古代遺跡での孤独な修練が始まってから、数ヶ月が経過していた。

 アレンは虚空魔法(ヴォイド・マジック)の基礎をほぼ習得し、その異質な力は彼の肉体と精神に深く馴染み始めていた。禁忌(きんき)の森でのサバイバルにも慣れ、以前のような切迫感は薄れていたが、彼の心を占める復讐の炎が消えることはない。

 その日も、アレンは食料調達のため、遺跡からやや離れた森の深部へと足を延ばしていた。
 虚空魔法(ヴォイド・マジック)による空間認識能力は、森の中での狩りを格段に容易にしていた。獲物の位置を正確に把握し、座標移動(テレポート)で瞬時に背後を取る。あるいは空間障壁(ディメンション・シールド)で見えない罠を張り、獲物を追い込む。彼の狩りは、もはや生存のためだけでなく、実戦における虚空魔法(ヴォイド・マジック)の応用訓練としての意味合いも帯びていた。

 そんな時、アレンは遠方で複数の強力な魔獣の気配と、それらと交戦しているらしき人間の魔力反応を感知した。
 禁忌(きんき)の森のこの深さまで踏み込んでくる人間は珍しい。しかも、複数の魔獣を相手にしているようだ。

(……物好きがいるものだ)

 アレンは当初、関わるつもりはなかった。他人の事情に首を突っ込む義理も、メリットもない。
 しかし、感知される人間の魔力が、徐々に弱まっていることに気づく。そして、その魔力の質が、一般的な属性魔法とは少し異なる、風を操る系統のものであることも。

(風使いか……使い方によっては、役に立つかもしれん)

 アレンの心に、わずかな打算が生まれた。
 復讐を果たすためには、情報が必要だ。そして、時には人手も。
 アレンは音もなく木々を飛び移り、気配のする方へと向かった。

 開けた場所にたどり着くと、予想通りの光景が広がっていた。
 三頭の巨大な影狼(シャドウウルフ)――黒い体毛を持ち、影の中を高速で移動する厄介な魔獣――が、一人の少女を取り囲んでいる。
 少女は年の頃はアレンと同じくらいか、やや下に見える。動きやすい軽装を身にまとい、腰には短剣を差している。そして、その手には風が渦巻いていた。

「《風刃(ウィンドカッター)》!」

 少女――エレナは、鋭い声と共に風の刃を放ち、飛びかかってくる影狼(シャドウウルフ)の一頭を牽制する。同時に、別の影狼(シャドウウルフ)が背後から音もなく迫るが、エレナはそれを読んでいたかのように身を翻し、風の力で跳躍して回避する。
 その動きは俊敏で、風魔法の練度も高い。しかし、相手は三頭。しかも、影狼(シャドウウルフ)は連携を得意とする魔獣だ。エレナの額には汗が浮かび、呼吸も荒くなっている。明らかに消耗し、追い詰められていた。

 それでも、彼女の瞳には強い意志の光が宿っていた。諦めることなく、必死に活路を見出そうとしている。

(なるほど……しぶといな)

 アレンは木の上から冷静に戦況を分析していた。
 エレナの風魔法は、直接的な破壊力こそ低いものの、索敵、回避、攪乱に優れている。虚空魔法(ヴォイド・マジック)とは性質が異なるが、組み合わせれば有効な戦力となりうる。

 次の瞬間、一頭の影狼(シャドウウルフ)が陽動のように正面から吠えかかり、残りの二頭が左右の死角から同時にエレナに襲いかかった。これは避けきれない。

(――利用価値、ありと見た)

 アレンは行動を決断した。
 エレナが絶望に目を見開いた、その刹那。

 シュンッ!

 アレンは座標移動(テレポート)で、エレナの目の前に音もなく出現した。

「え……!?」

 突然現れた人影に、エレナが驚愕の声を上げる。
 だが、アレンは彼女に構わず、左右から迫る影狼(シャドウウルフ)の爪と牙に向け、両手を翳した。

「《空間障壁(ディメンション・シールド)》」

 目には見えない次元の壁が、アレンとエレナの周囲に瞬時に展開される。
 ガキンッ! という硬質な音と共に、影狼(シャドウウルフ)たちの鋭い爪が障壁に阻まれ、火花を散らした。

