『どんな小さな声でも 拾ってくれるあなたが好きでした
最初は憧れで それだけで満足できていたのにな』
非常にシンプルなメロディーラインの曲だった。男性にしては少し高い声で、いきなりAメロの歌詞から始まる。前奏も何もない。
ただ、だからこそ技術がいる曲だな、なんてことを思った。前奏ナシで始まるというのはリズムを取るのがなかなか難しいのだ。私もよくカラオケで躓くから想像がつく。
サビではなく、しっとりとしたAメロからスタートする曲は、優しいギターの音色と共に心地よく耳に響いたのだった。
『あなたにとって大切な たくさんのうちの一人でもいい
なんて強がりもいつの間にか 自分に言い聞かせるだけで必死で
許されていいわけない
あなたを苦しめたいわけじゃない
なんで?どうして?自問自答して
結局答えなんて一つしか出なくて』
誰かに向けた恋の歌。あるいは、架空のストーリーに沿って紡がれた歌。
気づけば目を閉じて、私はしっとりと聞き入っていたのだった。そういえば本気の恋なんてしたことなかったな、と思いながら。初恋の真似事がなかったわけではなかったけれど、でも、結局それは愛情と呼ばれるほどの大きな実をつけたことはなかったものだから。
この歌の主人公は、そうではなかったのだろう。
誰か特別な相手に恋をして、必死でそれに蓋をしようとする切ない心情。己と重なる部分などのないのに、無性に惹かれてしまった。
『あなただから あなただったから
世界で一番好きになれたのでしょう
例え始まる前から
終わってしまっている恋だとしても
あなただから あなただったから
嫌われたくないとそればかり思うのです
心の中ひっそり花を抱く
それだけはどうか許してください』
ものすごく個性のある歌声でもなく、ものすごく難易度の高い歌でもない。派手なわけでもなければ、誰よりも目立つほど歌唱力が高いわけではない。
しかし不思議と彼の歌声は、人々を魅了する魔力があったらしい。いつの間にやら私達の周囲には、他にも何人もの人が足を止めていたのだ。
目を開ければ、どこか泣きそうに眉をひそめた彼の顔。化粧などしなくてもツヤツヤとした頬を紅潮させ、少し襟足の長い髪を風に靡かせている。
綺麗だな、なんて、そう思った。男の人に綺麗だとか美人だとか、そんな風に言ったら失礼になるのだろうか。でもなんとなく彼には、かっこいい、より綺麗、の方が似合う気がしたのだ。
魂を込めて歌ったことが、声と顔と、発せられる全てから伝わってくる。心臓をわし掴みにされたというより、優しい毛布でくるまれたような感触だった。
「す、すごい……」
歌が終わったところで、私は真っ先に拍手していた。集まっていた他のギャラリーたちからも盛大な拍手が上がる。
「すごい、すごいです!素敵!」
「あ、ありがとう……」
あれだけ響く声で歌っていたのに、歌い終わったらもとの大人しいお兄さんに戻っていた。私が褒めると、彼は林檎のように顔を赤くして俯いてしまう。さっきは綺麗、だったのに。いつの間にか可愛い、になっている。なんだろう、まるで弟のように庇護欲を抱くタイプと言えばいいだろうか。
「この曲、上京してきて……大学に入ってわりとすぐ作ったんです。曲名は、 『エトランゼは恋をした』。ちょっとしゃれっ気のあるタイトルをつけたくて。あんま、センスはないんですけど……」
「そんなことないです。とても素敵なタイトルですよ!」
「ほ、本当に?ありがとうございます。田舎育ちなもので、東京の空気に馴染むのに時間かかっちゃって……自分、異邦人みたいだなって。寂しくて不安な時にこの曲作って、それで」
「じゃあ、この主人公って貴方なの?」
「ま、まあ、そんなところ、です……」
「そっか」
彼の声がどんどん小さくなっていく。私はひらすら笑顔で彼に、凄い、とか素敵、とかばかりを言っていた。残念ながら、元より脳筋タイプの女子である。難しい小説も読んだことはないし、なんなら文字は基本漫画と一部ラノベくらいしか読まないタイプだ。もう少し語彙が豊富だったなら、もっとセンスのある言葉で彼の歌を称えることもできたのかもしれないが。
