どうやらあのおねこさまは、水の精霊だ。
ソルトと同じもふもふの毛並みが、波を打つような淡いブルーで、方向転換をするたびに水しぶきが舞っているので、きっとそうだろう。
これでもし火の精霊だったら、どういう成り立ちなのか、じっくりと問い詰めたい。
「あれ。なんだか、スピード落ちてきた?」
最初こそ互角か、わたしとソニアを乗せているのでソルトの方が不利かと思われた鬼ごっこは、水の精霊猫の失速によって、終わりを迎えようとしていた。
「あれのせいっすね、まったく。このまま追い詰めましょう」
エアさんが指さす先を見て、わたしは盛大に納得した。
ああ、なるほど。くいしんぼうさんめ。
水の精霊猫は、最初に見つけた畑でかじりついたであろう作物を、口いっぱいに詰めて頬を膨らませたまま走っていた。
精霊に呼吸が必要かどうかは難しい問題になりそうだけど、おねこさまの姿をしている以上は、口に物が詰まっていれば走りにくいに決まっている。
「そこまでっすよ!」
いよいよ距離が近づき、エアさんとソルトで水の精霊猫を挟む形になった。
観念したのか、水の精霊猫は立ち止まり、うつむいてしまった。
毛並みを除けば、やはりソルトにそっくりだ。ソルトがわたしのイメージで猫の姿になったから、精霊はこの姿という認識になったのかな。
「すっかりうつむいて……追いかけられてこわかったよね。少しお話しよう?」
「いいえ、クリスさん。よく見てくださいっす」
相手がおねこさまなら罪はない。そう思って優しく声をかけたわたしに、エアさんが首を横に振り、指をさす。
「えええ……まだ食べてる!?」
うつむいて落ち込んでいたかに見えたのは、もぐもぐむしゃあと頬張ったものを咀嚼するためだった。
つまり、反省の色なしである。すごい食欲、とソニアも後ろでぽつりとつぶやいている。
「スノー様! いつまで食べているんすか!」
たまりかねたのか、エアさんが拳を握りしめて呆れた声を出す。
びくりとした水の精霊猫……スノーの口から、芋のかけらがこぼれてわたしの前に転がってきた。スノーはそれを再び食べようと、わたしの前までやってくる。
「はい、どうぞ」
わたしは芋のかけらを拾って、スノーに差し出した。
「畑から勝手に持っていかれちゃうと困るんだ。ちゃんとお話できないかな? スノーも、エアさんとソルトのお友達なんでしょ?」
「クリスさん、甘やかしちゃダメっすよ」
「エアさんだって、久しぶりに地上に出てきて、わからないこともいっぱいあったでしょ? この子もそうなのかなって」
もちろん、わたしだってそうだ。
この世界の魔法やスキルの常識を知らないまま、みんなを驚かせてきた。
それでもこうして暮らせているのは、周りのみんなが優しかったからだ。
話が通じないなら考えなくちゃいけないけど、ソルトだってわたしの話を理解している節がある。それなら、スノーにも伝わるはずだ。
「クリスさんは優しいっすね。スノー様、どうしてこちらにいらっしゃったのか、聞かせてもらえるっすね?」
精霊の中でも、通訳的な役割を果たすエアさんが、スノーから事情を聞いていく。
なんとそんなことが、しかしまさか、などとエアさんは驚いている。スノーも、波瀾万丈な道を乗り越えてここまできたのかもしれない。
「この辺りの作物が大きく育ったのは、全部ぼくのおかげだから、全部食べても問題ないと言っているっす」
「へあ!?」
神妙に聞いていたエアさんが、据わった目つきでそんなことを言い出すものだから、わたしも変な声が出てしまった。
よく聞いてみると、スノーの話はこうだ。
神樹の森が焼かれたタイミングで、先代の水の精霊は消えてしまった。
それから紆余曲折を経て、スノーはまったく別の場所、別の時代に次代の力ある水の精霊として目を覚ます。
力あるとは言っても、神樹が焼かれて力を失い、精霊の力が著しく弱まった後の話だ。
神樹を守らなければという内なる使命に導かれて、雨雲に掴まり、小川に揺られ、海を越えて、スノーは長い時間をかけてクレイマスターの地にやってきた。
しかし、ようやくたどり着いた神樹の森は枯れていて、水と栄養を神樹へ供給するはずの川も汚れ、流れを変えていた。
スノー自身の力も弱まっていたため、やむなく川の水源近くに身を潜めて、汚れた川を浄化しながら力の回復を待つことにした。
ようやく、神樹にとって良質な栄養となる高濃度の魔力を、川に流せるほどまでに回復したのが十数年前だ。
「すごいものですね、精霊とは」
ソニアが感心したように、そして寂しそうにぽつりとこぼす。
