「野球なんて、やめればいいのに」
こんなヤなことを私が言うのは、もう何度目だろうか。
「なあ、香織。そんなこと、言わないでよ。仲間と一緒に甲子園を目指して毎日、必死に練習してるんだからさ」
中田くんは、なだめるように笑って言う。相変わらず、優しすぎる。「野球なんて」などと酷い言い方をしても、怒ろうともしない。
「今からでも遅くないよ。やめて受験勉強に集中すれば、それなりに成績は上がるって。きっといい大学に入れるんだよ」
「ここまで一緒にやってきた仲間を裏切ることなんてできないよ」
「だって!」
「分かってるさ。どんなに練習したって、きっとオレはおそらくレギュラーになれない」
「じゃあ、野球はさっさと見切りをつけて、未来のために受験勉強しようよ」
「最後まで、野球をやりたいんだ。今しかできないから。いつも心配してくれてありがとう」
そう言い残し、中田くんは自分の教室に戻っていった。そしてすぐに始業のチャイムが鳴り響く。
私も急いで自分のクラスへ戻った。
渡り廊下のすれ違いざま、会話ができるのは、わずか数分だけ。
早朝は朝練、昼休みは昼練と練習ばかりしている中田くんとは、こんな短い授業と授業の間の休み時間しかそもそも会えない。
幼馴染みで同い年の中田くんは、小さい頃から野球をしていた。小さな町の公立中学校の野球部ではレギュラーになれていたが、高校では3年制が引退した後の新チームでもレギュラーの座が遠い。
中田くんのポジションはセカンドだ。しかし、そこには1学年下の谷口くんがいる。マネージャーの洋子から聞いた話だと、谷口くんは鉄壁の守備と俊足が武器で、中田くんが取って代われる隙はまったくないらしい。
それに、常にクリーンナップに入っている貢治くんは、守備は外野だがショートも守れるそうだから絶望的だ。
──外野を守れればひょっとしたら……。
ある日洋子が教えてくれた。
中田くんはバッティングが得意で、手薄な外野が守れると状況によっては可能性もあるかもしれない。
しかし、本人は「オレには肩と足がない」と言う。
だったら、高校2年から3年に進級するこのタイミングで野球に見切りをつけ、受験勉強に徹すればいいのに。
私たちの高校は県内ではそれなりの進学校で、勉強で学年上位に入れる生徒は、みんないい大学に進学している。
中学の時、中田くんは私よりずっと成績がよかったのに、高校生になった今では野球部で過酷な練習に集中するあまり、私が追い抜かしてしまった。
──中田くんは野球より勉強の方が、絶対才能あるよ。
こんなことを言っても、本人に響かない。
でも、勉強で逆転してしまっている現状に納得がいかないのだ。中田くんは私より上であってほしいし、私を引っ張ってほしい。それに、わがままかもしれないけど、……あわよくば同じ地元の国立大学に入りたい。
──約束したくせに。
大学生になったら付き合おうって。それまでは、お互い勉強や部活に専念しようって。
幼馴染みに告白するのは、相当な勇気がいる。家が近所で、もしうまくいかなかったら、大人になってからも気まずくなるからだ。
でも私は告白した。あれは、中学の卒業式の後。あの時、中田くんはすぐに「嬉しい」と受け入れてくれたけど、「大学生になったら」という条件を付けた。
……で、気が付いたら、今、こうなってしまっている。
そして、強情な中田くんは、結局3年生になってもそのまま野球部に残った。最後の夏の大会までやり切る覚悟をしたようだ。
このまえの実力テストで、中田くんの偏差値は50.6。私が58だった。地元の国立に入るのに、私はギリギリ合格圏内だが中田くんは遠い。果たして野球部を引退してから猛勉強して間に合うのか。合格圏内に入るまで挽回するのはかなり厳しいと思える。
「ねえ、あの約束、覚えてる?」
「もちろん」
「ヤだよ、別々の大学なんて」