少しだけ、ほんの少しだけ胸の奥がツキン、と痛んだ。
この曲の主役が彼であるならば。ひょっとしたら彼は、今でも誰かに恋をしているということなのではないか。無論、今のはホームシックを恋心に置き換えて歌っただけなのかもしれないが。
――大学に入ってわりとすぐ、ってことは……この人大学生か、もしくは社会人か。
一体いくつなんだろう?私と同い年か、あるいは年上か。十九歳だったら一つ年下ということもあり得るのだが。
知りたいことはたくさんあったが、流石に初対面であれもこれも突っ込んで訊くのは図々しすぎる。彼はその大学で誰かに恋をして、今もその気持ちに蓋をして此処で歌っているのだろうか。
――エトランゼは恋をした、かぁ。
その後、軽い雑談で彼の名前を知った。ストリートミュージシャンとして、彼は本名でそのまま活動しているという。
名前は本城亜樹。どうやら、あきくん、というのは下の名前だったらしい。童顔な彼らしい、可愛い名前だなと思ったのだった。
***
「珍しい」
その日。
遅刻のお詫びでお昼ご飯は亜理紗が奢ると言ったので、遠慮なくレストランで高いステーキを頼んでいる私である。
もはや財布の心配をすることも諦めたらしい彼女は、私の話を聞いて目を丸くしたのだった。
「まさか、聖羅ちゃんが一目惚れとは。しかもストリートミュージシャンなんて貧乏そうな人に」
「げふっ!?ごふごふごふごふっ!!」
「ちょ、大丈夫!?」
とんでもないことを言うものだから、思わず蒸せてしまった。派手に咳き込む私に、慌てて私の隣に移動して背中をさすってくる亜理紗。水を飲んでいる時に、余計なことを言うでないと思う。あやうく、せっかくのステーキの上に飲んでいた水をぶちまけるところだったではないか!
「ん、んなわけあるか!た、確かにちょっと興味持ったけどそれだけ。それだけだから!」
思わず彼女を睨みつける。そう、ほんの少し素敵だなと思ったけれど、それだけだ。いくらなんでも出会って歌を聞いただけで、相手に恋愛感情を持ってしまうなんてありえない。あっていいはずがない。だって恋愛というやつは、相手の性格も込みで成立するものではないか。
いくら見た目が好みでも、中身がそうとは限らない。相手の性格も、正確な年齢さえわからないのに好きだ惚れたなんてどうして言えるだろう?
「ないないないない!だって、相手がどんな人かなんて全然わかんないんだよ?亜理紗じゃあるまいし、私はそんなロマンチストじゃないの。それこそ彼がジャニーズレベルのイケメンであったとしてもだよ?部屋がめっちゃくちゃ汚かったら?人の迷惑顧みず煙草スパスパ吸う奴だったら?金遣いめっちゃ荒かったら?すっげー浮気性だったり、すっげーうるせー毒親がいたり、実はやべー宗教にハマってる人だったらどうするわけ!?そういうの全部知らないで付き合って、地獄を見たらどーすんだよ!」
「……うん、わかった。聖羅ちゃんが最近、女性向けドロドロ漫画でいろいろ見たんだろうなっていうのは察したから落ち着いて?」
「ぐぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ……」
そもそも、本気で恋がしたいと思ったことなんてない。少女漫画の影響で恋に恋した時期があったかな、という程度だ。
だって恋愛をするってことは、付き合うっていうことは。相手の人生の一部をも自分が背負っていくということではないか。己ことさえ手一杯でままならない私のような人間に、別の人間の人生まで背負うなんて不可能なのである。そんな責任取れるはずがない。
子供同士の恋ならともかく、なんだかんだ私はもう成人しているのだ。お酒も飲める年なのだ。無責任に、好きだの付き合ってだの言えるはずがないではないか。
「結婚は人生の墓場だっていうじゃん。私は嫌なんだって、そういうの」
「付き合ってもないのに結婚の心配するのもどうかと思うけど」
まあ、と私を苦笑いしつつ見ていた亜理紗は言うのだった。