「グルルル……!?」

 予想外の抵抗に、影狼(シャドウウルフ)たちが戸惑う。
 その隙を、アレンは見逃さない。

「《空間破砕(スペースクラッシュ)》」

 アレンが右手を振るうと、正面の影狼(シャドウウルフ)の足元の空間が局所的に圧縮され、解放される。不可視の衝撃波が狼を打ち据え、体勢を大きく崩した。
 さらにアレンは、座標移動(テレポート)で背後に回り込み、虚数空間(イマジナルスペース)から取り出した黒い刃――おそらくは遺跡で見つけた古代の合金で作られた短剣――で、狼の首筋を一閃した。悲鳴を上げる間もなく、一頭目が地に伏す。

「!?」

 エレナは、目の前で繰り広げられる光景に息を呑んだ。
 瞬間移動。見えない壁。空間を歪める攻撃。そして、効率的すぎるほどの、冷徹なまでの戦闘術。
 それは彼女が知るどんな魔法とも、剣技とも異なっていた。

 アレンは残りの二頭にも容赦しなかった。
 座標移動(テレポート)で翻弄し、空間障壁(ディメンション・シールド)で攻撃を無効化し、空間破砕(スペースクラッシュ)で動きを止め、確実に急所を貫く。
 数瞬後、そこには三頭の影狼(シャドウウルフ)の亡骸と、返り血を浴びて静かに佇むアレンの姿だけが残されていた。

 戦闘の余韻が消え、森に再び静寂が訪れる。
 アレンはエレナに向き直った。その表情は能面のように変化がなく、瞳の奥には冷たい光が宿っている。

「……」
「……」

 しばしの沈黙。
 先に口を開いたのはエレナだった。助けられたことへの感謝よりも、目の前の男への警戒心と疑念が勝っていた。

「……あなたは? 一体、何者なの? 今の魔法は……?」

 エレナの声は、緊張でわずかに震えていた。

 アレンは答えない。代わりに、値踏みするようにエレナを観察する。
 風魔法の使い手。身のこなしも悪くない。そして、この禁忌(きんき)の森の深部まで単独で踏み込むだけの度胸と、目的があるはずだ。

「……ただの通りすがりだ」

 ようやくアレンが口にしたのは、素っ気ない答えだった。

「通りすがり……? こんな場所を? 嘘でしょう」

 エレナは納得しない。彼女もまた、アレンを観察していた。その異様な雰囲気、常人離れした戦闘能力、そして何より、纏う空気の冷たさ。普通の人間ではないことは明らかだった。

「……私はエレナ。あなたは?」

 エレナは警戒しながらも、自ら名乗った。情報を引き出すための、駆け引きのつもりだった。

 アレンは少しの間黙考し、偽名を名乗ることも考えたが、やめた。どうせ一時的な関係だ。

「……アレンだ」

「アレン……。あなたも、この森を抜けたいの?」

「そうだ」

「なら……」

 エレナは言いかけて、言葉を飲み込んだ。この得体の知れない男と行動を共にするのは危険すぎる。しかし、彼の実力は確かだ。彼がいれば、この森を安全に抜けられる可能性は格段に上がるだろう。
 一人で進むのも、彼と進むのも、どちらもリスクがある。エレナは逡巡した。

 アレンは、そんなエレナの葛藤を見透かしたように言った。

「お前の風魔法、索敵には使えるだろう。俺の力と合わせれば、この森を抜ける確率は上がる。一時的に協力しないか? 利害は一致するはずだ」

 それは提案というより、半ば決定事項を告げるような口調だった。有無を言わせぬ圧力が、アレンの言葉には込められていた。

 エレナは唇を噛んだ。アレンの言う通りだった。彼の力は未知数だが、少なくとも魔獣よりは脅威ではない……と信じたい。そして、彼女にはどうしてもこの森を抜けなければならない理由があった。

「……分かったわ。一時的によ。ただし、お互い余計な詮索はしないこと。それと、勝手な行動は許さない」

 エレナは精一杯の強がりで条件を付けた。

「それでいい」

 アレンは短く頷いた。
 こうして、虚空魔法(ヴォイド・マジック)を操る復讐者アレンと、風使いの少女エレナの、奇妙で危険な協力関係が始まった。

 互いに警戒し、互いを利用しようとしながら、二人は禁忌(きんき)の森の奥深くへと、共に歩みを進めることになる。