「大丈夫だよ」
大丈夫じゃないから、言っているのだ。
3年生に進級し、私は受験勉強のピッチを上げ続けた。甲子園の切符をかけた最後の県大会に専念する中田くんとはすれ違ってばかりで、ゆっくり話せないまま季節は夏へと移ろう。
高校のすぐ近くにある市の図書館で先週の実力テストの間違い直しをしていたら、ふと、急にあたりが薄暗くなっているのに気付いた。
壁時計を見ると、もう午後8時。
没頭していて、こんな遅い時間になってしまった。
駐輪場へ足早に向かうと、その奥の隅で背中を向けて座り込んでいる人影が見えた。
あの練習用ユニフォームと背のフォルムは……、間違いない。
「中田く……ん……、だよね?」
ゆっくり近づいて声をかける。しかし、反応がない。いや、間違いない。最近、二人きりで話す機会がなかったから、私には嬉しかった。
「何で、無視すんのよ。もう、いじわるするよ」
笑いながら、脇をくすぐって中田くんの正面に回る。すると、中田は俯いたまま泣いていた。
──初めてだ、中田くんの泣く姿を見るのは。
強いとばかり思い込んでいた中田くんの、こんな弱々しい姿を見て、私は動揺する。
「ごめん。今日だけは、放っておいてくれないか?」
か弱く声を発する中田くんが、私には愛おしく思えた。
「……ヤだよ。この先、私たちは付き合うんでしょ? どんな時も一緒に寄り添いたいよ」
「こんなメメっちぃオレ、カッコ悪いな」
「メメっちくったって、いいんだよ。そんなのも全部含めて、私は、……好きなんだから」
「あのな、今日、夏の大会のベンチ入りメンバーを監督が発表したんだけど、……オレ、ダメだった」
そう言って、さらに泣き続ける。
私もそれを聞いて、衝撃だった。
レギュラーは無理でも、ベンチにはギリギリ入れると思っていて、それを希望にして中田くんは最後まで頑張ってきたというのに。
何て酷い仕打ちだろうか。
「1年にオレのベンチまで取られたよ。バカだな、オレ。ちゃんと香織の言うことを聞いて、野球をやめてりゃよかったな」
へたり込む中田くんを見て、私も胸が張り裂けそうだ。
「いいんだよ。もう、ここまできたら最後までやりなよ。私はベンチ入りできなくても、中田くんを応援するから」
そう言って、私たちは二人で泣き合った。
その1週間後、転機が訪れた。
強打者の貢治くんが不幸なことに骨折をして、戦列を離れてしまったらしい。
チームにとっては、かなりの戦力ダウンだが、これにより、繰り上げて中田くんがベンチ入りできることになった。
事情が事情だけに、中田くんは喜ばなかったが、それでも私個人は嬉しい。
試合には出られないけど、仲間と最後の時間を過ごせるだけでも、中田くんには大きな思い出となる。
しかし、トーナメントのくじ運は最悪だった。
初戦の相手は優勝候補のいなべ総合学園高校。2年生にプロから注目されるMAX時速147kmのピッチャーがいるらしい。
いなべ総合は県内で一強となっている実力高なのにシードがなかったせいで、不幸なことに1回戦からやってくることになってしまった。
中田くんや他の野球部員には決して言えないが、1回戦敗退は必至だ。いや、むしろ最後の大会で県内最高レベルの相手とやれるのだから、幸せなのかもしれない。
梅雨が開けると、すぐに最後の大会が始まった。
2日目の第2試合で、会場は四日市市営霞ヶ浦浦第一野球場。
おそらく中田くんら3年生にとっては高校最後の試合になる。
せめて最後くらい、受験勉強をやめて野球場に行こうと私は決めた。
野球をやり切ると覚悟を決めた中田くんの姿をどうしても見ておきたい。
私が高校野球の試合を見るのは初めてだ。
内野席は生徒や、選手の親、OBなどがたくさんいる。
私が着いた時、コバルトブルーの青空の下、灼熱のグラウンドで選手たちは、試合の真っ最中だった。
中田くんは、……いた!