「好きじゃないなら、それに越したことはないかもね。だってその人の歌が、本当にその人の気持ちならさ。出会う前から、聖羅ちゃん失恋しているようなものじゃない?」
わかってはいたが。友人の口からそうはっきり言われると、ずん、と胸に落ちてくるものがあった。
彼は、けして報われない相手に恋をしているの、のかもしれない。それが絶対的に実らない恋だというのならば、彼がそれを諦めさえすれば他の人間にもチャンスがあるということになるのだろうが。現状、彼が本当に恋をしているのか、していたとしてどんな相手なのか何もわからない以上どうしようもないではないか。
大体、私が知っているのは雑談で得たほんの僅かな情報のみ。本城亜樹という可愛らしい名前と、大学生だということ。それからその大学が月英大学であるということだけだった。
月英大学は私でも知っている有名な都立大学である。高校と違って、大学の県立・都立は多くない。月英はその数少ない例外であり、同時にとんでもなく偏差値が高いことでも有名だった。私と亜理紗が通っている学校とは雲泥の差である。
ついでにスポーツにも力を入れているようで、アメフトと陸上が強いことでも有名だった。箱根駅伝でも常連の出場校の一つだと言っていい。まあ、時々予選落ちしてしまうこともあるようだったが。
「……失恋とかじゃないし」
半ば私は、自分に言い聞かせるように言う。
「本当に違うんだから。ちょっと歌が素敵だなって思っただけなんだから」
「はいはい。あたしも深くは追求しないわ。……聖羅ちゃんの顔は、そうは言ってないんだけどね」
「うっさい」
そういえば、と私はふと彼と先生のやり取りを思い出していた。最近、あの駅の前で歌うようになったという。月英大学のキャンパスはこの近くではないはず。彼があの駅の近くで歌うようになったのは、何か特別な理由があるのだろうか?
――自宅が近い?……ならむしろ、もっと前から歌っててもおかしくないよなあ。
なんとなく気になってしまった。幸い、このショッピングモールがある駅は私の自宅最寄り駅から三つしか離れていない。定期の圏内でもある。またこの駅に来た時、彼を見かけることがあったら――もう少し詳しく話を聞いてみようか、と思った。
知れば知るほど、自分の首を絞めてしまうのかもしれないけれど。
最初は憧れで それだけで満足できていたのにな』
非常にシンプルなメロディーラインの曲だった。男性にしては少し高い声で、いきなりAメロの歌詞から始まる。前奏も何もない。
ただ、だからこそ技術がいる曲だな、なんてことを思った。前奏ナシで始まるというのはリズムを取るのがなかなか難しいのだ。私もよくカラオケで躓くから想像がつく。
サビではなく、しっとりとしたAメロからスタートする曲は、優しいギターの音色と共に心地よく耳に響いたのだった。
『あなたにとって大切な たくさんのうちの一人でもいい
なんて強がりもいつの間にか 自分に言い聞かせるだけで必死で
許されていいわけない
あなたを苦しめたいわけじゃない
なんで?どうして?自問自答して
結局答えなんて一つしか出なくて』
誰かに向けた恋の歌。あるいは、架空のストーリーに沿って紡がれた歌。
気づけば目を閉じて、私はしっとりと聞き入っていたのだった。そういえば本気の恋なんてしたことなかったな、と思いながら。初恋の真似事がなかったわけではなかったけれど、でも、結局それは愛情と呼ばれるほどの大きな実をつけたことはなかったものだから。
この歌の主人公は、そうではなかったのだろう。
誰か特別な相手に恋をして、必死でそれに蓋をしようとする切ない心情。己と重なる部分などのないのに、無性に惹かれてしまった。
『あなただから あなただったから
世界で一番好きになれたのでしょう
例え始まる前から
終わってしまっている恋だとしても
あなただから あなただったから
嫌われたくないとそればかり思うのです
心の中ひっそり花を抱く
それだけはどうか許してください』
ものすごく個性のある歌声でもなく、ものすごく難易度の高い歌でもない。派手なわけでもなければ、誰よりも目立つほど歌唱力が高いわけではない。
