エトランゼは恋をした。

 覚悟があったわけではなかった。決意があったわけでもなかった。
 ただ自分の心を確かめたくて、彼の気持ちを知りたかった。興味本位と言われてしまえばそれだけだろう。私の行為はとても自分本位で、彼には迷惑なことでしかないのかもしれないとわかっている。
 それでも私が次の土曜日、再び彼が歌う駅に向かったのは。前に進みたかったから、その一心に他ならない。
 何故なら私はもう、彼の歌に囚われてしまっている。恋なんて呼ぶにはあまりにも浅ましいけれど、惹かれていることはもう否定できない。

――ひょっとして。

 電車に乗っている間、ずっと考えていた。

――ひょっとして。絶対負けられない決戦に向かう主人公って、こういう気持ちなのかもしれない。

 対決。
 そう、ある意味ではこれから、私は対決しにいくのかもしれない。それは敵を倒す戦いではなくて、自分自身を乗り越えるための戦いで。派手な必殺技もパンチもなく、誰かが生きたり死んだりなんてそんなこともないわけだけれど。それどころか、殴ったり傷つけたりするための戦いでもなんでもないけれど。
 往々にして、本当の決戦の多くは静かに、誰にも知られず行われることが多いのではないだろうか。何故ならその現場は人の心の中であることも少なくないのだろうから。

――まだ、来てないか。

 今日はいつもよりずいぶん早く来た。予想していた通りではあるが、亜樹はまだいつもの柱の前にいない。
 私は近くのベンチに座って待っていた。なるべく早く来て欲しい、なんてことを願ってしまう。――彼に全てを尋ねたい、そんな気持ちが折れてしまう前に。



 ***



「あれ、聖羅さん?今日は早いんですね」

 次の電車で、彼はギターを持って改札を潜ってきた。今日は潮騒駅で特にイベントがある日でもない。土曜日なので通常通りそこそこ人はいるが、大混雑しているというほどではなかった。むしろ人でごった返しているような日は、彼もシートを広げてギターを鳴らすなんてできないだろう。

「はい。今日、ちょっと長くお話したくて」
「いいですよ。ちょっと待ってくださいね、シートだけ先に広げさせてください」
「はい」

 少しだけ、心が痛む。自分はこれから、彼が秘密にしておきたかったであろう領域に踏み込むことになる。ひょっとしたら、今日を境に二度と会わないでくださいと言われてしまうかもしれない。それを本気で恐れるのなら、私は今日も何も気づかなかったフリをして、ただ歌だけ聞いて帰ればいいのだろう。ストリートミュージシャンといちファン、それだけの優しい関係に浸りながら。
 それが出来ないと思ってしまったのは、自分の心に誤魔化しがきかなくなってしまったから。
 エトランゼは恋をした。――恋をして、しまった。
 エトランゼという言葉の意味を改めて調べてみた。英語ではなかろうと思ったが、案の定これはフランス語であったらしい。英語ではストレンジャーになる。異邦人、外国人、よそ者、見知らぬ人という意味だ。
 なんだろう。タイトルだけなら彼より、今の私の方にぴったりくる言葉のように思える。

「いつも、本城さんが一番最初に歌う歌があるよね。『エトランゼは恋をした』。私、あの曲が大好きなんだ。切なくて、苦しくて、でもどこか優しくて。……だからずっと考えてたの、本城くんがどういう気持ちであの歌を作ったのか。だって、本城くんはあれ、自分が主人公の歌だって言ってたでしょ?」


『この曲、上京してきて……大学に入ってわりとすぐ作ったんです。曲名は、〝エトランゼは恋をした〟。ちょ、ちょっとしゃれっ気のあるタイトルをつけたくて。あんま、センスはないんですけど……』



『ほ、本当に?ありがとうございます。田舎育ちなもので、東京の空気に馴染むのに時間かかっちゃって……自分、異邦人みたいだなって。寂しくて不安な時にこの曲作って、それで』



 上京してきて、見知らぬ人ばかりの東京で。右も左もわからなかった、異邦人(エトランゼ)。そんな彼が、誰かに恋をした。その前提でいろいろと考えてみたのだ、彼が歌った歌詞が何を意味するのかを。
 そして、誰に恋をしてしまったのかを。

「私、歌を覚えるのは得意だから。もう何回も聞いたし、あの曲の歌詞も全部覚えちゃった。だから書き出してみたの。まあ、聞き取りだから漢字とか細かいところは間違ってるかもだけど」

 私はぺらり、と歌詞をメモした手帳のページを彼に見せる。

「“どんな小さな声でも 拾ってくれるあなたが好きでした 最初は憧れで それだけで満足できていたのにな”。まず、一番のAメロ。……男の人が誰かをあなたって呼ぶ時は、目上の人が相手であることが多い。もしくは、敬意を払うべき相手。本城くんにとって、憧れの人。その人に、あなたは恋をしてしまった」
「……あれは、実体験っていうわけじゃ……」
「ごめんね、今日は最後まで聞いてほしいの。私も覚悟を決めて来たから。……大丈夫、他のファンの人はまだ来てないよ」