ベンチの最前列で声を出している。よかった、いい笑顔をしている。
奇跡だろうか。
スコアボードを見ると、3回の裏で0対0と大健闘している。
しかし、同級生の話だと、相手はいきなりプロ注目の投手が先発し、中田くんらのチームは格の違いを見せつけられ、ノーヒットに抑えられているらしい。
4回の表。ついに試合は動いた。
相手の攻撃で、中田くんの同級生のエース、瀬古が捕まり始める。
甘いコースに入る失投を見逃さず、次々とヒットを打ち込まれ、8失点。何とかスリーアウトチェンジまで持っていけてよかったが、瀬古に替えられるピッチャーはいない。
中田くんも苦しい表情をしている。この状況で仲間を助けられないということが、きっとベンチの誰よりも悔しいのだろう。
4回の裏は、敵のエースの球威がどんどん増していき、三者三振でチェンジ。まだ、相手のパーフェクトピッチングが続いている。
正念場の5回。
味方のエース、瀬古は四球が先行し、満塁で走者一掃のタイムリーを打たれ、0対11。その後、何とかツーアウトまで取ったが、相手の4番バッターにダメ押しのソロホームランを打たれ、ついに0対12。その次のバッターを打ち取ってチェンジとなったものの、もう、後がない。
5回で10点以上点差が開いたから、コールドゲームが現実的になってしまった。
5回の裏も、いなべ総合はピッチャーを変えない。今の敵のエースからヒットを打つのは至難の業だ。
ついに中田くんがベンチから見つめる最後の夏が終わろうとしている。
もう、全力で最後までやり切れば、それでいい。それで十分じゃないか。
中田くんたちにとって、きっとここは、甲子園なんだ。
どんなに練習したって、どんなに強く願ったって、たどり着けない場所はある。
持って生まれたものの違いを、誰も否定できない。
でも、持てるすべてをかけて、死にものぐるいで熱戦を繰り広げてきた中田くんのチームの試合は、甲子園のそれと、輝きはまったく変わらない。
誰にとっても、3年間のすべてをかけて全力で戦う野球のステージは、甲子園と同じだ。
先頭の4番と5番のバッターは初球からフルスイングして、立て続けに打ち取られる。
そう、そのフルスイングがいい。
サイコーの試合だ。
中田も声を張り上げている。
その時、本当の奇跡が起こった。
「中田くんが代打だって!」
誰かが発した言葉をきっかけに、スタン戸からこの日一番の歓声が上がる。
まさか。
本当だ。ベンチ前でスイングしている。
「……に代わりまして、バッターは中田」
アナウンスが響きわたる。
夢みたいだ。
私たちだけの、この甲子園のステージに、中田くんが最後に登場するなんて。
ついにバッターボックスに入った。
いい顔をしてる。
よかったね。最後まで、諦めなくて。
私は、両手を合わせ、祈るようにして中田くんを凝視した。
1球目、アウトコースいっぱいに入ってきたボールをフルスイングしたが、空振り。
2球目はバックネットに高く打ち上げたけど、何とかファールになった。
おそらくどちらも球が早いから、ストレートだと思う。
ノーボール、2ストライク。追い込まれた。
もうここまでくると、見ているのが苦しい。でも、このわずかな中田くんの一瞬、一瞬の姿を目に焼き付けるのだ。
3球目は、変化球が大きく外れる。中田くんはしっかりと球を見極めて手を出さなかった。
1ボール、2ストライク。
敵のキャッチャーがマウンドに行って、ピッチャーと何やら確認している。
この時、バッターボックスから中田くんは、私を見つめていた。
何?
聞き取れないが、私に向かって小声で何かを言っている。
だから、何?