しかし不思議と彼の歌声は、人々を魅了する魔力があったらしい。いつの間にやら私達の周囲には、他にも何人もの人が足を止めていたのだ。
目を開ければ、どこか泣きそうに眉をひそめた彼の顔。化粧などしなくてもツヤツヤとした頬を紅潮させ、少し襟足の長い髪を風に靡かせている。
綺麗だな、なんて、そう思った。男の人に綺麗だとか美人だとか、そんな風に言ったら失礼になるのだろうか。でもなんとなく彼には、かっこいい、より綺麗、の方が似合う気がしたのだ。
魂を込めて歌ったことが、声と顔と、発せられる全てから伝わってくる。心臓をわし掴みにされたというより、優しい毛布でくるまれたような感触だった。
「す、すごい……」
歌が終わったところで、私は真っ先に拍手していた。集まっていた他のギャラリーたちからも盛大な拍手が上がる。
「すごい、すごいです!素敵!」
「あ、ありがとう……」
あれだけ響く声で歌っていたのに、歌い終わったらもとの大人しいお兄さんに戻っていた。私が褒めると、彼は林檎のように顔を赤くして俯いてしまう。さっきは綺麗、だったのに。いつの間にか可愛い、になっている。なんだろう、まるで弟のように庇護欲を抱くタイプと言えばいいだろうか。
「この曲、上京してきて……大学に入ってわりとすぐ作ったんです。曲名は、 『エトランゼは恋をした』。ちょっとしゃれっ気のあるタイトルをつけたくて。あんま、センスはないんですけど……」
「そんなことないです。とても素敵なタイトルですよ!」
「ほ、本当に?ありがとうございます。田舎育ちなもので、東京の空気に馴染むのに時間かかっちゃって……自分、異邦人みたいだなって。寂しくて不安な時にこの曲作って、それで」
「じゃあ、この主人公って貴方なの?」
「ま、まあ、そんなところ、です……」
「そっか」
彼の声がどんどん小さくなっていく。私はひらすら笑顔で彼に、凄い、とか素敵、とかばかりを言っていた。残念ながら、元より脳筋タイプの女子である。難しい小説も読んだことはないし、なんなら文字は基本漫画と一部ラノベくらいしか読まないタイプだ。もう少し語彙が豊富だったなら、もっとセンスのある言葉で彼の歌を称えることもできたのかもしれないが。
少しだけ、ほんの少しだけ胸の奥がツキン、と痛んだ。
この曲の主役が彼であるならば。ひょっとしたら彼は、今でも誰かに恋をしているということなのではないか。無論、今のはホームシックを恋心に置き換えて歌っただけなのかもしれないが。
――大学に入ってわりとすぐ、ってことは……この人大学生か、もしくは社会人か。
一体いくつなんだろう?私と同い年か、あるいは年上か。十九歳だったら一つ年下ということもあり得るのだが。
知りたいことはたくさんあったが、流石に初対面であれもこれも突っ込んで訊くのは図々しすぎる。彼はその大学で誰かに恋をして、今もその気持ちに蓋をして此処で歌っているのだろうか。
――エトランゼは恋をした、かぁ。
その後、軽い雑談で彼の名前を知った。ストリートミュージシャンとして、彼は本名でそのまま活動しているという。
名前は本城亜樹。どうやら、あきくん、というのは下の名前だったらしい。童顔な彼らしい、可愛い名前だなと思ったのだった。
***
「珍しい」
その日。
遅刻のお詫びでお昼ご飯は亜理紗が奢ると言ったので、遠慮なくレストランで高いステーキを頼んでいる私である。
もはや財布の心配をすることも諦めたらしい彼女は、私の話を聞いて目を丸くしたのだった。
「まさか、聖羅ちゃんが一目惚れとは。しかもストリートミュージシャンなんて貧乏そうな人に」
「げふっ!?ごふごふごふごふっ!!」
「ちょ、大丈夫!?」
とんでもないことを言うものだから、思わず蒸せてしまった。派手に咳き込む私に、慌てて私の隣に移動して背中をさすってくる亜理紗。水を飲んでいる時に、余計なことを言うでないと思う。あやうく、せっかくのステーキの上に飲んでいた水をぶちまけるところだったではないか!
