「お外に遊びに行ってきます! ソニア、行こ!」
 魔法の勉強とそれ以外の時間に、きちんとメリハリをつけて色々な経験をしましょう。
 あれ以来、わたしはきちんと、お母様との約束を守っている。
 そのかわりに、城塞都市近辺がどうなっているかを把握するため、わたしは積極的に色々な場所に行きたがった。
「こっちに行くと、川があるんだよね? 反対側のそっちには何があるの?」
「そちらには、あまりクリスお嬢様の目に楽しいものはございませんよ。大昔に枯れてしまった森の跡があるだけです」
「どうして枯れてしまったの? 行ってみたい!」
 城塞都市内の細い道の先から、それこそ枯れた森まで、色々なところだ。
「本当に、枯れてしまった森があるだけですよ?」
「ダメかな……? 魔獣がいて危ないなら我慢する」
「それは大丈夫ですよ。獲物になるような動物もいないのでしょう、魔獣も寄り付かない場所ですから」
 この世界には、気性が荒くて、人や他の動物を襲う、魔獣と呼ばれる獣がいる。
 各領地では定期的に魔獣狩りが行われていて、魔獣狩りを生業にするフリーの人たちもいるらしい。魔獣は群れをなす場合もあれば、強力な個体が現れる場合もあって、臨機応変な対応が求められるのだとか。
 ちなみに、前世で会社の同僚がハマっていたゲームのように、明確に人間と敵対する魔王のような存在はいないらしい。魔獣は怖いけど、ちょっとだけ安心だ。
 魔獣以外に、この世界には精霊や妖精もいるらしい。人前にはほとんど姿を現さないらしいのだけど、こっちはぜひ会ってみたい。
 大規模な魔獣狩りには、公爵家も貴重な魔法使いとして参加することになっていて、それが大きな役割のひとつでもある。
 魔法を使えるのは公爵家と、それに連なる親族だけだと聞いたのは、最近のことだ。魔法使いって、めちゃくちゃ貴重な存在だったんだね。だからこそ、公爵家をやっていけている部分もあるらしい。
 ただしクレイマスターは、燃費が悪くて効率も悪いと、なかなか評判がよろしくない。
 投石か弓矢を使った方がマシなどと、馬鹿にされて帰ってくるのだと町の噂で聞いた。
 道具や石なしで応戦できるのは十分すごいじゃないか、と言い返したいところだ。
「危なくないなら、行ってみたいな」
「少々お待ちくださいね」
 ソニアが辺りをぐるりと見回す。
 ここまでは馬車で来ているし、魔獣狩りならぬ魔獣追いを先週やったばかりだ。
 魔獣追いとは、魔獣を狩るほどの戦力を簡単に準備できない町や貴族が人を集めて、大きな音を鳴らしたり魔獣の嫌がる臭いを焚いたりして、魔獣を遠ざけることだ。
 魔獣狩りより効果は薄いし、強力な個体が現れれば別の手が必要になるものの、低コストで一定の効果を得られる、いわば生活の知恵だ。
 公爵家のお膝元なのに魔獣追いなんて、と揶揄する人たちの声は、残念ながら聞こえてきちゃうけどね。
 クレイマスターの城塞都市には、騎士が住むエリアが存在する。
 ただしそれは、戦力としての役目はほとんど果たせていないのが現状で、各方面の門の門番と、屋敷周辺の見回りをしてもらうくらいしか、常駐している騎士はいないらしかった。
 そんなわけで、危険な魔獣は少ないはずとはいえ、ボディーガードも兼ねているソニアとしては、城塞都市の外では特に、慎重にならざるを得ないところなのだろう。
「森の中に入らないとお約束いただければ、お供いたします」
 ソニアはすごく目がよくて、魔獣や蛇などの危ない動物をすぐに見つけてくれる。
 愛用の細槍の腕前もすごい。
 すごいというか、訓練でそれを振るうソニアの動きが速すぎて、少なくともわたしには、何をしているのか全然わからなかった。
「わかった、ありがとう」

 馬車に揺られてたどり着いた森の跡地は、思った以上に荒れていた。
 木々は枯れ、かろうじて生えている背の低い草もしおれている。埃っぽい風が、馬車の窓をがたがたと揺らした。
「寂しいところだね」
「そうですね。かつてはこの森を育てようという試みもあったようですが……」
 ソニアが指さす先には、遠くから伸びる人工的な溝があった。反対側にある川から水を引いてくるための、水路のひとつだという。
 今は完全に止められているし、水路自体も状態がいいとは言えなさそうだった。
 森には入らない約束なので、手前の土をそっと手に取ってみた。
 だいぶ状態が悪い。土そのものに生気がないような気がして、とても悲しくなった。
 今できるありったけの魔力で、なるべく状態のいい土を思い浮かべて、魔法式を描く。
 わたしが生み出す魔法の土に、草木の養分になるような成分は含まれていない。それはわかっている。それでも、そうしなくてはいけないような気がした。
 やけに心臓がうるさい。なんだろう、この感覚。
「クリスお嬢様、そろそろ……」
「ごめん、ありがとう」
 何も言わずに見守ってくれたソニアの前で、わたしはたくさんの土の塊を作り出して、森の手前に並べていた。
「帰りましょうか」
「うん……あれ?」
 馬車に戻ろうとしたところで、何かが視界の端で動いたような気がした。
「クリスお嬢様、後ろへ!」
 ソニアも気付いたらしい。槍を構えて、瞬時にわたしの前に出る。
「待って、ソニア! あそこ!」
 見れば、一本の枯れ木の後ろから、小さな動物がそっとこちらをうかがっていた。
「ねこ!? どうしてこんなところに!?」
「クリスお嬢様は、あの獣をご存じなのですか?」
 そっと顔を出したのは、小さな猫だった。
 白が多めの薄い三毛で、グリーンの瞳がとても綺麗な子だ。
 明らかに子猫だし、明らかに痩せている。
「大変、助けなきゃ!」
「しかし……」
「あんな子が、怖い魔獣には見えないよ……お願い!」
 わたしはかがんで、そっと猫に近づいていく。
 目を合わせると警戒されてしまうから、額のあたりをそっと見つめて、手を前にゆっくり差し出す。
「大丈夫だよ、こっちにおいで」
「クリスお嬢様、せめて手袋などなさってください。毒でも持っていたら大変です!」
「大丈夫だから」
 ソニアにも、猫にも言い聞かせるようにゆっくり言って、笑顔を作る。
 どうしてこんなところに、しかも一匹でいたのかはわからない。でも、この小さな命を救いたい。お願いだから、逃げないで。
 しばらく様子をうかがっていた猫は、とてとてと小走りにやってきて、するりとわたしの腕の中におさまった。
 腕の中に飛び込んでくるのは予想外で、あわあわしてしまう。もしかして、誰かの飼い猫が逃げ出してここまで来ちゃったのかも?
 個人的には、完全室内暮らしをおすすめしたいところだけど、文化が違うどころか世界が違うから、どうだろう。
「ソニア、この子ってお医者さんに診てもらえないかな?」
「獣用の医者というのは聞いたことがありませんが……ひとまず戻りましょうか?」
 ソニアは、まったくピンときていない様子だ。嘘でしょ、獣医さんっていないの?
 どうしよう。ひとまずお水と、食べられそうなものを用意して、この子の体力に賭けるしかないかもしれない。
 わたしは、少しくったりした様子の猫をそっと抱きしめて、なるべく揺らさないように気を付けながら、急いで馬車へ戻った。