 演奏前の彼は、取り立てて目立つ容姿というわけではない。実際、彼の前に足を止めているのは私一人だった。歌い始めれば彼の曲は人を魅了するが、その前ならばゆっくりと話ができると踏んでいたのだ。立ち聞きしている様子の人もいない。近くを通る人もいるが、彼らは私たちの会話なんて気にも留めていないだろう。
 何故なら、見知らぬ人だから。
 あの日気づかなければ、私にとっても彼がそうであり、彼にとっても私がそうであったように。

「Aメロの歌詞はこう続く。“あなたにとって大切な たくさんのうちの一人でもいい なんて強がりもいつの間にか 自分に言い聞かせるだけで必死で”。たくさんのうちの一人……その人は、あなたを含めたたくさんの人と接する立場の人。例えば……先生とか」
「……!」
「Bメロの歌詞でその裏付けが取れてる。そもそも普通の先輩とか年上の人ってだけなら、なんで相手に想いを告げる前から“許されない恋”認定になるのか。“許されていいわけない あなたを苦しめたいわけじゃない なんで?どうして?自問自答して 結局答えなんて一つしか出なくて”。……告白する前から、諦めなければいけないような相手。学校の先生ってだけじゃないんじゃないかって思ったの。だって学校の先生なら、卒業した後ならチャンスもありそうなものじゃない?生徒と教え子って縛りがなくなればいいわけだから」

 まあ、実際そんな単純な話でもないのだろうが。少なくとも上京してからの話なら、亜樹だって成人している。相手がどれほど年上でも、それだけで向こうが犯罪者になってしまう年ではないはず。
 ならばきっと理由は、それだけではなくて。

「許されない恋はいろいろあるけど、一番考えられるのは……相手が既婚者ってことかな。ただ、本城くんはそれ以上の葛藤を歌詞に重ねている。だったらただの既婚者ではないのかもしれない。それこそ、同性とか。告白するだけで相手を苦しませてしまう、あなたがそう考えるような恋だったんじゃないかなって」

 亜樹は俯いて何も言わない。今、彼を苦しめているのは私だとわかっていた。
 それでも続けた。私の心のために、身勝手と知りつつも。

「同性愛に関して少しずつ理解が広がってきた世の中だけど、それでも偏見を向ける人はいるし。何より、相手がそうではないとわかっていたら、想いを告げるだけで気持ち悪がられてしまうかも……って、怖くなるのは仕方ないことだと思う」



『あなただから あなただったから
 世界で一番好きになれたのでしょう
 例え始まる前から
 終わってしまっている恋だとしても

 あなただから あなただったから
 嫌われたくないとそればかり思うのです
 心の中ひっそり花を抱く
 それだけはどうか許してください』



「心の中だけで想い続けさせてくださいなんて。ひっそりと、なんて。そう思いつつもあなたは想いを捨てられなくて……本当は、本当は本人に気付いてほしかったから、この駅で歌うことを選んだんじゃないの?」
「お、俺は……」
「神田先生でしょう?あなたが想いを届けたかったのは」
「!」

 がばり、と顔を上げる亜樹。その青ざめた顔が、何より図星だと語っていた。

神田朝仁(かんだあさひと)先生。あなたの、大学の先生。……前に語ってくれた、高校の恩師の先生、だよね?」

 彼は恋をしていた。
 自分がエトランゼーーけして交わることのない、異邦人と知りながら。

「大学の、ホームページを見たの。神田先生が、潮騒キャンパスに異動になったこと。……今までは、自宅近くで、自分のキャンパスが近くにあった登坂駅で歌ってた。それは駅を、神田先生が通るから。でも先生が登坂駅に来なくなってしまったから、あなたも潮騒駅で歌うことにしたんだよね。本当は、こんな想い先生に伝えてはいけないとわかっている。それでも、先生にどこかで届いて欲しいなんて祈ってもいる。だから、こっそりここで歌い続けることにした。……ほんの僅かな奇跡を信じて」

 大学のホームページには、教員の異動情報も載っていた。同時に、彼の恩師だという神田朝仁先生の写真も。
 私も驚いたものだ、まさか彼が、彼こそが亜樹の思い人であったとは。



『うちの軽音部の子たち、みんな音楽やめちゃったからね。ボーカルとギターで、一番うまかったアキくんが続けてくれてるのは凄く有難いよ。また君の歌が聞けるなら、もうちょっと頻繁に此処に来ようかな』



 亜樹が運命の人に気付いて貰えた日に、私も彼を見つけようとは。なんという皮肉な話であることか。

「……気持ち悪いですよね」

 やがて。くしゃりと顔を歪めて、亜樹は言ったのです。

「罵ってくれて結構です。俺も、俺自身の心がわからないんです。どうして……どうして先生だったのか。今まで、男の人を好きになったことなんて一度もなかったはずなのに……」