「ん、んなわけあるか!た、確かにちょっと興味持ったけどそれだけ。それだけだから!」
思わず彼女を睨みつける。そう、ほんの少し素敵だなと思ったけれど、それだけだ。いくらなんでも出会って歌を聞いただけで、相手に恋愛感情を持ってしまうなんてありえない。あっていいはずがない。だって恋愛というやつは、相手の性格も込みで成立するものではないか。
いくら見た目が好みでも、中身がそうとは限らない。相手の性格も、正確な年齢さえわからないのに好きだ惚れたなんてどうして言えるだろう?
「ないないないない!だって、相手がどんな人かなんて全然わかんないんだよ?亜理紗じゃあるまいし、私はそんなロマンチストじゃないの。それこそ彼がジャニーズレベルのイケメンであったとしてもだよ?部屋がめっちゃくちゃ汚かったら?人の迷惑顧みず煙草スパスパ吸う奴だったら?金遣いめっちゃ荒かったら?すっげー浮気性だったり、すっげーうるせー毒親がいたり、実はやべー宗教にハマってる人だったらどうするわけ!?そういうの全部知らないで付き合って、地獄を見たらどーすんだよ!」
「……うん、わかった。聖羅ちゃんが最近、女性向けドロドロ漫画でいろいろ見たんだろうなっていうのは察したから落ち着いて?」
「ぐぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ……」
そもそも、本気で恋がしたいと思ったことなんてない。少女漫画の影響で恋に恋した時期があったかな、という程度だ。
だって恋愛をするってことは、付き合うっていうことは。相手の人生の一部をも自分が背負っていくということではないか。己ことさえ手一杯でままならない私のような人間に、別の人間の人生まで背負うなんて不可能なのである。そんな責任取れるはずがない。
子供同士の恋ならともかく、なんだかんだ私はもう成人しているのだ。お酒も飲める年なのだ。無責任に、好きだの付き合ってだの言えるはずがないではないか。
「結婚は人生の墓場だっていうじゃん。私は嫌なんだって、そういうの」
「付き合ってもないのに結婚の心配するのもどうかと思うけど」
まあ、と私を苦笑いしつつ見ていた亜理紗は言うのだった。
「好きじゃないなら、それに越したことはないかもね。だってその人の歌が、本当にその人の気持ちならさ。出会う前から、聖羅ちゃん失恋しているようなものじゃない?」
わかってはいたが。友人の口からそうはっきり言われると、ずん、と胸に落ちてくるものがあった。
彼は、けして報われない相手に恋をしているの、のかもしれない。それが絶対的に実らない恋だというのならば、彼がそれを諦めさえすれば他の人間にもチャンスがあるということになるのだろうが。現状、彼が本当に恋をしているのか、していたとしてどんな相手なのか何もわからない以上どうしようもないではないか。
大体、私が知っているのは雑談で得たほんの僅かな情報のみ。本城亜樹という可愛らしい名前と、大学生だということ。それからその大学が月英大学であるということだけだった。
月英大学は私でも知っている有名な都立大学である。高校と違って、大学の県立・都立は多くない。月英はその数少ない例外であり、同時にとんでもなく偏差値が高いことでも有名だった。私と亜理紗が通っている学校とは雲泥の差である。
ついでにスポーツにも力を入れているようで、アメフトと陸上が強いことでも有名だった。箱根駅伝でも常連の出場校の一つだと言っていい。まあ、時々予選落ちしてしまうこともあるようだったが。
「……失恋とかじゃないし」
半ば私は、自分に言い聞かせるように言う。
「本当に違うんだから。ちょっと歌が素敵だなって思っただけなんだから」
「はいはい。あたしも深くは追求しないわ。……聖羅ちゃんの顔は、そうは言ってないんだけどね」
「うっさい」
そういえば、と私はふと彼と先生のやり取りを思い出していた。最近、あの駅の前で歌うようになったという。月英大学のキャンパスはこの近くではないはず。彼があの駅の近くで歌うようになったのは、何か特別な理由があるのだろうか?
――自宅が近い?……ならむしろ、もっと前から歌っててもおかしくないよなあ。
なんとなく気になってしまった。幸い、このショッピングモールがある駅は私の自宅最寄り駅から三つしか離れていない。定期の圏内でもある。またこの駅に来た時、彼を見かけることがあったら――もう少し詳しく話を聞いてみようか、と思った。
知れば知るほど、自分の首を絞めてしまうのかもしれないけれど。