スタンドとバッターボックスは離れすぎているが、それでも口元をよく見ると、少しずつ分かってくる。
……それに、中田の言いそうなことも、私には分かる。
──待たせてごめんな。
きっと、そう言ってる。
ホントだよ。待ちすぎて、待ちくたびれたよ。
私は涙があふれ、声にならない。
試合は再会した。
相手のピッチャーは、キャッチャーのサインに何度も首を振っている。
そして、やっと静かに頷いた。
次の珠で勝負するつもりだ。
スタンドが静まり返る。
その時。
ついに来た。
ピッチャーは、渾身の速球を投げる。
中田は、大きな弧を描くようにバットをフルスイングした。
そして、次の瞬間、試合終了を告げる残酷なサイレンが球場に鳴り響く。
選手たちが、泣きながら整列していた。
何ていい試合だ。
ありがとう。
それに……。
待ちくたびれたよ。
おかえり、中田くん。
高校最後の、あの1球。
実はね、私にだけは、見えてたよ。
中田くんの打った白球が、未来に向かって、真っ青な空へと吸い込まれていくようすが。
そう、私にだけは見えた。
ここは、中田くんと私だけの甲子園なんだ。(了)
こんなヤなことを私が言うのは、もう何度目だろうか。
「なあ、香織。そんなこと、言わないでよ。仲間と一緒に甲子園を目指して毎日、必死に練習してるんだからさ」
中田くんは、なだめるように笑って言う。相変わらず、優しすぎる。「野球なんて」などと酷い言い方をしても、怒ろうともしない。
「今からでも遅くないよ。やめて受験勉強に集中すれば、それなりに成績は上がるって。きっといい大学に入れるんだよ」
「ここまで一緒にやってきた仲間を裏切ることなんてできないよ」
「だって!」
「分かってるさ。どんなに練習したって、きっとオレはおそらくレギュラーになれない」
「じゃあ、野球はさっさと見切りをつけて、未来のために受験勉強しようよ」
「最後まで、野球をやりたいんだ。今しかできないから。いつも心配してくれてありがとう」
そう言い残し、中田くんは自分の教室に戻っていった。そしてすぐに始業のチャイムが鳴り響く。
私も急いで自分のクラスへ戻った。
渡り廊下のすれ違いざま、会話ができるのは、わずか数分だけ。
早朝は朝練、昼休みは昼練と練習ばかりしている中田くんとは、こんな短い授業と授業の間の休み時間しかそもそも会えない。
幼馴染みで同い年の中田くんは、小さい頃から野球をしていた。小さな町の公立中学校の野球部ではレギュラーになれていたが、高校では3年制が引退した後の新チームでもレギュラーの座が遠い。
中田くんのポジションはセカンドだ。しかし、そこには1学年下の谷口くんがいる。マネージャーの洋子から聞いた話だと、谷口くんは鉄壁の守備と俊足が武器で、中田くんが取って代われる隙はまったくないらしい。
それに、常にクリーンナップに入っている貢治くんは、守備は外野だがショートも守れるそうだから絶望的だ。
──外野を守れればひょっとしたら……。
ある日洋子が教えてくれた。
中田くんはバッティングが得意で、手薄な外野が守れると状況によっては可能性もあるかもしれない。
しかし、本人は「オレには肩と足がない」と言う。
だったら、高校2年から3年に進級するこのタイミングで野球に見切りをつけ、受験勉強に徹すればいいのに。
私たちの高校は県内ではそれなりの進学校で、勉強で学年上位に入れる生徒は、みんないい大学に進学している。
中学の時、中田くんは私よりずっと成績がよかったのに、高校生になった今では野球部で過酷な練習に集中するあまり、私が追い抜かしてしまった。
──中田くんは野球より勉強の方が、絶対才能あるよ。
こんなことを言っても、本人に響かない。
でも、勉強で逆転してしまっている現状に納得がいかないのだ。中田くんは私より上であってほしいし、私を引っ張ってほしい。それに、わがままかもしれないけど、……あわよくば同じ地元の国立大学に入りたい。
──約束したくせに。
大学生になったら付き合おうって。それまでは、お互い勉強や部活に専念しようって。
幼馴染みに告白するのは、相当な勇気がいる。家が近所で、もしうまくいかなかったら、大人になってからも気まずくなるからだ。
でも私は告白した。あれは、中学の卒業式の後。あの時、中田くんはすぐに「嬉しい」と受け入れてくれたけど、「大学生になったら」という条件を付けた。
