誰にも言っていなかった本心を、先輩なら話せると思ったから。

 言いたくて、言いたくて、言えなくて。
 そういう話を、したかったの。


「わたし、お父さんが嫌いです……っ」

「うん」


 初めて誰かに、こんな話をした。

 愛情のこもった弁当を作る、父親が嫌い。
 そんなこと、誰にも言えるわけなかった。


「私とお母さんを裏切ったあの人が……私の家族を壊したあの人が嫌い……っ、わたしはあの人を父親なんて認めたくない……」

「うん」

「そのくせ、弁当なんか作って……どんなことしたって私は許さないのに……今さらいい父親面しようとしないで……っ」

「うん」

「そうやって……そうやって……、」


 私は思わずしゃがみこんだ。
 アスファルトの上に、ぱたぱたと雫が零れ落ちた。


「そうやっていい父親を演じられると……嫌いになり切れないの……、ただ純粋に嫌いでいたいのに……」


 先輩も私の隣にしゃがみこむ。
 そしてただ静かにうなずく。


「私が純粋にあの人を嫌えたなら……純粋にお母さんの味方でいれたのに……お父さんとお母さんの仲が良かった昔を知ってるから……、期待を捨てきれない……。あんな男でも、私にとっては父親だから……いい父親の側面を見ると、私が大好きだったあの頃のお父さんとお母さんに戻ってくれるかもって、期待しちゃう……」

「うん」


 愛情たっぷりのお弁当。
 それが私は大っ嫌いだった。

 一口食べるだけで、私の心をゆさぶってくる。
 許したくないはずなのに、許しそうになる。

 自分の弱さがあふれてきて、涙がこぼれそうになる。

 だから……捨てたかった。


「わたし……っ、わたし……は……っ」


 いつの間にか、大粒の涙がこぼれていた。
 泣くつもりなんてなかったのに。

 嗚咽がこみあげてきてうまく話せない。
 そんな私の頭を、先輩はまた優しくなでた。


「俺も同じ」


 先輩の声は穏やかなようで……少しだけ、震えている気がした。


「俺の両親は普通に仲がよくて……顔を合わせればずっと話してるし、ラインだって一度はじめたらなかなか終わらないんだ」

「……仲いい……ですね」


 かすれた声でそう言った私に、先輩が苦笑を返す。

 会話が絶えない両親なんて……私の家とは大違いだ。
 けれど先輩は眉を下げた。


「そうだね。でもなかなか帰ってこないんだよ。仕事が忙しくて」

「……」

「いくら両親の仲が良くてもさ、それを見る機会がなければ不仲と同じだよ」

「…そう、ですね…」

「俺は親の作ったご飯なんてもう何年もまともに食べてない。だからこの前上谷さんのお弁当をお父さんが作ってるって聞いたとき、正直ちょっとうらやましかったよ」


 先輩はそう言って星を見上げた。
 泣きそうなら、泣いてもいいのに。


「でもだからって最悪でもないんだ。十分なお金はくれるから……上谷さんと同じ、衣食住には困らない。誰かに相談したり、助けてもらうほど困ってない」

「……」

「小学生のときに家の話をしたら、逆にみんなからうらやましがられたよ。毎日好きなもの食べれるなんて最高じゃんって。そこで俺の家は変わってるって気づいて、以来家のことは誰にも話してないけど……、それでもまだ恵まれてるほうなんだよね」


 まさに、私と同じ。

 だって誰しも悩みの一つや二つあるもの。
 そしてそういうことほど、人には言えないもの。

 引かれるのが怖い。
 軽くあしらわれるのが怖い。
 変な空気になるのが怖い。

 でも……私は先輩なら怖くなかった。
 その怖さを、乗り越えられると思った。


「……先輩、先輩も弱音はいてもいいですよ」


 先輩は何も言わなかった。
 何も言わずに、ただじっと星を見つめていた。

 その瞳がきらめいたのが、涙のせいか星のせいかはわからない。

 それでも先輩が小さく微笑んだのは間違いない。
 その笑みは、なんだか幼げで……そして見惚れてしまうくらい綺麗だった。

 たぶんこの夜を、私は一生忘れないだろう。