重い石扉が完全に閉ざされると、遺跡内部は完全な静寂に包まれた。

 外の森とはまるで違う、濃密で清浄な魔力。それは傷ついたアレンの体をわずかに癒やすようでもあり、同時に人知を超えた存在の領域に踏み入れたような、畏怖の念を抱かせるものでもあった。

 アレンはゆっくりと立ち上がり、周囲を見渡す。
 通路の壁には、精緻な幾何学模様のレリーフや、見たこともない古代文字(こだいもじ)がびっしりと刻まれている。それらは淡い光を放ち、遺跡内部を神秘的に照らし出していた。
 床には塵ひとつなく、まるで時が止まっているかのようだ。

 疲労と空腹は依然としてアレンを苛んでいたが、この異常な空間と、その奥から感じられるさらに強大な魔力の気配が、彼を突き動かしていた。
 まるで何かに導かれるように、アレンは遺跡の奥へ奥へと、足を引きずりながら進んでいく。

 どれほど歩いただろうか。
 やがてアレンは、ひときわ広大な、ドーム状の空間へとたどり着いた。
 天井は高く、まるでプラネタリウムのように星々を模したような紋様が描かれ、淡く明滅している。
 そして、その空間の中央には、黒い滑らかな石材で作られた巨大な祭壇が鎮座していた。

 祭壇の上。
 そこに安置されていたのは、一枚の石版だった。

 大きさは人が抱えられる程度だが、その存在感は異常だった。
 黒曜石(オブシディアン)のように艶やかで、深淵を思わせる漆黒。その表面には、まるで夜空そのもの、あるいは宇宙空間を覗き込んでいるかのような、吸い込まれそうな文様がゆっくりと揺らめき、明滅を繰り返している。
 この石版こそが、遺跡全体に満ちる強大な魔力の源泉であると、アレンは直感した。

(これは……一体……?)

 アレンは、まるで魂を引き寄せられるかのように、ゆっくりと祭壇に近づいていく。
 石版から放たれる力は、抗いがたい魅力を放っていた。
 これが何なのか、危険はないのか――そんな理性的な思考は、もはや意味をなさなかった。
 アレンは震える手を伸ばし、その揺らめく漆黒の表面に、そっと触れた。

 ――その瞬間。

 バチッ!と激しい衝撃が走り、アレンの視界は完全に暗転した。
 意識が肉体から強制的に引き剥がされ、猛スピードでどこかへ落下していくような感覚。

 次の瞬間、アレンは自分がどこまでも続く漆黒の空間に立っていることに気づいた。
 上下左右の感覚はなく、足元には星々がきらめき、まるで宇宙空間に放り出されたかのようだ。しかし、息苦しさはなく、不思議な安らぎさえ感じられる。

 目の前に、ゆっくりと「それ」は形を結んだ。
 人型とも、あるいは輝く星雲とも、または深淵そのものともつかない、定まった形を持たない、計り知れない存在。
 それは、この遺跡の主か、古代の術者の残留思念か、あるいはこの空間を司る概念そのものなのかもしれない。

 その存在が、声を発した。
 それは音ではなく、直接アレンの精神に響き渡る、重く厳かな問いかけだった。

『――虚無(きょむ)を受け入れよ』
『――万象(ばんしょう)を掴め』
『汝、その覚悟はあるか?』
『汝、新たな理を識る者となるか?』

 問いかけの意味を完全に理解できたわけではなかった。
 だが、アレンにはわかった。これは選択なのだと。
 このまま朽ち果てるか、あるいは未知の力を受け入れ、新たな道を歩むか。

 アレンの脳裏に、裏切りの場面が蘇る。
 ギルバートの嘲笑。ダリオの苦悩。リリアの涙。そして、街の人々の冷たい視線。
 燃え盛る憎悪と、復讐の誓い。

(力が……欲しい……!)
(奴らに……報いを……!)

 アレンが心の奥底で強く念じた、その瞬間。
 彼の意志が、目の前の存在に届いたかのように、空間が大きく歪んだ。

『――契約は成立した』

 その言葉と共に、アレンの全身を凄まじい激痛が襲った。
 まるで体内の全てを一度破壊し、再構築するかのような痛み。
 既存の魔力回路(マナサーキット)とは全く異なる、身体の、いや、存在そのものの根源に根差した未知の経路――「虚空」に通じる道――が、強制的にこじ開けられる感覚。

 そして、その開かれた経路を通って、人知を超えた力の奔流がアレンの中に流れ込んできた。
 それは、無であり、全てである力。
 空間そのものを認識し、捻じ曲げ、断ち切り、繋ぎ合わせる力。
 存在と非存在の境界を操る、根源的な力。

 これこそが、古代において世界を揺るがし、そしておそらくは滅びの原因ともなった禁忌の力――「虚空魔法(ヴォイド・マジック)」。

 力の奔流と、それに伴う激痛は、アレンの精神と肉体の許容量を遥かに超えていた。
 彼は絶叫を上げることすらできず、再び意識を闇へと手放した。

 どれほどの時間が経過したのか、あるいは経過していないのか。
 アレンは、祭壇の前に倒れていた自身に気づき、ゆっくりと意識を取り戻した。
 体は鉛のように重く、激しい頭痛と倦怠感が残っている。

(俺は……どうなった……?)

 ぼんやりとした頭で身を起こすと、アレンは自分の身に起きた異変に気づいた。
 まず、世界の「見え方」が以前とは全く異なっていた。
 周囲の空間が、まるで薄い膜やグリッドのようなものとして認識でき、物体との距離や位置関係が奇妙に歪んで見える。まるで、世界の設計図を直接覗き込んでいるような、異様な感覚。

 次に、自分の手を見つめた。
 指先から、ゆらゆらと黒い靄のような、あるいは空間の歪みそのもののような、不定形のエネルギーが立ち昇っている。それは禍々しくも見えるが、同時に不思議なほどしっくりと自分に馴染んでいる感覚もあった。

(これが……あの力……虚空魔法……?)

 試しに、近くに転がっていた瓦礫の欠片を拾おうと、意識を集中してみた。
 以前なら、念動力系の魔法で浮かせるか、単純に手を伸ばして拾うかだっただろう。
 だが、アレンが「拾う」と念じた瞬間、起こった現象は彼の想像を絶していた。

 欠片が直接手元に飛んでくるのではない。
 欠片とアレン自身の間にある「空間」が、グニャリと飴のように捻じ曲がり、空間ごと欠片がアレンの手元に「引き寄せられた」のだ。

「なっ……!?」

 アレンは驚愕し、慌てて力を解いた。歪んだ空間が元に戻り、欠片はゴトリと床に落ちる。
 これが虚空魔法の力なのか。空間そのものに干渉する、あまりにも異質で、強大な力。
 そして、今の自分には、この力を全く制御できていないという事実。

 アレンは愕然としながらも、同時に心の奥底で確かな手応えを感じていた。
 魔法は使えないままかもしれない。体もまだ本調子ではない。
 だが、自分は新たな力を手に入れたのだ。
 復讐のための、切り札を。

 アレンは立ち上がり、改めて祭壇の上の石版を見つめた。
 石版の文様は、先ほどまでの揺らめきを失い、ただの黒い石のように静まり返っている。役割を終えた、ということなのだろうか。

 アレンは、この遺跡を拠点とし、この虚空魔法を理解し、制御するための修練を始めることを決意した。
 復讐の日は、まだ遠い。だが、そのための第一歩は、確かに踏み出されたのだ。