……で、気が付いたら、今、こうなってしまっている。
そして、強情な中田くんは、結局3年生になってもそのまま野球部に残った。最後の夏の大会までやり切る覚悟をしたようだ。
このまえの実力テストで、中田くんの偏差値は50.6。私が58だった。地元の国立に入るのに、私はギリギリ合格圏内だが中田くんは遠い。果たして野球部を引退してから猛勉強して間に合うのか。合格圏内に入るまで挽回するのはかなり厳しいと思える。
「ねえ、あの約束、覚えてる?」
「もちろん」
「ヤだよ、別々の大学なんて」
「大丈夫だよ」
大丈夫じゃないから、言っているのだ。
3年生に進級し、私は受験勉強のピッチを上げ続けた。甲子園の切符をかけた最後の県大会に専念する中田くんとはすれ違ってばかりで、ゆっくり話せないまま季節は夏へと移ろう。
高校のすぐ近くにある市の図書館で先週の実力テストの間違い直しをしていたら、ふと、急にあたりが薄暗くなっているのに気付いた。
壁時計を見ると、もう午後8時。
没頭していて、こんな遅い時間になってしまった。
駐輪場へ足早に向かうと、その奥の隅で背中を向けて座り込んでいる人影が見えた。
あの練習用ユニフォームと背のフォルムは……、間違いない。
「中田く……ん……、だよね?」
ゆっくり近づいて声をかける。しかし、反応がない。いや、間違いない。最近、二人きりで話す機会がなかったから、私には嬉しかった。
「何で、無視すんのよ。もう、いじわるするよ」
笑いながら、脇をくすぐって中田くんの正面に回る。すると、中田は俯いたまま泣いていた。
──初めてだ、中田くんの泣く姿を見るのは。
強いとばかり思い込んでいた中田くんの、こんな弱々しい姿を見て、私は動揺する。
「ごめん。今日だけは、放っておいてくれないか?」
か弱く声を発する中田くんが、私には愛おしく思えた。
「……ヤだよ。この先、私たちは付き合うんでしょ? どんな時も一緒に寄り添いたいよ」
「こんなメメっちぃオレ、カッコ悪いな」
「メメっちくったって、いいんだよ。そんなのも全部含めて、私は、……好きなんだから」
「あのな、今日、夏の大会のベンチ入りメンバーを監督が発表したんだけど、……オレ、ダメだった」
そう言って、さらに泣き続ける。
私もそれを聞いて、衝撃だった。
レギュラーは無理でも、ベンチにはギリギリ入れると思っていて、それを希望にして中田くんは最後まで頑張ってきたというのに。
何て酷い仕打ちだろうか。
「1年にオレのベンチまで取られたよ。バカだな、オレ。ちゃんと香織の言うことを聞いて、野球をやめてりゃよかったな」
へたり込む中田くんを見て、私も胸が張り裂けそうだ。
「いいんだよ。もう、ここまできたら最後までやりなよ。私はベンチ入りできなくても、中田くんを応援するから」
そう言って、私たちは二人で泣き合った。
その1週間後、転機が訪れた。
強打者の貢治くんが不幸なことに骨折をして、戦列を離れてしまったらしい。
チームにとっては、かなりの戦力ダウンだが、これにより、繰り上げて中田くんがベンチ入りできることになった。
事情が事情だけに、中田くんは喜ばなかったが、それでも私個人は嬉しい。
試合には出られないけど、仲間と最後の時間を過ごせるだけでも、中田くんには大きな思い出となる。
しかし、トーナメントのくじ運は最悪だった。
初戦の相手は優勝候補のいなべ総合学園高校。2年生にプロから注目されるMAX時速147kmのピッチャーがいるらしい。
いなべ総合は県内で一強となっている実力高なのにシードがなかったせいで、不幸なことに1回戦からやってくることになってしまった。
中田くんや他の野球部員には決して言えないが、1回戦敗退は必至だ。いや、むしろ最後の大会で県内最高レベルの相手とやれるのだから、幸せなのかもしれない。
梅雨が開けると、すぐに最後の大会が始まった。
2日目の第2試合で、会場は四日市市営霞ヶ浦浦第一野球場。
おそらく中田くんら3年生にとっては高校最後の試合になる。
せめて最後くらい、受験勉強をやめて野球場に行こうと私は決めた。
野球をやり切ると覚悟を決めた中田くんの姿をどうしても見ておきたい。
私が高校野球の試合を見るのは初めてだ。
内野席は生徒や、選手の親、OBなどがたくさんいる。
私が着いた時、コバルトブルーの青空の下、灼熱のグラウンドで選手たちは、試合の真っ最中だった。
中田くんは、……いた!