スノーが力を取り戻し、頑張って水の魔力を高めた結果が、クレイマスターの痩せた土に繋がっていた。しかも、肝心の栄養と魔力満点の水は、神樹に届いていなかったのだから、悲しいすれ違いだ。
「川の流れが偶然変わったとはいえ、神樹が復活したのはすべて、ぼくの努力の賜物であるからして、その恩恵を横からかすめとっている人間たちが何を育てていようと、それはすべてぼくのものなのである、とのことっす」
「暴論がすぎるのではありませんか!? 神樹復活はクリスお嬢様のお力あってこそ……!」
「味はなかなか美味であるから、今後もぼくのために励むように、だそうっす。ええと、なんと申しますか、大変申し訳ございません」
ぐぬぬとソニアが拳を握り、エアさんが頭を下げる。スノーとソルトは揃って大きなあくびをしていた。温度差がすごい。
「聞いて、スノー。神樹のために頑張って、川に魔力を流してくれてたんだよね?」
スノーはこちらを振り向かず、耳だけでぴょいと返事をした。
「でもね、スノーの力だけじゃ神樹は復活できなかったんだ。色んな偶然とみんなの力が重なったからこそ、神樹は復活できたんだよ」
みい、とソルトが隣で鳴いた。わたしの話が本当だと援護してくれているみたいだ。
その証拠に、これまで振り向きもしなかったスノーが、驚いた表情でこちらを向いた。
「だから、全部自分のものなんて言わないで」
ソルトがもう一声鳴いて、スノーを前足でこづく。
そこから、みいみい、なごなごとおねこさま同士のやり取りが始まって、最終的にスノーがこくりと頷いた。
「それなら僕も一緒に行く、とのことっす。水源には魔力を生み出し続けるもとを置いてきたから、少し離れても大丈夫だと」
「そんなことできるんだ、すごい!」
そうだろう、とでも言いたげに、スノーがふんぞり返ってのどを鳴らす。
わたしには、離れた場所で魔力を生み出したりはできない。
自動で魔法式が動く仕組みは考えたけど、あれは川の魔力を利用しているだけだ。
これが、神樹を守る精霊ならではの力なのかな。
「これからよろしくね、スノー!」
差し出した手に頬をすりつけて、なご、とスノーが目を細める。
「というわけで、水の精霊スノーだよ! これからは畑のものを勝手に食べたりしないから、無事に解決だね!」
意気揚々と戻った屋敷で、わたしはスノーを家族みんなにお披露目した。
「え、かわいい!」
「ソルトとは毛並みが違うんだね。まさしく流れる水のようで、とても美しいな」
シェリル姉様とエル兄様の反応は予想通りで、早くもスノーと打ち解けている。
それとは反対に、一緒にいたはずのソニアと、お父様、お母様の反応はぎこちない。
「アレクシス様、ハンナ様……信じられないでしょうが、本当なのです。どうかお許しを、私はもう、クリスお嬢様のなさることに口を出すのはやめようと思います。こうも奇跡の連続では、私の常識が持ちません……うふふふふ」
遠くを見つめて笑うソニアの瞳から、ハイライトが消えている。
「そうよね……あなた、私も一足お先に降りさせていただきますね。この子には自由にさせるのが一番のようですから」
「おいおい、ふたりとも落ち着くんだ。私たちがわが子の成長を見守り、導かなくては」
「でも……でもあなた! 水の精霊はそれこそ流れる水のように気分屋で、とても誰かの言うことを聞くようなものではないはずでしょう? どの文献を読んでもそう書いてありますし、下手に縛ろうとすれば荒ぶり、災害を引き起こすことすらあると、私も小さい頃に脅かされたものです。それを、連れて帰ってくるなんて!」
「私だって驚きっぱなしです、ハンナ様! ソルトの背に乗り、精霊同士のこの世のものとは思えない速さの追いかけっこを終えたと思ったら、あっという間に仲良くなってしまわれたのです。クリスお嬢様は、精霊の申し子に違いありません!」
「こうなってくると、さすがにクリスの存在を隠し切れないかもしれないな。いや、そもそもクレイマスターの地に、すでに土、風、そして水の精霊が揃って顕現しているなど。陛下になんと報告すればいいのか」
「ああ、それでしたらご安心を」
エアさんが手をあげ、お父様の動きが止まる。
「火の精霊もそう遠くない場所に気配がしますんで、じきに揃うと思うっすよ」
「そ、それこそ一大事では!? 四属性の精霊がひとつところに揃って姿を見せるなど……安心は!? 安心はどこに!?」
あらあら、火だけ欠けていることを心配してくださったのでは、とエアさんが天然ぶりを発揮して、大人たちが揃って頭を抱える。
それをしりめに、わたしたち兄妹三人はソルトとスノーの二大もふもふに挟まれて、幸せな時間を過ごさせてもらった。