ベンチの最前列で声を出している。よかった、いい笑顔をしている。
奇跡だろうか。
スコアボードを見ると、3回の裏で0対0と大健闘している。
しかし、同級生の話だと、相手はいきなりプロ注目の投手が先発し、中田くんらのチームは格の違いを見せつけられ、ノーヒットに抑えられているらしい。
4回の表。ついに試合は動いた。
相手の攻撃で、中田くんの同級生のエース、瀬古が捕まり始める。
甘いコースに入る失投を見逃さず、次々とヒットを打ち込まれ、8失点。何とかスリーアウトチェンジまで持っていけてよかったが、瀬古に替えられるピッチャーはいない。
中田くんも苦しい表情をしている。この状況で仲間を助けられないということが、きっとベンチの誰よりも悔しいのだろう。
4回の裏は、敵のエースの球威がどんどん増していき、三者三振でチェンジ。まだ、相手のパーフェクトピッチングが続いている。
正念場の5回。
味方のエース、瀬古は四球が先行し、満塁で走者一掃のタイムリーを打たれ、0対11。その後、何とかツーアウトまで取ったが、相手の4番バッターにダメ押しのソロホームランを打たれ、ついに0対12。その次のバッターを打ち取ってチェンジとなったものの、もう、後がない。
5回で10点以上点差が開いたから、コールドゲームが現実的になってしまった。
5回の裏も、いなべ総合はピッチャーを変えない。今の敵のエースからヒットを打つのは至難の業だ。
ついに中田くんがベンチから見つめる最後の夏が終わろうとしている。
もう、全力で最後までやり切れば、それでいい。それで十分じゃないか。
中田くんたちにとって、きっとここは、甲子園なんだ。
どんなに練習したって、どんなに強く願ったって、たどり着けない場所はある。
持って生まれたものの違いを、誰も否定できない。
でも、持てるすべてをかけて、死にものぐるいで熱戦を繰り広げてきた中田くんのチームの試合は、甲子園のそれと、輝きはまったく変わらない。
誰にとっても、3年間のすべてをかけて全力で戦う野球のステージは、甲子園と同じだ。
先頭の4番と5番のバッターは初球からフルスイングして、立て続けに打ち取られる。
そう、そのフルスイングがいい。
サイコーの試合だ。
中田も声を張り上げている。
その時、本当の奇跡が起こった。
「中田くんが代打だって!」
誰かが発した言葉をきっかけに、スタン戸からこの日一番の歓声が上がる。
まさか。
本当だ。ベンチ前でスイングしている。
「……に代わりまして、バッターは中田」
アナウンスが響きわたる。
夢みたいだ。
私たちだけの、この甲子園のステージに、中田くんが最後に登場するなんて。
ついにバッターボックスに入った。
いい顔をしてる。
よかったね。最後まで、諦めなくて。
私は、両手を合わせ、祈るようにして中田くんを凝視した。
1球目、アウトコースいっぱいに入ってきたボールをフルスイングしたが、空振り。
2球目はバックネットに高く打ち上げたけど、何とかファールになった。
おそらくどちらも球が早いから、ストレートだと思う。
ノーボール、2ストライク。追い込まれた。
もうここまでくると、見ているのが苦しい。でも、このわずかな中田くんの一瞬、一瞬の姿を目に焼き付けるのだ。
3球目は、変化球が大きく外れる。中田くんはしっかりと球を見極めて手を出さなかった。
1ボール、2ストライク。
敵のキャッチャーがマウンドに行って、ピッチャーと何やら確認している。
この時、バッターボックスから中田くんは、私を見つめていた。
何?
聞き取れないが、私に向かって小声で何かを言っている。
だから、何?
スタンドとバッターボックスは離れすぎているが、それでも口元をよく見ると、少しずつ分かってくる。
……それに、中田の言いそうなことも、私には分かる。
──待たせてごめんな。
きっと、そう言ってる。
ホントだよ。待ちすぎて、待ちくたびれたよ。
私は涙があふれ、声にならない。
試合は再会した。
相手のピッチャーは、キャッチャーのサインに何度も首を振っている。
そして、やっと静かに頷いた。
次の珠で勝負するつもりだ。
スタンドが静まり返る。
その時。
ついに来た。
ピッチャーは、渾身の速球を投げる。
中田は、大きな弧を描くようにバットをフルスイングした。
そして、次の瞬間、試合終了を告げる残酷なサイレンが球場に鳴り響く。
選手たちが、泣きながら整列していた。
何ていい試合だ。
ありがとう。
それに……。
待ちくたびれたよ。
おかえり、中田くん。
高校最後の、あの1球。
実はね、私にだけは、見えてたよ。
中田くんの打った白球が、未来に向かって、真っ青な空へと吸い込まれていくようすが。
そう、私にだけは見えた。
ここは、中田くんと私だけの甲子園なんだ。(了)



